第四話 八股の大蛇 五
六
ひんやりとした室内で、国定は監察医の報告を聞いていた。喪服姿の九重は、既に死化粧に取り掛かっている。隣に立つ紗代子はどこか思い詰めたような眼差しで、遺体を見詰めていた。
「被害者は湯本春子、四十二歳。例の研究所で働いていたようですね」
長見雪乃はカルテに視線を落としたまま、舌足らずな口調で国定に告げた。
丸顔で顔のパーツ全てが小さく、掛けた大きな眼鏡がアンバランスだ。コケティッシュな印象を受けるが、実際は三十を越えている。
「研究員だったのか」
「そのようですね。死因は失血によるショック死。切断面は刃物で切られたような鋭利なものではなく、よく切れない包丁で押し切られたような、引き裂かれたような……何にせよ人為的なものとは思えません。人間が作れるような傷ではありませんから」
国定はふうんと鼻を鳴らして、顎を撫でた。
「まあ、聞けば分かる」
九重が手を止めて筆をしまった。終わったようだ。
「十分が限度だ。……話せますか、湯本さん」
遺体の目がゆっくりと開いた。九重の声が合図になっているのかも知れないが、国定は詳しい事は知らない。あまり興味はない。
「まず、あなたは誰に、どのように殺されたんですか」
国定が問うと、虚ろな視線が向いた。
「キメラ。引き裂かれた」
「既に作ってたの!」
長見が驚いた声を上げた。甲高い声に九重が嫌な顔をする。
「大胡博士の研究内容を、お聞かせ願えますか」
「合成獣の作成。麝香を利用したドラッグ。人の本能。人と獣の合成。針金虫を人間に寄生させる方法」
紗代子が目を見開いた。九重も厳しい表情を浮かべているが、国定は首を捻る。
「ハリガネムシ?」
「コメツキムシの幼虫で、昆虫の体内に寄生する寄生虫です。水生生物なので乾燥すると干からびてしまいますから、成虫になる際宿主を操り、水辺に誘うと言われています」
「操る? 虫が?」
「ええ。そのメカニズムは解明されていません。人間に寄生した例もあるようですが、この場合は、寄生させる事そのものを研究していた訳ではなさそうですね」
「ハリガネムシに人間を操らせる事か。そういや研究所は川の側にあるな」
難しい表情で俯いていた長見が顔を上げて国定を見た。
「その研究、もう完成してるんじゃ? だって宗一郎のお兄さん……」
「操られてたのか。まずいな、急がないと孝太郎さん死ぬぞ」
国定は踵を返して携帯を取り出しながら、ドアに向かった。慌しく動く事は厭う割に、落ち着かない性分なのだ。
「待て、俺も行く」
振り向いた国定は、怪訝に片眉を上げていた。
「……紗代子さんは」
一瞬断ろうと思ったが、結局そう聞いた。九重があまりに真剣な目をしていたからだ。
「連れてく訳ねえだろ。ウチまで佐島に送らせろ」
九重は存外過保護だ。
「長見、佐島に連絡しといてくれ」
「ちょ、警視、礼状は?」
「僕を誰だと思ってる。行くぞ九重」
慌てた様子の長見を肩越しに振り返って、国定はそう言い放った。長見は、今度は呆れた表情になる。
九重は国定に続いて出て行く寸前、室内を振り返った。無表情に見つめる妻と目が合ったが、それだけだった。すぐに視線を戻し、部屋を出る。
足音が遠ざかって行くのを、長見は溜息を吐きながら聞いていた。
七
問答無用で呼び出された杉里は、九重が運転する車の中で半ば死を覚悟していた。連れて来られたのは恐らく襲われた時の為だろう。国定も九重も、暴力沙汰には向かない。唯一肉体派の楡は消えてしまっている。となれば杉里にお鉢が回って来るのは明らかだった。
無謀である。確証が曖昧で警官隊も動かせないというのに、猛獣だらけの研究所に、たった三人で乗り込もうと言うのだから。国定だけならまだ分かるが、九重がいるのがまたよく分からない。彼なら死んでも嫌だと言いそうだ。
「あれだな」
林の中に立ち入り禁止のロープが見えた。案外警備は薄いようだが、こんな所にわざわざ入り込むような奇特な者もいないだろう。もしかすると侵入者は皆被験体として捕らえているのかも知れない。
ロープを踏み越えて敷地内に入ると、林の中は真っ暗だった。如何にも何か出そうだと杉里は身を竦めたが、実際、ここには居る。この世のものならぬ姿の生き物達が。
巨大な研究所の入口脇に車を停め、三人は外へ出た。目が慣れるまで何も見えない。研究所の窓という窓は、全て暗幕によって塞がれているようだった。
「普通に行って出るかな」
国定は声を潜めて呟きながら、ドアに手を伸ばした。
「出る訳ないです……ってもう、インターホン押さないで下さい! 何考えてるんです!」
ブザーの音が微かに聞こえた。国定は稀に暴挙に出る。九重が笑っているが、杉里にとっては笑い事ではない。
数秒後、ゆっくりと両開きの鉄扉が開いた。中から人の気配がする。一人ではない。
「気楽にやろうぜ。杉里さん」
軽い調子で言いながら、九重は杉里の手を取って出刃包丁を握らせた。
眼鏡の奥の丸い目が、一瞬光る。
「離れろ!」
叫んだ国定と九重が左右に避けると、杉里は徐に駆け出して研究所内に飛び込んだ。口元に笑みを浮かべていた以外、その表情は窺えない。
侵入した杉里に若い男が飛びかかるが、彼は逆手に持ち替えた包丁を、男の首に突き立てる。そのまま喉へ向かって払い、短い足で男を蹴り飛ばした。大きく裂けた男の喉から血が溢れ出し、骨が折れる鈍い音がする。
足を引っ込めようとした杉里は、その足首を掴まれてバランスを崩した。しかし軸足を踏ん張って掴まれた足を、更に突き出す。杉里は男の顎を靴底で蹴り上げ、力が弛んだ隙に、両足を地面に付けて腹に包丁を突き立てた。
男が低く呻く。杉里は歪んだ笑みを浮かべている。
杉里は反対側から襲いかかってきた男が持ったスコップを左手で取り上げ、右手を引いた。それを同時に掲げて左右の男の脳天に振り下ろす。骨の砕ける音と共に、どちらも綺麗に顔がひしゃげた。鼻から豆腐のようなものが零れ落ちて、衝撃で眼球が飛び出す。
絶命した二人を放置し、杉里は次の男の頭をスコップで力任せに叩いた。
「いつまで待ってりゃいいんだ?」
室内で繰り広げられる惨劇を眺めながら、九重は隣の国定に聞いた。
「全員殺すまでかな」
「あの中に孝がいたらどうすんだよ」
国定は九重を見て、しまったという顔をした。見られた方は呆れたように顔を歪める。
「止めろよ、ちゃんと」
「自信ないな」
ぼやきながら、国定は室内に足を踏み入れた。
通路の左右には壁しかなく、それも人が擦れ違うのがやっとの狭さである。何を思ってこんな設計にしたのか、見当もつかない。死体を踏み越え、九重も内に入った。
杉里は徐々に進んで行く。同時に死体も増えて行く。
廊下の長さも人の数も際限がないように思われたが、ようやく扉に突き当たった。杉里は最後の一人の喉笛を捌いて、躊躇いなくドアを開く。強い獣の臭いが漂って来る。
離れた位置からその向こうを見た国定は、思わず立ち止まった。扉の向こうの広大な空間には、ガラス製の円柱が幾つも並んでいる。壁と言わず床と言わず、天井にまでもびっしりと幾つものチューブや配線が這っていた。ガラス製の筒の中では、異形の生き物が静かに目を閉じている。
「ひでえな」
国定の後ろで九重が呟いた。鼻を摘んでいる。動物園は臭いから嫌いだと言う人種だろう。
「まさかここまでとはな……ん?」
ひょー、と不気味な音が聞こえた。怪訝な表情で目を凝らした国定が、その目を見開いた。
「アレ壊されても困るな。お前そろそろ杉里さん止め……」
九重が息を呑んだ。死体の腹を踏んだからではない。どうせ先程から踏んでいる。
ひょー、と静寂にそれだけが響く。
「本当だったのか……」
「マジかありゃ……冗談だろ」
杉里は、異形の生き物と対峙していた。
頭は猿のそれで、体は毛並から判断するに狸。足は虎。僅かに見える尾は蛇だろうか。
「鵺だ。鳴き声まで再現しやがったのか」
九重の声は、どこか楽しそうだった。
猿の顔が杉里に向かって大きく口を開き、歯を剥き出して威嚇している。ひょー、と不気味な鳴き声が木霊する。
杉里が一歩、鵺に近付いた。しかし。
「楽しそうじゃない、あたしも混ぜて」
鈴を鳴らすが如き愛らしい声が響いた瞬間、国定が弾かれたように広間に飛び込んだ。杉里も鵺も硬直している。九重は少し遅れて国定の後に続いた。
歳の頃は十五、六。
長い睫に縁取られた猫のように大きな目。
抜けるように白い肌。
真っ直ぐに伸びた長い黒髪。
ふっくらとした小さな唇は白い顔の中で唯一、桜色をしていた。
小柄で華奢な体を真っ黒な着物で包み、高いヒールのブーツを履いている。
その身の丈程もある大鎌を抱きしめ、娘は微笑んでいた。日本風にビスクドールを作ったらこの娘のようになるかも知れない。そう思わせる程、彼女は美しい。
「またお前か落首花!」
「反応がワンパターンでつまらないわ国定君」
神出鬼没の殺人鬼は、小ばかにするように鼻を鳴らして笑った。
「折角助けに来てあげたのに、その言い種ってないんじゃない?」
「誰も頼んでない」
「素直じゃないのね」
落首花はヒールの音を響かせながら杉里に近付き、その両手から難なく凶器を奪った。杉里の目が円く見開かれる。
「あっちに行ってて頂戴。あなたじゃ無理よ」
包丁とスコップを投げ捨て、落首花は入口を指差した。杉里は首を捻りながら、すごすごと部屋の端へ下がる。死屍累々となった廊下を見て、自分でやった事だというのに彼は薄い眉尻を下げた。
「素敵ね。よく作ったわ」
ひょー、と鳴き声が響く。落首花は目を細めて鵺を見詰めながら、感嘆の声を漏らした。
「げ」
九重が呟く。
鵺が跳躍し、落首花の頭上を越えて、下がっていた三人に飛びかかった。国定は小さく悲鳴を上げたが、その時には落首花が鵺の更に上にいた。
「あたしが遊んであげようって言うんだから、無視しないでくれないかしら」
落首花の鎌はしかし、空を切った。壁を蹴って方向転換した鵺が彼女の横を擦れ違う直前、その顔目掛けて尾から液体を発射する。蛇が毒液を吐いたのだ。
落首花は一瞬目を閉じて着地し、掌で顔を拭った。異様に赤い舌が唇を舐める。その美貌に変化はない。確かにあれでは、杉里などひとたまりもないだろう。
「毒姫に毒は効かないのよ」
国定は何故かほっとしている自分に気が付いた。慌てて隣にいた九重を見ると、彼は顔を伏せて俯いている。
怪訝に眉を顰めた瞬間、つんざくような甲高い悲鳴が聞こえた。
「鳴き声以外は猿なのね。もうちょっと頭捻って欲しかったわ」
虎の足が、床に落ちていた。猿の顔が歪んでいる。いつの間に切り落としたのだろうか。
落首花は更に鎌を振ったが、鵺は再び跳躍して凶器から逃れた。残った足で飛びかかり、鋭い爪を持った前足を振り被るが、その場にはもう、娘の姿はない。
彼女はまた、上に居た。鎌の刃を鵺の首に向かって薙ぎ払い、その首を落としたそのままの勢いで、心臓目掛けて切っ先を突き立てる。切断面と胸の傷から鮮血が溢れ出して床に降り注ぎ、恐ろしい形相の猿の頭が先に落ちる。
落首花が着地すると同時に胴体が地面に叩き付けられ、鵺は動かなくなった。
暫しの静寂が、場を支配する。あまりにも、圧倒的だった。国定には、今は何を言っても場違いな気がしていた。
「付いて来て」
三人共、何も言わなかった。ただ言われるがまま、娘が行く先に付いて行く。少なくとも彼女は今、この研究所の中で唯一、彼らの敵ではない。
「最初はサークルだったのよ。八尾の光会。もてない人の会って安直な名前だったの」
異形が並ぶ部屋の中を進みながら、落首花は言った。何故知っているのか、誰も聞かない。聞いても答えないだろうし、知っているのが当然だとも思っていた。
「大胡博士はね、密かに人数の増えて行くそのサークルに目を付けた。丁度その頃、彼は人を操る針金虫を完成させた所だった。活動内容が卑猥なせいで、彼らは表立った行動が出来ないから、一人いなくなった所で分からないと踏んだのね」
「活動内容って、なんだったんです?」
質問した杉里を肩越しに振り返り、落首花は笑った。
「もてない男女が貞操を捨てる会だったのよ。最初はね。会員は大学のサークルに留まらず、インターネットや口コミを通じてどんどん増えた」
顔を正面に戻し、落首花は更に続ける。
「宗教団体に見せかけるようになったのは、博士が会を乗っ取ってからよ。彼は強力な催淫薬を作り上げて、会員達を猿のようにセックスに没頭するよう仕向けた。その為に、各地に幾つも部屋を作ってやった」
「何の為に?」
今度は国定が問う。娘は振り返らなかった。
「心身共に疲弊させる為。衰弱した状態でないと、上手く操れないの。それにしたって素晴らしい頭脳だわ。たかが虫を自分の都合のいいように人を操るよう、改造したんだから」
入口の対面に当たる部屋の壁に、鉄扉が並んでいた。落首花はその中の一つに近付き、扉に手を付く。
「ここに宗一郎君がいる。被験体にする為に入れられたのよ。だから弱ってるけど、とりあえず無事だから大丈夫。頭は元々イカレてるでしょ。義近」
呼ばれた九重は、緩慢に顔を上げた。
「あなたが開けるのよ。孝太郎君はそっち。針金虫はもう成虫して出て行ってるから、大丈夫。夜、開けなさい」
呼びかけと共に、娘の陰から黒猫が現れる。緑色の目をした、ビロードの様に美しい毛並みとしなやかに長い尾を持つ、見事な猫だった。
夜と呼ばれた猫は、飛び上がって落首花が指差した扉の南京錠を引っ掻く。杉里は猫が開けた錠を不思議そうに眺めた後、ドアを開いた。
彼女はそれを見届けてから、扉についた南京錠を指先でなぞる。頑丈そうな錠前が、いとも簡単に外れた。落首花は横に退いて九重を振り返る。彼は娘を見ようとはしなかった。
九重はドアノブに手を掛け、ゆっくりと開く。微かに煙草の匂いがした。室内は薄暗く、鉄格子が嵌めこまれた窓から、僅かな光だけが差し込んでいる。
「……宗」
布団に寝転び、天井を眺めていた楡は、その声を耳にした瞬間、勢い良く跳ね起きた。しかしぐらりと後ろに倒れそうになって、枕に手をつく。少し窶れている。
楡は大きな目を更に大きく見開き、九重を見上げた。
「義近」
九重はあくまで無表情だった。呆然と呟いた楡に向かって、右手を差し伸べる。
「帰んぞ。姉貴が心配してる」
楡は複雑な表情で暫く幼馴染を見詰めていたが、ゆっくりと掌を出して、差し出された手を掴んだ。九重はその手を引いて、楡を立たせる。楡はよろめいて壁に手を付いたが、見る限り外傷はないようだった。
「ごめんね義近。国さんも」
声が掠れている。しんみりとその様子を眺めていた国定は、唐突に呼ばれて肩を震わせた。
国定の背後から、孝太郎を背負った杉里が近付いて来る。九重は楡に肩だけ貸して、薄く笑った。
「無事ね」
落首花は呟いて、入口の方を指した。つられて国定がそちらを見る。
「行きなさい。後はあたしの仕事だから」
国定は怪訝そうに眉を顰めた。娘はその顔を見て、鈴を転がすように笑う。
「あなた達は関わってはいけないの。分かったら帰りなさい、皆楡くんちで待ってるわ」
九重は何も言わずに踵を返し、楡を引っ張って出口へ向かった。戸惑ったように、国定が振り返る。
「落首花さん」
「椿でいいわ」
杉里が呼ぶと、彼女はそう訂正した。
「――椿さん。あなたに聞きたい事があるのです」
小柄な娘は、杉里を大きな目で見上げた。吸い込まれそうな漆黒に、彼は一瞬怯む。
「あ、あの、あなたは一体……」
「あなたはまだ人間よ」
国定はなんとなく、聞いてはいけない気がした。しかし九重のように、素直に帰る気も起きない。野次馬根性なのか責任感なのかは自分でも判断がつかなかった。
「手遅れじゃないわ。あなたはまだ一番遠い位置にいる。一線というのは、あなたが思うよりあなたより遠いもの。まだ悩めるなら、あなたは人間よ」
占い師が宣託でも下すようにゆっくりと告げられる言葉に、杉里は困惑したように眉尻を下げていたが、落首花が言い切ったと同時に情けない笑顔を浮かべた。心の底から、安堵したような表情だった。
「はい。ありがとうございます」
「さ、行って」
頭を下げて背を向け、緩慢な足取りで杉里が遠ざかり始める。それを見送っていた落首花は顔を上げ、国定を見上げた。彼女は外見の年齢の割に背が低い。
「やっぱりあなたは、ついて来るのね」
咎めるような口振りでもなかった。国定は暫く微妙な表情で娘を見詰めてから、口を開く。
「何があっても、僕は見届けたい」
「いい心掛けね。警官らしいわ」
落首花――古手川椿は国定に一度微笑み掛けてから壁に向き直り、一際大きな扉を開いた。