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化粧師  作者:
9/31

第三話 天女の羽衣 三

「お待たせして申し訳ありません」

 国定は息を呑んだ。部屋に入って来て早々、深々と一礼し、顔を上げた女――沢村雪は、この世の者らしからぬ程美しかった。

 濡れたように黒々と輝く長い髪。

 高級な磁器を思わせる白い肌。

 華奢な体と小さな顔。

 細面に小振りな鼻と唇。

 静かな湖面をそのまま写し取ったかのように澄んだ、大きな目。

 それを縁取る睫は黒々と長く、隙間なく生えている。

 人にも人形にも見えなかった。喩えて言うなれば天女であろうか。ただ肌が窶れたように青白いせいで、雪女のようでもある。それで雪かと、国定はなんとなく思った。

「君が……」

「雪で御座います。お忙しい中こんな些末な事にお時間を頂戴してしまい、誠に申し訳ありません」

 雪は続けて几帳面に詫びた。どこか不安そうに柳眉を顰めているが、国定はその表情に僅かながら違和感を覚える。しかしその違和感の出所がどこなのか、国定にはわからない。

 否、全て気のせいだ。私情を逐一気にしていたら、刑事は務まらない。違和感が私情であるかどうかの判断も、国定にはついていなかったのだが。

「フミさんから話は伺っております。記憶をなくしたとか」

 雪は僅かに頷いた。

「記憶を失うと云うのは適切な表現ではありませんが……そう言う事です」

「はい?」

 雪は一瞬、思案するように国定から視線を逸らした。

「CDプレイヤーをお使いになった事は?」

 唐突な問いに、国定は面食らって片眉を寄せた。

「まあ、ありますが」

 国定はどちらかと言うと、このご時勢にレコード派である。文明の利器に慣れないのだ。

「あれは音楽を記録しますね。ディスクに記録して、再生します。しかし、その盤面に傷が付くと録音したものは正常に聞く事が出来なくなる。再生出来なくなります」

「そうなりますね」

 変わっている。滔々と語り出したかと思えば、その内容は何を意図しているのかよく解らない。

「記憶喪失というのはその、CDに傷が付いた状態です。『記憶喪失』と皆さん仰いますし、お医者様の診断もその通りです。しかし、記憶は失われるものではありません。CDに傷がつくと再生出来なくなるのと同じように、記憶喪失というのは、何らかが原因で記憶の再生が出来なくなるという事なのです。簡単に言えば、思い出せなくなるのです」

「しかし通常の思い出せない状態とは、違うんですよね?」

「私は医者ではないので医学的な事はよく解りませんが……忘れた事は脈絡無く思い出す事がありますが、記憶喪失の場合、そう言った事例はあまりないようです。プレイヤーが故障しても何かの拍子に音が出る事はありますが、CDに傷が付いたらそうは行きませんでしょう。過去に大事にしていた物を契機として記憶の再生が可能になる事もあれば、親や恋人と会って話をしてみても不可能な事だってあるようです。――それに、普通は親や恋人を思い出せなくなる事はまずありません」

「君はなんで、その……記憶喪失に?」

 否定された矢先に記憶喪失と言うのは些か迷ったが、他に適当な言葉が見つからなかったので、結局そう言った。自分は存外不器用なのだと国定は承知している。

長々と説明した割に、雪も別段、国定の発言を気に留めてはいないようだった。

「私は全く覚えていないのですが……お医者様や旦那様のお話では、何かの拍子に頭を強く打った形跡があったそうです。それ以外には、目立った外傷はなかったようなのですが……」

「それまでの事は、忘れてしまっていた訳ですか」

 雪は困ったように眉を寄せて俯いた。僅かに唸り、国定は顎を掻く。

「とにかく、調べてはみますが……行方不明者は日本中にごまんといます。そこから当てもなく照合して行くとなると、なかなか難しいですよ」

「以前にも、そう言われました」

「――死亡事件の捜査も重要ですが、生きていらっしゃる方の人生も大事です。僕は出来るだけの事はしますよ」

 縋るような目で、雪は国定を見上げた。それから、申し訳なさそうに微笑を浮かべて、ありがとうございますと呟く。無理に作っているような表情だった。

「それで、手掛かりになるようなものはお持ちではありませんでしたか?」

「それが、特に何も……」

 困惑気味に眉を顰めて、雪は俯いた。何も持っていなかったというのも不自然だと国定は思ったが、特に言及もしなかった。

「でも、一言だけ覚えています。なんだか耳に残る低い男性の声で、本当に、一言だけ」

 雪は少し言い淀んだ。促すのも良くないと判断して、国定は黙ったまま彼女を見詰める。その美貌はあまりに人間離れし過ぎていて、年齢の推測がつかないどころか、年齢と言う概念があるのかどうかさえ怪しい。

「結婚してくれないか、と」

 国定は目を円くする。

 雪の声が震えていた。それからごめんなさいと言って、両手で顔を覆ってしまう。

「すみません……なんだかいつも、思い返すと泣けて来てしまって」

 国定には、何も言えなかった。

 それならば、断っていない限りは結婚しているのだろう。意外な気もした。

「大丈夫」

 国定は静かに声を掛け、対面に座る雪の肩に手を置く。その肩があまりに華奢で、儚いような気分になった。

「僕があなたのご家族を見付けますから。――必ず」

 雪は涙を拭いながら顔を上げ、困ったような表情で笑った。

「雪?」

 廊下から掛けられた声に、同時に顔を上げた。静かに襖が開いて、男が中の様子を窺うように顔を出す。能面のようにのっぺりとした白い顔だった。

「刑事さんも一緒でしたか。申し訳ありません」

 室内に視線を巡らせた男は、国定の姿を認めて慇懃に頭を下げた。両手に白い手袋を嵌めている。潔癖症の気でもあるのだろうか。

「国定刑事、こちらは弦太郎様。沢村弦太郎様です」

 弦太郎は再び深々と頭を下げた。沢村の一人息子だろう。神経質そうではあるが、気難しい印象もない。

「お邪魔してます。――弦太郎さん、少々お話を伺いたいのですが」

「構いません」

 雪が立ち上がって、部屋を出て行った。その後ろ姿を二人は目で追う。絹糸のように長い黒髪が靡いて、閉じた襖の向こうに消えた。

 国定は弦太郎に視線を移す。彼はまだ襖を見詰めており、国定はその目に違和感を覚えて眉を顰めた。国定が見ている事に気付いたのか、弦太郎はすぐに目を伏せて視線を落とす。

 どこがおかしいと言う訳ではない。改めて指摘しろと言われれば無理だろう。しかしその違和感は、何故か国定の心に残った。

「それで、辻さんは――」

「当初は煙草の不始末が原因で出火したと見られていました。ですが、不可解な点が」

 国定は鞄から資料の束を取り出して開いた。

「遺体に情交の痕跡が見られました。今は事故なのか自殺なのか、それとも他殺なのか判断が付かない状態です。――辻さんに恋人がいたという話は?」

「判りません。私はあまり、使用人と話したりはしなかったので」

 国定は考え込むような仕草で顎に手を当てる。

「被害者が悩んでいたような様子はありませんでしたか? そんな表情をしていたとか」

「さあ。何しろ拙宅の使用人は数が多いもので、実を言うと辻さんの顔すら思い出せない状態で」

 国定は心中溜息を吐いた。弦太郎の言い分は当然と言える。主人は逐一使用人の顔色など窺ったりはしない。

「わかりました」

 国定は資料にそのまま書き留めて、弦太郎を見た。申し訳なさそうに俯いている。真面目な男なのだろう。

「ご協力ありがとうございました」

「お役に立てず申し訳ありません。私としましても、誠に遺憾です。お美しい方だったのに……」

 国定は僅かに眉を顰めた。

「父も呼びましょうか? 先ほど帰宅して参りましたので」

 お願いしますと言うと、弦太郎は頭を下げて出て行った。

 彼は嘘を吐いている。国定はすっかり冷めた茶を飲み干しながらそう思う。しかし彼を犯人と断定するには、些か軽率に過ぎる気がしていた。

 まず動機がない。雇い主がわざわざ使用人を強姦した上、火を点ける意味がない。使用人の自宅まで出向く必要など、ない筈だ。自宅に居る時に手込めにしてしまえば、それで済む。

証拠隠滅しようにも隠すような証拠は残らないし、被害者が告発しない限り、表沙汰にはならないだろう。

 考え込む国定の視界に、開く襖が目に入った。姿勢を正して頭を下げる。

「そんなに畏まらんでも宜しいよ幸雄君」

 入室してきた恰幅のいい老人は、朗らかにそう言った。

 沢村成夫はよっこらせと、国定の対面に腰を下ろす。後から入ってきたフミが空になった湯呑みを下げて新しいものを置き、主人にも茶を出して静々と出て行く。

「いつもお世話になっております。……この度は、残念な事になってしまいましたね」

「ああ。まさかなあ、うちの使用人がなあ」

 沢村は白い髭を蓄えた顎を撫でながら溜息混じりにぼやく。

 きっとこの老人に聞いても、満足な証言は得られないのだろうと国定は考える。年寄りの繰言に引っ掛かる前に、早々に切り上げてしまった方がいいだろう。

「辻さんについて――何か引っ掛かるような点は」

「わからんなあ。使用人の事は把握しとらん。儂よりフミさんに聞いた方が早いのじゃあないか?」

 それは国定も、そう思っていた。沢村は顔をしかめて悲壮な溜息を吐く。使用人を逐一把握していない割に、心を痛めてはいるようだ。良く判らない。

「失礼します」

 廊下から掛けられた声に、二人同時に襖を見た。廊下から、北見が恐る恐る顔を出している。

「警視、また杉里記者が……」

「ああ……」

 国定は脱力した。一体どこから話を仕入れてくるのか。そもそも、何故自分が担当する事件にばかり関わりたがるのだろうと、国定は些か呆れる。

「済みません沢村さん。ありがとうございました」

「構わんよ。担当じゃないのに悪いな」

「いいえ」

 苦笑いを浮かべ、国定は立ち上がる。結局、何の証言も得られなかった。

「幸雄君」

 国定は肩越しに振り返って、沢村を見た。老人は畳に片手を付いて、国定の方へ身を乗り出している。

「雪の件は」

 沢村は険しい表情を浮かべていた。焦っているようにも見えて、国定は一瞬怪訝な表情になったが、すぐに取り繕う。

「ご心配なく。私が必ず」

「ああ――」

 沢村は肩の力を抜いて、心の底から安堵したように呟いた。何を心配しているのだろうと、国定は考える。

「宜しく、頼む」

 国定は室内に向かって頭を下げ、部屋を出た。

 呼びに来た北見の少し後ろを歩きながら、妙だ、と思う。弦太郎も沢村老人も、何か隠している。父親に至っては、何かに怯えているような節がある。

「彼らは何か知っています」

 呆れる程長い廊下だ。北見は肩越しに僅かばかり振り返って、国定を見た。

「加害者か否かはさておき、恐らく沢村親子は何らか関わっている」

「……実は自分も、そう思うのです」

 国定は意外そうに北見の背中を見た。

「出火した当日の夕方頃、近隣住民が被害者宅から出て来る若い男を目撃していました。ひどく慌てた様子だったから、よく覚えていると」

「それだけか」

「あの辺りは若い人がいないらしくて。皆さん、区内に入るか、地価の安いベッドタウンへ移ってしまうんです」

 国定は眉を顰めて俯く。それだけで断定する事は出来ない。犯人か恋人ではあるのかも知れないが、沢村青年ではなく、たまたま実家に帰っていた男という可能性もある。

 ホールに出ると、困り果てた様子の佐島に、生き生きと話し掛ける記者の姿が目に入った。その姿を見て、国定は再び脱力する。

「杉里さん……いい加減にしてくれませんか」

 杉里は国定を見て、大仰に頭を下げた。達磨が前屈しているようだ。佐島が助かった、とばかりに肩の力を抜いた。

 杉里の隣には、見慣れない若い男が立っている。セルフレームの眼鏡を掛けた文学青年風の男は、杉里に倣って会釈した。

「国定警視、失踪事件なのにいらっしゃるんですね」

 はあ、と国定は妙な声で返す。

「何言ってるんですか? 行方不明者なんていませんよ」

「え、違うんですか」

 青年が驚いたように聞き返した。驚きたいのはこちらだと、国定は思う。

「ええとですね、僕らはメイド連続失踪事件を……」

「だからそんな事件ありませんよ」

「そんな……」

 青年が、頭を抱えて呟く。杉里が同情の視線を送った。

「何の話ですか? というか、誰ですこの方は」

 怪訝な表情で聞くと、青年は徐に姿勢を正して敬礼した。真面目そうな外見の割に不戯けた男だと国定は思うが、本人は至って真面目なつもりなのだ。

「沼津誠一と申します! どうぞこれから御贔屓に」

「そうか。帰れ」

「ま、待って下さいよ警視」

 踵を返し掛けた国定に、杉里が追い縋る。

「確かにここの筈なんです。調べてみてくれないですか?」

 国定はうんざりと溜息を吐く。

「何なんですか杉里さん。僕は焼死事件の他に、もう一つ抱えているんだ。これ以上は無理です。大体そんな事件、僕の耳には入ってきていませんよ」

 今度は沼津が食い下がった。

「でも確かに自分は見たんです。江ノ島の沢村邸で、メイド連続失踪と」

「どこで見た?」

 国定の冷ややかな視線を受け、沼津は身を竦ませて口ごもった。しかし、沼津はすぐに立ち直る。国定はその姿から、起き上がり小法師を連想した。

「夢で見たんです。黒い着物の女の子が、自分に行けと」

 国定は凍り付いた。夢の詳しい内容までは聞かされていなかったのか、杉里も丸い目を更に円くしている。

 夢で見たことを本気にするのも問題だが、二人の驚愕は別の事が起因している。

「――君今、なんて言った」

 国定は声のトーンを落として、沼津に顔を近付けた。詰め寄られた青年は怯えた表情で身を引く。

 国定は目つきが悪い。

「ゆ、夢で……」

「違う。その後」

「へ? ――ええと……あの、黒い着物を着た人形みたいな女の子が……」

「クソッ」

 苛立たしげに吐き捨てて、国定は北見と話し込んでいた佐島に怒鳴った。

「今すぐ本庁に戻って、過去十年間のこの家の雇用者リスト出せ! 落首花だ」

 高校球児のような刑事は一気に青ざめ、倒けつ転びつ大慌てで外へ出て行った。


  *****


 愛しい人だった。頑固で偏屈で乱暴な毒舌家なのに、子供のような所があった。この人の子供が産みたいと思った。しかしそれは、叶わない夢だった。

 二十になった年、彼は待ち望んでいた言葉をくれた。俺は子供が作れないが、それでもいいなら、と前置きして。一も二もなく頷いた。それだけが全てではないと言うと彼は笑って、細長い箱を差し出した。今は金がないからと、指輪の代わりに故郷で買ったそれをくれた。涙が出る程嬉しかった。

 式は挙げなかった。籍だけ入れて夫婦になった。表札を見た時、涙が出た。それだけで良かった。

 着るだけ着たかったと冗談を言うと、翌日には写真屋を予約して来た。出来上がった写真を見て、彼は綺麗だと言って始めて涙を見せた。

 愛しかった。

 幸せだった。

 それなのに。


 ――嗚呼。

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