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化粧師  作者:
3/31

第二話 歪むもの 一

・スプラッタ描写有り

・似非ミステリーです

 始めて人を殺したいと思ったのは、十二の時だった。その年齢だけは明確に記憶しているが、理由は覚えていない。大した理由ではなかったように思えるし、重大すぎて忘れてしまったのかも知れない。どちらであろうとも、その思いは溶解する事のない澱となって、徐々に徐々に心の奥底へと沈殿し、体中の虚を埋め尽くして行った。

 決行したのは十五の時である。安く調達した出刃包丁で、それまでの人生の大半を過ごした施設を統率する男を刺した。あれから何十年も経った今となっては、あの男が施設の長であった事しか覚えていない。だから当時一体何が起きていたのか、分かり得る筈がない。今では分からなくても構わないと思う。

 しかしその時の感触だけは、ありありと思い出す事が出来る。人を刺すのは思いのほか容易い事で、傷口から溢れる血を見ながら、手応えのなさを感じていた。後のことは、全く考えていなかった。

 それからは沈殿して行く澱が喉元まで積もる度、取り憑かれたように次々と人を殺した。それは通りすがりの人であったり、職場の上司や同僚であったりしたが、全てお咎めはなかった。刺した人間がたまたま指名手配犯であったり、何故か他の者が自首してしまったりと理由は様々だが、運が良かったのだろう。それに甘える形で一度も警察の世話になる事なく、娑婆での暮らしを謳歌している。

 人を殺した事を悔やむ時もある。ある日突然命を奪われた人の事、その無念を想像して、自責の念に苛まれたりもする。しかしあの、一瞬の快感が忘れられない。最早手に染み付いた、温かい肉に刃物を刺し込むあの感覚。自分の手で人の一生が途切れるかと思うと、体の内側から悦びがせり上がって来て止まらない。今まで平和に笑っていた人間の顔が、突然苦痛に歪む。刃を抜いた瞬間に噴き出す、生の証。その瞬間がどうにも堪らない。

 暗い欲望を胸に秘め、彼は今日も包丁を研ぐ。


  歪むもの


  一


 草木も眠る、午前二時。九重義近は騒がしい物音に、急激に意識を覚醒させた。電池の切れかかったインターホンが、不規則に何度も鳴らされている。鈍いブザーの音はひどく滑稽で、短気な九重の神経を逆撫でした。

 在宅の際は鍵を掛けない九重も、寝る時は流石に施錠する。睡眠を妨げられたくないのが理由だが、これだけインターホンを鳴らされれば、真夜中であろうと流石に目が覚める。

 九重は寝乱れた髪を掻き上げながら苛立ち紛れに布団を跳ね除け、玄関へ向かった。目の下には薄い隈が見て取れる。妻が消えてからずっと、だらしのない生活を続けていた為か、既に染み付いて消えなくなっていた。同じ理由で家中の壁紙は煙草の脂がこびり付き、黄色く変色している。

 九重は元来無精者だ。仕事以外は逼迫した状況に陥ってからようやくやると言った具合だから、洗濯物は溜まる一方であるし、掃除も碌にしない。飯さえ食えればいい。それで困らないから独身生活は楽だと彼は考えている。

 無論、妻がいない事を寂しく思う時もある。しかし突然の来訪者が多いこの家では、孤独を噛み締める事も出来ない。

「うるせえ馬鹿野郎、何時だと思っ――!」

 勢い良く扉を開けた九重の言葉は、押し潰されるような声に変わった。

「よっちゃーん会いたかったあ」

 呂律の回らない口振りに、酒焼けしたハスキーな声。ドアを開けたのと同じ位の勢いで飛び込んできた女の体重を支え切れず、九重は玄関に尻をついた。彼の胸に顔を埋めた女は、恐ろしく酒臭い。

 腹に豊満な乳房の柔らかい感触があった。それのお陰で酒の臭いは気にならなかったが、男やもめには少々刺激が強すぎる。九重は女を見下ろして、誤魔化すようにうんざりと溜息を吐いた。

「こんな時間に何やってんだよ美佐子さん……」

 楡美佐子にれみさこは顔を上げて九重を見ると、にい、と唇の両端を吊り上げた。

 美佐子は九重の友人、楡宗一郎の姉である。水商売風で化粧は多少濃いが、弟と良く似た彫りの深い顔立ちの美人だ。目鼻立ちは整っており、くっきりとした二重瞼と丸い垂れ目がやけに艶っぽい。オレンジがかった茶髪は綺麗に巻かれている。

「相変わらずいい男ねえ」

 美佐子は九重を凝視したまま、弛緩した表情で褒めた。言われた方は悪い気はしないが、返答になっていない。

「とりあえず、マジでヤバいから水」

 九重の顔色が青くなった。その場に美佐子を放り出して台所へ向かい、水を汲んで持って行く。痛いと文句が聞こえたが、吐かれては堪らない。

 美佐子は一気でコップを空にして、九重の目の前にコンビニの袋を突き付けた。

「……何だよ」

「差し入れ」

 廊下に膝をついたままパンプスを脱ぎ捨て、美佐子は立ち上がった。詰め込まれた物ではちきれんばかりに膨らんだコンビニの袋を、押し付けられるままに受け取った九重の横を通り過ぎて、彼女はリビングの床へ直に腰を下ろす。思いの外しっかりとした足取りだった。水を飲んで落ち着いたのだろう。

 袋の中身は酒や乾き物ばかりで、一人暮らしの男にとって、有り難い差し入れと呼べるものではなかった。カップラーメンの一つでも置いて帰ってくれた方が、九重にとってはまだマシだが、美佐子は飲むつもりでここに来たのだろう。寧ろ帰って欲しい。

「あんた、仕事は?」

 草臥れた座布団に腰を下ろしながら、九重は袋の中身を漁る美佐子に問う。客に座布団を差し出す程、彼は殊勝な男ではない。そんな気遣いが出来るなら、生活も少しはまともだっただろう。

 フローリングの床に座布団の取り合わせも妙だが、そもそもこの家にクッションというものは存在しない。家主が必要無しと判断したものは、例えそれが一般家庭に於いての必需品であろうと、この家には無い。

 気の利かない家主にビールの缶を差し出しながら、美佐子はううんと唸る。酔いの為か、白い頬が上気して赤く染まっている。

「今日は休み。ていうかちょっと、聞いてよアンタ」

 家主が寄りかかった作業机を掌で叩き、美佐子は憤慨した調子で言う。机から煙草が転がり落ちた。缶に口を付けかけていた九重は、迷惑そうな視線を美佐子に向ける。

「私のお得意さんが突然来なくなっちゃってサ、噂じゃ死んだって話なのよ」

「そりゃ気の毒にな」

 全くそうは思っていないような口振りだった。九重は床に落ちた煙草を拾い上げてそのまま銜え、火を点ける。どうせ元々煙草が置いてあった作業机も、床と同じ位汚れている。

「でもおかしいと思わない? まだ五十よ。五十。健康診断で全て異常ナシだったとか自慢してたのよ。それが突然死んだとか言われても、ねえ?」

 九重はゴミ箱を引き寄せて、灰皿へ山のように盛られた吸殻を捨てた。空になった灰皿を、美佐子との間に置く。彼が客にしてやるのは、そんなどうでもいい事ぐらいだ。

「あんた気付かなかったのか?」

 さきいかの袋を開けて摘みながら、九重は美佐子の話を斜め聞きしていた。彼女の愚痴は、反応すればするだけエスカレートするので、これが一番適当な対応である。

 美佐子は鞄からブランド物のシガレットケースを取り出して、細い煙草を銜えた。鮮やかな色のエナメルの上に、ラインストーンの散りばめられた長い爪。細い指との取り合わせが悩ましい。

 美佐子が煙草に火を点けた瞬間、甘い香りが微かに漂った。

「来なくなって三ヶ月よ。それまでの間に倒れて死んだんだとしたら、私だってわかんないわよ」

 美佐子は死臭を嗅ぐ事が出来る。死臭と言っても、死体が発する臭いではない。死期の近い人間の臭いが分かるのだが、その臭いをどう表現したらいいのか分からないので、美佐子の特異体質を知る人間は皆、死臭と呼んでいる。死期が近ければ近いほど強く感じられるのだが、死臭を嗅げるようになるのは、精々その人の死期の一ヶ月前程度である。弟の特技が死体発見だから、随分と死人に好かれる姉弟だ。

 その上揃ってモデル並の美形でありながら、特殊な性癖を持つ。あまりの変人ぶりに、九重には知り合った事を後悔した時期もあったが、どんな因果か今でも友人関係にある。二人とも犯罪者すれすれどころか既に犯罪者だから、顔が怖いだけで犯罪行為とは縁のない九重からしてみれば、知り合いでいる事さえ迷惑だ。

 姉は人肉嗜食者カニバリスト。弟は死体愛好家ネクロフィリア。凡そ普通の姉弟とは程遠い。手の施しようのない変態達ではあるが、人柄は良い。良いから余計に付き合いが長引いてしまう。

「それにさ、それだけじゃないんだって」

 美佐子は酎ハイの缶を持った手の人差し指を、九重に向けた。まるきり酔っ払いの仕草だ。

「その人、家に死体が埋まってンだって言うのよ」

 九重は缶を傾けたまま眉を顰めた。流れ込んできた液体を嚥下し、そのままの表情で美佐子を見返す。

「酔っ払うと、その死体に呪われてるんだなんて言ったり」

「そいつがやったんじゃねえのか?」

 美佐子は軽く肩を竦めて首を振った。

「違うンじゃない? まあ真偽なんてわかんないけど。こっちも酔っ払いの戯れ言ぐらいに思ってたし」

 言いながら半ばまで吸った煙草を揉み消し、その手でさきいかを摘んだ。

「怪しいっちゃ怪しいな」

「まあね。アンタの変な特技程じゃないけど」

「関係ねえだろ」

 缶を傾けて中身を飲み干した美佐子は、ぐるりと首を巡らせて室内を見渡した。九重の向こう、作業机の上で視線を止めて目を細める。

 視線の先にはずらりと並んだ人形の首に紛れて、写真立てが置かれている。写真の中で静かに微笑む女は、美佐子とは系統の違う美人で、他に無い程秀麗な顔立ちをしていた。

「さっちゃんいなくなって、もう五年かあ」

 美佐子は懐かしそうに呟く。写真を見詰める瞳は、優しげでさえあった。しかし彼女が口にした言葉を聞いた瞬間、九重は不快感を露わに眉間へ皺を寄せる。

 美佐子が呟いたのは、五年前に起きた海難事故に巻き込まれて消えた、九重の妻の綽名である。消息は杳として不明であり、死体さえも上がっていない。五年が経った今でも、その安否すら確認出来ずにいる。

 九重の眉間に寄った皺を、美佐子は人差し指でつついた。

「そろそろいい人出来た?」

「うるせえな。作ってる暇がねえよ」

 九重は鬱陶しげにその手を払い退け、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。フィルターの焦げる臭いが漂う。

 彼に暇がないのは事実だった。毎日家に閉じ籠もって仕事をしなければ、納期に間に合わない。つまり、食い扶持が稼げない。暇な時間が無い訳ではないが、その殆どが溜まりに溜まった家事や趣味に費やされている。

 お陰で、金は貯まる。貯まれば貯まるだけ使えなくなって行くのが、金というものだ。暇がないというよりは、金を使うだけの余裕がないのだろう。

「勿体無いねえいい男なのに。その分じゃ暫くご無沙汰でしょ」

 揶揄するような口振りに、九重は軽く舌打ちした。

「余計なお世話だ」

「怒んないでよ。褒めてンのよこっちはサ」

 美佐子は、九重の妻と親友と呼べる関係にあった。それこそ妹のように気に掛けていたし、結婚の報告をした時など、大学を卒業するまで何故待てないのかと、九重は散々詰られた。妹のように思っていた親友が失踪したと知った時、干からびてしまうのではないかと見ている方が心配するほど、美佐子は泣いた。

「どこが」

「マジだって。あんないい女お嫁に貰っといて他の女に手出したら、私が許さないってば。貞淑でいるだけエライってコト」

 貞淑、と来た。口調はまともだが、美佐子はまだ、かなり酔っている。

 九重は鼻で笑い、作業机から煙草を摘み上げる。

「まあ、他に手出す気も……」

「義近―!」

 素っ頓狂な叫び声と共に、騒がしい足音が廊下からやって来る。しんみりしていた所にその声はあまりに不釣合いで、九重は肩を落とす。落胆した訳ではなく、力が抜けてしまった。

 声の主も来訪の理由さえも瞬時に理解したが、その来訪は九重にとって、迷惑以外の何ものでもない。

「まただよ俺、また振られた!」

 リビングに飛び込んで来たのは楡宗一郎だった。呆れた視線を向ける姉の姿は視界に入っていないのか、九重を見た瞬間その場に泣き崩れる。何故かフローリングの床に正座したこちらも、姉と同じく大分酔っている。

 楡は恋人に振られる度に、九重の元へ泣きつきに訪れる。愚痴を垂れるだけなら、九重も聞かないでもない。何も反応せずとも、どうせ楡は一人で喋っている。九重にとって問題なのは、その都度楡が泥酔している事である。彼は泣き上戸だ。

「男がその位でメソメソすんじゃないわよ」

「だってさあ、俺何もしてないんだよ」

 楡は両手で顔を覆ったまま涙声で言った。美佐子がその頭を平手で引っ叩くが、楡は体勢を変えない。

「で、何言ったんだ」

「切り刻んじゃいたい」

「当たり前だ」

 項垂れたままの楡に、九重は冷たく突っ込んだ。美佐子は呆れた顔をしているが、どっちもどっちだろうと九重は思う。

「だってしょうがないよ。可愛いんだから。ねえ姉貴?」

 端正な顔を上げて、楡は美佐子を見た。彼女は眉根を寄せて嫌な顔をする。

「どうして私に振るの」

 九重は煙草に火を点けながら、黙ってやり取りを聞いている。

「姉貴だって、いちいち食べちゃいたいとか言うから恭一さんプロポーズしてくれないんだよ」

 美佐子の表情が凍り付く。さりげなく地雷を踏んだ楡はそれに気付く気配もなく、不貞腐れたように唇を尖らせながら放置されていた袋の中から缶を取り出した。

「大体三十過ぎて水商売で独身なんて、もう負け――」

 言いながら姉に視線を向けた楡は、小さく悲鳴を上げた。九重は姦しい姉弟から目を逸らして溜息を吐く。

 今夜は眠れそうにない。

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