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化粧師  作者:
16/31

第四話 八股の大蛇 四

  五


 九重は恐ろしく不機嫌だった。浅黒い顔を歪ませてつり上がった眉尻を更に吊り上げ、切れ長の目で正面を睨み付けている。顔付きが精悍な分余計に柄が悪く見えるが、睨まれている方が動じる様子はない。部屋着は相変わらず黒のスウェットだが、以前のようによれてはいなかった。

 彼は先程から腕を組んだまま、身じろぎ一つしない。機嫌が悪くなると、何故か煙草を吸わなくなるのだ。普通は逆だろうと国定は思う。

「もういいだろ過ぎた事は」

 国定は細い顎を軽く上げて見下ろすように九重を見ると、深い溜息を漏らした。上唇が極端に薄い為、上を向くと殆ど見えなくなる。細長い卵形の顔は病的なまでに青白いが、本人は至って飄々としていた。

「うるせえ馬鹿野郎。ふざけんなよてめぇ、アイツはなかなかその気んならな……」

「あなた!」

 紗代子の怒声が台所から響いた。カウンター越しに見えたその細面は怒りを露わにしているが、その一種異様な美貌には瑕一つ付かない。常ならば困ったように顰められている柳眉が、吊り上がっていた。

 怒声を聞いて、縮こまっていた杉里が反射的に身を竦ませる。丸い目、丸い鼻に丸眼鏡を掛けた愛嬌のある顔の男は人間も丸い。平常時に限られた事ではあるが。

 杉里は叱られた子供のように首を引っ込めて、唇を引き結んでいる。元々丸い体が更に丸く見える。

「大体昼間っから盛ってる君が悪いんだろ。覚えたての高校生か」

「童貞が言うな」

「しょーがないわよユキちゃん。カレ五年もご無沙汰だったんだから」

 テーブルに頬杖をついた美佐子はハーフのような美貌ににやついた笑みを浮かべていた。形の円い大きな垂れ目と泣き黒子がやけに艶っぽい。年齢不詳な顔立ちだが、その笑みは無粋な会話に勤しむ主婦のそれだった。

「うるせえ畜生、ヒトの性生活暴露すんじゃねえ」

 人数分の紅茶を淹れた紗代子がダイニングに戻って来た。一つだけコーヒーなのは夫の為だろう。

 紗代子はやけに疲れた顔をしている。一人一人の前にカップを配って、何も言わずソファに腰を下ろした。最早口を挟む気もないようだ。

「まあまあ……楡さんについて手掛かりがあったんですから。そんなに怒らないで下さいよ」

「楡なんざ殺しても死なねえんだから、どうでもいいんだよ。つーかなんでいちいちウチに集合すんだ。楡の話なら楡んち行けよ」

 出された紅茶に砂糖を入れながら、美佐子は黒目がちな目を九重に向けた。

「だってちゃんとお茶が出て来るの、よっちゃんちだけだもん」

「もんじゃねえ。お前が出せ。つうか喫茶店行け」

 吐き捨てた九重は、苛立たしげにコーヒーに口を付ける。散々悪態を吐いて少し落ち着いたのか、テーブル上に散らばっていた煙草を取って火を点けた。灰皿は綺麗に保たれている。

「どうせお前来ないだろ、呼んでも」

 国定が言うと、九重はその顔目掛けて煙を吐き出した。激しく咳込んで顔を手で覆った国定は、彼の正面に座った事を後悔する。例え杉里や美佐子が正面にいたとしても、彼は国定に向かって同じ事をしただろうが。

「子供みたいな事しないの。国定さん、宗ちゃんは……」

 忘れていた。

 紗代子に聞かれて漸く本題を思い出した国定は、懐から手帳を取り出してページを捲った。

「職場の新入りに聞いたら、楡はナイフを持って襲いかかってきた孝太郎さんを追い掛けて行ったそうだ」

「襲った? 孝ちゃんが? なんで?」

 目を円くした美佐子が問い返す。国定は左右に首を振った。

「理由はわからない。場所は大胡博士の研究所の側の河原」

「え、あそこですか?」

 博士を知らないようで、九重と美佐子は怪訝な表情をしたが、杉里が問い返した。その慌てた様子に、国定も驚いた風に眉を上げる。

「ご存知ですか」

「ご存知も何も、私はつい先日博士の所に取材に行ったです」

 紗代子は会話には入らず、分厚い表紙の本を捲っていた。古本のようで、所々汚れている。ヘブライ語で書かれている所を見ると夫の持ち物だろうか。

「い、行ったんですか」

「行ったんです。博士は依存性も人体への危険性も無い新型麻酔薬で有名ですが、どうも実際の研究内容とはかけ離れていて……」

 言いながら、杉里は足元に置いた鞄の中を漁り始めた。何がどこに収まっているのか全く分からない。汚い鞄だ。

「あった。ええと、警察には言うなと言われてますが、国定さんは友達なので大丈夫ですよね」

「そうですね」

「うん。博士は合成獣を研究していたんです」

 九重が身を乗り出した。オカルト話が好きなのだ。顔に似合わず趣味は根暗だ。

「どうだった?」

「凄かったです。蛇の毒を持つリスとか、狸の体に蛇の尻尾とか」

「鵺だろそれ。趣味でやってんのか?」

 杉里はカップに口を付けてあちっと呟いた。猫舌なのだ。

「あくまでそういう研究ですよ。麻酔薬よりそっちの方を主に研究しているようでした」

「そんな奴がなんで麻酔薬作んだよ」

「私もそう思ったんですが――仮に、人間と同程度の知能を持った動物を作っていたとする。そうしたら」

「ああ、必要なのか」

 九重は納得した表情で呟き、灰皿に煙草を押し付けた。納得してしまうのもどうかと国定は思う。

「ところがこれ、調べたら妙な事が分かった」

 国定が何故か楽しそうに、膝に乗せた鞄から書類の束を取り出した。慣れた手つきでページを捲って行く。

「これだ。この麻酔薬、成分だけ見ると分からないが、ムスクの香りがするんだ」

「麝香ですか」

 本に視線を落としたまま紗代子が聞いた。国定は頷く。

「成分を説明しても君らは分からないだろうから結論から言うと、確かにこれは麻酔薬だが、実際の用途は恐らく違う。精力剤だ。媚薬と言った方が近いかな。そう考えると独身者の乱交も説明がつく」

「はあ。なんでそんなものを?」

「人間の被験体が欲しかったんですね」

 紗代子は本を閉じて、大きな目を四人に向けた。

「あの薬で釣っていたんだろうな」

「ええ。大胡謙三郎おおこけんざぶろう――どこかで聞いたと思ったら、牛と豚を掛け合わせた食用家畜を作った方ですね。遺伝子組み換え食品の危険性が叫ばれて、結局世には出回りませんでしたが」

「何よソレ。いつの話?」

「杉里さんならご存知なのでは? 二十年以上前の事です」

 しかし杉里は首を捻った。覚えてはいないだろう。

「人間の被験体が欲しかったのだとするなら、彼と八尾の光会の関連性も見えてきます。彼は出来る限り人を集めたかった。人体実験の為に――大胡博士、戦時中は満州に居たようです。そこで取り憑かれたのでしょう」

「だったらなんでわざわざ媚薬なの?」

「性欲、子孫を残したいという欲求は、生物に共通した原始的な感情です。単純に食べ物やお金で釣るよりは、人を集め易かったのでは?」

「つまりドラッグで釣ってたって事かしら。ヤクザと殆ど変わんないわね……あ」

 美佐子の携帯が鳴った。慌てて席を立って電話を取る彼女を横目で追いながら、国定は顎を掻く。

「今の内に乗り込んだ方がいいか。バラバラの犯人とは違ったとしても、礼状は取れる」

「国定さんだけで行こうとなさってるなら、危ないですよ。どのように孝さんを弟に襲いかかるよう仕向けたのかも分からないんですから」

 そこで紗代子は言葉を切り、カップに口を付けた。白い指の先だけが仄かに赤い。

「そのために杉里さんを呼んだんだ。九重」

「俺はやらねえぞ」

 杉里は頷いたが、九重は間髪入れずに拒否した。カップを置きながら、紗代子が眉を顰める。

「あなたあんなに宗ちゃんの事心配してたくせに、まだそんな事言うの?」

 九重は嫌な顔をした。態度には出さないが、紗代子が言うからにはそうなのだろう。

 国定は喉の奥で笑って、懐から封筒を取り出して九重に突き付けた。

「体面を保ちたいなら金は出すよ。受け取れ」

 国定はにやりと口角を上げた。舌打ちの音と共に、その手から封筒が引ったくられる。

「楡にも奢らせねえと、割に合わねえな」

 電話を切った美佐子が廊下から戻って来た。

「ごめーん、仕事入っちゃった。後ヨロシク!」

「いや、宜しくって美佐子ちゃん」

 鞄と羽織ってきたトレンチコートを掴み、美佐子は呆れた声を上げた杉里に向かって苦笑いした。四人に手を振り、彼女は再び廊下へ出て行く。忙しいのだ。

「あの人は心配してるんだかそうじゃないんだか、よく分からないな」

 国定は玄関に視線を遣ったまま呟いた。

「身の程知ってんだよ。首突っ込んでも、どうせ何も出来ねえって分かってんだ」

 言って、九重はカップの中身を飲み干した。痩せた首を突き出た喉仏が上下する。

「待つしかないのよ。美佐子姉さん、生死の心配はしていなかったでしょう? 死臭は感じてなかったんだわ。宗ちゃんが一ヶ月以内に死ぬ可能性はないって事よ」

「今ならまだ間に合うんだな」

 国定は椅子を引いて立ち上がった。呑気に紅茶を啜っていた杉里が彼を見上げる。

「僕も戻る。監察医せっついてくるよ」

「あ、じゃあ私もお暇します」

 流石に一人残って九重と向かい合うのは嫌だったのか、杉里も席を立った。紗代子がソファから腰を上げる。

「準備が整ったら連絡下さい。私も立ち会いますから」

「え、現場に?」

 紗代子は苦笑した。

「遺体への聴取ですよ」

 国定はどこかほっとしたような顔をした。玄関まで見送りに来た紗代子に杉里と二人揃って頭を下げ、九重家を出て行く。本庁には戻らず、監察医の所へ向かうつもりだ。流石に急かす事は出来ないが、様子を見に顔を出すくらいなら、彼女も嫌な顔はしないだろう。

 国定は駐車場に停めた車に近付いて鍵を開けながら、同じく自分の車に乗り込もうとする杉里へ、軽く手を振った。


 紗代子はリビングに戻って、再びソファに腰を下ろした。夫は煙草を吹かしている。

「彼女の事、少し調べたの」

 九重は視線だけを妻に向けた。

「何か載ってたか」

「あなた知っていたんでしょう。彼女は人間だけど、人間ではないわ。それに、関係がない訳じゃない。知ってしまう前に、国定さんに構うなと言った方が……」

「構って来てんのは向こうだ」

「告げて来たんでしょう、あなたに」

 厳しい表情だった。何か堪えているようにも見える。

「悟ったのじゃないの? 控えろと言われたんでしょう」

「お前さ」

 九重は煙を吐いて間を取った。紗代子は黙り込む。

「何で俺んとこになんざ嫁に来た?」

 紗代子が奇妙な表情を浮かべる。

「俺には金もねえし、親っつー後ろ盾もねえ。健康でもねえし寿命もねーしガキも作れねえ。あるのは顔とあっちの」

「自分から切り出したくせに茶化さないで」

 叱るような口調だったが、玉の美貌には微笑が浮かんでいた。子供を見るような優しい目。

 九重は煙草を揉み消して視線を落とす。

「お前なら幾らでも居たろ、他が」

「そうね。あなたは昔、美佐子姉さんが好きだったわね」

 眉を顰めて紗代子を見ると、彼女はソファに凭れて目を伏せていた。長い睫が白い頬に影を落としている。

「ガキの頃の話だろ。なんで知ってんだ」

「ずっと見てたから」

 九重は椅子の背もたれに肘を置いて、横向きに座り直した。

「私ずっとあなたが好きだった。知らなかったでしょう」

「知るかよ。京の天女がてめえに惚れてるなんざ誰が思うか」

「そのあだ名付けられた頃には付き合ってたじゃない」

 宗一郎と三人、上京して入った高校で紗代子についたあだ名がそれだった。大それた名を付けられたものだ。

 同時に九重には、十を数えぬ頃から一緒だった幼馴染が、自分の手の届かないものになってしまったような気がしていた。その頃には既に恋人と言う立場であったのに。

「皆、私の顔しか見てなかった。私の理屈屋でお節介で口煩い所を、全部許容してくれたのはあなただけだったから」

 紗代子は懐かしそうに目を細めて笑った。

 昔からずっと、彼女は高嶺の花であり続けた。だからこそ、内面まで見て判断する者も居なかったのかも知れない。

 それが嫌で、彼女は一時期全く笑わなくなった。多感な歳の頃の事である。時間が癒やしはしたが、今も尚、紗代子は夫以外の者の前では不器用な笑みしか浮かべる事が出来ない。

「あなたの素直じゃない所も、頑固で態度が悪くて根暗で嫌味な所も好きよ」

「男は皆ガキなんだよ」

 九重は苦い表情で吐き捨てた。そんな女が自分に愛を告げているというのに、彼には褒められている気が全くしない。寧ろこれでは貶されている。

「あなたの子供を産みたいと思ったけど、子供が欲しいとは思わないの。だから、いいの」

 ああ、こいつは。

「くだらねえ事聞いたな」

 九重は煙草を摘んで火を点ける。

 紗代子はただ、微笑んでいた。

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