第五話 笑うしゃれこうべ 八
八
死体が動いた。
ここ数日、国定はそればかりを考えていた。考えたところで納得の行く説明が出来そうな事柄ではない。現実にあった事と認識するのにも、かなりの時間を要した。九重のお陰で死体が喋る事には慣れているが、あれはどういった力が作用しているかは不明でありこそすれ、死化粧する事によって喋らせているのだ。何もせずとも死体が喋る訳ではない。
何故突然動いたのか。あの時はまだ、その化粧すら終わっていなかった。九重が動かしたのではない。何より九重は喋らせる事は出来るが、死体を動かす事など出来ない。
ならば一体誰が、そんな事をしたのか。一体何故、どうやって、何の為に。
誰がやったか、という疑問には朧気ながら答えは出ていた。春先に起きた事件の黒幕であり、あの落首花と対等に渡り合った、国定の知る限りで唯一の人物。人間であるのかどうかさえ分からない、死体を玩具のように操る老婆。
あの蛇は一体なんだったのだろうか。何の為にあんなものを作ったのかと、落首花もそう言っていた。ならば彼女にも分からないのだろう。理由など見当もつかない。あの化け物に分からないような事が自分に理解出来るとは、国定自身到底思えない。
ただあの老婆が良からぬ事を画策している事にだけは、気がついた。だから落首花も止めに入ったのだろうと、国定は考えている。生きる為に心臓が要るならば、糧である人間、延いては死体を操る老婆は、彼女にとって邪魔な筈だ。国定に手を貸した事について、それ以外の理由が思いつかない。
老婆の目的が解らぬ。老婆を犯人と断定するのは簡単だがしかし、それを捕まえるとなると、雲を掴むような所業に思えた。死体を動かした方法すら不明であるのに、ただの人である国定が、どうして追い掛ける事が出来るだろうか。そんな事は不可能だ。捕まえたくとも、捕まえることが出来ないから行動に移せない。国定は落首花が老婆を止めに入ると仮定して、それを頼りにしている己にも気付いていた。
それよりも国定が心配しているのは、九重の事だ。夫人の話では数日前に倒れてから、一向に目を覚まさないと言う。病院に連れて行けと言ったのだが、彼女は黙り込むばかりであった。病院に行けない事情もあるのかも知れないし、行ったところでどう説明したらいいのか、国定にも判らない。それでも、何らか解決策は見出せるのではないかと思ったが、電話越しの声が恐ろしく沈んでいたから、国定はそれ以上何も言えなくなってしまった。
惨殺死体は未だに出続けている。担当ではないと言ってしつこく尋ねて来た沼津の事は跳ね付けたが、同時期に起きている死体略取事件も、未だに解決の糸口すら掴めていないようだ。国定にはそこに、何らかの関連性があるように思えてならない。今の所、両者の間での繋がりは同時期から起きているという点ぐらいのものではあるのだが、その時期が問題だ。
四月の半ば。連続失踪事件が解決した、すぐ後の事である。それは即ち、あの老婆が単独で動き出したであろう時期。不気味な大蛇と共に消えた後の事だ。
あの後、国定は父に落首花についての一連の出来事を報告した。意見を求める腹積もりだった。父なら、何かしら知っているかも知れないと思ったのだ。しかし警視監は暫く黙り込んで、もう深追いするなと言った。そして、これ以上九重夫妻に関わるなとも。前者の理由はなんとなく分かったが、後者は未だ腑に落ちない。彼らが何だと言うのだ。父の考える事は昔から分からぬ。ただ、渋い表情を浮かべていた事だけが、やけに印象に残っている。
警視監が息子である国定に、何らか隠し立てしている事には昔から気付いていた。それが国定には悔しく感じられる。キャリア組のエリート枠に入った自分を、父は結局子供としか認識していないように思えたから。そんな事を考える事自体が子供染みている。そんな事は国定とて自覚しているが、父を越えたいと思うのは自然な願望ではないかと、彼は己に対して無意味な言い訳をする。認められないというのは、越える越えない以前の問題だ。
父は昔から、国定を叱る事こそすれ、褒める事はしなかった。東大に一発合格した時も、父は当然だと言わんばかりに頷くだけだった。
父に認められたい。その一心で、国定は警官となる道を選んだ。幼い頃から、それだけを考え続けて来た。父と同じ土俵に立って、同じものを追い、父以上の功績を上げて始めて、認めてもらえるのだと考えた。父に認められなければ、国定が警官となった事には意味がなくなってしまう。
確かにここ最近、国定が解決した事になっている事件は、棚から牡丹餅ではないが、それに近いものはある。友人であれ得体の知れない化け物であれ、周囲の助けを借りて始めて、解決しているのだ。それは重々承知しているし、自分の功績とは呼べない事も分かっている。それでも追い続けて来た犯人像をここまで明らかにしたのだから、少しくらいは。
少しくらいは、何だと言うのか。国定は心中自嘲する。褒められたいのか。あの父に。そうまでして、認めて欲しいのか。
浅はかな考えに過ぎる。
国定は駐車場に車を停め、薄汚れたマンションを見上げる。父がどうの犯行目的がどうのと、堂々巡りの思考など巡らせていても仕方がない。考え込んでみた所で分かる筈がないのだ。思考する為の手掛かりさえ、何一つありはしない。
「……ん?」
駐車場の隅に、見覚えのある車が停まっている。果たして定期的に洗車をしているのか、疑問に思う程汚れた白の軽。
「楡の小町じゃないか」
楡という男は、なんにでも名前を付ける。小町というのもこの軽自動車の名前なのだが、名前などつけて呼ぶ割に、大事にしているような風でもない。よく分からない男なのだ。
「ああ、国さん!」
アパートの入口から、素っ頓狂な声が響き渡る。国定は一つくしゃみをした後、嫌な顔をしてそちらに視線を向けた。花粉は大分落ち着いて来てはいるようだ。
「うるさいな君は。なんだよ、何してる」
「車に携帯忘れちゃった。国さんこそどうしたのさ、聞いたの?」
何を聞いたと言うのか。
楡は自分の車に駆け寄って鍵を開け、シートを弄った後、拾い上げた携帯を開いて肩を落とす。何なのだ、と国定は呆れる。
「何をだよ。主語を言え主語を」
「あれ、知らないの?」
楡は大きな目を円くして国定を見ながら携帯を閉じ、作業着の尻ポケットに突っ込んだ。仕事帰りにそのまま来たのだろうか。いずれ勤務中にふらふらしている国定よりは、幾分マシではある。
「だから何を」
「ええと……ああもうとにかく早く!」
楡は国定の腕を掴んで、駆け出した。引っ張られてよろめきながらもなんとか踏みとどまり、そのまま国定も走る。子供体温と言うのだろうか、楡の手はやけに熱い。
「やめろよ僕を走らせるな、君みたいに体力バカじゃないんだぞ。すぐそこなんだから走らなくてもいいだろ」
不平を垂れている間に目的の部屋の前に辿り着き、楡は国定の腕を離して扉を開け放った。早くと言う声に急かされ、国定は玄関へ入る。楡の長い腕が伸びて扉を閉めた。
玄関の四隅に置かれた盛塩が、全て溶けている。
「姉貴、国さん来た――」
「呼んでないわよ!」
聞こえた怒声は、美佐子のものだった。来てはいけなかったのだろうかと国定は一瞬考えたが、ここは九重の家なので関係ないと自己解決する。
作業部屋から美佐子が顔を出す。蒼白になった顔色を見て、ただ事ではないのだと、国定も漸く気付いた。しかしそこから出て来たという事は――九重に、何かあったのか。
「やっぱダメだよ姉貴、椿ちゃん繋がらない。ヤバい」
「もうこの役立たず! さっさと塩撒いて塩!」
美佐子は苛立たしげに怒鳴り散らしながら、持っていた袋を弟に押し付けた。彼は胸元に突き付けられたそれを、素直に受け取る。国定は楡の口から出た名前に驚き、その手に押し付けられた粗塩の袋にもまた目を円くする。
「し、しお?」
状況が掴めない国定は間の抜けた声で問い返すが、美佐子は答えず部屋に引っ込んだ。作業部屋の中からは、微かに話し声が聞こえて来る。
楡が玄関に一掴み粗塩を撒く。しかし床に落ちる際のその音は、塩が立てた音とは到底思えなかった。
雨粒が滴り落ちたかのような、水滴が立てる筈のその音に、国定は床を見下ろす。楡が撒いた塩は全て溶け、玄関に細かな雫となって点在していた。
「な……なんだよコレ」
国定は呆然と呟く。この部屋に、塩が溶けるような条件が揃っているとは到底思えない。塩化ナトリウムは、常温では湿度75%に達するまで潮解しないし、融点は801℃の筈だ。否、そんな事はいっそ関係ない。人知を越える反応を示した塩よりも、問題は九重の事だ。
塩の袋を抱えたまま、楡が作業部屋を覗き込んだ。
「義近大丈夫なの?」
困惑したような声である。国定は廊下に立ち尽くしたまま、部屋の中を見る事が出来なかった。
「落ち着いたわ。暫くは大丈夫」
涼やかな声が国定の耳に届く。紗代子だ。
楡は入口から退いて道を開け、部屋から出て来た美佐子を通した。楡姉弟の表情は、普段の楽天家具合からは想像もつかない程暗い。国定など、日本が沈没でもしない限り、この二人が絶望する事はないと思っていたのだが。
俯いていた美佐子が、顔を上げて国定に視線を向けた。華やかな美貌が悲しげに歪んでいる。
「よっちゃんは、大丈夫よ」
なんと声を掛けるべきか国定が逡巡している内に、美佐子はにこりと微笑んでそう告げた。無理に浮かべているようなその表情に、国定は胸が痛むような感覚を覚える。ただでさえ打ちひしがれた様子の年下の女に、ここまで気を遣わせてしまうような、不甲斐ない男が何を言えるだろう。国定は小さく頷いて、台所へ入る美佐子の背を見送る。
「ごめんさっちゃん。椿ちゃん、やっぱ繋がんない。着信なかった」
普段なら凛々しく吊り上がっている筈の眉尻を情けなく下げ、楡は俯き加減に呟く。玄関に背を向けた彼の表情は、国定の位置からは窺えない。部屋から出て来た紗代子が後ろ手に扉を閉めながら楡を見上げて、困ったように笑った。
「多分彼女、分かってるから。大丈夫」
子供に言い聞かせるかのような柔らかな声音に、国定は何故か安堵した。彼女は自分に対して言っている訳ではないというのに。
「国定さん」
呼ばれた国定の肩がびくりと跳ねる。
「ごめんなさい、何もお伝え出来なくて」
「いや、僕は――」
紗代子は、夫が倒れた時の事を言っているのだろうか。それならば見当違いな謝罪だと、国定は思う。何を思って九重があの時依頼を請けたのか国定には分からないが、倒れた事自体は、少なくとも紗代子のせいではない。敢えて何も聞かない道を選んだ自分が悪いのだと、国定は考えている。
あそこで九重を連れ出さなければ、今この状況はなかったのかも知れない。九重に何が起きたのか、国定は知らない。仮定段階で謝罪の意を述べるのも妙だと思ったし、もし本当に自分が悪いなら、紗代子を慰めるのも変だと考える。
「……どうぞ、居間に」
続く言葉に迷う国定を見かねてか、紗代子は玄関に背を向けてリビングへ向かう。楡は肩越しにちらりと国定を見たが、何も言わず紗代子に続いた。
国定は廊下に立ち尽くしたまま、戸惑う。果たして平気な顔で入って行っていいものなのだろうか。今こんな状況に陥っているのは、自分のせいではないのか。あの時自分が九重を連れ出したりしなければ、こんな風に悲しい表情を浮かべる友人達を見なくて済んだのではないか。九重の身には、何も起きていなかったのではないか。
そんな思いが、国定の身を竦ませる。
「ユキちゃん、突っ立ってないで座んなさい」
美佐子が台所から顔を出し、国定に声を掛ける。手には湯呑みが乗ったトレーを持っていた。紗代子の代わりに茶を煎れたのだろう。
「あ、……はい」
断るのも妙な塩梅ではある。国定は鬱々としたまま漸くリビングへ入り、テーブルに着いた。
前回訪れた時と、何ら変化のない風景。しかしあの時は、九重が不機嫌そうな顔でソファに座っていた。彼はいつだってこの部屋に居た。家主が居ないだけで、こんなにも寂しい部屋となってしまうものなのだろうかと、国定は考える。
「何も聞かないで下さい。全て真実です」
美佐子が空いた席に着くと、紗代子は唐突に切り出した。
「お話します。今何が起きているのかも、夫の――義近の事も」
国定は自然と姿勢を正した。美佐子も神妙な面持ちで、食い入るように紗代子を見詰めている。ただ一人楡だけが、灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。静かな部屋に小さく、じじ、と紙の焼ける音がする。
「先ず連日報道されている遺体窃盗事件と、国定さんが仰っていた惨殺事件。これらの犯人はどちらも同じ人物です」
楡が何か言いかけてやめた。
「通称『武尊山の笛吹き』――八尾の光会に関連した失踪事件においての真の黒幕であり、大胡博士を陰で操っていた張本人です」
楡姉弟は驚いた様子であったが、国定だけは納得した。
「僕はあの研究所でその老婆を見ました。あれはやっぱり、死体を操るんですね」
国定自身わけの分からない事を言っているという自覚はあったが、紗代子は頷いた。
「文献には、死体を蘇らせ、死体を操り、死体を喰らうと書かれています。屍の遠隔操作は出来ないけれど、時間の問題だと――」
「あの術を完成させたと、落首花に話していました。その事ですか」
どういった文献であるかは誰も聞かなかったが、本棚にずらりと並んだ、九重の蔵書からの引用なのだろう。紗代子は僅かに眉を顰めた。
「そうでしょうね。ですから、厳密に言うなら窃盗事件ではありません。死体の方が笛吹きに導かれ、自らの足で出て行ったのです。また、惨殺事件を起こしたのは笛吹きではなく、術に掛けられた死体の方。術をかけるのと操るのとはまた別のようです。生ける屍……まあ、屍と言いましょうか。屍は欠けたものを欲します。しかしもう死んでいる訳ですから、一番欲しいものはお金でも異性でも、ましてや権力でもなく、命」
国定はぞっとした。楡は顔をしかめたまま灰皿の上で煙草を弾く。
「命を欲する死体は、命あるものからそれを奪おうと試みます。同時に、『ついでだから』という短絡的思考から、生前欠けていたパーツを補おうとする。これは一度死んだ時点で酸素が行き渡らなくなり、脳が殆ど死んだ状態となっている為。まともな思考が出来なくなっているんです」
「だから体の一部が欠けていたのか」
「ええ。内臓の病気が原因で亡くなった方は、その内臓を。過去にどこかを切断した方は、その部位を。詳しい事は私も分かりませんが、目撃者がいなかったのは、笛吹がそういう術を使っていたからだと思われます」
現実にあった事件が、紗代子の言葉によって一気に現実味を失って行く。国定は視線を湯呑みに落として俯いた。果たして語られる内容が全て現実なのか、それすら判断がつかない。しかし真実だ、と前置きされては信じるしかなかった。信じなければ、事件についての真実さえ、永遠に分からないままとなってしまうような気もしていた。
「笛吹の目的は不明です。何故こんな事をするのか、そもそも死体を生き返らせたり操ったりして、何をしようとしているのか。それは分かりません。ですが笛吹が世界を蝕もうとしている事、それだけは事実です。美佐子姉さんが町中から死臭を感じたのは、近々誰もがみな、死ぬ可能性があったから」
美佐子は眉根を寄せたまま、湯呑みを両手で包んでいた。もう中身も温くなっているというのに、離そうとはしない。
「死体がそこにある事が分からなければ、術はかけられません。笛吹の名前通り、笛の音で操っている事は確かなのですが……」
「椿ちゃんに、死体が沢山ある場所探せって言われたよ」
紗代子は僅かに眉を上げて、発言した楡を見た。
「集めた死体を保管してある場所って事かしら。……彼女分からないのね。だから今まで動かなかった……」
「落首花と笛吹は、敵対しているんですね」
紗代子は頷く。
「落首花は人の生き肝を糧とします。生の心臓ですね。その在り処さえ知っていれば死体を片端から操ってしまう笛吹は、彼女にとって邪魔以外の何者でもない――しかし二十四年前までは、冷戦状態だったようです。敵対こそしていたものの、笛吹が彼女を脅かすような事はなかった」
紗代子はそこで一息吐いて、茶を啜った。話し始めてからずっと置いてあったから、もう冷めてしまっているだろう。
「順を追って説明します。まず彼女には、縁者が居た」
「笛吹が、旦那と言っていました」
「そうです。ひっそりと結婚して暫くは慎ましく暮らしていたようですが、ある時彼女は、家族の前から忽然と姿を消しました。しかし、見つかってしまったんです。警察に。よりによって彼女ではなく、家族が暮らしていた家の方が。警察は、彼女が既にそこから居なくなっている事を知らなかった」
国定は凍り付いた。落首花に射殺許可が出たのは、いつの頃だっただろう。もう随分と、昔の事ではなかったか。
「警官は、たまたま家から出て来た息子に驚いて、発砲しました。事故だったんです。警察側は落首花に家族が居た事も知らなかったし、まさか子供がいるなんて、思いもしなかった。と、思います。警官は、そのまま逃げ帰ってしまった」
紗代子は震える息を吐く。そう、思いたいのだろう。
「その時の事はもう、誰にも分かりません。ただ妻が消え、息子さえも奪われた父親の悲しみは、想像に難くありません。父親は、自分の命を投げ出す決意をした――自らの命と引き換えに、息子を蘇生させたんです」
国定には黙って聞く事しか出来なかった。性質の悪い御伽噺のようだ。現実味もなければ真実だという確証すらない。何よりこの話は、紗代子が直に見聞きした事ではないのだ。
「方法は分かりません。その時点で失われてしまいましたから。何らかの術だと思われますが、義近も、教わっていないから知らないと」
何故そこで九重が出てくるのか。国定は心中疑問に感じたが、美佐子は顔を上げて悲しげに表情を歪める。
「カレ、やっぱり……死人なのね」
国定と楡は同時に目を見開いた。紗代子は頷く。
「義近は二十四年前一度死に、父親の命と引き替えに蘇生された元死人です。今の状態を見れば分かるかと思いますが、成長も老化もしますし、食事も出来る。心臓が動いているので血は巡っていますし、呼吸もします。日常生活を送る上で何ら支障はありませんが、蘇生された上でのリスクとしては、生殖能力が失われている事。また治癒能力が通常より極端に低く、死体とばれる可能性があるので、お医者にかかる事が出来ません。父親の余命を貰い受けた形となるので、寿命も短い」
「え、ちょ……ちょっと待って」
慌てた仕草で煙草を揉み消した楡が、テーブルに手を付いて身を乗り出した。心無し顔が青褪めている。紗代子は顔をしかめて僅かに身を引く。
「て事は、義近、椿ちゃんの子供って事?」
「……そうだけど」
返答を聞いた瞬間、楡は絶望に満ちた表情で頭を抱えた。国定は訝しげにその様子を見詰める。弟の苦悩の理由を知っているのか、美佐子だけが哀れむような視線を向けていた。
紗代子は眉根を寄せたまま、楡を見て一度首を傾げたが、改めて国定へ向き直った。
「とにかく生き返っているとは言え、その本質は死人です。術者であるお父様は亡くなっていますし、一度死んだものでありさえすれば、笛吹は操る事が出来る。……義近が倒れたのは、国定さんのせいではありませんよ」
紗代子は国定に向かって、困ったような微笑を浮かべた。読まれていたのかと、国定は自分を恥じる。
「九重は、操られているんですか」
「まだその段階ではありません。操る為の術を掛けるには場所の特定が必要なようなので、向こうに居場所を探られないようにしていたつもりなんですが、逆に目立ってしまったらしくて……笛吹は今、確実に義近を狙っています。いつかはこうなると予想はしていたんですが、ピンポイントで狙って来ている所を見ると、落首花への牽制を兼ねていると思われます」
「つまり嫌がらせなのね」
美佐子はすっかり温くなった茶を啜って、納得したように呟く。理由がチープに過ぎるように、国定には感じられた。
「とにかく、今この状況を打開する事が出来るのは、落首花だけなんです。こうなっている事なんて、とっくに知っているとは思うのですが……」
紗代子は言いながら視線を室内へ巡らせる。聞きたい事は山ほどあったが、一番辛い筈の彼女に慰められてしまった国定には、それを聞く権利などないように思えた。何より理解が及ばなさ過ぎて、どこから聞いたらいいのか分からない。
作業部屋から物音がする。紗代子が弾かれたように立ち上がり、楡が顔を上げた。美佐子も慌てて席を立つ。国定は蒼白になり、音を立てて椅子を引いた。
「義君!」
部屋に向かって駆け出した紗代子の後を、国定は追う。何も出来ぬ。だからせめて。
せめて、何が出来るのだ。