第二話 歪むもの 二
二
全くもって話にならない。国定幸雄は心中溜息を吐く。
ドラム缶から出て来た遺体の親族への事情聴取は、進むどころか警察の仕事を増やすばかりだった。
青ざめて嘆く姉夫婦。泣き崩れる夫人。知能障害でまともに話が成り立たない息子。
日が浅い内に訪ねたのも、悪かったかも知れない。しかし家主が行方不明になってほぼ一月も経っていたというのに、届け出を出さなかった家族の方もどうなのかと、国定は思う。更に被害者は元警官で、国定の父の、昔の部下であった。だから父から直々に、現場へ行けと命令が下ったのだ。妙に意識して焦ってしまう。
所轄の刑事達は困り果てた様子で、右往左往していた。無駄に動いたところでどうにもならぬ。疲れるばかりでいい事などひとつもない。
「義姉の八重子さんも駄目。その夫の尚吾さんも駄目。妻の咲枝さんも駄目。息子の明宏さんも駄目。……おい君、目の前をうろうろするなよ。他に証言出来そうな方は?」
独り言の後、うろついていた内の一人を捕まえて国定が聞くと、警官は無意味に背筋を正した。
「それが、後は学校へ行ってる養女だけでして……」
「帰って来させなさい」
「家族がずっとあの調子で、連絡先を聞く事も出来ないんですよ。どうしましょう」
国定は狐のように細い目を更に細めて、眉間に皺を寄せた。
「君、何の為の警察だと思っ――」
「く、国定警視!」
背後から慌てた声が掛けられる。国定が振り向くと、部下の佐島奏太が声と同じく、慌てた様子で駆け寄ってきた。体は大きいが年齢不詳な童顔で、短く刈り上げた髪も相俟って、高校球児のように見える。
動揺しているのか、佐島は国定の前に立つと、普段はしない敬礼をした。
「お、お嬢さんがお帰りになれました!」
「なんだよ君。何動転してるんだ。日本語変だぞ」
国定は薄い眉を顰めて佐島を見た。その向こうから、小柄な人影が歩いて来る。
厚手のコートを片手に持ったその娘は、高校生に見えた。膝上まで上げられたスカートから伸びる、すらりと細い足。セーラー服の上から羽織られたカーディガンは袖が余り、袖口から華奢な指先だけが覗いている。切り揃えられた前髪の下、大きな漆黒の猫目を縁取る睫毛が、緩やかなラインを描く頬に淡い陰を落とす。抜けるように白い顔の中で唯一、ふっくらとした小さな唇だけが桜色をしていた。今時珍しい艶やかな黒髪は真っ直ぐに背中まで伸ばされ、良家の子女を思わせる。
「あの……何かあったんですか?」
鈴の鳴るような声だった。国定はおずおずと問いかけた娘を見下ろし、片眉を上げた。
「ああ、ちょっと」
国定は促すように佐島を見たが、彼は激しく首を横に振った。小娘相手に何を動揺しているのかと、国定は思う。取り乱すとするなら、彼女が家族と本当に血縁関係にあるのかどうか、疑わしいという点ぐらいのものである。
国定は気取られぬよう小さく溜息を漏らし、再び娘に向き直った。不安そうな表情で見上げて来る少女は、今時の高校生にしては随分と小柄だ。或いはもっと若いのかも知れないと、国定は考える。
「ちょっと、いいかな」
言いながら、国定は聴取をする為に借りた応接間へ入り、上等な革張りのソファに腰を下ろす。素直に従った娘は、スカートの裾を押さえながら正面のソファに座ったが、しきりに外を気にしているようだった。
「さて、どこから話すか……」
「伯父様は」
言いかけた少女の顔を見た。悲しげに眉根を寄せている。
「亡くなったんですね」
国定は暫く迷った後、無言で頷いた。娘は唇を引き結んで辛そうな表情を浮かべはしたが、他の家族のように取り乱す事はなかった。やっとまともに話が聞ける、と国定は些か安堵する。
「まず、名前から聞かせて貰えるかな」
「古手川椿です」
「古手川?」
「あたしは姪です。一年前からここに居ます」
そういえばこの娘は伯父と言っていた。国定は怪訝な面持ちで手帳を開き、首を捻る。
「養女だって聞いたよ」
「あの、……両親が、事故で」
躊躇いがちにそう言って、椿は目を伏せた。作り物のような美少女だ。
国定はああ、と唸って、万年筆の頭で頭を掻いた。
「済みません」
「いいえ。――それで、伯父様は」
何を意図して聞かれているのか、一瞬解らなかった。国定は少し迷って口を開く。
「他殺です。自然死ではありません。誰かから恨みを買っているような様子は?」
なるべく事務的に問うと、椿は眉を顰めて視線を横に流した。思案するような仕草だ。
「分かりません。夜遊びは激しかったようですが、誰かから恨みを買うような方ではありませんでした」
「家族は、どうでしょう」
椿は口を噤んで背後を気にした。彼女の後ろには扉がある。何を言うにしても、預けられている身では言い辛いだろう。
「家族は二階に居てもらっていますよ」
暫しの無言の後、椿は深く息を吐いた。
「実は数年前にも二人、居なくなっているんです」
国定は手帳にメモを取りながら顔をしかめた。そんな情報は入ってきていない。ドラム缶の中にコンクリート詰めにされていた死体の、詳しい状態すら分かっていないのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「誰と誰?」
「明宏さんのお兄様の行弘さんと、伯父様の弟さんです。お二人がどういった方だったのかは存じません」
「こちらで調べます。捜索願が出てないなら、怪しいのは家族か」
万年筆の頭で顎を掻きながら、国定は呟いた。何にせよ、各所で調査している事の結果が出ない限りは、動きようがない。
「いえ、でも、家族は皆ごく普通の……そんな事するような人たちじゃありません」
「突然錯乱して凶行に出たりするものですよ。特に――ああ、差別するわけじゃないよ。知的障害者がいる家庭は、家族がストレスを受けやすい。しかし溜まったストレスの発露が無ければ突然、という事もある」
「そんな人じゃ、ないんです」
椿は震える声で呟いた。国定はその口振りに一瞬違和感を覚えたが、今は証言さえして貰えれば些細な事はどうでもいい。続けて家族の事でも聞こうかと思った矢先、扉が開いた。椿が驚いて振り返る。
「警視! ……ああ、すいません」
若い刑事はやけに恐縮した様子で、椿を見て謝った。国定は呆れ顔で身を乗り出し、娘越しに扉の方を見る。
「何だうるさ――あ」
刑事に腕を掴まれて途方に暮れている小太りの男が目に入り、国定は嫌な顔をした。まだ三十前後に見える男は顔を上げてようやく国定の姿が目に入ったようで、嬉しそうに破顔して深々と頭を下げる。
「またあんたですか杉里さん。勝手に入らないでくれと言ったでしょう」
「すいません国定警視。これも仕事なもので」
スーツをきっちりと着込んだ杉里登は、申し訳なさそうに言ってから、再び頭を下げた。丸顔に丸い鼻と、丸い目。厚ぼったい一重瞼と眉の間隔は離れており、薄い眉尻はやけに垂れ下がっている。小太りではあるが、撮影機材の詰まった重そうなバッグを軽々と運んでいる所を見ると、もしかしたら全て筋肉なのかもしれない。
どこか愛嬌のある顔立ちの杉里の仕事は、雑誌記者だ。普段は小さな事件ばかりを記事にしている売れない記者だが、警察内部でも一部の人間しか知らない事件を、密かに追っている。
「ああ可愛いお嬢さんですねえ。ちょっとお聞きしても――」
「駄目です」
不思議そうに首を傾げた椿が口を開く前に、国定はにべもなく跳ね付けた。杉里は残念そうに肩を落とす。
国定は入り口に立ち尽くしたままの刑事へちらりと視線を向け、追い払うような仕草をした。刑事は慌てて部屋を出て行く。
「椿さん。二階に上がっていてくれるかい?」
娘は黙って頷き、席を立った。その表情は悲しげにも見える。
「で、あなたが来たって事は、関わっているんですか」
扉が閉まるのを確認して、国定は杉里に問い掛ける。杉里は満面の笑みで大きく頷いてから大きなバッグを床に置き、ソファへ腰を下ろした。肯定の意に、国定の表情が険しくなる。
「お父上から連絡があったんです。遺体の首は胴から離れ、心臓を抜かれています」
「また落首花か……最近よく残して行くな」
首刈落首花。明治の終わり頃、突如として現れた史上最悪の殺人鬼であり、不死身の悪鬼。平成の今までその全てが謎に包まれていたが、国定はつい先日、この殺人鬼との接触を果たした。
しかしそこで、関わってはならないと本能が告げた。その姿が朧気ながら分かって来た今は、追う事を止めようとも思えなかったのだが。
父が追えなくなった事件を、父の代わりに。九重に落首花の説明をした時は、そう言った。けれど実際はそんな殊勝な事を考えている訳ではない。あの殺人鬼を追う理由はもっと嫌な、自分でも餓鬼臭いと思うような、下らないものだ。それを自覚したくないから、九重にはああ言った。本当に気にしている事を、他人に知られたくはない。その上あれだけ派手に挑発されて、プライドの高い国定が引き下がれる訳もない。
「ですが今回は、今までと違う点がありますよ」
杉里は床に置いたバッグから分厚いノートを取り出してページを捲った。妙にゆっくりとした動作である。
「ほら。首はついこの間も切るだけ切って残して行ったようですが、今回は心臓もドラム缶の中に入っていました」
ほら、と言われても、ノートの中は見えない。国定は腕を組んで、椅子の背もたれに体を預けた。眉間の皺が消えない。
「そもそも心臓を持ち去る理由も判明していませんからね。……犯人は家族かと思ったが、そうなると落首花の線が濃いのか」
「しかし何故ドラム缶に? 今まで死体を隠した事はおろか、隠そうとした事もないです」
考えても仕方がない事は、国定にも分かっている。殺人鬼の考える事など、凡人には分かりはしないのだ。今回だけ気が変わったという事だってあるかも知れない。
国定は早々に思考を放棄した。考えても無駄だ。
「とにかく断定する事が先決だな。胴体に傷は?」
「さあ。というか、私も詳しい鑑定結果はまだ聞けていません。何しろ国定警視監、進展があってからお尻に火が点いたようで、首が切られてるって分かった時点で、私に連絡していらっしゃいましたから」
「今では捜査に関れませんからね。代わりに杉里さんに情報提供しているんでしょう」
ふうむ、と唸ってから、杉里はノートを閉じて、ゆっくりと大事そうに、バッグへしまい込んだ。動きの緩慢な男だ。
「また九重君に頼んだ方が早いのでは?」
短い首を捻り、杉里は問う。
「前回の件で、もう落首花関連の事件には関わらないと言われてしまいました」
杉里は苦笑いを浮かべた。
「まあ、そりゃそうですよねえ。それだけ脅迫されちゃ」
「金さえ積めば子守とコロシ以外は、なんでもやるような男ですがね。あれでかなり強情ですよ」
国定は軽く肩を竦め、開きっぱなしで放置してあった手帳を閉じた。
三
楡が目を覚ましたのは夕方だった。フローリングの床にそのまま寝てしまっていた為、体の節々が痛む。そういえば九重の家で朝まで飲んでいたのだった。
ううんと唸って起き上がると、九重が相変わらず煙草を吹かしながら仕事をしているのが視界に入った。その繊細な指先の動きと普段の乱暴な態度は、どうしても結び付かない。
「起きたか変態。さっさと帰れ」
唸り声で気付かれたのだろう。丸めた背中を向けたまま九重はそう言い放った。楡はまだ覚醒しきらない頭でぼんやりと、姉は帰ったのだろうかと考える。
人の話はあまり聞かない。聞いていても頭には入らない。
「俺がこないだ見つけた死体さあ、姉貴が言ってた人かも」
九重は肩越しに振り返って、怪訝に眉を顰めた。
「何だよいきなり」
「特徴一緒だった。気がする」
楡が曖昧に返すと、九重は鼻で笑って正面に向き直った。
煙草の煙が室内に充満している。空気清浄機でも買えばいいのにと楡は思うが、家主は必要ないと思っているのだろう。一般常識が抜けているのではなく、人と少々感覚がずれているのだ。
実際、この家には、食器だけは無駄に多い。当の家主はインスタントラーメンばかり食べているというのに。
「国さんてさあ、なんで警官なの?」
「国定に聞けよ」
「死体見たいなら他にもあるじゃん」
九重の思考を放棄した返答を無視し、楡は更に続ける。
「お父さんが警官だからかな」
「後継げってか。国の奴は継げって言われて、素直に分かりましたってタマでもなさそうだがな」
「どうでもいい?」
「どうでもいい。落首花追うって意志を継いだとか言ってたが、どうだかな」
九重はあまり、他人に興味を示さない。
「たまにさ、殺した人の気持ちとか考えるの。俺」
脈絡がなかった。九重はそんな楡との会話に慣れているから、発言の唐突さには突っ込まない。
「殺された方は考えねえのか」
「そっちは考えないようにしてる」
楡は再び床に寝転んだ。彼に帰る気はさらさらない。
「そんなに憎かったのかなって。それとも、単に殺すのが好きなのかな、とか」
「そんな快楽殺人鬼がそうそう居てたまるかよ」
「うん。何か理由があったんだろうと思うよ。けどさ」
頭の下で腕を組み、楡は天井を見上げた。白色蛍光灯の明かりが目に痛い。大きな目を細めて、それでも楡は天井から視線を逸らさなかった。どこを見ても、この家は黄ばんでいる。
「そんなの理由にはなんないんだよね。悪い事は悪い事だよ」
珍しくまともな台詞を吐いている。楡は自分でそう思う。ただ頭が良くないので、思うようには伝えられない。思う通りに伝えたとしても、楡の言葉など九重は真剣に聞いてはくれないだろうが。それでもこんな事を相談出来るのは、九重しかいない。
「利害が一致した場合はどうなるのかなあ」
「死にたい奴と殺したい奴が出会ったらか?」
「そう」
「世間的には自殺幇助って罪になる」
「それ、いけない事だと思う?」
九重は黙り込んだ。
「いけないのかな。いけなくないよね。そうして欲しいなら、そうしてあげた方がお互いの為だよね」
「お前」
声のトーンが下がっている。
怒られるのだろうなと楡は思った。脅されても貶されても動じないが、怒られるのは好きではない。
「そうしたのか?」
低い声が、静寂に包まれた室内に響き渡ったような気がした。実際は、この部屋は声が響くような構造にはなっていないので楡の気のせいだった筈だ。響いたとすれば、彼の頭の中に、である。
「俺は、殺したいと思った事はないよ」
返答にならなかった。真実をありのまま伝えても、九重は善良な市民ではないので、警察に突き出すような事はしないだろう。そもそも彼がそんな殊勝な人間であるなら、楡や美佐子などとっくに捕まっている。
「理由がねえのも問題だろ」
「だから、……ああ。うん」
違うと言いかけて、楡はやめた。
違ってなどいない。楡が愛しい人を切り刻みたいと思う事に、理由はない。過去に楡がそんな風に歪んでしまうだけの理由が、あった訳でもない。と、彼は思っている。
九重の死化粧と同じだ。何故かそうなのだ。九重は何故か昔から、人形だけは作る事が出来た。同じく死体に死化粧を施す事も。
「そうだね」
楡は一言、肯定だけして目を閉じた。
四
『そりゃ落首花じゃねえだろ』
九重は電話越しにそう言った。引っかかっていた事をこうもあっさり否定されると、なんとなく力が抜けてしまう。
『あいつが死体隠すとは思えねえぞ』
「僕もそう思ったんだ。だがな、犯人は何故落首花の手口を知っていた? 知らなきゃ模倣出来ない筈だろ」
九重は暫く黙り込んだ。
本来なら、彼に相談するのも妙な話ではあるのだ。しかし他に適当な人間も国定には思い当たらない。
『被害者が元刑事なら、お前の親父と一緒に落首花追ってたってセンはねえのか。そっから犯人に伝わってる可能性もあんだろ』
国定は携帯を持ち替えて、眉根を寄せた。
「そうだとしても……ああでも、家族ならものの弾みで言うかな」
国定は困ったような表情で顎を掻く。父にあまり妙な事を聞きたくないが、受け持ってしまった事件なので仕方がない。
『それより被害者、美佐子さんの客だったらしいぞ』
「また変な所で繋がるな」
『山路っつったか? 被害者。家に死体が埋まってるなんて言ってたって話だ。美佐子さんは信じてなかったみてえだが』
国定は嬉しそうに目を輝かせた。
「ああ……良かった、それではっきりした。ちょっと父の証言を取ってみるよ」
『は? おい、何が――』
国定はそこでぷつりと電話を切った。閉じた携帯を胸ポケットへ落とし、硬質な靴底が立てる高い音を響かせて歩き出す。
警察庁の廊下を歩く時、国定はいつも、何故か緊張している。彼が幼い頃から、父が家へ帰る事など殆どなかった為、国定は父と顔を合わせる事に慣れていない。父親というものがどんなものか、殆ど知らずに幼少時代を過ごした。長じてから、父親というのはたまに家に帰って来て、子供を叱るものなのだという認識を持った。けれど、それも違った。
国定にとって、父親とは追い掛けるものである。追い掛けても追い着く事の出来ない、大きな存在なのだ。偉大な父の影を追って、国定は警官となった。ついでに死体が見られれば儲けものだと、そう思った。
望みどおり、死体など幾らでも見る事が出来るようになった。けれど、本当の目的――父を追う、という事はいつしか、父が追い掛けていたものを代わりに追う、という事に摩り替わってしまった。それでも構わないと、彼も今では思っている。
長い廊下を進んだ先。父が居る部屋のドアの前に立ち、国定は一つ、深く息を吐いた。