第五話 笑うしゃれこうべ 四
四
九重の表情には、病院に到着して尚、変化がなかった。思案するような難しい表情で、片手をポケットに突っ込んだまま国定と佐島の少し後ろを歩いている。喪服姿の彼に、廊下で擦れ違う人々は皆一様に訝しげな視線を向けた。九重自身はそれに気付いているのかいないのか、傍目には判然としない。
仮に気付いていたとしても気にするような男ではないから、国定は何も言わなかった。今冗談など言おうものなら、間違いなく鬼の形相で睨まれるだろう。それが嫌な訳ではないが、頼み事をしている相手に対して神経を逆撫でするような事は、言うべきでないと国定は思っている。
「ん?」
湿っぽい空気が充満した地下にある一室。扉を開くと、簡易ベッドの傍らに立ち尽くしていた女が振り向いた。遺体安置室で待っていたのは、今にも泣き出しそうな表情の長見だった。途方に暮れたように国定を見上げる黒目がちな目が潤んでおり、国定は子犬を連想する。
到着して早々の気まずい空気に、佐島は国定と長見をおろおろと見比べる。九重が怪訝に眉を顰めた。
「け、警視……」
「何だ情けない顔して。珍しいな」
デリカシーねえな、と低く毒吐く九重の声が佐島の耳に入る。ここに来るまでの真剣な表情は一体なんだったのかと佐島は思うが、静かなその声には同意せざるを得ない。国定に空気を読めと言っても無理な話ではあるが。
「い、遺体……遺体がっ……!」
長見は必死の形相で訴える。しかし国定は表情を歪めるばかりで、真剣に取り合う様子もない。そういった男なのだ。誰がどんなに慌てていても、実際に問題を目の当たりにしなければ慌てない。国定は妙に冷めたところがある。
「遺体がなんだよ。何か喋ったか?」
国定は扉から手を離して、薄暗い室内に足を踏み入れた。閉まりかけたドアを佐島が慌てて抑え、九重が通れるだけ体をずらして道を開ける。
「違います! ……とにかく見て下さい」
全力で否定した後、長見はその場から退いた。顔に布を被せられた遺体は、一見何の変哲もないように見受けられる。国定はマスクを外しながら首を捻って遺体に歩み寄り、布を退けた。
「……おい長見」
国定は眉間に皺を寄せたまま、長見に顔を向ける。近付いてきた九重が遺体の顔を覗き込み、苦虫を噛み潰したような表情になった。佐島は遺体を見る事が出来ない。
「瞼が開いてるじゃないか」
国定の発言に、九重が溜息を吐いた。長見は口を半開きにして絶句したが、すぐに我に返って眉を吊り上げる。
「だから開いたんです、ソレが!」
怒鳴るような長見の声に、佐島が肩を震わせた。逐一臆病な男なのだ。
国定は首を捻って顎を撫で、詰まった鼻を鳴らす。別段驚いてもいないような素振りだ。感情の変化に乏しいのではなく、それをそうと受け止めるだけ、彼は不可思議な体験をしてきた。
黙り込んだ九重は、鋭い目つきで国定の肩越しに遺体を注視したまま微動だにしない。
「閉じた方がいいか?」
国定は九重を振り返って、主語の抜けた問いを掛けた。九重は視線を死体から国定へと移して目を細める。
何かが起きている事は、国定にも分かる。それが何なのかは凡そ理解の及ばぬ範疇の事ではあるが、得体の知れぬ犯人を追う事になら、既に慣れていた。肝が据わったのではなく、開き直りなのだと国定は自覚している。開き直りでもしなければ、胡散臭い現実をまともに受け止める事など出来ない。
「やらせる気か」
「その為に来たんだろう」
国定は努めて静かにそう言い返した。九重の表情が渋いものに変わる。
「……何が起きても知らねえぞ」
数秒の間の後、九重は国定の横をすり抜けて簡易ベッドの端にメイクボックスを置いた。長見が身を堅くする。国定は怯えた表情の長見へ視線を移す。
「長見、佐島と外に居ろ」
訴えかけてくるような目が、恐る恐る上げられる。国定は不安げな長見に、口元に笑みを浮かべて見せた。それは凡そ見た者が安心出来るような表情ではなかったが、長見は何も言わずに頷いて、佐島が開けた扉から外へ出た。
しかし佐島は、視線を落としたまま後ろ手で扉を閉めた。国定は肩越しに彼を見る。
「君はいいのか」
佐島は顔を上げて曖昧に笑った。
「お二人に何かあったら、長見先生と紗代子さんに怒られそうっすから」
「なんでそこで長見が出てくるんだ」
佐島の笑みが苦いものに変化した。遺体の顔に刷毛を滑らせていた九重が、視線を落としたまま喉の奥で笑う。国定は尚の事、怪訝に眉根を寄せた。
「まあ、いいじゃないすか」
「てめえのそりゃ犯罪だな」
小馬鹿にしたような九重の声に、国定は目を細める。二人の言わんとしている事が、彼には分からなかった。ただそこで、国定は気付く。
九重の手が、震えている。
「……おい、大丈夫か」
九重は顔を上げなかった。その声に反応する事もなく、遺体の顔に白粉を叩く。それは注意して見なければ分からない程僅かな振れ幅であったが、作業する彼の姿を何度も見てきた国定には分かる。何もなければ震える筈などないのだ。
佐島は怪訝な表情で九重の背中を見た。喪服を纏った猫背は、普段とそう変わらない。
しかし佐島は突然、不安に襲われた。国定が他人を心配する事など稀で、少なくとも佐島は見た事がない。更に相手は九重だ。部下なら兎も角、国定が絶大な信頼を置く――少なくとも佐島はそう思っている―― 彼に、無用とも思える心配などするだろうか?
九重の額に汗が浮いている。最早明白に苦しげな表情を浮かべていた。とうとうその手が止まる。
彼が今回の事件について何かしら掴んでいる事には、国定も感付いていた。国定がそれについて聞かなかったのは、聞いても答えないだろうと思ったから。また、あれほど何かに敵意を剥き出しにする九重を見るのも、苦しそうな紗代子を見るのも始めてだった。だから気後れしてしまった節もあったのかも知れない。
逆に聞いていたら、どうなっていただろうか。九重は答えてくれていただろうか。答えていたとして、それはどういった内容だったのか。九重夫妻の表情を見る限り、彼らにとって良くない話である事だけは分かった。国定の頼みに即答したのも、言いたくなかったからなのだと彼は判断した。
そうではなかったとしたら、と国定は考える。彼らが掴んでいる事が仮定段階の話で、それを確定させる為に、依頼に応じたのだとしたら。
聞いておかなければならない内容だったのだとしたら。
「……駄目だ」
九重は白粉をメイクボックスに入れ、よろめくように一歩後退した。眉間に刻まれた皺が深くなっている。
国定の目には、全てがスローに見えた。
九重が離れた瞬間、閉じた筈の遺体の目が見開かれ、その口が裂けてしまいそうな程大きく開いて残忍な笑みを浮かべる。
遺体の真っ白な腕が、九重に向かって伸びて行く。
屍は小指の欠けた手で九重の肩を掴むと、同時に起き上がる。国定はそこで漸く、目を見開いた。九重は振り払う動作すらしなかった。
更に後退する九重の肩を握り締めたまま、屍がベッドから足を出して床へ下りる。被せられたシーツが落ちた。傷跡だらけの体には左足が無い。
屍の両手が九重の首に伸びる。
「退いて下さい警視!」
俯いていた筈の佐島が、国定のすぐ後ろまで迫っていた。反射的に避けた国定の横をすり抜け、佐島は九重の首に伸ばされた屍の腕を掴む。屍は動じない。
佐島はその手を力一杯引き寄せて、背中を向け――壁に向かって投げ飛ばした。
「佐島……」
見事な一本背負いであった。
呆然と呟く国定の声に、佐島はそちらを見て気の抜けた笑みを見せた。肩で息をしている。冷たい腕を掴んでいた手が震えている事を、佐島は自覚していた。壁に頭を打ち付けた遺体は、最早動かなくなっている。
安堵したかに思えた国定の表情が、再び凍り付く。何かが倒れる音。佐島は弾かれたように振り返る。
血の気の失せた顔で床に倒れ込んだ九重が、そこにいた。