第一話 みるなの座敷 二
四
仕事が終わってから国定は、その足で神奈川県内にある友人宅に向かった。少々遠い上に駐車場が少なくて不便するが、東京のように路上駐車に厳しい訳でもない。警官が路駐で捕まったとあっては立つ瀬がない。
国定が車を停めたのは、三階建てのマンションの前だった。大分古ぼけて亀裂が入っているが、住人は気にしていないようだ。安ければいいと言う感覚は、坊ちゃん育ちの国定には到底理解出来ない。
マンションの一階の、角に当たる部屋。その扉の前に立ってインターホンを鳴らすと、搾り出すようなブザーの音が鈍く響いた。まだ電池を交換していないのかと、国定は呆れる。前回訪問した時も、この家のインターホンは妙な音を出していた。
二度目を鳴らす。住人が出て来る気配はない。国定は痺れを切らしてドアノブに手を掛けた。手に伝わった軽い感触で、鍵が開いている事が知れる。この家に鍵が掛かっているところを、国定は見た事がない。
ここを訪れる者はそう多くはないが、その殆どが勝手に扉を開けて、玄関に上がり込む。稀に家主に怒鳴られはするが、それでも誰一人として態度を改めようとはしない。当の主が来客対応をしようとしない為である。用事があるから来訪しているのに、彼は来客に対して、仕事の邪魔をしに来たとしか認識していないのかも知れない。
いつもの事ながら不用心に過ぎる。しかし鍵が掛かっていないという事は、家主は在宅なのだろう。そう判断して、国定は躊躇いなくドアを開いた。
「白っ!」
国定は思わず顔の前で手を振った。玄関に充満していた煙が、開いた扉から一斉に外へと逃げ出して行く。靴を脱いで大股で入室した国定は、家人への断りもなしにリビングの窓を開け放った。窓の鍵まで開いたままだ。
室内に充満した煙が、物凄い勢いで外に逃げて行く。同時に窓から顔を出し、国定は深く呼吸した。
「何考えてるんだ君、幾ら何でも吸いすぎだろ……」
暫くそのまま呼吸してからようやく、室内に向き直った国定は、クリアになった視界に入った男に声を掛けた。背中を丸めたまま煙草を吹かす家主は、何も答えない。手元に視線を落としたまま、僅かな反応すら示さない。いつもの事ながら、相手にしてもらえなければ来た意味がない。この家の換気をしに来た訳ではないのだ。
「おい、聞いてるのか?」
「うるせえよ」
九重義近は顔を上げず、ぶっきらぼうにそれだけ言った。煙草のせいか、彼の低い声は常に掠れている。
よくよくその手元を見れば、人形の首に化粧を施しているのだと知れた。充満した煙に視界が遮られて、国定には全く見えていななかったのだが、仕事中だったのだ。
九重は一言悪態を吐いたきり、黙り込んでしまった。仕事の邪魔をすると一言も口を利かなくなるので、国定は仕方なくフローリングの床に腰を下ろす。
九重が作業する目の前、作業台の上には首だけの人形がずらりと並んでおり、そこだけ見ても異様な光景である。ダイニングセットしか家具らしい家具のない居間と併せて見ても、やっぱりどこか奇妙だ。並んだ首も始めて見た時は、国定には大層不気味に感じられた。今では部屋の様子も人形の首も、見慣れてしまったが。
そう広くないダイニングの壁紙は脂で黄色く変色し、臭いが染み付いている。使われたような形跡の見られないテーブルには、黒ずんだ焦げ跡が幾つもあった。無精な男なのだ。
しかし彼の作る人形の顔はどれも繊細な表情をしており、その美しさと本人との相違に、初めて目にした時は驚いたものだ。
国定は五年前に起きた海難事故の現場で、九重、楡と知り合った。長いとも短いとも言い難い長さの付き合いだ。楡は元がちゃらんぽらんだから遠慮も何もないが、九重は職人気質の気難しい人間だから、彼への対応は自然と慎重になる。本来待つのは苦手な性分の国定が、文句も言わず大人しく待っているのもその為だ。九重に対して引け目があるせいかも知れないと、国定は思っている。
三十分程待っただろうか。九重は漸く筆を置き、両手を首の後ろで組んで体を伸ばした。酷い猫背のせいで分かりづらいが、背筋を伸ばすと長身である事が分かる。人形を作る仕事――国定はそれを何と呼ぶのか知らない――に従事しているなら全く以て無駄である。中肉中背の国定などは、身長だけ換えて貰いたい程だ。
伸ばし放題で殆ど目を隠す程伸びた前髪と、色の抜けた黒いスウェットにどてらと言う訳の判らない格好を見る限り、九重が身形に気を遣っている様子はなかった。本人は、そんな事に使う金があるなら、ラーメンでも買うと言うだろう。食うや食わずと言う訳でもなさそうだが、貧窮している事は確かだ。
国定は、生活に貧しているなら、煙草の本数を減らすべきだと指摘した事がある。言われた九重は苦い表情で、カミさんにも同じ事を言われたと答えた。あれは言ってはならない事だったのかも知れないと、国定は今になって少々後悔している。
九重はのっそりと立ち上がって台所に向かった。ひょろりとした長身を屈めて冷蔵庫から取り出したのは、缶の発泡酒だ。茶を出そうにも、湯を沸かすのが面倒なのだ。
「どうして君は客に酒を出すんだよ。普通は先に茶だろ」
差し出された缶を受け取りながら、国定は不平を垂れた。くたびれた座布団に腰を下ろし、九重は作業台に散らばった煙草を一本取って、火を点ける。
「客? 勝手に入ってきて何が客だ。酒出すだけ有り難えと思えよ」
「君が開けないからだろう。施錠ぐらいしておけよ、不用心だな」
銜え煙草のまま缶を開けた九重は、鼻で笑って長い前髪を掻き上げた。目つきが悪い割に、顔立ちが粗野な印象もない。切れ長の目に形の整った細い眉。鼻筋はすっと真っ直ぐに通っており、地なのか肌が浅黒い。顔だけ見れば二枚目だが、女性と縁の無い生活をしている為これもまた長身と同じく無意味だ。
何より九重には妻がいる。正確には居た、と言うべきか。五年前に起きた海難事故に巻き込まれて行方不明になったが、九重は死んだという事にしている。
国定は、彼の妻が居なくなった経緯は知っているが、それ以外の子細は知らない。こんな偏屈で粗野な男に嫁ぐような女がどんな人間か気になりはしているが、聞きたくとも聞けないのだ。あの時の九重の憔悴振り程、痛々しいと思えるものはない。妻を思い出させるような事は、出来る限り言いたくないのだ。
「で、何だよ。うちに世間話しに来たんじゃねえんだろ」
ああ、と呟いて、国定は缶を開けた。
「世捨て人よろしく世間から隔絶された君は知らないだろうが」
「ニュースぐらい見るっつの」
「……それじゃ聞くけど、連続首刈り事件は知ってるか?」
九重は訝しげに眉を顰めて国定を見た。
「報道規制されてる事件だ。警察でも上層部の人間しか知らない」
「なら聞くなよ、自慢かそりゃ。いちいち勘に障る奴だな」
軽く舌打ちして、九重は缶に口を付けて中身を煽った。嚥下するのに合わせて迫り出した喉仏が上下する。首が長い。
「そう怒るなよ。……その犯人の通称が、落首花」
「安直だな。花ってな何だ、女か?」
「性別は関係ないが、落首花は椿の別名だ。椿は花首がぼとっと落ちるだろう。昔の武士達はそこから討ち首を連想し、そんな名前を付けて嫌った」
「講釈はどうでもいい」
九重はフィルターが焼ける寸前まで吸いきった煙草を、灰皿に捻じ込んだ。吸殻が山のように盛られている。
「そうか? ――まあそんな事件があってだな、これが資料を見る限り戦前から起きてるらしい」
「戦前だ?」
国定は狐を思わせる顔に、薄らと笑みを浮かべていた。九重の胡散臭そうな表情すら面白いようだ。
「それが同一犯だって? 犯人はもう相当高齢じゃねえか。そんな奴が人の首切れるとは思えねえよ」
「でも同一犯なんだ。死体という物的証拠も、曖昧だが証言も一応取れてる。それに、首切って心臓抜くような犯人が、そうそう居る訳ないだろう」
「心臓抜くなんて話は今始めて聞いたぞ」
「そうだったか?」
国定はとぼけた。
「だがな、それだけじゃない」
「勿体ぶらずに一気に話せ。鬱陶しいんだお前の話し方は」
国定は喉を鳴らして笑った。やけに楽しそうなその様子に、九重は嫌な顔をする。
「落首花が始めて現れたのは、明治の中頃だと言われている」
「なげえよ。どんだけ長命だよ」
九重は呆れた表情で突っ込む。それだけの反応で済ませる所が彼らしいとは思うが、国定としては、もう少し驚いて欲しかった。
「と言っても、始めて心臓を抜かれた首無し死体が発見されたのがその位の時期だから、もっと昔から居たのかも知れない」
言い切ってから、国定は缶を傾けて喉に液体を流し込んだ。
「奴はな、不死身の化け物だ」
九重は暫く国定の方に身を乗り出していたが、やがて溜息を吐くと同時に作業机に凭れた。散らかった絵筆を避けながら煙草を取って火を点け、深く吸い込む。
「つまり」
煙を吐き出しながら、九重は言う。
「楡が拾った死体の首が胴体から離れてた上に、心臓抜かれてた訳か」
「その通り」
国定はにやりと笑って、だらしなく煙草を吹かす九重に顔を近付ける。声を出すのも面倒だと言う男は、浅黒い顔を不快そうに歪ませたが、微動だにしなかった。
「それも今回は、いつもなら持ち去られてた筈の首が、現場に残ってた。これなら喋る事が出来るだろう」
九重は無言のまま、眉間に皺を寄せている。
「僕は証言が欲しい。黒い影が逃げて行っただの、大きな鎌を持ってた気がするだの、曖昧なものじゃなくてな」
国定は証言の内容まで逐一記憶しているのだ。九重は呆れ顔で煙を深く吸い込む。
「だから君に死体を蘇生させて欲し……っ」
国定は顔を背けて思い切り咳き込んだ。
「嫌だ」
煙を国定に向けて吐き出した九重は冷たく言い放ち、涙目になって執拗く咳き込む国定を横目に、作業机へ向き直る。懐から取り出したハンカチで目元を拭った国定は、恨みがましい目で九重を見た。
「大体てめえは死体見たさで警官になったんだろ。そんな事件追う必要は――」
「父がずっと追っていた事件だ」
絵筆を取りかけた手を止め、九重は国定を見た。
「僕が警視庁に配属されたせいで異動になって、捜査出来なくなったがな」
「真面目だなお前」
貶すでも褒めるでもなく、その響きはあくまで呆れたようなものだった。しかし国定の表情にはどこか期待の色が浮かんでいる。
「やってくれるだけでいい。成功しようがすまいが、父のポケットマネーから百万出る」
九重の指先がぴくりと動いた。
「請けた」
存外金で動く男なのである。国定は満足げに口角を吊り上げ、笑った。
五
九重は納期が迫っている分の仕事だけを片付けて、国定に連絡を取って来た。今日の内に、と国定が言うと苦い声ではあったが、了承の返答が来た。
医務院に現れた九重は喪服のような黒いスーツを着ていたが、ネクタイは締めていない。よれたシャツのボタンも二つ目まで開けられており、顔立ちと併せて見るとまるでホストかキャバクラの客引きである。
「だらしない格好するなよ。楡にしろ君にしろ、どうしてそうなんだ」
国定は溜息混じりに言った。手に持った黒いケースを肩に担ぎ、九重は鼻を鳴らす。
「あんな変態と一緒にすんな。あいつは来てんのか」
「君がやるって言ったら飛んできた。中で待たせてる」
「ご苦労なこったな」
小馬鹿にしたような口調で言いながら、九重は国定の後ろをついて行く。遺体安置室の扉を開けると中は薄暗く、妙に寒かった。
部屋の中央に置かれた検死台の上には、布が被せられた遺体が寝かされている。これは楡が、つい先日拾ってきた死体。首を落とされ、バラバラになっていた女の遺体である。これを解体した張本人は、台に頬杖をついて死体の顔を覗き込んでいた。
「あ、義近。久しぶり。国さんこないだぶり」
部屋に入ってきた国定と九重に気付くと、楡は端正な顔を上げてひらひらと手を振った。二人は同時に脱力する。ずっと遺体の顔を見ていたのだろうか。
「久しぶりじゃねえよ、俺ともこないだ会ったろ。始めるからそこ退け」
「楽しみだね」
楡は言葉通りの調子で言いながら、素直にその場から離れた。九重は遺体に近付き、検死台に黒いケースを置く。
「楽しい事なんか、何もねえよ」
蓋を開くと、化粧道具がずらりと並んでいる。九重は前髪を掻き上げ、遺体の顔に化粧を施し始めた。
九重は、代々人形師の家系に生まれた。しかし九重本人はどういった理由からか、人形の顔を作る作業しかしない。他の事は出来ないのだとも言っていた。それでも腕がいいから、工房や専門の工場から依頼が来るので、食うには困らないようだ。
しかし彼の仕事は人形専門であるから、普段は人間に化粧などしない。国定からの依頼があった時だけ、こうして遺体に死化粧を施す。過去に何度か死化粧をした経験はあるようだが、生きた人間に化粧をした事はないと言う。
室内は静寂に包まれていた。手にした空き缶を灰皿代わりに、楡が煙草を吹かしている。国定は押し黙ったまま、九重の手元を見つめていた。
遺体の顔色が徐々に明るくなって行く。肌の色を調整したからだけが理由ではない。人形の顔を描くのと同じく繊細な手つきで、九重は筆を動かす。これもまた、無骨な彼からは想像も出来なかった事だが。
「――若いからこんなモンだろう。臓器が欠けてるなら、紅を引いてから十分が限度だ。手短にやれ」
「ていうか、心臓なくて動くの?」
「知らねえ」
楡の疑問への返答は些か心許ないものだったが、国定は浮かべた笑みを深くしていた。九重に間違いが無いのを承知している。
九重の筆が、少女の唇に紅を引く。ふっくらとした唇が桜色に染まり、死んでいる筈の少女の頬に仄かな赤味が差した。
「おはようお嬢さん」
九重の低い声が静寂に響くと、死体の目がゆっくりと開いた。
九重が死化粧を施した死体は、一時的に生き返る。そんな荒唐無稽で非科学的な話があって堪るものかと、国定も最初は訝しんだものだ。しかしながら、こうして目を開けた死体を見てしまっては信じざるを得ない。
何故こんな事が出来るのか、理由は知らないというのが本人の談である。どういった力が作用しているのかも判らない。こうなるからなるのだとしか、説明のしようがないようだった。現代科学でも解明出来ぬ事を平然とやってのける九重に、国定は畏怖の念すら抱いていた。そうでなくとも気難しい九重などは、国定の不得手とする人種ではあるのだが。
「あんたに残された時間は十分だ。まずは名前を」
少女はぼんやりと虚ろな視線を九重に向け、フジリサコとそれだけ言った。国定がメモ帳に書き留めつつ、続けて問う。
「歳は?」
「……十四」
本人が口を開いて喋っているにも関わらず、その返答は本人の意志で発しているのではないように思われた。質問に対して、脳が自動的に答えを算出して声を出している、と言った印象を受ける。機械的なのだ。
楡は喋る死体をにこやかな表情で見ていた。
「あなたを殺したのは、どんな人物でしたか」
国定は更に続けた。九重は真剣な面持ちでリサコと名乗った少女を見つめている。
「黒い――女の子」
国定が目を見開いた。メモを取る手が止まっている。九重も同じく怪訝な表情になった。事情を知らぬ楡だけが、不思議そうに首を傾げている。
リサコは更に続けた。
「黒い着物。長い髪の、女の子。人形に見えた。大きな鎌を持ってた」
それは恐らく、犯人を見た時に思った事なのだろう。言葉の羅列でしかなかったが、国定には充分だった。何しろこれは、実際に犯人を見たという確証がある者の証言なのだ。進展のなかった連続猟奇殺人事件の捜査を進める上では、大きな一歩である。
九重は眉を顰めていた。考え込むような表情だ。
「黒い猫と、白い梟を連れてた。名前――」
リサコの声が止まった。目を大きく見開いたまま硬直している。国定は慌てて時計を確認したが、リサコが目を開いてからまだ五分しか経っていない。九重の目算では、十分は持つ筈なのだが。
「何? どうしたの?」
壁に凭れたまま煙草を吹かしていた楡が、手元の空き缶の口に吸いさしを捻じ込みながら聞いた。九重の表情が僅かに堅くなる。
「深入りするな」
楡がへ、と声を上げて国定を見た。国定は左右に首を振る。リサコの声ではない。老婆のような、嗄れた甲高い声だった。
「関わってはならぬ」
リサコの唇が動いている。三人は驚愕の表情で、ただ死体を見詰める事しか出来なかった。
「聞いてはならぬ」
老婆の声が更に響く。
リサコの口から白煙が立ち上った。
「九重、そこから離れろ」
震える声で、国定は呟いた。九重は厳しい表情のまま検死台に置きっ放しになっていたケースを取り、後退して行く。
リサコの目が突然せり出し、視神経を繋げたまま台に落ちた。転がった眼球の、その瞳が国定を向いている。死体の腕が検死台から落ち、布からはみ出した。体に被せられた布が見る見るうちに赤く染まって行く。同時に恐ろしい程の臭気が死体から放たれる。
「見てはならぬ」
はみ出した腕が赤黒く変色し、床に落ちた。死体が急激に腐って行っている。国定や楡は臭いに慣れているが、九重は流石に眉を顰めて鼻を摘む。
「知ってはならぬ。我は首刈」
原型を留めない程腐った死体は、尚も喋り続ける。少女の顔は見る影もなかった。
「落首花」
零れ落ちた眼球が、国定を見ている。腐臭の立ち込める室内に、国定は一つ、深い溜息を落とした。
六
「未熟ね」
天鵞絨のように見事な毛並みの黒猫が、毛繕いをしている。喫茶店のテーブルに頬杖をついた娘は、鈴の鳴るような声で呟いた。携帯に付けられた六角柱の水晶を覗き込んでいる。
「でも、諦めるまでは遊べるわ」
少女は高校生のように見えた。セーラー服の上に紺色のセーターを着ており、短いスカートの裾から華奢な脚がすらりと伸びている。楽しそうに笑みを浮かべるその横顔は繊細で、美しい。
まるで人形のように。
「精々追い掛けてご覧なさい、坊や」
携帯を鞄に放り込み、少女は立ち上がった。人形のような美貌に一瞬だけ笑みを浮かべ、彼女は猫と共に去って行った。