第五話 笑うしゃれこうべ 二
二
そんなものは見れば解る。すぐ横で遺体の状態を報告する鑑識に、大きなマスクで青白い顔の半分以上を覆った国定幸雄は、心中毒吐いた。分からない方がどうかしている。しかし彼のその思考は、ただの八つ当たりに他ならない。
今やビニールシートに覆われた遺体は、惨たらしいとしか形容のしようがない程酷い有り様だった。投げ出された腕に絡みついた、大きく抉れた腹腔からはみ出した、細長い臓器。手足は本来ならば有り得ない方向に曲がり、折れた骨が皮膚を突き破って露出した上、指が何本か、刃物で切り取られたような形で欠損し、頭の傷は顔にまで達して、柘榴のように割れていた。頭から零れた脳髄が、辺りにばら撒かれている。昼間でも薄暗い路地に血の海の中打ち捨てられた遺体は、野犬にでもやられたのかと勘繰ってしまうほど、ひどい状態であった。国定は憮然たる面持ちで平然と死体を眺めていたが、百戦錬磨の刑事達が何人か吐いた。
こんな死体が、ここ一ヶ月で何体出ただろう。最初は喜んで現場に直行していた国定も、あまりの多さに呆れかえるばかりだ。惨殺死体を見飽きるなど、前代未聞である。
「――っぶし!」
国定は盛大にくしゃみした。まさか今更花粉症にやられるとは、国定自身予想だにしていなかった。
細い狐目の大半を占める白目が、真っ赤に充血している。マスクの下はとても他人には見せられないような惨状で、いくら捜査を進めても一向に進展しない猟奇殺人事件と共に、彼の神経を逆撫でする要因となっている。
「修復出来るかな、これ」
鼻声で呟きながら遺体の側へ屈み、国定はブルーシートの端を捲った。割れた頭から血濡れの脳髄が覗いている。紙のように青白い顔からは眼球が抉り取られ、赤い眼窩を露出させていた。
国定は真っ赤に充血した目を、どこか嬉しそうに細める。惨殺死体を見飽きたとはいえ、国定の特異な欲望を満たすには、この遺体は充分すぎる姿をしている。ここまで来ればもう、遺体の性別などは彼にとって関係ない。見られればいいのだから。
「いくら長見先生の腕がいいからって、これはちょっと……第一、内臓がかなり欠損していますよ」
国定の独り言の意図を汲んだのだろう。応えた北見衛は、途方に暮れたように溜息を吐いた。
北見はこの所ずっと、現場と本庁を往復するだけのような生活を送っており、殆ど家に帰れていない。一日出ずっぱりの割に、日付が変わる前には帰宅出来ている国定などはマシな方だ。無理矢理帰っているような節もあるが、今のところの捜査は鑑識に任せきりで、彼がする事もないのだ。
北見の柔和な目の下には、うっすらとした隈が見て取れた。まだ四十台前半の割に白髪が目立つのは、ストレスの為だろうか。国定は北見を見る度、申し訳ないような気分になる。
「声帯が残っていれば、なんとかなるだろう。腹は入念に修復して貰わな――」
国定はまた一つ、くしゃみをする。元の声が分からない程、鼻が詰まっていた。
「鬼ですか警視……長見先生、かなり疲れてらっしゃいましたよ」
国定は意外そうに眉を上げた。
「あの長見が? 三度の飯より死体弄くる方が好きな女が?」
「嗜好と体力は別物です。立て続けにこんな遺体が出たら、長見先生だって疲れますよ。かと言ってこんな遺体、他のエンバーマーには任せられませんし」
かく言う北見も、相当疲労している。
「こんなもの修復出来るのは、長見くらいですからね」
最初の死体発見から、約一ヶ月が経過していた。既に各々疲弊しきっており、捜査に支障が出始めている。しかし手掛かりは一向に出て来る気配もなく、被害者がこれだけ派手にやられているにも関わらず、目撃者すら現れない。口を噤んでいる可能性もあるが、そんな事をしても何の得にもならぬ。
この件の担当で元気なのは国定と、体力が有り余っている佐島ぐらいのものだ。国定はともかく、佐島が元気な理由は他の事も起因している。
「……そういえば佐島は?」
国定は周囲を軽く見回した。先ほどから佐島の姿が見えない。というよりも、現場に到着してから一度も見ていないような気がする。佐島の事など注意して見てはいないから、視界に入っていなかっただけという可能性もあるが。
その上国定の視野は今、極端に狭くなっている。花粉症でさえなければ、と国定は思う。花粉症でなければ捜査が進むのかと言われればそうでもないが。
「佐島君はあっちで吐いてます」
国定はあからさまに嫌な顔をした。この事件の担当になってから、佐島はもう、何度吐いただろう。いい加減見慣れてもいい頃だろうと国定は思うが、一般的な観点から考えると、そういう問題でもない。国定に標準的な思考を求めても無駄なのだ。
「どうしていつも、誰も呼んで来ないんですか。仕事なんですよ、仕事。これくらいで吐いてるようじゃ、刑事は務まりません」
これくらいと国定は言うが、これほどの遺体が頻繁に出る事などそうそうない。
「それが、見てるとなんだか不憫に思えてしまって……」
申し訳なさそうに頭を垂れた北見に、国定はしかし、両の眉尻を吊り上げた。
「哀れんでる場合ですか。木偶の坊より被害者哀れめ被害者」
憤慨した様子の国定は、立ち入り禁止のテープを潜って大股で路地から出た。野次馬を掻き分けながら見渡すと、薄汚れたビルの壁を向いて、蹲る刑事の姿が目に入る。丸まった背中に悲愴感を漂わせているが、国定はそんな事には頓着せず青年に近付いて、思い切り頭を引っ叩いた。
「痛っ! ……何するんですか警視、痛いじゃないすか!」
「痛いじゃなくて遺体の事気にしろ。何やってるんだよ君は、遊んでる場合か」
涙目で国定を見上げた佐島奏太は、青く変色した顔を歪めて、吐き気を堪えるように口元を掌で覆った。遺体の惨状を思い出したようだ。
「うえ……もうホント、自分には向いてないす。書類仕事が性に合ってます」
「情けないな君は。図体ばっかりでかいくせに」
「体は大きいけど心は小さいんす」
「自分で言うな」
国定は呆れた表情で溜息を吐いた。この有様でよく刑事を辞めないなとも思う。
「もう嫌っすよ一課は。警視と違って自分、人の心持ってますから。三課にでも行きたいっす」
「ああ、そっちの方が向いてるだろうな」
情けない声を上げた佐島に、国定は冷たく言い放った。佐島のさりげない失言には気付かなかった振りをする。
「そんな所で油売ってる暇があるなら、そこに湧いてる野次馬に聞き込みでも――」
国定は発言の途中で振り返った。人垣を分けて北見が近付いてくる。国定は顔を上げて、体を北見に向けた。
「国定警視。今、長見先生から連絡がありました。一番欠損が少なかった犠牲者の修復、終わったそうです」
「やっとか。……おい佐島」
ぐったりとした佐島が、蹲ったまま顔を上げた。北見は哀れむような視線を向けるが、国定は再び嫌な顔をする。
「情けないな君は。九重の尻叩きに行くから車出せ」
佐島は暫くその台詞を頭の中で反芻していたが、意味を理解した途端勢い良く立ち上がって敬礼した。顔色が元に戻っている。
「了解しました!」
国定は瞬く間に立ち直った佐島を呆れた目で見ていたが、困ったように立ち尽くす北見を振り返って、苦笑した。
「警部も少し、休んで下さい。ご自宅はこの辺りでしょう。せめて鑑識の仕事が終わるまで」
北見は苦笑いを浮かべて、国定に軽く頭を下げた。態度こそ冷淡だが、国定は部下をしっかりと見ている。頼まれたら断れない性質の北見が酷使されている事も、恐らく知っているのだろう。
年下の上司だが、北見が国定を憎めないのはその為だ。
国定がまた一つ、大きなくしゃみをする。苦虫を噛み潰したような表情だ。佐島は意気揚々とパトカーに乗り込み、国定を急かす。尾を振る犬のような佐島の様子に、国定は深く溜息を吐いた。
九重紗代子は、目一杯に本が詰め込まれた書架を整理していた。その背表紙は殆どが真っ黒で、日本語で書かれている事すら稀である。これらの持ち主である彼女の夫は、相変わらず絶え間なく煙草を吹かしながら人形の顔を描いている。器用な男なのだ。紗代子は商売道具を焦がす心配より、本人の肺の方を心配している。
部屋の四隅に盛られた塩を見て、紗代子は柳眉を顰めた。作業台のちょうど上にある窓は真っ黒な布で覆われている。近頃は家から出入りするのにも気を遣わなければいけない。
何故こうなってしまうのだ。
紗代子は心中溜息を吐く。彼女の子であるからなのか。少し他人と違うからか。しかしその疑問に正確に答えられる者は、存在しないだろう。
「ねえ」
猫背で丸まった背中に声を掛けると、夫は振り向いて紗代子を見た。吐き出された煙草の煙の向こうで、浅黒い精悍な顔が、僅かに歪む。不安げな紗代子の様子に気付いたのだろう。実際、彼女はそんな顔をしていた。
「怖くないの?」
九重義近は灰皿に煙草を押し付けて揉み消し、妻に向き直った。紗代子の稀有な美貌が悲しげに歪んでいる。九重は前髪を掻き上げて、息を吐いた。
ここ最近ずっと、仕事だけに専念していたのは、不安を忘れたかった為だ。夜中まで作業に没頭した挙句、そのまま寝てしまう事もままあった。お陰で消えかけていた隈がまたうっすらと浮かんで来ている。
紗代子はフローリングの床に膝を着いて、真っ直ぐに夫を見据えた。大きな目からは感情が窺い辛い。それを読み取れたのは昔から、九重だけだった。単に、他の幼馴染が鈍いだけだったのかも知れないが。
「怖えよ」
意地を張るのも馬鹿馬鹿しく思えたので、そう言った。例え嘘を吐いて誤魔化したとしても紗代子は責めたりしないが、真意がばれる事には変わりない。
「折角お前が帰って来たってのに、みすみす死ぬのは怖え」
死ぬ事が恐ろしい。
それは全ての生物が生まれた時から持つ感情であり、原始的な本能だ。死なない為に生きている。どんな小さな虫であろうと、本能的に逃げようとする。忌避すべき死という現象はしかし回避する術がない。精々逃げ回って先延ばしにする位が関の山なのだ。悪足掻きであろうとも、逃げずにはいられない。
否。
恐れているのは死ではない。
それよりもっとずっと、遥かに恐ろしい事だ。それは九重だから恐れる事であり、万人の身に降りかかるような事ではない。しかしこうなった以上、いつかは必ずそうなると推測されるから、恐ろしくて堪らないのだ。
紗代子は唇を引き結んで、指先を握りこんだ。華奢な拳が白く変色している。
「だから彼女は、止めに入ったのね」
「あいつの考える事はわかんねえよ。あれから音沙汰ねえし、直接コンタクト取っても来やしねえ。手前のメシの心配してた可能性の方が、高いんじゃねえか」
九重は片膝を立てて身を乗り出し、固く握り締められた拳を指先で包んだ。視線を落とした紗代子が眉を顰める。彼女の手の温度は春になると一気に温む。
空いた片手を、白い頬に添える。骨張った浅黒い手と滑らかな肌の対比が目に痛い。紗代子は僅かに身震いした。
九重の手は冷たい。まるで死人のように。
「心配すんな。いざとなったらなんとかするだろ、あいつが」
他人任せな発言を咎めるでもなく、紗代子は頬を撫でる手の甲に指先を添えて微笑を浮かべる。その一分の隙もない美貌に、何故か心が痛んだ。
痛む心を誤魔化すように、九重は更に身を乗り出して顔を近付ける。紗代子は察したのか、黙って目を閉じた。感傷的になるなという方が無理な状況なのだ。
生命の危機に直面すると、人は激しく欲情するという。同じ事かも知れない。子を成せるか否かは問題ではない。それは本能だ。関わらず、そうなる。
理屈はどうでもいいのだ。九重は心中、無意味な言い訳をする。幾ら捏ねてもする事は変わらない。理由にする気もない。こればかりは建て前ではない愛しいと云うその感情、それだけを理由としておけば全て円滑に進む。
唇の温度が高いように感じるのは、己の体温が低いからだろうか。九重はどうでもいい事ばかり考える。照れかも知れない。初心な若者でもないというのに。
体温が上がった為か、シャンプーの香りが鼻を擽る。それに誘われる様首筋に鼻先を埋めると、紗代子が息を詰まらせるのが解った。九重はそのまま薄手のセーターの裾へ手を伸ばす。
しかし。
「……なんだってんだ畜生」
静寂の落ちた部屋に、インターホンの音が鳴り響いた。九重は緩慢な動作で起き上がってから顔を上げ、頬を引きつらせる。
「……国定さんかしら」
呟いた紗代子は床に手を着いて上体を起こした。
九重は今だかつて感じたことがない程の殺意を覚えた。
殺してやりたい。出来る限り苦痛が長引く方法で。大体何故いつも、このタイミングなのか。
視線だけで人が殺せそうな形相の夫が立ち上がるより先に、紗代子は玄関へ向かう。廊下にも点々と盛塩がされている。玄関の扉には、目張りまで施されていた。
覗き窓から来客を確認して扉を開け、紗代子は曖昧な笑みを浮かべる。
国定は一瞬、怯んだ。隣に立つ佐島が息を呑むのが分かる。
白磁の如き肌。
澄んだ湖面をそのまま写し取ったかのような目。
隙間なく生え揃った長い睫毛。
驚く程小さな顔と、形の良い唇。
絹糸のような黒髪は、真っ直ぐに胸元まで伸ばされている。
凡そこの世の者とは思われぬ美貌の九重夫人は、マスクをした国定を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
「こんにちは。目、真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」
涼やかな声が耳に心地良い。応対した紗代子の美貌に慣れる事は恐らく今後一切ないだろう。その後ろで鬼の形相を浮かべる九重が視界に入らなければ、国定は気遣いの台詞に反応する事さえ忘れていたかも知れない。
「はあ、花粉症で……突然お邪魔して済みません」
「あら、声まで変わって」
頭を下げる国定の横で、佐島が小さく悲鳴を上げた。九重に気付いたのだろう。
切れ長の一重は元々上がり気味の眉と共に吊り上がり、頬まで引きつっている。なまじ目付きが鋭い為、余計に般若のような形相となっていた。相当怒っている。
絵に描いたような美形夫婦だ。佐島が縮こまるのも解らないでもないが、国定はこの二人が残念に思えてならない。何しろ揃って変人なのだから。
「上がって下さい。お茶入れますから」
そう言って振り返った紗代子は黙って夫の両肩を掴み、背中を向けさせた。そのまま背を押して、ダイニングへ向かって追いやる。九重は何も言わない。
国定は玄関の四隅にされた盛塩に怪訝な視線を落としながら、廊下へ上がった。つい一ヶ月前はこんなもの無かった筈だ。佐島は息を深く吐いて、国定の後に続く。
リビングではソファに浅く腰掛けた九重が、億劫そうな仕草で煙草を吹かしていた。浅黒い精悍な顔付きは一目見ただけでも解る程、不機嫌そうに歪められている。何も言わない事が余計に恐ろしい。
国定がテーブルに着くと、佐島は猛獣にでも出会したかのようにそっと、国定の隣の椅子を引いて腰を下ろした。九重はある意味猛獣だ。今この状態では飼い主がいなければ、恐らく会話もままならないだろう。寧ろ口を利いて貰える可能性すら低い。
コーヒーの香ばしい香りが漂って来る。無精な上無愛想な夫とは正反対に、甲斐甲斐しい妻だ。
「あの塩、なんですか」
テーブルに着いた紗代子に、国定はリビングの隅に成された盛塩を指差して聞いた。紗代子は曖昧に苦笑する。
「おまじないです。……それより今日は」
僅かに首を傾けた紗代子の肩から、髪が滑り落ちた。国定は懐から手帳を取り出してページを開く。
「連続猟奇殺人事件、ご存知ですか」
紗代子は怪訝に眉を顰める。佐島が慌てた様子で国定を見た。
「知ってる訳ないじゃないすか報道規制されてるのに!」
「うるさいな君は。聞いてみただけだろう」
国定は迷惑そうに佐島を一瞥したが、すぐに正面へ視線を戻した。
紗代子の目が夫に向いている。つられてそちらを見ると、九重は銜え煙草のまま腕を組んで俯いていた。鋭利な横顔からその感情は窺えないが、鼻頭に皺が寄っている。まだ不機嫌なのかと国定は些か呆れた。
「一ヶ月前から連続して起きている事件で、現場に惨殺死体が残されているだけ。目撃者の証言も現時点では取れていません」
「犯人の手掛かりは……」
「何もありません。凶器はそれぞれ別のものが使用されていますが、遺体の状態から、同一犯であるとの認識が強いですね」
佐島はコーヒーに砂糖を入れて掻き混ぜた。飲まない方が失礼に値する筈だと、彼は会話と全く関係のない事を考える。元より彼がこの会話に入る余地などない。佐島は現場へ行ってもぐったりしているだけだったから、事件の概要さえも碌に知らぬ。知れば恐らくまた、吐き気を催してしまう。
「被害者の年代に統一性はありましたか? 顔立ちは?」
国定は紗代子の質問の意図が分からず、怪訝に片眉を顰める。
「特にありません」
紗代子は視線をテーブルの上で泳がせ、肩を落とした。あって欲しかったのだろうと国定は思う。
「ですが、殺され方はみな――」
「その死体」
鼻声の国定の言葉を遮って、九重が漸く口を開いた。元々低い声が更に低くなっている。
「体の一部が欠損してたりしてねえだろうな」
国定は目を円くした。指摘された通りなのだ。残された遺体は必ずどこかしらのパーツが持ち去られている。
「どうして分かるんだ」
九重は答えなかった。ただ俯いて憎々しげに表情を歪めている。今にも噛み付かんばかりのその形相に、国定越しに九重を見ていた佐島が身を竦める。
国定は狐のような双眸を、更に細めた。鼻から顎の下までを覆うマスクのせいで犯罪者然として見える。
九重夫妻は何か知っている。この調子では例え聞いたとしても何も答えてはくれないだろうが。
国定は数秒逡巡した後、再び口を開く。
「……協力してくれるか」
紗代子は不安げな表情で、夫を見詰めていた。佐島が怪訝な面持ちで何も聞かぬ国定を見る。元来鈍い性質の佐島が気付くのだから、九重の態度が妙である事は明白だ。
九重など大抵不機嫌そうにしているか他人を小馬鹿にしているかのどちらかだが、今回ばかりは違っていた。それは微妙な相違であったが、不機嫌とも違う。実際この家を訪ねた時には恨めしげな表情をしていた。それが明らかに変化している。
五年という長いのか短いのか分からぬ微妙な長さの付き合いではあるが、これ程まで憎悪を露わにする九重は、今まで見た事がなかった。
九重はソファに置かれた灰皿を取り上げて、フィルターまで焼けた煙草を押し付けた。鼻を突く焦げた匂いが一瞬漂う。表情を消した九重は、国定を視線だけで見下ろした。
「修復出来てんのか」
佐島が意外そうに目を円くした。国定は浅く頷く。
「ああ」
「今から行く。車で待ってろ」
紗代子は震える息を吐き、天井を仰いだ。