第五話 笑うしゃれこうべ 六
六
道行く人々の全てから、肉が腐敗したような異臭が漂う。己からも、そんな匂いがしているのだろうか。そんな筈はないと分かっていながらも、不安感を拭えぬ彼女は歩調を更に速くする。
彼女は気付いている。最早空気にまで染み付いた死臭にも、安穏たる街の裏に潜む巨大な過にも。
何かが起きようとしている。若しくは何かが居る。この平和な日本を蝕もうと画策する者、或いはそれと同義の事象。
それが何であるのかまでは、彼女にも分からない。ただ、それを伝えなければならない人物だけは分かっていた。伝えなければならぬ。彼らは防ぐ手立てを知っている。確証はないが、そんな気がしていた。
幼少の砌より成長を共にしてきた幼馴染夫婦。彼ら、特に夫の方がどういった存在であるのか、彼女はよく理解していた。彼がそうなった子細を知るのは恐らく彼女の親友、彼の妻だけだろう。
彼女はその特異体質によってそれを知った。だから何故そうであるのかまでは知らない。聞こうとも思わなかった。聞いた所で自分には何も出来ない事など分かっていたし、それを発端とする彼の虚を埋めてやれるのは、その妻だけだと理解しているからだ。
薄汚れたアパートの一階に位置する角部屋。インターホンを鳴らすと、少しの間の後家主の妻が顔を出した。同性でも一瞬目を奪われる程の美貌。
「元気そうね、さっちゃん」
楡美佐子は努めて明るくそう言った。扉を抑えたまま、紗代子は困ったような笑顔を浮かべる。変わらぬその表情に、美佐子は安堵感を覚えた。
「美佐子姉さんも。……上がって」
美佐子がドアに手を掛けると、紗代子は屋内に引っ込んだ。玄関の四隅に盛られた塩が目に入り、美佐子の不安が確信に変わる。盛塩など些細な変化に過ぎないが、紗代子は意味のない事はしない。何かを懸念しているのだろう。
最近は仕事に行く気も起きず風邪を理由に暫く休んでいる為、この状況を打開しようと親友を訪ねた。それなのにこれでは、不安が募るばかりだ。
真っ直ぐ台所に入った紗代子は程なくしてダイニングへ戻り、テーブルに着いた美佐子の前にカップを置いた。芳しい紅茶の香りはいつもと変わりない。紗代子の好む紅茶の芳香。昔から、彼女の好みは変わらない。彼女が一途に何より愛する者も。
「よっちゃんは仕事?」
紗代子は苦笑した。
「風邪をひいちゃって。ずっと寝てるの」
「あら、大丈夫?」
紗代子の僅かな表情の変化も、美佐子は見逃さなかった。一瞬浮かべた悲しげな顔。何かあったのだろうと美佐子は思うが、風邪と誤魔化したという事は聞くべきでない事の筈だ。或いは紗代子が言いたくないだけなのか。
「義君に話?」
僅かに首を傾げた紗代子に、美佐子は首を振って笑いかけた。
「二人に話しとこうと思ったンだけどね。風邪ならいいわ」
「私が聞けばいい事?」
随分と浮かない顔をしている。それは僅かな変化だが、長い付き合いである美佐子には分かる。
「ウン。よくない話だけど」
「姉さん最近、良い話なんてひとつも持って来ないじゃない」
美佐子は笑った。しかしすぐに真剣なものへと表情を変える。紗代子が身構えたように見えた。
「最近さ、どこに行っても嫌な臭いがすンの」
紗代子の表情が凍り付いた。彼女は美佐子の特異体質を、嫌と言う程知っている。
美佐子には死期の近い者が発する臭いが分かる。鼻がいいだのという類の話ではない。超能力と言うには些かチープな能力に過ぎるし、特異体質と言うしかない。その臭いをどう説明したらいいのかも美佐子には分からない。美佐子の弟二人も、普通に生きて行く上では凡そ役に立つ事もないような能力を持つが、その理由も分からない。少なくとも特殊な性癖を持つ末っ子にとっては、有り難いものなのだろうが。
「それは……」
「皆の死期が近い」
紗代子は目に見えて狼狽した。普段から困ったような顔をしてはいるものの、彼女はあまり驚いたりはしない。
「近々大きな天災が来るのか、人災なのか、私には分かンない。でも確かに、死臭がする」
紗代子は何か知っているのだろうと、美佐子は考える。黙して語らぬ夫の事情も、不気味な街の変化の理由も。それらがどういった事であろうとも、語らないという事は他人に聞かせるべきではない事なのだろう。美佐子はそう思うから、敢えて聞くような事はしない。
「……私には、何も出来ないの」
長い間の後、紗代子は漸くそう呟いた。伏せられた目を縁取る睫は、ここまで伸びるものなのかと思わせる程長い。
「ただ信じて待つだけ」
白魚のような指がカップを持ち上げ、暖を取るように包み込む。思い詰めたような紗代子の表情は、美佐子の不安を煽るには充分すぎた。
「――落首花の話は、宗ちゃんから聞いた?」
唐突な問い掛けに、美佐子は首を傾げる。
「それ、宗ちゃんがこないだ拾った子?」
紗代子が目を見張る。彼女にとって予期せぬ返答であったらしい。その事かと思っていた美佐子はきょとんと目を円くして、忙しなく瞬きを繰り返した。
「どういうこと?」
紗代子の問いに、美佐子は首を捻る。
「あれ、聞いてないの? 関係ないかな。椿ちゃんて子が具合悪そうにしてたから拾って帰ったら、お礼に携帯の番号教えて貰ったとか――」
紗代子は眉を上げたまま、カップを置いて身を乗り出す。徒ならぬその様子に、美佐子は僅かに身を引いた。
「本当? 宗ちゃん、連絡先を知ってるの?」
「え……ウン。そう言ってた」
美佐子自身知らぬ内に誰かが欲する情報を手に入れているのは、職業柄だろうか。人の話を聞く仕事というのは、存外役に立つものなのかも知れないと美佐子は思う。今回はあまり仕事とは関係ないが。
紗代子は椅子に元通り座り直し、リビングの壁に掛けられた時計を見上げた。心なしか表情が和らいでいる。弟が椿という娘の連絡先を手に入れた事に、何の意味があるのだろうと美佐子は思う。
未だ首を捻る美佐子に向き直り、紗代子は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「……ごめんね姉さん、何も説明出来なくて。変に思うでしょう」
美佐子は首を横に振る。怪訝には思うが変だとは思っていない。これが美佐子以外の人間だったなら、確かに変だと感じただろうが。
「さっちゃんとこが色々大変なのは知ってるわよ。よっちゃんも、風邪ひいたって病院行けないもんね」
紗代子は眉根を寄せて、悲しげに表情を歪めた。まともに笑顔が作れない割に、喜怒哀楽の変化は激しい。だから愛想が悪いようにも見えないのだろう。
「あの人、だから昔から授業以外で運動しなかったし、学校へ行く以外は外にも出なかった。そうまでして自衛していたのに、家の中でも危ないなんて……」
美佐子には何も言えなかった。何も問うことが出来ない。ただ拳を握り締めて辛そうに眉を顰める紗代子の言葉を、黙って聞くしかなかった。
「少しの怪我や普通の風邪なら、時間はかかるけど、ちゃんと治るの。でもお医者に行かなきゃいけないような病気や怪我をしたら、どうする事も出来ない」
美佐子は半身をテーブルに乗り出し、俯いた紗代子の顔を覗き込んで苦笑した。
「子供、欲しかったんでしょう」
視線だけを上げて、紗代子は美佐子を見た。今現在の問題がそこにはない事を美佐子は分かっていたが、そう聞く事が今は一番適しているのだと知っている。
実の妹のように慈しんで来た紗代子が、一人で悩んでいる。それなのに美佐子には何もしてやれない。紗代子が悲しむ理由など恐らく誰のせいでもないのだろうし、解決するような問題でもない。義近が伏せっている理由も分からないし、分かった所で、美佐子は自分に何かが出来るとは思えない。
だから美佐子はせめて、紗代子を泣かせてやろうと思った。辛い時は泣くのが一番なのだと彼女は思っている。義近が伏せってしまった今、紗代子を泣かせてやる事が出来るのは美佐子だけだ。
「うん。……欲しかった」
紗代子は肯定だけして、両手で顔を覆う。華奢な肩が震えている。
美佐子は立ち上がって紗代子の頭を抱き、背中を撫でた。嗚咽が止むまで、ずっとそうしていた。
どれ程の間泣いていただろうか。紗代子は漸く目元を拭って顔を上げた。瞼が赤く腫れている。
美佐子は紗代子の頭を子供にするような手つきで撫で、にっこりと笑顔を浮かべる。見上げる紗代子が眩しそうに目を細めた。
「宗ちゃん、そろそろ帰って来る頃よ」
抱き締めていた頭を離しながら、美佐子は言った。紗代子は眉を上げて時計を見る。既に夕刻を大分回っていた。紗代子は頷いて、テーブルの上に置かれていた携帯を取る。
紗代子の憂いが拭えたとは、美佐子には思えない。しかし少しでも、気を楽にしてやれていればいいと思う。このままついていてやりたかったが、美佐子はそろそろ仕事に出なければならない。今日こそ仕事へ行くのだと決めていた。
「じゃあ、私そろそろ仕事行くから」
「あ。……ごめんね、ありがとう」
当初来訪した目的から大分外れてしまってはいたが、紗代子が浮かべた笑みを見て、美佐子はそれでもいいかと思う。椅子から立ち上がって鞄の紐を肩に引っ掛け、玄関へ向かおうとした。
しかし。
「え……何?」
美佐子は我が目を疑った。視界に入った盛塩が、見る見るうちに溶けて行く。塩とは常温で溶けるものだっただろうか。美佐子の視線の先を確認した紗代子は、一気に青ざめた。耳に当てていた携帯を美佐子に押し付け、大きな音を立てて席を立つ。
「宗ちゃんに、落首花に連絡するよう言って!」
滅多に上げぬ紗代子の大声に、美佐子は目を円くした。
「は、ちょ、なんで?」
慌てた様子の紗代子は、美佐子と廊下―― 恐らく夫が寝ているのであろう部屋を何度か見比べて暫く逡巡した後、泣きそうに表情を歪めた。
「義君が……義近が、義近じゃなくなってしまう」
美佐子は耳を疑う。紗代子はごめんね、と一言謝って、廊下へ駆けて行った。
何が起きているのか。美佐子には分からない。けれど、紗代子の言葉の意味を考えているような余裕がない事だけは分かった。
携帯のスピーカーから、耳慣れた弟の声が聞こえる。美佐子は携帯を耳に当て、用件だけを簡潔に伝えて電話を切った。