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化粧師  作者:
22/31

第五話 笑うしゃれこうべ 三

  三


 微かな寝息が聞こえる。ベッドに横たわる娘は血の気の失せた瞼を閉じて、静かに眠っていた。繊細な硝子細工のように儚げな美貌は、触れただけで砕け散ってしまいそうに思える。これが浮世の闇に潜むシリアルキラーであるなどと、誰が想像するだろう。

 楡は昏々と眠り続ける落首花から目を逸らした。自室を出て階下のリビングへ続く階段を降りて行く。まさか殺人鬼を保護する事になろうとは予想だにしていなかった。予測出来る者もいないだろうが。お陰で寝床の心配をする前に、すっかり目が覚めてしまった。

 楡はソファへ腰を下ろし、身を乗り出してガラステーブルに無造作に置かれた煙草の箱を開く。中から爪の先で一本摘み、片手で器用に抜き取った。

 抜いた煙草に火を点けながら、ソファの背もたれに頭を乗せる。何故拾ってしまったのだろう。楡は忘我の表情で、二階で眠る娘を思う。

 猫の声で、目を覚ましたのだ。発情期の猫の鳴き声とも違っていた。さて野良猫が腹でも空かしているのかと出てみれば、玄関先に居たのはあの娘だった。居たというよりは、行き倒れていたと言った方が正しいだろう。

 慌てて、と言うよりは、喜び勇んで駆け寄った。

 もし死んでいたなら。死んでいるのなら、楡のものになる。美少女の死体など如何に楡が一週間に一度は死体を見つけるといえども、そうそうお目にかかれるものではない。

 しかし彼女は生きていた。春も終わるというのにその体は死人のように冷たかったが、辛うじて呼吸をしていた。緩やかなアーチを描く下がり気味の眉を、苦しそうに歪めて。

 生きている。

 そう認識した瞬間、楡には何故か、あの娘が可哀想に思えた。助けを求められる者もおらず、一人で苦しんでいた彼女が。そう思った時には既にその体を抱えており、足は自室へと向いていた。意識がないというのに、落首花の体は恐ろしく軽かった。それがまた、楡の同情を誘った。

 あれは一体何なのか。楡はテーブルから灰皿を取って膝に置き、その上で煙草を弾く。

 明治から平成の今までを生き続ける不死身の化け物。

 不老不死の殺人鬼。

 史上最悪のシリアルキラー。

 そのどれも、あの娘を例えるには相応しくないように思えた。だって、あんなにも――

「可愛いし」

 楡はぽつりと呟く。その声量は蚊の羽音にも負ける程小さなものだったが、静寂で満ちた室内にはよく響いた。楡はソファの背もたれの上で首を傾げる。

 彼女は心臓を糧としているのだと言っていた。それしか食えないという事なのだろうか。中々考え辛い事だが、彼女が人間ではない事など明白であるから、それはそれで納得してしまう。

 人間でないなら、何なのか。

 考えても仕方ないと、楡の幼馴染などは言うだろう。考えても自分は頭が悪いから、納得の行く答えなど見つかる筈はないと彼は分かっている。別段本人に聞きたいとも思わないのだが。

 楡は煙草を消して立ち上がった。

 何であるかなどどうでも良い。楡など少しでも頭のいい人間の事ですら、何なのかと考えてしまうのだから。楡の思う頭のいい人間、その最たる例が実父なのだが、彼は父が苦手だ。父から逃げたいが為に姉と共に上京してきたと言っても過言ではない。向こうも恐らく、楡を好いてはいなかっただろう。

 しかし楡はそれを悲観するつもりなどない。父に好かれたいと思う事も、昔からなかった。冷めているのでもない。父が己を好かないから、他の人間が自分を好いてくれるのだと彼は思っている。

 台所へ入り、楡は流し台に置かれたコップに水を汲む。飲み物に拘りはない。一番近くにあるからというただそれだけの理由で、彼は作り置きの麦茶より水道水を選ぶ。飲めればいいのだ。飲みたい時にそこにあって飲めさえすれば、青汁だろうがメローイエローだろうが、彼は拘わらずそれに手を伸ばす。面倒な訳ではなく、そこにあるからそれを選ぶ。ただそれだけの事だ。それにしろ女にしろ、然して変わりはない。

 女なら誰でも構わないのだ。強く惹かれるような女など、今までに出会う事がなかった。ただ死体は腕を落とそうが、腹に穴を空けてそこに突っ込もうが怒らないから、好んで交接するだけだ。

 だから厳密に言うなら、楡は所謂ネクロフィリアとは違う。守備範囲内に死体が存在するだけだ。十五歳以下の少女と今にも死にそうな老婆以外なら、抱ける自信はある。

 惚れた腫れたと選り好みをするからあぶれる。顔だの頭だの金だのと世間は言うが、そんな事は楡にとっては些末な問題だった。ただ自らが選択する上で、顔と胸は見るけれど。

 但し怒られる事は嫌いなので、既婚者だけは相手にした事がない。あれほど美しい幼馴染に食指が動かなかったのは、その為かも知れないと楡は考える。たとえその気を起こしたとしても、彼女は楡など相手にはしないだろうが。

 或いは、そうではないのかも知れない。

 楡は冷蔵庫に凭れて、視線を床の上へ泳がせた。鮮やかなピンク色のマットは姉の趣味だ。

 今更初恋がどうのと甘酸っぱい事を考えるつもりはない。それに彼女を引き合いに出す程、楡は愚かでもない。ただ己のこれは何が原因なのだろうかと考える。恋という感情をどこかに置き忘れてきてしまった原因を。

 何れ愚考に過ぎぬ。

「ん?」

 二階から物音が聞こえた気がして、楡は天井を見上げる。彼女は起きたのだろうか。

 首の後ろを無意味に掻いて、楡は持ったままだったグラスをシンクに置いた。台所を出て階段を上り、自室の扉を開ける。暗闇の中、落首花は半身を起こして窓の外を見詰めていた。

「大丈夫?」

 楡の声に振り返ったその顔は、相変わらず紙のように白かった。具合が悪いせいではなく、元々この色であったのかも知れぬ。近くで見た事はなかったから、楡には判断がつかない。不健康な街の明かりに照らし出され、淡く発光しているかのように見えた。

「拾ってくれたのね」

 娘は猫のような目を細めて笑った。背筋を寒気ではない何かが走る。薬でも嗅がされたようだった。頭の芯が霞む。

 最早娘には見えない。これを娘とは呼ばぬ。

「椿と呼んでくれる?」

 楡の思考を見透かしたように、古手川椿は優しげな声で言った。甘えるような響きですらある。桜色の小さな唇が、緩やかに弧を描いた。

 これは誘われているのだろうかと、楡は考える。そのつもりならば、それでも構わぬ。

 楡は後ろ手で扉を閉め、真っ直ぐにベッドへ近付く。否それよりも、抗いようがなかった。頭の芯が沸騰したように熱く、ぼんやりとする。覚えのあるような感覚だったが、あれとも違うと楡は思う。あちらは機械的に思考を奪うものだったが、こちらは悪魔のように、頭と言わず思考と言わず、体中を侵食する。

 ベッドに膝を乗せて屈み込む楡に、椿は伸び上がって顔を近付けた。鼻先を芳香が擽る。異様なまでに赤い舌が、薄く開いた楡の唇を舐めた。頭の中が霞む。

「後悔しないでね」

 椿は甘やかな声音で囁く。言葉の意味を考えているような余裕が無い。

 ――嗚呼。


 不健康なまでに白い肌には、僅かなくすみすら見当たらない。形の良い小振りな乳房も薄い背も、浮き切っていない鎖骨のラインすら娘のそれだったが、彼女は娘ではなかった。馴れた手つきで煽り誘い爪を立て、やさしく責め立てては追い上げ、絞り上げる。喉を震わせて猫が鳴くような声を上げる度、桜色の唇から覗く真っ赤な舌。悩ましく顰められた細い眉。丸められた足の指先。それ自体意思を持ったかに絡みつく濡れた肌。未だかつて味わった事が無い程の快楽。終いにはまだまだと、彼女は笑った。濡れた瞳が金色に輝いているように思えた。


 楡は我に返って真っ先に後悔した。散々絞り取られてしまったような気がする。最早起き上がる気力もない。

「ご馳走様」

 華奢な肩が毛布から覗いている。椿は天使のように無垢な笑みを浮かべ、そう言った。今の今まであられもなく媚態を晒していた女とはまるで別人のようなその微笑に、楡はしかし気の抜けた視線を向ける。意図した表情ではなく、体に力が入らないのだ。

「吸い取られた気がする」

「吸い取ったもの」

 楡は怪訝に眉を寄せたが、なんとなく分かっていたので、何をとは聞かなかった。代わりに込み上げた欠伸を噛み殺す。ひどく疲れている。

「元気だね」

 椿は意外そうに目を円くした。

「聞かないの?」

「聞いてもどうせ答えないだろ」

 真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下で、猫のような目が伏せられた。長い睫毛が揺れる。

「そんな事言ったの、あなたで二人目よ」

 独り言を呟く程度の声量ではあったが、懐古するような響きだった。その僅かな表情の変化に、楡は俯せのまま組んだ腕に乗せた頭を傾ける。

「好きな人いるの?」

 間抜けな問い掛けだと、楡は自分でそう思う。いつだったか国定が、明治から生きている女を年頃とは呼ばないなどと言っていた。その通りなのだろうと楡も思う。けれど、聞かずにはいられなかった。少なくとも今目の前にいるのは、彼にはただの娘に見えた。忘れた訳でもないし忘れられるとも思えないが、既に先程までの事はどうでもよくなっている。

 椿は少し笑った。

「いたわ。もういなくなっちゃったけど」

「死んだ?」

「そう」

「殺したの?」

 椿は楡を見なかった。直接的な問いに嫌な顔をするでもなく、彼女は背中を丸める。猫が丸くなるような仕草だ。

「そんな所よ」

 楡は気の抜けた声でふうんと呟いた。

「寂しい?」

 楡にとってそれは他愛のない質問だったが、椿は表情を堅くした。しくじった、と彼は思う。

 しかし次に椿の口から出たのは意外な言葉だった。

「……あなた達を脅した時は、本心だったの。彼には因縁があったけど彼自身に恨みはないから、ちょっと遊んであげようと思っただけ。あの時は気がつかなかったし」

 唐突な告白だったが、語りたいのだろうと推測して、口は挟まなかった。椿はそんな顔をしている。

 楡は自らの手でバラバラにした女を思い出す。

「二度目は本当に腹が立ったから。だからわざわざあの家に潜り込んだんだし、あなたに死体を見つけさせもした。彼気付かなかったから、結局あたしが出たけど」

 そういえばあの時は、白骨死体を見つけたのだと楡は考える。死体の事しか記憶していない。柱が崩れたのは偶然ではなく、椿が細工したからだったのだろうか。

「そこで彼があの子だって気付いた。それまで気付かなかったのよ。知らなかったの、まさか生きてるなんて」

 椿の言う『彼』も『あの子』も、楡は知らないし知りたいとも思わない。ただその口振りから、その人物が彼女にとって大事なものである事だけは分かった。

「三度目は、助けたかったから」

「誰を?」

 椿は答えない。

「沼津君の夢枕に立ったのは、国定君に本腰入れさせる為」

「あんたが関わると国さん目の色変わるからね」

「そう。父親と同じね。理由は違うけど」

 その理由が何なのか、楡は知らない。もっとも彼は国定の父親についてなど警視監である事しか知らない。そもそも警視監というのがどの程度の地位であるのかさえ分からないし、他人の父親の事など知りたいとも思わない。だからそれも聞かなかった。結局楡にとってはどうでも良い話なのだ。

「あなたが探してた死体が埋まっていた場所に蛆を集らせたのはあたし。あの時死体がちゃんと喋るようにしたのも」

 また楡の知らない話だ。

「四度目は、守りたかった。身勝手だって分かってるけど、せめて守ってあげたい」

 楡は、二度は聞かなかった。言うだけ言って、こちらが聞けば答えない事など分かりきっている。ただ話の内容が、少々意外なようにも思えた。

 椿は結局、寂しかったのかも知れない。言い訳染みた発言を繰り返すのも、誰かに気付いて欲しかったからなのではないか。そう考えると、楡には椿が哀れに思えて仕方がなかった。彼女が守りたいと思う者など解らない。少なくとも楡ではないのだろうし、誰であるかなど、どうでも良い範疇の事だった。

「それ、俺に言うのが始めて?」

 椿は小さく頷く。ならば椿が守ろうとする者は、それを知らないのだろうか。

「でもあの子は気付いてたわ。多分、最初から」

 椿は視線だけで楡を見上げた。底の見えない深遠に、吸い込まれてしまいそうな気さえする。

「ねえ、死体が沢山ある場所を探して頂戴」

 へ、と間抜けな声を出して、楡は目を円くした。脈絡が全くない。

「見付けたら呼んで。今日は寝なさい」

 椿の掌が、楡の目に被される。その手は体温を忘れたかのように冷たい。しかし楡は何故か安堵感を覚えて、瞼を落とした。


 その後の記憶はない。翌朝起きてみたら椿はおらず、そこに居たという痕跡すら残されていなかった。ただ恐ろしく疲れていたので、夢でない事だけは確かなのだろうと楡は考えた。

 楡はベッドから半身を起こして大きく伸びをし、その勢いに任せて立ち上がった。どんなに疲れていても、働かなければならぬ。それを苦痛とは思わないが、強要されているようで楡は嫌だった。

 考えていても仕方がない。動かなければ何も出来ないし、働かなければ飯は食えない。

 次の休みに少し歩こう。そう考える。気位の高そうな彼女が自分を頼ってきたなら、できる限り応えてやりたいと思う。

 そしてそう思う理由が、楡には分からない。


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