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化粧師  作者:
28/31

第五話 笑うしゃれこうべ 九

 室内には、淀んだ空気が充満していた。いつものように、タバコの煙のせいではない。明白に理由が分かるようなものでもない。ただ、空気が明らかに廊下のものと違う。

 窓さえ塞がれた部屋を照らすのは、廊下から差し込む光のみ。その部屋の奥、暗幕の掛けられた窓の下に、日本人形の首が並んでいる。蛍光灯の下では美しく見えたその全てが、今や不吉な笑みを浮かべているように思われた。

 淀んだ空間の中、床に敷かれた布団の上で九重は一人、耳を塞いで蹲っていた。紗代子がそれに駆け寄って肩を掴み、顔を覗き込む。国定の位置から、九重の表情は窺えない。

「……紗代」

 九重の声が掠れている。僅かに上げられた顔は、恐ろしく窶れていた。眉間に深い皺が刻まれている。元々浅黒い顔が土気色に変色し、切れ長の双眸までもが色を失っている。

 紗代子は乱れた夫の髪を撫でて、額が当たる程顔を近づける。

「大丈夫よ、ここにいるから。聞いては駄目。私を見て」

 紗代子の懇願するような涙声に、国定は胸が詰まるような感覚を覚える。楡も美佐子も、食い入るように二人を見詰めていた。誰一人、何もしてやれない。苦しむ友に出来る事が何もない。どれほど歯痒く思えど、それが現実である。

「……駄目だ。もういいから、早く逃げろ」

 紗代子は激しく首を横に振った。最早祈るしか出来ない事が、国定には悔しく感じられる。

「笛の音がする。呼んでんだよ、もう放っておけ」

「嫌」

 強い口調だった。紗代子の横顔は、眩しいほどに凛々しく見えた。

 然し、祈りは届かない。

「駄目だ。……逃げろ」

 九重の目の色が変わった。国定は掌が一瞬にして汗で湿るのを知覚する。蛇に睨まれた蛙のようだ。最早彼を見ているだけで総毛立ち、背中を冷たい汗が伝う。脳裏に死という一文字が浮かぶ。このままここに居れば、間違いなく殺されてしまうだろう。豹変した友の手によって。

 最早これは、九重ではないのだろうか。人としての意志も尊厳も持たず、永遠に取り戻される事のない命を求めて殺戮を繰り返す、ただ動くだけの屍になり果ててしまうのか。国定にはそれがどうしても信じられない。信じたくない。

 美佐子が掌で口元を覆い、楡は慌てて紗代子に駆け寄りその肩を掴む。彼女は動かない。手遅れなのか。もしそうなら逃げなければと、国定は考える。

 紗代子は緩く左右に首を振り、目を閉じた。諦めたような表情だったが、その瞬間、室内の空気が一変する。

「いい子ね、よく保ったわ」

 鈴の鳴るような声が耳に届く。九重が見開いた目をゆっくりと閉じて行くのを見て、国定は安堵した。

 暗幕が掛けられた窓際。作業台の横に、喪服のような着物を纏った少女が立っていた。

 柔らかなラインを描く頬。一直線に切り揃えられた前髪。猫のように大きな漆黒の目。抜けるように白い顔の中で、小さな唇だけが桜色をしている。

「ごきげんよう。あなた達は向こうに行ってなさい」

 椿はそれだけ言って、紗代子に近付く。屈み込んだ椿と入れ替わりに、楡が体を起こして足早に部屋から出た。

「遅くなってごめんなさいね。対抗策を調べるのに手間取っちゃったの」

 紗代子は顔を上げ、義母を見て安堵の笑みを浮かべた。気の抜けたような表情だ。

「いいえ。……宜しくお願いします」

 深々と頭を下げ、紗代子は立ち上がる。入り口を空けようと国定が振り向くと、楡も美佐子も既にそこにはいなかった。紗代子は国定とすれ違いざま軽く会釈して、部屋を出て行く。

「九重は……」

「大丈夫よ。向こうに行ってなさいって言ったのに、聞こえなかっ――」

 何かに気付いたように言葉を止めた椿は、恐ろしい形相で九重を振り返り、ゆるゆると挙げられかけていたその両手を掴む。国定は思わず息を呑んだ。

「一度勝ったからっていい気になって、ふざけた真似しくさってんじゃないわよ。聞いてるんでしょ糞婆ァ」

 九重の手に大した力は籠もっていないように見えたが、椿の華奢な腕は徐々に押し返されて行く。それでも彼女は、顔色一つ変えなかった。

 椿はぐいと九重に顔を近付け、唇だけを笑みの形に歪めた。俯いた九重の表情は髪に隠れて窺えない。

「油断してたでしょう。あたしを誰だと思ってるの? 足掻いたって無駄よ。この子は絶対に渡さない」

 椿の手が九重の腕から離れる。自由になった腕はしかし、力なく床へ落ちた。

「……ひっ」

 次に目に飛び込んできた光景に、国定は身を竦ませた。白い手が九重の頬を思い切り引っ叩いたのだ。甲高い音が鳴り響き、九重の頭が衝撃で横を向いた。

 椿は顔を上げて、国定を睨む。

「さっさと出なさい国定君。扉を閉めて。それから、杉里君を呼んで」

 何故杉里をと考えたが最早長居は無用と判断し、国定は漸く部屋を出て、言われた通り扉を閉めた。

 混乱している。今起きている事は、紗代子に説明された通りなのだろうと、それは国定にも分かる。しかしどうにも繋がらない。

 九重と落首花が、親子関係にある。知っていたなら何故、九重はそれを国定に言わなかったのか。隠すような事だとも思えない。先に言われていたなら、落首花に対して敵意を向けるような事はなかった。個人の価値観の問題だろうか。

 リビングでは楡がソファに突っ伏していた。国定は怪訝に眉を顰めて、ダイニングに着いた女達を見る。紗代子が首を横に振った。

「楡、どうした。もう九重は大丈夫だろ」

 大丈夫だという言葉に明確な根拠はない。しかしこの場にいる全員が、もう大丈夫なのだと思っている。何が解決した訳でもないのだが、椿ならなんとかしてくれると、全員信じていた。

「ダイジョブじゃない」

 楡の声が珍しく沈んでいる。国定は首を捻りながら、美佐子の隣へ腰を下ろした。

「何が」

「俺が」

「何で」

 楡は答えない。布張りのソファに顔を埋めたまま、篭もった声で唸るばかりだ。国定の横で、美佐子が溜息を吐くのが聞こえた。

「もう忘れなさいよ。向こうはあんたの事なんてなんとも思ってないわよ、あの様子じゃ」

 は、と国定は怪訝な声を漏らす。

「そういう問題じゃなくて……」

 沈んだ声が答える。国定は斜め前に座った紗代子と、顔を見合わせた。

「おい、話が見えないぞ。どうしたんだ」

 国定は楡に声を掛けるが、彼は矢張り答えようとはしなかった。怪訝な表情のまま、国定は美佐子を見る。美佐子は曖昧に、苦笑した。

「あの子やっちゃったのよ」

「何を?」

「椿ちゃんと」

 湯呑みに口を付けていた紗代子が、茶を噴いて噎せた。何事にも動じない女だと国定は思っていたが、そうでもないようだ。今までは何が起きているのか知っていたから、動じる事もなかったのだろう。

「な……何を」

 国定は美佐子の台詞を反芻する。暗に示される言葉の意味は理解出来たが、心がそれを拒絶する。楡がまた、一声呻いた。

「気まずいわよね」

 美佐子は頬に手を添えて、国定から視線を逸らした。

「し、仕方ないんじゃない? 宗ちゃん、知らなかったんだもの」

 紗代子の口調は慰めるようなものではあったが、どもった上、顔が明らかに引きつっている。椿など年齢すらよく分からない女だが、紗代子から見れば義母に当たる。それと親友が、となれば、流石に引くだろう。

 既に全員、物音一つしない部屋の中で起きていた事については、忘れかけている。言及さえしようとしない。気遣うような素振りすらない。意図的に気にしないようにしているようにも、国定には思えた。

「義近になんて言ったらいいんだよ……」

「言わなくていいから。胸に秘めておきなさいよ」

「もう言っちゃったじゃん国さんにも、さっちゃんにも!」

 非難するような口振りだ。国定は、楡でも一応気にはするのかと、些か意外に思う。気にしなければ、それはそれで問題ではある。楡にも一応、善悪の判断は出来るようだ。

「……忘れなさい」

 美佐子は溜息混じりに一言そう告げて、湯呑みを持ち上げた。


 九重が目を覚ましたのは、翌日の朝だった。目を開けた瞬間椿の不安げな顔が視界に入り、彼は勢いよく飛び起きる。椿は一瞬きょとんと目を丸くしたが、暫く我が子と見つめ合った後、鈴が鳴るようにころころと笑った。

「おはよう義近」

 九重は呆れた表情で椿を見た後、溜息を吐いて作業台へ手を伸ばす。散らばった煙草と銀色のジッポライターを取り、火を点けた。どうにも落ち着かないのだ。

「気付かなくてごめんね」

 椿はぽつりと呟き、真顔になってその様子を見詰める。九重は気まずい空気が苦手だ。真面目なシーンも駄目なのだ。だから彼は、椿の顔を見返す事が出来なかった。

「……あたしの事、恨んでる?」

 布団の上に胡座をかいた九重は、壁に背を預けて煙を吐き出した。目を覚ました瞬間からずっと、実の母と目を合わせようとしない。椿の悲しげな視線が、九重の手元に注がれている。

 何も言わずに家を出たのは、椿の方だ。追跡の厳しくなった警察から逃れる為に、敢えて何一つ告げずに出てしまった。そうすれば聡い夫は追わないだろうと、彼女は判断した。

 しかし結局は、椿本人の不在を知らぬ警察に急襲された。馬鹿な事をしてしまったのだ。家に留まっていさえすれば、家族を守る事が出来た筈だ。本当に愚かだったと、椿は心の底からそう思う。

 警察を恨むのはお門違いだと、椿は分かっている。自分のしている事が罪なのだと重々承知しているし、何かを理由に言い逃れしようとも思っていない。だから彼女は、今でも悔やんでいる。息子を危険な目に遭わせた事も、夫を死なせてしまった事も。

 息子が生きていると知ったのも、つい最近の事だ。その時は単純に、嬉しいと思った。反面、胸が痛んだ。何も言わずに蒸発した母を、果たして母と思ってくれるのか。年を取らぬ母を、成長した息子は母と見る事が出来るのか。

 悩んでいるなら救いたい、困っているなら助けたい。その身に何かが起きたなら、あの時守ってやれなかった分、守りたい。そんな身勝手な願いを、果たして受け入れてくれるのか。

「あんた恨んだ事は、一度もねえよ」

 九重は無表情のまま答える。気のない口調だったが、椿はそれで幾分救われた。

「親父はあんたが突然いなくなった理由ぐらい知ってた。俺は親父の事なんざ、碌に覚えていやしねえが、うぜえ繰り言だけは耳に残ってる」

 九重は椿を見て、にやりと笑った。

「お前の母親は、いい女だってよ」

 今は亡き夫と暮らした日々が、椿の頭の中をフラッシュバックする。授かった一粒種を、彼は深く愛していた。だから彼女は、息子を守ろうと思った。

 椿が家を出たのは追っ手から逃げる為でもあったが、自分が居ればいつかは必ず、子供は何らかの禍に見舞われると考えたからだ。夫は自衛する術を持っていたが、子供はそうではない。守ってやるより、懸念材料を根本から断つ方が安全だと彼女は推測した。結果的には、それが裏目に出てしまったのだが。

 何より息子が長じた時、歳をとらぬ母をどう思うか。化け物と言うだろう。彼女を知る者がみな、そうして蔑んだように。

 だから離れた。夫を失う事になろうとも、それは仕方のない事だ。彼は自分の代わりに子供を大事にするだろうと、そう考えた。

 だが、椿は今になって漸く気がついた。夫は子供を想う以上に、自分を愛していたのだと。

 椿は呆けたように口を開けて暫く息子を見詰めていたが、ふ、と表情を緩める。

「あなたはお父さんに、よく似てる」

「そうか」

 灰皿に手を伸ばして、九重は唇を笑みの形に歪める。

「お父さんは黒くなかったけど、目つきが悪いのも口が悪いのも、声が低い所までそっくりよ」

「有り難くねえ遺伝子だな」

 一瞬の無言。椿はあまりに優しい目をしていた。

 九重はこの母を、朧気ながら覚えていた。だからあの時姿を現した椿を見て母だと気付いた。覚えていたのが奇跡に近いほど、幼い頃の記憶。その中でも、彼女は今のように優しい目で九重を見ていた。覚えていたからこそ、彼は実家に山積みになっていた魔術書を、今でも大事に保管している。彼が胡散臭い魔術や魔女というものに興味を示したのは、母がそういった存在だと知っていたからだ。

 妻は、母に似ている。他人が見たら全く違うと言うだろう。しかし九重はそう思う。己に笑いかける時優しく細められるあの目は、古い記憶の中の母の笑顔と、よく似ていた。妻には絶対に言えない事だが。

「聞いていいか」

 椿は緩やかに首を傾けた。長い黒髪が肩を滑る。

「今の俺と親父と、どっちの方がでかい?」

 予期せぬ質問に、椿は忙しなく瞬きを繰り返す。九重はどこか愉しそうに笑みを浮かべている。

 椿は小さく笑い声を漏らした。

「お父さんは」

 正座したまま身を乗り出して、椿は九重に手を伸ばす。白い掌を下に向け、水平に保たれた手を、彼の眉辺りで止めた。

「このくらいだった」

 何かを懐かしむような響き。椿は切なそうに眉を寄せて、ゆっくりと言葉を続ける。

「大きくなったのね。義近」

 九重は灰皿を引き寄せて煙草を揉み消してから、そうか、と満足そうに呟いた。

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