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化粧師  作者:
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第三話 天女の羽衣 二

  二


 杉里登は不思議そうに首を傾げながら、後輩が出してきた原稿を眺めていた。血気盛んな駆け出し記者は、満面の笑みで杉里の表情を見詰めている。眼鏡を掛けた優しげな外見の割に、彼の心は妙に熱い。始めはそのギャップに驚かされたものだが、今では慣れてしまった。けれどもやっぱり、今でも時折戸惑う。ギャップにではなく、彼の行動に。

 杉里は添削を頼まれたのだ。無為に勤続年数が長いだけで、売れない記者である彼は、本当に自分でいいのかと聞いたが、先輩に見て欲しいのだと言われてしまった。やけに懐かれているのだ。疎ましいとは思わないが、困る事は困る。それというのも、自分に自信がないという個人的な感情が原因なのだが。

「どうですかね?」

 沼津誠一の出してきた原稿は、誤字脱字はあるものの、内容はしっかりとしていた。少なくとも、自分が書く読書感想文のような原稿よりはいいと杉里は思う。

 しかし。

「こんな事件聞いた事ないです。どこからの情報?」

 原稿のタイトルは、江ノ島メイド連続失踪事件。昼ドラのような表題が胡散臭い上に、そんな事件は聞いた事もない。誰も扱っていないネタだ。杉里には警視庁勤めの友人がいるので、そんな事件があったなら真っ先に耳に入ってくる筈なのだが。

 否、あっても、彼は教えてはくれないだろう。そもそも失踪事件は彼の担当ではないし、彼は杉里が現場を引っ掻き回すことを厭うている。

「はい。あるんです」

 沼津は自信満々に大きく頷き、肯定する。無意味に明るく返答するこの青年が、杉里には眩しく見えた。沼津にあるような快活さも、若さも、熱意すら彼にはない。

 外見だけは若く見える杉里の年齢は、もう五十を越えている。沼津が眩しく見えるのは、自分が歳を取ったせいかも知れないと、杉里は思う。

「ふうん。……判らないなあ。このS家って沢村さんちかな? 江ノ島でメイドが大勢働いてるって言ったら、あそこぐらいです」

「はあ、多分、そこだと思います」

 煮え切らない返答に、杉里は丸い目を更に円くした。

「思うってなに、思うって。沼津君、自分で調べたんじゃないんですか?」

「いえそれが……自分でもどうしてそんな記事を書いたのか、わからなくて。あれ? いや、そうじゃないです」

 沼津は不思議そうに首を捻った。ネタを取られない為の口実ではないだろう。そんな懸念をしているなら、杉里に原稿を見せて来たりはしない。何より、本当に分からないと言いたげな表情だ。

 怪しい。

 杉里は立ち上がって沼津の横を通り過ぎ、上司のデスクへ向かう。怪しいなら行けばいい。取材は足でするものだ。足が駄目なら根気である。そうしてあの平成の悪鬼を、ようやくこの目で、しかと見る事が出来たのだから。あれは棚から牡丹餅といった事件ではあったが。

 上司は存外、簡単に許可を出した。沼津が一緒だったせいかも知れない。

本当にそんな事件が起きているのだとしたら、杉里は沼津のネタを取ってしまう事になる。それを懸念して、二人で行くと言ったのが功を奏した。

 杉里は沼津を振り返って、にっこりと笑う。しかし彼は未だ、首を捻るばかりであった。


  三


 国定は結局、現場へ向かう事となった。遺体の状態から、他殺の可能性が高いと判断されたのだ。死体見たさで警官になったのが、最近は死体のない現場にばかり行かされている。楡の呼び出しに応じていた方が幾分マシだ。寧ろ国定からしてみれば、あちらの方が本分なのだが。しかし何故自分まで、聴取の為に江ノ島くんだりまで行かなければならないのだろう。

「資料見たか?」

 国定は後部座席から、運転席の佐島奏太に問い掛けた。佐島はバックミラー越しに上司を見る。

「東京の自宅で亡くなっていた焼死体は家政婦の辻優子さん二十六歳。兄弟はなし。両親は既に他界し、祖父母も逝去されてる。他の親族は地方。恋人もなし。一人ぼっちだったんですね」

「その通りだがそっちじゃない。遺体の状態だ」

 佐島は怪訝に表情を歪めて首を捻った。

「焼死っすよね」

 国定はシートに深く腰掛けて、腕組みしたまま眉間に皺を寄せた。佐島に見解を求めるだけ無駄というものだ。

「……遺体は自分の髪の毛を握っていた。引き千切ったような跡があったそうだ」

「ひええ……なんすかそれ。何で髪抜くんですか。苦しかったからですか」

「死因は熱傷によるショック死だよ、聞かなかったのか。髪抜かないだろ普通」

「じゃあ、誰かに火点けられたんすか?」

「それをこれから調査しに行くんだろう」

 国定は呆れた溜息を吐いた。

「遺体には情交の跡があったようだな。恋人はいなかったそうだが」

 佐島は何故か悲しそうな顔をした。感受性が豊かなのはいいが、被害者に同情はすべきではないと国定は思う。正常な判断が出来なくなるからだ。

「部屋に押し入った強盗の仕業ですか」

「物取りじゃないよ。部屋が散らかされていた形跡はない。最初から強姦目的で押し入って、証拠隠滅の為に火を点けた可能性もある」

「多方面から捜査しないといけないんすね」

「その通り」

 現場には既に、数台のパトカーが停まっていた。現場と言っても被害者の勤務先の方だから、厳密には事件現場ではない。

 沢村邸は見事な日本家屋だった。広大な敷地内には離れが幾つも建てられており、母屋自体も何坪あるのか見当がつかない。

 車から下りた佐島は、呆然と敷地内を見渡した。

「うわ……なんすかこれ。凄いですね」

「そうか?」

 事も無げに返して、国定は母屋へ向かう。彼に聞いたのが、そもそもの間違いだったのだ。佐島は嫌そうな顔で、資産家の上司を追い掛ける。

「国定警視! ああ良かった」

 入口で途方に暮れていた男が、国定を見て声を上げた。

「北見警部が責任者か。調子はどうです」

 北見衛きたみまもるは頭を掻いて苦笑した。実直な中年のサラリーマン風だが、本庁の警部である。年上の部下には珍しく国定に反発しない、好人物だ。

「それが、なかなか手間取ってまして……とりあえず中へ」

 北見は母屋の扉を開いた。国定は、敷居を跨ごうと内を見た瞬間――絶句した。

「北見警部」

「はい」

「何ですか、この人数」

 玄関を開けると、そこは広々としたホールになっていた。純和風の日本家屋だが、旅館のような作りになっているようだ。その広々としたホールに、途方に暮れた様子で立ち尽くす女が――ざっと五十人。

「それがここのメイド達、アルバイトでもないのに週休四日のシフト制になっているそうで……他に沢村家の家族と使用人寮の管理人、厨房も入れると……ああ数えたくないです」

「一度に集めるなよ。何考えてるんですか」

「済みません。こんな人数とは思わなかったもので……」

 当たり前だろう。普通は使用人がこんなに居るとは思わない。こんなに雇う方がどうかしている。

 その上規則なのか、メイド達は皆一様に黒髪のおかっぱ頭だった。おじさんと呼ばれる年齢に片足を突っ込んでいる国定には、彼女らの見分けすらつかない。

「とにかく警部も聴取。佐島、君もだ。僕は家族の方を――」

「ちょっと、宜しいですか」

 怪訝に眉を顰めて声のした方を見ると、いつの間にか傍らに老婆が立っていた。きっちりとした引っ詰め髪に前掛けと云う格好だから、やはり使用人だろう。

 腰の曲がった老婆は、国定が振り返ると更に腰を曲げて深々と礼をした。

「この度はご足労頂きまして、誠に申し訳ございません」

 声こそ高齢の老婆のものだったが、その物腰は矍鑠としていた。しかしなんとなく、言い草が妙ではある。

「メイド頭の篠崎フミさんです」

 小声で耳打ちした北見に目配せすると、彼は素直にその場から離れて聴取へ向かった。鈍い佐島も流石に気がついたようで、慌てて後を追う。

「実は今回お越し頂いた件とは別に、御相談させて頂きたい事があるのです」

「ええと、僕はこの辺りが管轄じゃないんですよ。相談なら所轄の方に――」

「旦那様からの依頼で御座います」

 国定は黙り込んだ。フミの旦那様。つまりは沢村家の当主。母方が経営する会社の取引先の、社長である。

 断る理由もなくなってしまった。これでは断りたくとも断れない。恐らく国定の息子と知った上で、声を掛けたのだろう。相談の内容は不明だが、面倒ごとでなければいいと国定は思う。

「わかりました、伺いましょう。可能な限り、僕の方でもお手伝いさせて頂きます」

老婆は縋るような目で国定を見上げて、そのまま倒れてしまうのではないかと不安になるほど、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。――今からお時間を頂いても?」

「問題ありませんよ」

 国定は近くにいた警官に、北見に伝えるよう声を掛けてから、フミが行く先について行った。庭に面した長い廊下を通り、ずらりと並んだ部屋の内の一つに通される。

 国定が座布団の上に腰を下ろすと、フミはお待ち下さいと言って部屋を出て行き、湯呑みが乗った盆を持って戻って来た。湯飲みを国定の前に置いてから、対面に落ち着く。

「お話したいのは、雪様の事で御座います」

「雪? あの、養女?」

 資料に軽く目を通しただけだが、養女となっていた気がする。また養女かと、国定はうんざりした。

「厳密には同居なさっているだけです。――実は雪様は、迷い人なのです。浜辺に倒れていたのを、旦那様が発見なさいました」

 それもまた、突飛な話である。この御時世に、と国定は思う。

「警察に連絡しなかったのですか?」

「捜索はするが、期待するなと。何しろ、御本人に記憶がなかったものですから」

「ああ――記憶喪失か」

「左様です。一週間程生死の境を彷徨っておられたのですが、奇跡的に回復なさいました。しかし御自分の家はおろか、お名前すら思い出せない状態で」

「成程」

 国定は出された茶を啜って、相槌を打った。しかし心中、疑問に思う。

何故、同居人としたのか。家政婦用の寮があるのだから、家政婦として住まわせればいい筈だ。記憶がなくとも家事ぐらいは出来るだろう。しかし一使用人のフミに聞いても仕方がない。

「その雪さんの身元を、お調べすれば宜しいんですね」

「はい。――まずは、お会いして頂けますか」

 ここまで来て断れる程、国定は非道ではない。首を縦に振ると、フミは立ち上がって部屋を出て行った。

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