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化粧師  作者:
18/31

第四話 八股の大蛇 六

 腐臭。

 甘いムスク。

 血臭。

 諸々が混ざり合った強い異臭にも、娘は眉一つ動かさない。国定は鼻を掌で覆って心持ち身を引いたが、椿が仄暗い部屋に足を踏み入れるのを見て、後を追う。

「思った通りですな」

 国定が後ろ手で扉を閉めるのと同時に、老人の声が木霊する。

 室内は蝋燭の灯りで、仄かに明るく照らされていた。その一番奥に、巨大な影が蠢いている。国定は目を細めてその全貌を掴もうとしたが、近付かなければ分からないだろう。

「詰まらない事したものね。あなたの趣味?」

 扉の正面に立っていた白衣の老人を真っ直ぐに見詰めたまま、椿は聞いた。

「趣味ではなく、研究……」

「あなたには聞いてないわ」

 彼女はもしかしたら、蠢く影に話しかけていたのかも知れないと国定は考える。言動から察するに、実際そうだったのだろう。

「それに思った通りじゃなくて、聞いた通りでしょう」

 大胡謙三郎は怪訝な顔をする。椿は鼻で笑った。

「大胡博士。あなたどうしてあんなもの作ろうと思ったの?」

 硝子細工のように華奢な指が、部屋の奥を指差した。大胡は奇妙な面相になる。皺だらけの顔は感情が読み取りにくい。

「何故そんな事を聞くのだ」

「あたしが聞いているのよ。質問に質問で返さないで、ちゃんと答えなさい」

 居丈高な娘だ。老人相手に遠慮する素振りすら見せない。

 国定はすっかり蚊帳の外だったが、見届ける為に来たのでそれで構わないと思っていた。

「分からないんでしょう? 実験に失敗して死んだ被験体を、みんなああしてくっつけておいた理由が」

「そんな事はない。私はあれを本尊とする為に作った。分からない事などない」

「何故? 本尊にするならわざわざあんな目立つもの作る必要はなかった筈よ。適当に木彫りの像でも作れば良かったのに。何故あれを本尊にしようと思ったの?」

 大胡は答えなかった。顔中に深く刻まれた皺が、濃い陰影を作っている。その表情は驚愕を表していたが、どこか悲しげにも見えた。黙り込んだまま、彼は椿を注視している。

「分からないなら、教えてあげましょうか。研究をしていたのは確かにあなたの意志だけど、あれを作り上げたのは、あなたの意志じゃない」

 椿の表情は窺えない。国定には言っている意味が分からなかったが、大胡は目に見えて狼狽していた。何かに怯えているであろう事は、その表情から明確に見て取れる。

「あなたも寄生されていたのよ。ハリガネムシにね」

 大胡の体から、一気に力が抜けて行く。表情さえも消した上で膝から崩れ落ち、博士は床にへたり込む。がっくりと肩を落とし、目を閉じて項垂れた。

 椿が唐突に振り返った。その顔に笑みはない。大きな目で見詰められ、国定は身を堅くした。

「何ぼうっと突っ立ってるの国定君、さっさとそこの耄碌ジジィ捕まえて」

「え。……ああ、そうだ」

 自分の役目を漸く思い出した。傍観者でいる訳には行かない。彼女の言う、関わってはいけない事に大胡が入っていないのなら、それを捕まえるのは国定の仕事だろう。

 国定は大胡に駆け寄って背中を支え、立ち上がらせた。老人は抵抗する素振りすら見せない。諦めているのか消沈しているのか、深い皺に覆われた顔からは判断がつかない。

「そこ退けて。扉の前に居なさい、死んじゃうわよ」

 椿は老人を抱えた国定の横を通り過ぎ、巨大な影を見上げて首を傾けた。

「悪趣味だこと。八岐じゃなくて八股の大蛇ね」

 蝋燭の炎が一斉に揺らめいた。光の加減で垣間見えたその姿に、国定は息を呑んで扉の前まで後退する。

 八つの尾が、床を這っている。巨大な胴から伸びる、九つの頭。斑な色の全身は、近付いて見ると、その全てが人の体で構成されている事が分かる。絡み合う男女の姿はそれだけ見れば淫靡であったが、大蛇の一部となっては只のおぞましい怪物だ。

 人々の目は一様にして虚ろで、何も語ろうとはしない。椿の言った通り、全て死体なのだろう。

 椿は地面を蹴って大蛇に向かって跳躍し、その勢いのまま手に持った大鎌で頭の一つを切り落とした。怪物は悲鳴すら上げない。断ち切られた部分を構成していた者の腹が裂けて細長い臓器が垂れ下がり、別の者の頭皮の一部が剥がれて落ち、また他の者の足が落ちてコンクリートの床が血で濡れたが、大蛇の頭は崩れなかった。倒れる事もないまま裂け目は元通りになり、人体を構成するパーツが床にばら撒かれるのみだ。

「これじゃヒドラね。ああ、これも合成獣キメラ?」

 大蛇の目前に着地した椿は、再び首を傾げて問い掛けた。答える者はいない。国定は息を殺して見詰めている。

 あれがキメラならば、想像上の怪物同士のキメラなのだろうか。それとも、人間同士の合成獣か。国定は無意味な思考を巡らせる。目の前の現実を現実と受け止める以前に、疑問ばかりが頭に浮かぶ。肩に圧し掛かる老人の重みだけが、紛れもない現実である。夢なら良かったのにと、国定は思う。

 大蛇の頭が、椿へ襲い掛かる。倒れ込んだと例えたほうが近いかも知れない。椿は舌打ちして横に飛び退くが、避けた先から尾が迫る。仕方なく跳び上がっても、また別の頭が倒れ込んで来た。動きこそ緩慢だが、こうも多くては流石に避けきれない。

 椿は溜息を吐いて、首を縦に引き裂く。バラバラと内臓やら手足の一部が落ちて血塗れになったが、大蛇は動じない。動きが鈍る事さえない。

 椿の横から他の頭が迫り、その小柄な体を壁に叩きつけた。

「落首花!」

 国定は思わず声を上げた。大蛇は頭の一つを壁に押し付けたまま微動だにしない。自身を構成する者すら潰れてしまっている。

 死体の塊に紛れ、娘の姿は見えなくなった。

 静寂を湛える室内に、虫の羽音が耳鳴りのように響き出す。肉片がこびり付き、真っ赤に染まった壁が蠢く。国定は逃げるのも忘れて全身に鳥肌を立てた。

 死体の一部と言わず壁と言わず、床にまで蛆虫が這い回っている。押し付けられたままの死体の隙間からも、ぞろぞろと白い虫が這い出して来た。大蛇に湧いたものではない。どこから現れたものか、国定には分からなかった。

「隠れても無駄よ笛吹き。右から三番目の尾でしょう? 草薙の剣気取ってんじゃないわよ」

 どこからか椿の声が響いた。

 死体の隙間から蛆虫の代わりに夥しい数の蝿が飛び出し、国定は一瞬目を瞑る。

 鎌の刃が一閃した。大蛇の裂け目から、黒い影が現れる。それは紛れもなく椿だった。国定は目を見開き、その目を疑う。確かに彼女は潰された筈だった。

「大した化け物ぶりだね毒姫。今は落首花だったか」

 大蛇の尾の内の一つが、左右に裂けた。椿が言った位置だったのかは判断がつかない。

 裂けた蛇の尾の中から、真っ黒なローブを纏った人間が現れる。腰の曲がったその姿は、声からも察するに老婆なのだろう。

 椿は薄く笑みを浮かべた。

「こんな所に隠れてたのね、この色惚けババァ。探すの苦労したのよ」

「可愛い顔して口が悪いねえお前さんは。いいのは顔だけかい。姥桜と言っとくれよ阿婆擦れ」

「悪いのは口だけよ。頭も顔も腐ったあなたと違って」

 知り合いなのだろうか。国定は離れた所から喧嘩腰のやり取りを聞きながら思う。双方、逐一悪態を吐かなければ気が済まないらしかった。

「今更何しに来たんだい性悪。旦那の件で世間に首突っ込むのは懲りたんだろ」

 椿の表情が一変した。老婆に向かって鎌を振るが、その姿は刃が通り過ぎた頃にはなくなっている。

「どこまで調べたのよ糞婆ァ。そっちこそ、世捨て人気取って山に引きこもってたんじゃなかったの?」

「お前さんがあれだけ派手に立ち回ったら、誰だって厭でも知っちまうよ。引きこもってたって退屈なのさ。それにね、アタシはあの術を完成させた」

 目を見開いた椿の耳に、老婆の笑い声が届く。国定は姿を消した老婆の姿を追い、辺りを見回す。

「いい気味だね馬鹿女。肝喰らいの分際で情に絆されちまって、日本一の名が泣くよ」

 消えたと思われた老婆は椿が見上げた先、大蛇の頭上に居た。

「心が無いよりマシよ。性根から腐りきってるババァがあたしを貶すなんて烏滸がましいわ」

「そんな口叩いていられるのも今の内さね」

 尾の先から大蛇が消えて行く。椿は動かなかった。

「精々大事な人形が傀儡になるのを、指でも咥えて見てる事だ」

 目の前で巨大な蛇の姿が消えて行く。国定はもう何があっても驚かないだろう。

 数秒の後、老婆の姿までもが完全に消え、後には散らばった肉片と椿だけが残された。

 暫く呆然としていた国定はふと我に返り、視線を何もなくなった空間から椿に向ける。

「おい落首花、あのバァさんは何を……」

 唐突に振り返って足早に近付いてきた娘に、国定はびくりと肩を震わせた。バランスを崩した老人を、慌てて抱え直す。

 大きく見開かれた目の瞳孔が開いている。唇の端が吊り上がっているが、その表情は凡そ笑顔とは程遠いものだった。顔立ちが整っている分その形相は余計に恐ろしい。

「あのクソババァ、次会ったら素っ首切り落として烏の餌にしてやるから」

 国定が凍り付く。呪詛の言葉を吐きながら、椿は彼の横を通り過ぎて無造作に扉を開け放った。そのまま振り返る。

「何してるの? 行くわよ」

 国定が恐る恐る扉を見ると、椿はけろりとしていた。国定は我が目を疑う。

 悠々と部屋を出て行く椿の背中を追い掛けながら、国定は疲れた溜息を吐いた。

「君は一体、何なんだ」

 国定は出口へ向かいながら問い掛けた。背負った老人が恐ろしく重く感じる。

「普通の人間じゃない事は確かよ」

 そんな事は最初から分かっている。

 只の人間でもなければ快楽殺人鬼でもない。何を目的として動いているのさえ分からない。彼女の行動理念が全く読めない。何も分からないまま助けられるだけと言うのは、国定の自尊心をひどく傷付ける。

「何がしたいんだ。何故僕を……」

「勘違いしないで。あなたを助けてる訳じゃないわ」

 冷たく否定した椿は開きっ放しのドアから屋外へ出て、横へ避けた。続いて外に出た国定は深く息を吸い込む。肺の奥まで異臭に侵食されたようだった。

「国さん!」

 楡が窓から顔を出して手を振っている。車の中で四人が待っていた。流石に六人は乗れまい。

 佐島でも呼びつけるかと思った矢先、ヒールの音が聞こえた。国定はその音に反応して振り返る。

「それじゃ皆さん、ごきげんよう」

 椿は研究所の入り口に立っていた。花の顔に天使のような笑顔を浮かべ、片手を肩の高さまで挙げる。

「おい待て、まだお前には聞きたい事が……」

 椿の指が小気味良い音を立てた。国定は目を見開く。背負った老人が呻く。

 研究所は、一瞬にして炎に包まれていた。

「な……お、おい落首花!」

 燃え盛る建物の中で、娘は鈴を転がすように笑う。しかし彼女に火が燃え移る様子はない。

「危ないですよ国定警視!」

 一歩、炎に近付こうとした国定を杉里の叫び声が引き止めた。国定はびくりと肩を震わせて立ち止まる。

「早く乗ってよ国さん! その人トランク入れて!」

 暫く逡巡した後車へ歩み寄り、国定はトランクを開けて博士を寝かせた。老人は燃え盛る研究所を虚ろな目で見詰めている。

 国定は老人から視線を逸らし、トランクを閉めた。

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