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化粧師  作者:
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第三話 天女の羽衣 一

・似非ミステリーです。

 鼻につんと染み渡る、灯油の臭い。辺りには生ゴミの腐敗臭が漂い、淀んだ空気が充満していたが、灯油の悪臭だけが異質だった。一般的にそれらを嫌な臭いと判断するのは、危険物に対する原始的な感情なのだろうか。

 そんな悪臭漂う中で、一組の男女が向かい合って立っている。二歩分ほどの距離を保った状態のまま、男は女に向かってひたすら怒声を浴びせていた。息継ぎをしているのかどうかさえ分からないほど激しく浴びせられる罵倒の合間に、女の涙声が聞こえるといった具合だ。女が説教されているだけなのか、はたまた痴話喧嘩なのか、傍目には判断がつかない。怯えきった表情の女は、顔を隠すように両の掌で覆い、微かに頭を振った。肩口で切り揃えられた髪が小さく揺れる。

 二人は暫くそうしていたが、やがて女は俯いたまま、男に何かを差し出した。男は突然無言になると、ひったくるように差し出されたそれを掴み取り、ペットボトルの中身を掛ける。灯油の臭いが濃くなり、ライターの安い火が暗闇に浮かび上がった。

 男が手に持ったものの端へその火を近付けた途端、爆発したように燃え上がり、蛋白質の焦げる臭いが周囲に立ち込める。橙色に燃え上がった炎は蛇のように細長くうねり、女が慌てて足元に落ちたそれを避ける。あらゆる異臭が入り混じった、噎せ返るような空気の中、男の唇が歓喜に歪む。


 どちらのものともつかぬ高笑いの声が、暗闇に木霊した。


  天女の羽衣


  一


 自宅から単車で一時間の港。彼は四年前から、一年に二度だけここを訪れている。

 大学の卒業記念に友達と海外に行くのだと、彼女は言った。彼は普段通りの調子で送り出した。

 あの時何故、止めなかったのだろうか。何らか理由をつけて、引き留める事だって出来た筈だ。事前に何かを察知していれば、間違いなく引き留めただろう。しかし、よく聞くような虫の報せというものはなかった。ただ少し、寂しいと感じるくらいだった。現実とは、そんなものなのだろうと思う。

 妻の乗った船は大型タンカーと衝突し、乗客と共に、海の藻屑となって消えた。死体すら上がらない行方不明者も、未だ大勢居ると言う。彼の妻もその内の一人だった。

 友人達は泣いた。彼は激しく狼狽し、憔悴したが――いつまで経っても、涙は出なかった。

 その時の事は、よく覚えていない。ただ、今では友人となった警官が謝罪の言葉を述べたのを見て、何故だか救われた気がした。

 無論、謝罪自体にではない。全くの部外者であるにも関わらず、打ちひしがれたように肩を落としたその姿に、救われた。他の遺族のように、何の罪もない警官に対して妻を返せと月並みな台詞を吐くほど、彼は愚かでもなかった。

 ひと月が経ちふた月が過ぎても発見はおろか、死体が上がったと言う報告さえなかった。待ち続けるだけの日々に疲弊した彼はその内、妻は死んだのだと思うようになった。まだどこかで、生きているのだと考えるにはあまりに辛かった。生きていると淡い期待を抱いて帰宅を待つよりは、死んだ事にして諦める方がまだ楽だった。実際、五年も戻らないのだ。生きているとも思えない。

 ただ、未だ帰らぬ妻が生きていたとしたら今、どんな気持ちで居るのだろうと、意味の無い事ばかりを考える。


 九重義近は二人乗りの原付の座席を開いた。後ろのシートが指定席だった女はもういない。今後一切誰か別の人間を乗せる気も、彼にはない。滅多に使わぬバイクなど売っても良かったのだが、踏ん切りがつかなかった。

 車体に愛着が湧いていたせいではない。二年という短い結婚生活の記憶を構成するものが、欠けてしまうような気がしたからだ。少しでも失われてしまう事が嫌で、九重は未だ、妻の部屋だけはそのままにしてある。

 自分が女々しい事を、九重は承知している。妻は彼にそうさせるに価する程、いい女だった。

 この単車を買った時、車ではないのかと彼女は聞いた。必要ないと答えると、見栄を張れば良かったのにと笑った。どうせ子供は作れない。作る気がなかったのではなく、作れない。寂しくなるだけだと言えば、それでもいいと彼女は言った。その時は、ただ申し訳ないと思った。

 九重が取り出したのは、少し萎れた花束だった。菊の花が束ねられた、仏花。

 彼が立つのは五年前、未曽有の大惨事を引き起こした船が発った港だ。桟橋には既に、幾つか花が手向けられていた。

 不気味な静けさを保つ海は、何も語らない。聞こえるのは微かな潮騒のみだ。けれど遺族達は皆ここに、事故に巻き込まれて死んだ家族の命日が来る度、花を手向けに訪れる。供養の為ではないのだと九重は思う。故人を忘れない為にそうするのだ。

 自分は何の為に来るのだろう。九重は供えられた花の中に、持ってきた花束を置く。

 出来る事なら忘れたいと、常々思っている。しかしそれが出来ないから、九重はこうして毎年ここに来る。何かを期待している訳ではない。そう考えているだけで、本当は期待しているのかも知れなかった。自分の真意すら読めないというのに、妻の消息など分かる筈も無い。

 九重はコートのポケットを探り、煙草を出した。火を点けながら、水平線を見るでもなく眺める。鴎がゆらゆらと空を漂っている。空模様は陰鬱な曇天だが、波は穏やかで、とても多くの人々の命を飲み込んだとは思えない。

 九重は波飛沫に視線を落とし、自嘲気味に笑った。

「おい。寒いか」

 季節が秋から冬へ変わる時には、必ず体調を崩す女だった。まだそこにいるのかどうかも分からない。しかし九重は、ここに来るしかなかった。

 死体が上がらない限り、墓は建てないつもりだ。例えこの先ずっと、見つかる事がなかったとしても。だから九重はこれから先も、ここへ訪れ続けるのだろう。妻が死んだという確証を持てるまで。或いは、彼女がひょっこりと姿を現すまで。

「あら、よっちゃん」

 九重は煙を吐き出しながら、肩越しに振り返った。すらりとした長身の女が、菊の花束を持って歩いて来る。派手な外見に仏花は恐ろしく似合わない。

「やっぱり来てたわね」

 整えられた細い眉とくっきりとした二重、くるりと上を向いた睫。丸い形の垂れ目が目元の黒子と相成って、やけに艶っぽい。ぽってりと厚い唇はグロスで光っている。化粧は水商売風だが下品という印象もなかった。白いコートを着込み、香水の匂いを漂わせている。皮のブーツが細い足によく合っていた。

 楡美佐子は華やかな美貌を悲しげに歪めながらも、九重に笑いかけた。

「まあな。宗と国定は――」

 美佐子の後ろから、その弟が駆け寄って来る。姉によく似た大きな丸い目はどこか眠たげな二重で、上向き気味の鼻は外人かと思う程高い。年齢不詳な甘い顔立ちを、凛々しく整った眉が引き締めていた。緩いウェーブの掛かった髪は明るい茶色に染められている。

 楡宗一郎は珍しく作業服ではなかった。ダウンジャケットに細身のジーンズと言う簡素な出で立ちだが、ハーフめいた容貌には妥当な格好なのかも知れない。

 肩に担いだ大きな花束は黄色かったが、菊でなく小振りな向日葵だ。楡は毎年向日葵を持って、姉と国定と共に港を訪れる。

「これ探すの大変だったよ」

 楡はぼやきながら、花束を桟橋に供えた。誰もその向日葵に突っ込んだりはしない。楡姉弟の友人でもある九重の妻が、好きだった花だ。流石にこの時期に向日葵を探すのは苦労するようで、楡は毎年愚痴を零しているが、やめる気はないようだった。

 向日葵というよりは、桜のような女だった。西洋でイメージされているような華美な印象はなく、日本的な、どこか儚げで美しい女性。それが何故九重のような無骨な男に嫁いだのか、理由は誰も知らない。ただ幼馴染である宗一郎や美佐子に言わせれば、放っておくと不摂生な生活をし続ける九重には、丁度いい女だった。

「ユキちゃんは車ンとこで電話してるわよ。後から来るって」

 ふうんと興味もなさそうに鼻を鳴らして、九重は海へ向き直った。

 美佐子は苦笑を浮かべて、手にした仏花を置く。綺麗に巻かれた髪が海風に靡く。これから出勤するのだろう。

 美佐子は海に視線を落とし、長い睫を伏せて手を合わせた。

「早いよねえ」

 桟橋へ、腰を落としてしゃがみ込んだまま、楡が呟く。同意を求めぬ独り言のような響きだったが、美佐子が目を開けて頷いた。

「でも、長かったわ。多分これから先も」

 九重は煙草を海に放り投げたが、誰も咎めない。

「しんみりしてるな」

 九重以外の二人が同時に振り返った。

 三人に向かって歩み寄る男はその中にいれば異質に感じるが、至って凡庸な顔立ちである。青白い顔と黒目の小さい狐目は犯罪者か弁護士を思わせる。しかし彼はキャリア組の刑事だ。

 国定幸雄は相変わらず高級そうなコートを着込んでいた。抱えた仏花までどことなく高価そうに見える。

「童貞にゃわかんねえよ」

 背を向けたままの九重は、煙草に火を点けながら色の黒い精悍な顔を小馬鹿にしたように歪め、鼻で笑った。彼は湿っぽい場面を好まない。

 国定は顔を引き攣らせて、三人が屯す桟橋に近付いた。

「何で知ってるんだよ」

 屈んで花を供え、国定は手を合わせる。目を開けた瞬間、三人の驚いたような表情が視界に入った。

 しまった。

「……本当に童貞だったのか」

「お姉さんが貰ってあげようか? お金取るけど」

「国さんちょっと俺の背後に立たないでよ。三十路童貞が伝染る」

 こいつら今すぐ海に突き落としてやりたい。国定は心の底から殺意が湧き上がるのを感じた。

「お前は社会の為に伝染されろ」

「無理よ、よっちゃん。この子もう手遅れよ」

「それどういう意味?」

 そのまま会話を続ける三人に背を向け、国定は歩き出す。

 暫く九重と言い合っていた姉弟は離れて行く国定に気づくと、慌てて彼を追い掛けた。国定の車で来ているのだから、置いて行かれたら帰れなくなってしまう。しかし二人が心配しているのはその事ではなかった。

「やめてユキちゃん車には触らないで!」

「ちょ、ちょっと俺運転するから! 国さんやめて!」

 九重は煙草を踏み消し、自分の単車の元へ向かう。涙目の姉弟を横目で見ながら、にやついた表情を浮かべている。

 国定の運転は恐ろしく荒い。楡姉弟は始めて彼の運転する車に乗った時地獄を見た。あの世との境を見たとまで言った。それ程荒い。

「なんでだよ。僕の車だぞ」

 本人に自覚がないのがまた困る。自覚した上でのあの運転なら、殺人未遂罪が適用されるだろうが。

「いいから俺に任せて国さんは後ろで寛いでて。ね!」

 こんな楡は他では見られないだろう。九重は三人が車に乗り込むまで愉快そうに眺めてから、一度海を振り返る。何も言わずただ目を細め、誰も見ていないにも関わらず表情を隠すように、フルフェイスのヘルメットを被った。


 道を行く途中、先を走っていた九重が振り返って標識を指した。無事、運転を任された楡が頷く。


 寂れたパーキングエリアに車と単車を停め、四人はそれぞれ煙草を出した。職業柄なのだろう。九重は縁石に腰を下ろし、美佐子は柵に寄りかかり、楡は地面へ直に胡座をかいている。全員が全員煙草を吹かしているせいで丸切りヤンキーの会合であるが、話題は国定が母から持ち掛けられた事件の事だった。

「事故死なら、お前の担当じゃねえだろ」

 ひょろりとした長身を丸めて煙草を吹かす九重は、呆れたような口調で言った。

「母はそういうの、よく分かっていないんだ。大事な取引先の話だから断れないんだが……流石に、僕が行くのはなあ」

 国定の電話の相手は母親だった。それも調子はどうだと言うような、気遣いの電話ではない。仕事の話である。母親と仕事の話をする程嫌な事はないと、国定は思っている。

 国定が持ち掛けられたのは、母の会社と親交の深い取引先が関係した事故の話だった。一昨夜、社長宅勤務の使用人の自宅から出火し、本人も焼け死んでいたのだと言う。場所と状況だけを見れば火の不始末による事故死で片付けられそうなものではあるが、話を聞く限り不可解な点も多い。

 自殺の可能性はないのかと聞けば、それは有り得ないと母は断言した。少々抜けた所のある母の言う事だから、あまり信用は出来ないのだが。

「焼死体?」

 楡は煙草を摘んで煙を吐き出しながら、大きな目を国定に向けて首を傾げた。子供のような仕草だ。

「炭化までは至ってないそうだがな」

「いいなあ、見たい」

「同感だ」

 九重が呆れた視線を二人に向ける。

「コンロの火、消し忘れたとか?」

 美佐子は細い煙草を持った指を国定に向けた。その爪には繊細なデコレーションが施されているが、どうやら付け爪らしい。炊事が全く出来ない弟のせいだろう。見た目に反して美佐子は、よく弟の世話を焼く家庭的な女だ。

「確かに火災報知器の類はついてなかったようだが、火元は台所じゃない。寝室だ」

「自殺の可能性が高いって事か」

「いや、被害者は喫煙者だったようだ。吸殻の燃えカスが出れば、煙草の不始末が原因の事故死だな。詳しい結果が出るまでは僕も動けないから、とりあえず放っとくか」

 国定は携帯灰皿に半ばまで吸った煙草を押し付ける。彼は基本的に屋外でしか吸わない。

 他の三人の手が伸びて、いつの間に火を消したのか、国定の灰皿へ一斉に吸殻が突っ込まれる。九重のものだけ、フィルターが焦げていた。

「なんで僕のとこに入れるんだよ」

「だってその辺に捨てると国さん怒るから」

 楡は国定を見上げて、拗ねた素振りで唇を尖らせる。国定は素足で毛虫でも踏んだかのように嫌そうな顔をした。

「いい歳した男が口を尖らすなよ気持ち悪い。灰皿ぐらい持ち歩けよ君ら。特に九重」

「いや俺、外出ねえし」

 そういう問題ではないと国定は思ったが、諦めて灰皿を懐にしまった。

「几帳面すぎる男は嫌われるわよ」

「だから童貞なんだろ」

 新しい煙草に火を点けた九重は、煙を吐き出しながら唇の端を吊り上げた。楡が笑う。

 国定は己の失言を、海より深く後悔した。


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