乙女の内緒
「それにしても。女性はこういうものが好きなのかと思っていたが。イリスはやっぱり、イリスだな」
それはつまり、やはり残念だということを言いたいのだろうか。
「だって。ずっと婿を取ると思っていたし、クレト辺りがそうなるって聞いていたから。出会いも求めていなかったし、そんな話を聞く機会もなかったのよ」
残念というのは間違っていないが、一応イリスにだって言い分はあるのだ。
ところが、クレトの顔が赤くなり、対照的にヘンリーの表情が曇っていく。
「……どうしたの、二人共」
「そうか。ずっと、クレトが婿になると思っていて、だから出会いを求めていなかったのか」
「……うん? 何か微妙に違う気がするけど」
クレトが婿になるからではなくて、いずれ婿を取るから出会いを求めていなかっただけだ。
「……俺、今が人生で一番報われた瞬間です」
「え、どうしたのクレト? 泣いているの?」
クレトは顔を手で覆ってうつむいている。
よくわからなくて慌てるイリスの肩に、ヘンリーが手を乗せた。
「婚約指輪は急がせるから、そのハンカチをちゃんと身につけてくれよ。……防虫のためにも」
「防虫?」
ハンカチに虫除けのハーブでも織り込んであるのだろうか。
取り出して匂いを嗅いでみると薬草の香りがしたが、よく考えるとこれは腕に塗っている打ち身の薬のような気もする。
よくわからないが、身に着けていれば良いらしいので、ハンカチをしまう。
「……腕と背中はどうだ?」
「だいぶ良いわ。薬が効いているみたい」
腕を軽く上げて見せると、ヘンリーの表情が和らぐ。
「良かった。それで。――何があった?」
突然の話題に、イリスの心臓が跳ねた。
「……何が?」
「何かあった、って顔をしている」
こういう鋭いところは、やはりモレノの職業病なのだろうか。
もしかすると、単に面倒見の鬼の勘が働いているだけなのかもしれない。
下手に誤魔化しても食らいついてくるのだろう。
何せ、相手は面倒見の鬼だ。
こじれた上でばれるよりも、『碧眼の乙女』に関係しないことは言ってしまった方が良いかもしれない。
「……ベアトリスにようやく会えたのに、あまり話ができなくて。それでちょっと寂しくて」
「ようやく?」
バルレート公爵家にラウルが出入りしていて、『公爵家に近付くな、手紙を出すな』と伝言されたことを伝えると、ヘンリーの眉間に皺が寄る。
「でも、ラウルが仕立ての打ち合わせで公爵家に行っていると聞いて。まだ改装していないならと会いに行ったけど……忙しかったみたい。また今度にするわ」
「……そうか」
ベアトリスとろくに話が出来なくて寂しかったのは本当だ。
その気持ちを前面に出したことで、ヘンリーも納得した様子だった。
ヘンリーを見送ると、クレトがため息をついた。
「……言わなくて、良いんですか?」
バルレート兄妹の明らかにおかしな様子のことを言っているのはわかる。
だが、『碧眼の乙女』が関わっているのだとしたら、言うわけにはいかない。
「これはちょっと、お、乙女の問題なの。……恥ずかしいから、聞かないで」
目を伏せて、できる限り女性らしく恥じらってみる。
そう言えば、かつて恋する乙女感を出したいとダリアに言って、恋してなきゃ出ませんとあしらわれた。
今は婚約者がいる身なのだが、これは恋する乙女の範疇に入れていいのだろうか。
ならば、今こそイリス渾身の恋する乙女感を出す時だ。
「わ、わかりました」
イリスも恥ずかしかったが、クレトも何だか照れている。
これはきっと、無事に恋する乙女感を出せたに違いない。
出す相手を間違えている気もするが、まあ良い。
イリスは自身の仕事に満足した。
一体何を想像したのかはわからないが、ここはクレトの純情具合に感謝しておこう。
その夜、ベッドに潜り込んだイリスはエミリオの言葉を考えていた。
ファンディスクなんて言葉は、この世界には存在しない。
ということは、エミリオは転生者なのだろうか。
イリスにわざわざ声をかけるのだから、『碧眼の乙女』のファンディスクだと考えるのが妥当だ。
全四作で終わったと思っていたが、その後があるということなのか。
疑問は次々に浮かぶが、答えは出ない。
かつて『碧眼の乙女』と戦ったことを思い出す。
あれは、悪役令嬢であるイリスが死を免れるための戦いだった。
もし、エミリオが言っているファンディスクというのが、イリスの考えている通り『碧眼の乙女』のものだとして。
本当に、存在するのだとしたら。
四作目のシナリオで本来死んでいるはずのイリスは、ファンディスクに絡むはずがない。
なのに、何故イリスに声をかけたのだろう。
色々と考えてはみるものの、結局はよくわからない。
「……とりあえず、ベアトリスがあんなに必死だったのだから、公爵家に近付くのと手紙はやめるべきよね」
となると、いつベアトリスが来てもいいように、家にいるのが賢明だ。
家にいるのは良いのだが、ヘンリーが来ないことを祈るばかりだ。
だいぶ慣れてきた気もするが、まだ攻撃されていないだけとも言える。
油断はできないので、用心しておこう。