第五話 笑うしゃれこうべ 五
五
友利竜也は暗雲立ち込める空を見上げて、憂鬱な溜息を吐いた。ピアスが施された眉間に皺が寄っている。風薫る五月だと言うのに、こうも曇り空ばかりでは気分も晴れない。もう梅雨に入りかけているのだろうか。
この所彼はずっと、終電もなくなったような時間帯にしか帰宅出来ていない。タクシーを使う金もない上寝不足気味でもあるのだが、やめられないのは壁の薄い安アパートでギターの練習など出来ない為だ。練習する場を提供して貰えているだけ有り難いと思わなければと、彼は考える。
三十分程歩いただろうか。ようやく自宅近くの墓地まで差し掛かった所で、友利は電柱の陰に身を潜める小太りの男を見つけた。一瞬嫌な想像をする。警察に通報するべきかとも考えたが、男は何故か墓場を見詰めていた。
普段なら友利は、そんな男の事など気に留めはしない。東京で暮らし始めてから変質者や浮浪者の多い事には辟易していたし、彼らが男性に危害を加える事など、滅多にない事も分かっていた。しかし小太りの男は、とてもそういう類の人間には思えなかった。きっちりしたスーツ姿と丸い眼鏡を掛けた丸顔は、真面目で人の良いサラリーマンを思わせる。そんな人間がこんな深夜に、墓場を眺めるとも思えないのだが。
「……あの」
迷いはしたが好奇心には勝てず、友利は男に声を掛けた。声を掛けられて始めて、近付いてきていた友利に気付いた様子の男は、びくりと肩を震わせて顔を向ける。街灯の安い光を眼鏡のレンズが反射して、その表情は窺えない。
「はい! ……はい?」
男は傾いた眼鏡の弦を摘んで、位置を直した。短い首を捻って問い返すその仕草から、男の温厚さが伺える。
「何やってんスか」
男は目から大分離れた眉を困ったように顰めて、頭を掻いた。
「ええ、その……取材です」
「取材?」
友利は怪訝な声で問い返す。
「こんなトコで?」
取材と言うものに大袈裟な撮影機材を抱えてするようなイメージを持っていた友利は、些かばかりの不信感を抱く。確かに男はメモ帳とペンを持っていたのだが、それだけで取材など出来るものなのだろうか。
「はい。この近所の方ですか?」
友利が頷くと、男は心持ち身を乗り出した。
「私は雑誌記者の杉里という者です。妙な噂を聞いたのでここで張っていたのですが、生憎ネタになりそうな事も起きないのです」
雑誌か、と友利は納得する。それならば、機材などは必要ないのだろう。
「噂?」
「はい。なんでも、ここの墓場から夜な夜な死体が出て来て、人を襲うとか」
友利は薄い眉を顰めて首を捻った。そんな荒唐無稽なオカルト話など聞いた事がない。
「聞いた事ないスよ」
友利がそう返すと、杉里は目に見えて落胆した。肩を落として、元々下がり気味の眉尻を更に下げている。怪しくはあるが、悪い男ではないのだろうと友利は思う。都会に出て来てから、警戒心だけは強くなっていた。
「大体、墓場からなんで死体が出て来るんスか?」
杉里は丸い目を更に円くする。愛嬌のある顔立ちだ。
「墓場なんですから、死体が埋まっているんですよね」
「火葬してんだから、死体は埋まってないスよ。埋まってんのは骨。骨がそのへんウロウロするんスか?」
杉里はぽかんと口を開けた。気付かなかったようだ。友利は指摘してしまったことが申し訳ないような気になって、薄い眉尻を下げる。
「で、でも、骨になったって死体っスから。骨が出て来るならおかしく……」
否、おかしい。友利は口に出した事の矛盾に、自分で気が付いた。骨が出てくるか死体が出てくるかなど、問題ではない。死体が出て来る事自体がおかしい。そもそも、死んだ人間は動いたりしない。そんな非現実的なオカルト話が実際にあって堪るものか。出てくるなら生きた人間のはずだ。
しかし幸か不幸か、友利の中途半端なフォローに、杉里は幾分安心したようだった。丸い顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「そうですね、骨ですね」
「そ、そうっスよ」
友利は肯定したが、内心そうじゃないと突っ込む。杉里の方は気付いているのか、はたまた気にしていないのか。
論点がずれてしまっている。そもそも最初から論じてすらいない。オカルト的な噂が立っているから取材に来たと言われただけなのに、何故間違いを指摘した上、フォローまでしているのかと友利は思う。
友利はそういう性格だ。
「ああ、良かったです」
杉里は心底安堵したように息を吐いた。何一つ良くないと友利は思ったが、突っ込むのも可哀想に思えて話を合わせる。
「……でも、本当に出て来たら危ないっスよね。襲われるンしょ?平気なんスか?」
「大丈夫なのです。護身用に包丁を持っています」
ずれている。友利は曖昧に笑いながらそう思う。この男は、どこかずれている。会社の先輩も少々変わっていると思ったが、あれとも少し違う。天然と評するべきなのか愚かと言うべきなのか、その判断はつかないが、人とずれている事だけは分かる。
杉里は友利から視線を外し、再び墓地を向いた。友利もつられてそちらを見る。
「この時間の筈なのです」
言われて始めて、友利は時計を確認した。既に午前二時を回っている。もうこんな時間になっていたのかと、友利は心中驚愕する。毎日仕事には遅刻せずに済んでいたが、明日こそ寝坊してしまいそうな気がしていた。
「この時間?」
「噂では午前二時頃、読経のような声が聞こえ……」
杉里の表情が変わった。目を見開いて墓場を見詰めているが、顔立ちのせいか驚いた狸のように見える。友利は首を捻った。
「どうかしたんスか?」
杉里は答えない。ただ墓場を注視したまま、メモ帳に何事か書き留めている。
邪魔してしまうだろうかと足を踏み出しかけた友利の耳に、唸るような声が届いた。驚愕に目を見開き、友利は周囲を見回す。誰一人歩いてはいない。杉里も何も言っていない。
それは確かに、読経のようだと友利は思う。しかし日本語ではないようにも感じられた。かと言って英語のようにも聞こえないし、そもそも声ではないような気さえする。笛の音であるとも考えられる。読経でも日本語でも英語でも、人の声でも笛の音でもない。或いはその全てが入り混じった音のように思えた。
僅かに聞こえる音は、どこから発せられているのか見当すらつかない。友利は冷たい汗が背筋を伝うのを感じ、肌を粟立たせて身を固くした。
「呪文のように聞こえますね」
杉里の目が輝いている。記者と言うのは危険と向き合うあまり、恐怖という感情すら忘れてしまっているものなのだろうかと、友利は考える。死体が動くには確かにお誂え向きな夜かも知れないと、友利は続けて現実逃避に近い思考を巡らせる。それしか恐怖を拭う方法が分からない。
声がぴたりと止まった。杉里はペン先を紙面に近付けたまま動かない。友利は既に墓地の入り口から、目を離す事が出来なくなっていた。かと言ってここで帰るのも妙な気がする。どうせなら何が起きるのか己の目で確認したいと、友利は考える。
無音の間がひどく心細く感じられ、友利は心持ち杉里に近付いた。背中にブロック塀の硬い感触がある。元々道の端に居たのだが、気がつけばここまで下がって来てしまっていた。
「どうして誰も歩いていないんでしょうね」
杉里の呟きに、友利はぞっとした。
確かにこの辺りは居酒屋が多く、普段は深夜でも疎らながら人通りはある。それが今日は千鳥足の酔っ払いすら通りかからない。
「……!」
友利は悲鳴を上げそうになって慌てて口元を抑え、息を呑んだ。
墓場から奇妙な音が聞こえてくる。それは硬いものを引っ掻くような音であり、誰かが土の上を、足を引き摺って歩いているような不気味な音でもあった。それらが入り混じり、友利の恐怖心を煽る。最早杉里の表情を窺う事すら出来なかった。
友利は深く後悔した。何故杉里に目的を聞いた時点で立ち去らなかったのだろう。好奇心に負けてここに居続けてさえいなければ、こんなものは見なくて済んだ筈なのだ。誰もが恐れるであろう事態が、まさか自分の身に降り懸かるとは友利自身予測していなかった。
職場の先輩の友人だという刑事の言葉が、友利の脳裏をよぎる。全くその通りであった。誰の手にも負えないもの。経済力や社会的地位を抜きにした上でそんなものがあるなどと、彼は今まで考えもしなかった。
墓地を囲むブロック塀に、向こう側から手が掛かる。こちら側に覗く指先は色素が抜けたかのように白く、僅かに汚れている。友利にはそれが乾いた血のように思えたが、実際は土だったのかも知れない。
墓場の入り口から音がする。誰かが歩いて来る。何かが近付いて来るような気配すら感じられたが、友利は塀をよじ登るものから目を離せずにいた。
土で汚れて乱れた蓬髪が覗く。現れた顔は、虚ろな目で友利を捉えたような気がした。生者とは思えぬ程血の気の失せた顔。それは間違いなく、死体であるのだろう。友利は一昔前に流行ったゲームを思い出す。
友利が抜けた思考を巡らせてしまうのは、余裕である事が理由ではない。余裕などない。友利は恐ろしくて堪らない。この現実から逃げたくて堪らないのだ。これは現実ではないと、いっその事、頭から否定してしまいたかった。
「あなたには、帰って頂いておくべきでした」
発言した杉里を見ると、彼は布に包まれたものを懐から取り出していた。形状から察するに、護身用と言っていた包丁だろうと友利は推測する。この温厚そうな男がそんなもので、あの死体相手に何か出来るとは、友利には到底思えなかった。
「私があれを刺したら、すぐに逃げて下さい」
「す……杉里サン? 何すん……」
街灯に照らし出された包丁はよく手入れされているようで、鈍い光を放っていた。杉里の纏う空気が一変する。
友利は原始的な感情から来る恐怖に、身を竦ませた。
杉里の表情は、友利の位置からは窺えなかった。塀から這い出して来ていた生ける屍は、上り切ったところでアスファルトの道路に飛び降りる。友利の右側、墓地の入り口からは顔色の悪い人々が五、六人向かって来ていた。だらりと両手を下げた姿勢の死人達は、虚ろな目をしたままゆっくりと歩いている。
杉里はいつの間にか、塀から降り立った死人の髪を握っていた。友利は我が目を疑う。ついさっきまではすぐ隣にいた筈なのに、あの鈍くさそうな男がいつの間に移動したのか。
掴んだ髪を引き寄せて何の躊躇いもなく死人の喉元を包丁で切り裂いた杉里は、素早くそれを逆手に持ち替えて切っ先を脳天に突き立てた。嫌な音が響くが、友利にはそれが何の音なのか分からない。屍から力が抜けて行く。地面に崩れ落ちた死体を放置して、杉里は友利のすぐ近くまで迫った死人の群れに飛び込んだ。
友利は息を殺して、繰り広げられる惨劇に目を奪われていた。逃げる事も出来なければ、その場から動く事も出来ない。
杉里の短い足が先頭に居た死人の腹にめり込む。骨の折れる鈍い音がして、屍が血を吐いた。死んでいても血など吐けるものなのだろうかと、友利はぼんやりと考える。現実を現実として受け止められていない事は、友利自身分かっていた。
杉里は血を吐いて倒れた死人の頭を、靴の踵で踏みつけた。傍目にはそう力が入っているようにも見えなかったが、踏まれた頭が弾ぜて脳漿が床に飛び散る。友利はその光景に吐き気を覚えて、口元を掌で覆う。
杉里は頭を破壊すると同時に、別の者の顔に包丁を突き立てた。瞼から額に渡って差し込まれた刃を抜いた拍子に、せり出した眼球が視神経を繋げたまま零れ落ちる。杉里は前方にぐらりと倒れ込んだ死体の頭を掴んで、また別の者の頭に力任せにぶつけた。衝撃で既に額を割られていた方の屍の目から脳髄が零れ、両者共地面に倒れ伏した。僅かに垣間見えた杉里の口元が笑みの形に歪んでいる事に、友利は漸く気付く。
杉里は確実に、死体の頭を破壊して行った。ゲームと同じだ、と友利は思う。杉里は最初からその方法を知っていたのだろうか。それとも、偶々狙うのが頭だったというだけの事なのだろうか。どちらにせよ、杉里がこの状況を楽しんでいるという事だけは、彼にも分かった。
出会ってはならぬ過。
関わってはならぬ殺人鬼。
あの刑事は、承知しておけと言った。しかし実際目の当たりにしなければ、そんなものを承知などしようもない。今この惨劇を目の当たりにしてやっと、友利は刑事の言葉の意味を理解した。
全ての死人の動きを止めた杉里が、ゆっくりと友利を振り返る。脳裏をよぎる死という文字。これは自分の味方ではないと、彼は瞬時に理解した。
気がつけば、頭より先に足の方が動いていた。絶対的な殺戮者の気配を背後に感じながら、友利は自宅に向かって疾走した。




