第二話 歪むもの 三
五
山路咲枝は溜息を吐いて、茶を啜った。横目でちらりとテレビを見ている息子を窺ったが、すぐに視線を逸らしてしまう。姉夫婦は買い物に出ていて留守だ。
見るからに幸薄そうな女である。幅の狭い撫肩は骨張って細く、顔はおろか首にも深い皺が刻まれている。簡素なフレームの眼鏡の奥の目は暗い色を宿しており、生きる事にすら倦み疲れているような印象を受ける。細い指は節くれ立っており、長年の水仕事により随分と荒れていた。暖を取るように湯飲みを包んだ両手が震えている。
無理も無い。被害者の遺族でありながら、容疑者にも上ってしまっているのだから。
「伯母さん」
涼やかな声が耳に届く。顔を上げると、美貌の娘が立っていた。一瞬誰だか判らず逡巡したが、すぐに思い出した。咲枝はこの所随分と、物覚えが悪くなったように感じる。
「椿ちゃん――この家は、どうなってしまうのかしら」
咲枝が問うと、姪は悲しそうに眉尻を下げた。
「大丈夫よ、伯母さん」
椿は咲枝が座ったダイニングテーブルの対面に腰を下ろし、その手を優しく包み込んだ。穏やかに微笑む少女は、努めて明るく振舞っているようにも見え、咲枝は心を痛める。
「警察の方が、必ずなんとかしてくれるわ。だから、伯母さんは心配しなくても大丈夫」
「そう、ね……」
そう答えたものの、咲枝の不安は拭い切れなかった。
再び息子に視線を向ける。忘我の表情でテレビを眺める明宏が何を考えているのかなど、皆目見当もつかない。息子が心を痛めているなら、母である自分がなんとかしてやらなければと、咲枝は思う。しかしそうするだけの余裕は、彼女にはなかった。
玄関のチャイムが鳴った。椿は顔を上げ、立ち上がりかけた咲枝に掌を向けて制する。テレビに没頭していた明宏も、玄関の方へ顔を向けた。
「はい」
また警察の人間だろうかと、咲枝は考える。まともに事情聴取をされてから、既に一週間が経過していた。
咲枝はダイニングから身を乗り出して玄関の様子を見つめている。椿は覗き窓から外の様子を伺い、扉を開けた。
玄関先に立っていたのは、作業服の上にダウンジャケットを着た青年だった。その後ろに警官の姿も見える。警官が小声で青年に何か言っていたが、彼は無視したようだった。
「どちら様ですか?」
椿は怪訝な表情で二人を見上げていた。無理もなかろう。警官がいなければ、彼女は扉を開けなかった筈だ。
「やあ、可愛いね。楡宗一郎と言います。こっちは……あれ、なんだっけ?」
「さ、佐島です。捜査令状が出てます。これ。調べさせて頂いて宜しいでしょうか」
ガチガチに緊張した高校球児のような警官は、懐から取り出した紙切れを椿に見せた。彼女は困ったように、覗いていた咲枝を見る。咲枝は頷く。妙な疑いを掛けられても困る。
「どうぞ。ご案内致しましょうか」
「ああ、お願いします」
椿は二人を先導して、ダイニングへ入ってきた。不安げな咲枝を落ち着かせようと、微笑みかける。
「こんにちは。ええと、西沢さんご夫婦は?」
咲枝は黙って頭を下げた。代わりに椿が答える。
「買い物に出てます。ここからだと一番近いスーパーへ行くにも、車で一時間程掛かってしまいますから」
「そりゃ大変だ。――ああ、明宏さんもいらっしゃいましたか。こんにちは」
明宏はこんにちはと大きな声を上げ、テレビに視線を戻した。知的障害があるという割に、その顔つきは健常者と変わらず、所謂ダウン症児の顔とは違う。佐島は国定が疑問を持っていた事を思い出したが、彼に障害者の事は分からない。
「とりあえず、家の中を一通り拝見させてもらえますか」
楡は愛想良く、椿に微笑みかけた。
緩いウェーブを描く茶色く染められた髪。黒々とした眉はきりりと引き締まっており、くっきりとした二重の大きな目を際立たせている。少し上向きの鼻は外人のように高く、薄い唇の整った形が美しかった。
ハーフのような顔立ちであるが、肌の色は黄色人種のそれだ。華奢な印象を受けるが、ダウンジャケットを脱いだ体つきは意外にがっしりしているようだった。実際にハーフなのかも知れないと咲枝はどうでもいい事を考える。
楡の言葉を受けて、椿は頷いた。
「……ここがダイニング。奥が台所です」
佐島は意見を求めるように楡を見た。楡はううん、と唸って首を横に振る。椿は二人の様子を見ながら黙っていたが、楡が首を振ったのを確認すると、口を噤んだまま廊下へ出た。二人は大人しく彼女について行く。何を調べているのか咲枝には分からなかったが、椿には分かっているのだろうか。椿自身、元々読めない娘ではある。
一階を見て回った後、三人は椿の先導で二階へ上がった。二階は各自の部屋と物置があるだけで、楡はまたもや首を捻って唸る。
「何をお探しですか?」
椿が二人を見上げて問うと、佐島は困ったような表情で楡を見た。楡は娘に向かってにっこりと微笑む。
「ひみつ」
「そうですか」
子供のような返答に突っ込む事もなく、椿は正面に向き直った。佐島には、その目が一瞬、光ったように見えた。光の反射か何かだろうと、そう納得する。佐島は目が大きくなった事はないので、人の目が光を反射するものなのかどうかなど分からないが。
「ないね。国さん怒るだろうなあ」
再び一階に下りた楡は、作業服のポケットに手を突っ込んだまま、不満そうにぼやいた。
「理不尽っすよ。楡さんは善意の協力者なのに」
「あっちはそうは思ってないから。民間人は警察に絶対協力するもんだと思ってるよ」
「基本的な事分かってないんすよねえ」
「坊ちゃんだもんね」
二人はこの場に居ない人物への悪口を言い合いながら外に出た。玄関扉の上には、後から取り付けられたものらしきトタンの屋根がついている。それを支える柱に手を付いた楡の体が、ぐらりと揺れた。佐島が慌てて楡の腕を掴み、屋根の下から彼を引っ張り出す。
柱が崩れて、屋根が落ちてきた。二人は一気に青ざめ、その場から逃げ出す。大きな音を立てて柱が崩壊した。
「な……ななな何やってんすか楡さん!」
「知らないよ俺、ちょっと手ついただけじゃん!」
横柄な楡も、流石に涙目になっている。あろうことか、人様の家の一部を破壊してしまった。
「ど、どうす――ん?」
瓦礫の下に、明らかに建築材ではないものの破片が見えた。佐島は再び玄関へ近付き、トタン屋根を退ける。楡が歓声を上げた。
「あった! やった!」
「いや、やったじゃなくて」
突っ込む声が僅かに震えていた。彼は刑事課に配属されて日が浅い為、慣れていない。
崩れた柱から出てきたのだろう。トタンを退けた下には、人間の頭蓋骨が落ちていた。塗り込められてもう大分経っているようで、既に白骨化している。よくよく見れば、瓦礫に混じって他の部位の骨も見て取れた。
「これで決まりかな?」
「家族の中の誰かに前科があるってだけで、今回の件の犯人が決まったわけじゃないっすよ」
佐島はポケットから携帯を取り出して、どこかに電話を掛け始めた。
外から車の音が近付いてくる。楡は顔を上げて確認すると、困ったように眉を顰めた。
「ヤベ、帰ってきた」
「え、ちょ、ま、……楡さ――――ん!」
楡はそのまま逃げ出した。
六
東京都監察医務院。その遺体安置室で男が二人、遺体を挟んで向かい合っていた。
片方は刑事である。中肉中背、よく手入れされた髪と細長い卵型の輪郭。不健康そうに見える程青白い、つるりとした顔。低く長い鼻。上唇だけが妙に薄い。凡庸な顔立ちではあるが、狐のように細い目と異常に小さな瞳が見る者に冷酷な印象を与える。
国定幸雄は高級そうなスーツに身を包み、死体を注視していた。
片方は喪服と見られる黒いスーツの上にモッズコートを羽織った細身の男だ。シャツの釦は二つ目まで開けられており、キャバクラの客引きのように見える。
殆ど手入れをしない為中途半端に伸びた髪は、後ろで一つに束ねられ、前髪は目に掛かっている。切れ長の目に、吊り上った細い眉。鼻筋は真っ直ぐに通っており、肌は浅黒い。冷淡な印象を受ける目の下には、薄い隈が染み付いていた。長身の二枚目だが、九重義近はホストでも客引きでもなく人形師である。
検死の結果、遺体の死因は撲殺。容疑者に上っていた殺人鬼の手口とは、明らかに違っていた。
結果が出てすぐ、国定は九重に連絡を取った。最初は嫌だと突っ撥ねられたが、前回の倍の依頼料を提示すると、二つ返事でやって来た。相変わらず金でしか動かない男である。
しかし九重は今、死体を見て不機嫌そうに眉を顰めている。電話口では死体が男だと言っていなかった。
「何が悲しくて野郎の死体に化粧しなきゃなんねえんだよ」
文句を言いながらも、九重は刷毛を取った。
「しかも死後一ヶ月だろ。そんなモン喋るかどうかわかんねえぞ」
死体は綺麗に修復されてはいるが、発見された時は、それはひどい有様だった。エンバーミングの技術というのは凄いものだと、国定は思ったものだ。
「心臓がなくても喋ったんだ。なんとかなるだろう」
九重に死化粧を施された死体は、一時的に生き返る。何がどうしてそうなるのか全く分からないが、兎に角生き返るのだとしか言いようが無い。
「しかし家族が犯人とはな」
「息子は、障害者認定なんてされていなかったよ。落首花の手口に似せたのは上手かったが、詰めが甘かったな。やったのは八割方息子だろう」
「それにしたって、何で障害者の振りしてたんだ。認定されてねえんなら金も貰えねえだろ」
九重は死体に視線を落としたまま、訝しげに眉を顰めた。彼の眉間には、皺が寄っていない事の方が珍しい。
「そこが問題だ。息子自身が犯罪を犯し、隠れ蓑とする為に世間的に障害者の振りをしていたなら、家族はその事を知らない筈だ。しかし息子は実家暮らしで、家族も障害者だと供述している。その辺りの疑問を解決する為に、君に頼んだんだ」
「家族ぐるみの犯行って事か。動機は?」
「上の息子は非行に走っていたそうだ。学校にも碌に行ってなかったそうだから、誰も疑問に思わなかったんだろう。弟の方はニートで、働きもせず金をせびってた」
「充分だな。しかしそれで死体見つけちまったら、楡と佐島死ぬんじゃねえか? 何されるか分かったモンじゃねえぞ」
「その為に杉里さんに行ってもらってる。そろそろ着いてる頃だろう」
携帯の呼び出し音が鳴り響いた。国定は死体に背を向けて、電話を取る。
「佐島か?」
『ああ、警視。行方不明になっていた二人の遺体が見つかりました。柱に埋まってたんですが、楡さんが手をついたら壊れて……』
「そうか。そのままにしておけ。杉里が行くまで家の者には知らせるな」
『それが姉夫婦が丁度帰って来てしまって……あれ、楡さん? え、ちょ、―――!』
慌てた声だった。
「おい佐島?どうした」
ノイズばかりで声が聞こえない。雑音に紛れて、楡の怒鳴り声だけが辛うじて聞こえた。
そして電話は切れる。
「何だ」
九重の手は忙しなく動いている。荒っぽい男ではあるが、存外器用だ。
「切れた。まずいな。杉里さんまだ着いてないぞ」
「楡みてえな変態は殺しても死なねえが、佐島は死んだなそりゃ」
物騒な事を言いながら、九重は化粧道具をバッグにしまった。終わったようだ。
「多分十分だ。――おいオッサン、喋れるか」
九重が声を掛けると、遺体がゆっくりと目を開く。国定は慌てて遺体に近付き、問いかけた。
「何故息子さんを障害者だと偽っておられたのですか?」
「アー……むす、こに……明宏に、兄を殺せと……」
痰が絡んだような声だ。元々腐敗が進んでいたから、無理もないだろう。
「発端は親父かよ。どうしようもねえな」
「茶々入れるなよ、良く聞こえない。あなたの弟さんも?」
「う、ん……そっち、は、八重子さんが……」
「こりゃ脳やられてんな」
九重は小さく舌打ちした。
「あなたは何故殺されたんです」
「明宏、は……殺したいと……私は、止めた」
「取り憑かれたんだな。もういい、僕も現場に――」
廊下から足音が聞こえる。普段は誰も来ないように、人払いさせてあるのだが。
国定は眉を顰めて、扉を開けた。駆け寄ってきた警官は、彼の部下である。
「け、警視……あの、あの椿って娘……」
「何だ」
刑事の顔色は蒼白になっていた。
「戸籍がないんです! 何のデータもありません。どこを調べても、何一つ見つかりませんでした。山路家との血縁関係もありません」
国定は表情を強張らせ、室内の九重を振り返った。彼は腕を組んで俯いている。
「そいつは椿っつーのか」
刑事が頷く。
「国、お前言ったな。落首花は――」
国定は目を見開いた。
人形のような少女。
長い黒髪。
そして、椿。
「そ……」
国定は絶句し、刑事に向かって怒鳴った。
「そいつは落首花だ! 今すぐ車出せ、現場に向かう。九重も来い!」
「なんで俺まで……」
取り乱す国定を見ながら、九重は小さく溜息を吐いた。