第四話 八股の大蛇 二
二
国定幸雄は椅子にふんぞり返ったまま欠伸を漏らした。ここ最近妙に忙しかっただけに、余計暇が辛い。
室内を見る限り、相変わらず彼だけが退屈そうにしていた。上司が睨んでいるが国定は気にも留めない。
正面のデスクで書き物をしていた佐島奏太が顔を上げ、不貞腐れた表情の国定を見て苦笑した。朝からずっと、彼は書類と格闘している。肩は凝らないのかと国定は思っていたが、聞かなかった。集中したら昼飯を食うのも忘れるような性質だから、そんな事は感じても認識しないだろうし、声を掛けてもどうせ気付かない。
「暇なら手伝って下さいよこれ」
「嫌だよ、僕の仕事じゃない。僕が手伝ったらバレて怒られるのは君だぞ」
佐島は竦めた肩に、亀のように首を隠して唸った。短く刈り上げた頭と童顔が高校球児を彷彿とさせ、濃く太い眉が更にそれを助長している。
この部下はここの所、妙に気安い。毛嫌いされるよりはましだが、上下関係を理解しているのかどうかは甚だ疑問だ。
「またそんな事ばっかり……」
国定は書類仕事を嫌う。処理速度は早いがせっかち故の所業なようで、隙あらば勝手に現場へと死体を見る為に顔を出す有り様だ。誰も咎めないのは、後ろ盾が大きい所為もある。
佐島は国定に睨まれて、更に小さくなった。臆病なのだ。
「大体それ、うちの仕事じゃないだろう。誰に押し付けられたんだ」
国定は書類の束で佐島の頭を叩いた。哀れな青年はうう、と唸って上目遣いに上司を見上げる。
「いや、疑いがあるんで……長見先生が勝手に疑ってるだけっすけど」
「監察医は関係ないだろ」
「頼まれたんす」
「馬鹿か君は」
国定は再び佐島の頭を叩いた。
「大体そこの大胡博士には世話になってるだろ。疑うなよ」
国定は頬杖をついて呆れた視線を向ける。
「それが、こないだ出たバラバラ遺体」
「ああ――あったなそんなの」
「警視見に行ってたじゃないすか。あれから大胡博士が作った新薬が検出されたって言うんすよ」
「新薬?」
「人体への影響も中毒性もないって麻酔」
「長見の勘違いだろ」
決然と言い放ち、国定は椅子の背を曲げながら背を反らす。後ろに伸びをして深く息を吐いた。
「国定警視!」
国定は首を反らせたまま片眉を顰める。北見衛が慌てた様子で駆け寄って来るのが逆さまに見えた。実直なサラリーマン風の優しげな中年男性だが、本庁の警部である。彼は常に忙しそうにしている。
北見は懐から書類を取り出して、ふざけた体勢の国定の眼前に突き付けた。
「……なんですいきなり」
国定は体を正面に戻し、改めて振り返る。
「九重さんの捜索願の取り下げ、まだなんです」
「は?」
佐島は怪訝な面持ちの国定と北見を交互に見比べて、笑った。
「暇なら行った方がいいんじゃないすかね。課長さっきから睨んでるし」
「あの辺の所轄うるさいんですよ」
国定は横から口を出した佐島を睨み、引ったくるように書類を受け取った。北見が苦笑している。
「佐島。君、君忙しいんだろ。笑ってないでさっさと進めろ、また明け方まで残業する破目になるぞ」
八つ当たりにも程がある。
国定は薄手のコートを羽織って本庁舎を後にした。仕事で行く訳ではないので、彼は自分の車を使う。
友人の自宅は閑静な住宅街にある。高級車が通るような街ではないので目立つからやめろと言われるが、パトカーで行くよりはましだろう。
彼のマンションの立地条件は、あまり良くない。草臥れたファミリー向けのマンションは一番近い駅までも三十分程かかり、その駅すら鈍行しか止まらない。二十三区内の一等地に住む国定には、その感覚が分からない。代わりに狭いながらも来客用の駐車場はあるから、車で訪ねる分には便利かも知れない。
国定は駐車場に車を停めてマンションに入った。廊下の壁には亀裂が走っている。大きめの地震でも来たらすぐに崩壊しそうだ。
一階の角部屋が、友人の自宅だった。インターホンを鳴らすと綺麗に響く。漸く電池を交換したのだろう。しかし家主は顔を出さないどころか、応対すらしない。夫人は不在なのだろうか。
国定は暫く待ったが、諦めてドアを開けた。相変わらず鍵は掛かっていない。
「九重、入るぞ」
入室して驚いた。脂ですっかり黄色く変色していた壁が、白くなっている。リビングに入っても煙草の臭いは無い。ついこの間ここに訪れた時は、居るだけで肺炎にかかりそうな程臭いが充満していたと言うのに。
しかしそこに家主は居なかった。作業台すらなくなっており、代わりにソファと円形の低いテーブルが置かれている。炬燵だろうか。
国定は怪訝に眉を顰めて寝室として使われている和室を覗いたが、そこにもいない。万年床もない。
「おい九重! いるのか?」
不在だったとしたら、立派な不法侵入である。不在でなくとも不法侵入だ。鍵を掛けない方が悪いと言えばそうなのだが。
背後でドアが開いた。驚いて振り返ると、こちらも驚いた表情の女が買い物袋を提げて立っている。帰宅したら家人でない男が途方に暮れていれば、誰でも驚くだろう。
「あら。国定さん……」
九重紗代子は常人離れした美貌を困惑気味に歪めて呟いた。
「あ、お……」
お邪魔してます、と間抜けな声で国定は言う。何度会っても無意味に緊張して気後れしてしまう。
澄んだ湖面を思わせる大きな目。
絹糸のような長い黒髪。
高級な磁器の如き白い肌。
人形とも形容し難い。
「うちの頑固親父ならそこですよ。一部屋、作業部屋にしたんです」
紗代子はブーツを脱ぎながら、困ったような笑顔でドアを指差す。彼女が浮かべる笑顔は、全て困ったようなものだ。眉が下がっているからそう見えるだけ、という訳でもないのだろう。
国定は曖昧に笑い返し、指された部屋の扉を開けた。入り口の正面に黒い背表紙の本が乱雑に詰まった書架が置かれており、窓際にはダイニングにあった作業台が移されている。人形の首がずらりと並ぶ台と向かい合って、家主は作業に没頭していた。相変わらずひどい猫背で、向けられた背中は丸く見える。
「空気清浄機買ったんだな」
作業台の横で見慣れない機械が唸っているのを見て、国定はそう聞いた。小さくああと呟く声が聞こえる。返答するだけ以前よりましだと言える。
「あなたお客さんが来た時くらい、仕事するのやめたら?」
諫める声に振り向くと、閉めきっておかなかった扉から紗代子が顔を出していた。国定は僅かに身を竦める。
「国定さん、コーヒー淹れますからこちらにどうぞ」
「ああ……すいません」
妙に恐縮して答えると、紗代子は廊下に引っ込んだ。意地の悪い笑い声が聞こえる。
「まだ緊張してんのか」
九重義近は肩越しに振り返って、国定に馬鹿にしたような笑みを向けていた。切れ長の目が細められ、薄い唇の端が僅かに上がっている。
国定は鼻で笑った。
「僕は君のように横暴な人間じゃないんだ。恐縮ぐらいする」
「人んちにはずかずか入り込んで来る癖によく言うな」
九重は絵筆を置いて立ち上がった。不健康なまでの細身だが、背は高い。己の月並み以下な身長にコンプレックスを抱いている国定は、彼を見る度に羨ましく思う。出来る限り、横に並びたくはないものだ。
「切ったのか」
吊り上がり気味の眉が、訝しげに顰められた。国定が自分の髪を摘んで見せると得心が行ったようで、ああと呟く。前髪だけは相変わらず長いまま分けているだけだが、だらしなく伸びていた後ろ髪がこざっぱりとしていた。
「カミさんに切られたんだよ」
「どうせなら、スポーツ刈りにでもしてもらえば良かったのにな。春だし」
九重はあからさまに嫌な顔をした。彼の髪は会った時から伸び気味だったからスポーツ刈りなど想像もつかないが、似合わないであろう事だけは分かる。
言うだけ言って、国定は先に部屋を出た。
リビングに入ると、紗代子がソファで新聞を捲っていた。所帯じみた仕草が似合わない主婦である。彼女は国定に気付くと、立ち上がって会釈した。
「お砂糖使いますか?」
「ああ、すいません」
後から出て来た九重が壁側の椅子を引いて、ダイニングに腰を下ろす。国定には見慣れない光景だ。まず九重が椅子に座る事すら稀である。
台所から香ばしい香りが漂って来る。コーヒーは嫌いではないが、国定は紅茶派だ。出されたコーヒーに砂糖を入れると、九重は目を眇めた。
「何でコーヒーに砂糖入れんだ」
「好きずきだろ。コーヒーに砂糖を入れようが塩を入れようが僕の勝手だ」
「お塩入れる地域もあるみたいですね」
紗代子が台所から口を出した。
「まともに返すなよ」
九重は呆れた声で突っ込みながらカップを持ち上げる。薬指で金の指輪が光っていた。今更結婚指輪を買ったのだろうかと、国定は訝しく思う。
「あ、そうだ」
呑気に茶をしばいている場合ではない。国定は懐を探って、封筒を取り出した。
「君、捜索願取り下げてないだろ。所轄がうるさいからさっさと書いてくれ」
「てめえらが無能なせいで見つからなかったっつーのに、何だその態度。書いてやるから税金返せよ」
言いたい放題だ。これで年下だから尚のこと腹が立つ。
しかし国定には言い返す事が出来ない。無能というのは全くもって、その通りだからだ。
「またそんな事言うんだから。帰って来ない方が良かったわね」
紗代子は溜息混じりにぼやいた。
「お前、それはねえだろ」
「そうですよ。こいつ危うく孤独死する所だったんですから」
「俺は独居老人か」
笑う二人に溜息を吐き、九重は封筒を開けた。書いてはくれるようだ。
「楡の兄貴がのめり込んでる宗教団体、知ってるよな」
九重は雑な字で書類を書きながら問い掛けた。人形の顔はあれだけ繊細に描くくせに、字は汚い。コーヒーを啜っていた国定は怪訝に眉を顰める。
「そうなのか?」
「楡が愚痴ってたぞ。アレだ。……なんだ」
書類を書く手を止め、九重は妻を見た。忘れたようだ。老人とさして変わらぬ。
カップに口を付けていた紗代子は、視線だけを上げた。何をしていても違和感がある。
「八尾の光会?」
「それだ」
国定は首を捻った。団体名だけなら聞いた事はあるが、楡の兄が入信した事など知らない。国定は楡の兄と碌に会話した事もないし、楡からは何も聞いていない。
「あの、生きながら極楽に上るって、よく分からない宗旨の?」
九重が変な顔をした。
「そうなのか?」
「君が振って来たんだろ」
「あいつの話流し聞きしてたからよく覚えてねえよ」
「だったら振るな。それが何だよ」
国定は呆れた視線を向ける。誰の話もまともに聞いていないような男だから、仕方ないだろうが。
「孝さんには独身者の楽園だって言われたのよね」
見かねた紗代子が口を挟む。いっそずっと通訳していて欲しいと国定は思う。
「あーそれだ」
九重はこの所妙に呆けている。元々興味のない事はすぐに忘れる性質ではあったのだが、紗代子が戻ってからはその傾向が顕著だ。刺々しさがなくなったのはいいが、記憶力までなくされては話す方が困る。
「変じゃねえか?」
「なにが?」
九重はペンを置いて、テーブルの上に放置されていた煙草を銜えた。何故箱から出して置いておくのかと、国定は疑問に思うが、箱から一本一本取り出すのが面倒なのだろう。
「独身者限定の宗教ってなんだよ。仏教の坊主ならともかく、信者まで独身者に限定されたら、集まるモンも集まんねえだろ。どう考えても胡散臭ぇし」
「あのな、人間は皆、君や楡のようにもてる訳じゃないんだぞ。そんな奴ばっかりだったら、少子化なんて最初から起きてない」
「お前童貞だしな」
まだ引きずるのかと、国定は呆れる。この男は本当に、どうでもいい事しか記憶していない。
「別に変じゃないわ」
同時にソファの方を見る。
「最近は宗教団体の悪評が随分立っているから、新興宗教自体を嫌う方が昔より増えているのね。一般大衆に向けた教義で無差別に勧誘するよりも、標的を独り身の方に絞ったほうが、信者を集めやすいんじゃないかしら」
「付け込み易そうですしね」
何の気なしに発言した国定に視線を向け、九重は片眉を上げる。面白がっているような表情だ。
「お前その発言、自分の首絞めてるって気付いてるか?」
カウンターに手を伸ばして灰皿を取りながら、九重が余計な口を出す。国定は無視した。
「宗ちゃんに頼まれてちょっと調べたんですが、如何わしい教義でしたよ。信仰の対象が蛇でしたし」
「蛇? なんでまた」
「白蛇は神の遣いと言いますが、シンボルが九頭の蛇でしたからそういう訳でもなさそうでした。蛇は淫欲の象徴です。蛇が夢に出ると欲求不満だとも言いますし。つまりはそういう」
「邪教だろ。黒魔術的な。もてねー野郎は簡単に引っかかりそうだな。……それ楡に言ったのか」
紗代子は困ったように柳眉を顰めて首を横に振った。
「おとついから連絡が取れないの。美佐子姉さんは昼間寝てるし」
「何やってるんだあいつ」
「死んでんじゃねえか?」
「宗ちゃんなんか殺しても死なないわよ」
ひどい言われようだ。この場に本人がいたとしても笑って流すのだろうが。
「意味はあるのかな、蛇に」
「さあ……蛇をシンボルにすると、見るからに悪いものだと思われるような気はするんですが」
紗代子はカップをテーブルに置きながら首を傾げた。
「頭が九つだと、ヒドラだったかしら」
紗代子は意見を求めるように夫を見た。紫煙を吐きながら、九重は眉を顰める。
「あれは諸説あんぞ」
「でも九が主流でしょう」
話が見えない。九重がこういった如何わしい伝説やら神話の類に詳しい事は知っていたが、まさか細君までそんな根暗な趣味を持つとは思えない。
「その如何わしい教義でヒドラじゃ、意味わかんねえよ。何考えてそんなモンをシンボルにすんだ。何度でも復活するってか? ヤマタノオロチならまだ分かるが」
「何がどう分かるんだよ」
国定は呆れた表情で聞いた。このままでは国定だけ意味が分からないまま、結論が出されてしまう。話の内容に興味はないが、分からない話を聞いているのは気持ちが悪い。
「ヤマタノオロチの話ぐらい知ってんだろ」
「まあ、なんとなく。スサノオが倒したやつだろ、頭が……あれ、ヤマタだから九つ?」
「ちげえよ八つだよ。俺に説明させんなめんどくせえ。おい、こっち来い」
眉を顰めた九重は紗代子に向かって手招きした。ソファで二人の会話を聞いていた彼女は、膝に乗せていた新聞をソファに置くとカップを持って立ち上がり、夫の隣に腰を下ろす。長い黒髪が肩口から滑り落ちた。
「ええと……ヤマタノオロチは日本書記によると、八岐大蛇と書きます」
紗代子は掌を国定へ向けて、そこに指で字を書いて見せた。
「八つの峰に渡るほど巨大であるからこう名付けられたので、頭は八つです。尾も八つ。これが老夫婦の八人の娘を順番に攫って行きます。最後の一人が持って行かれる寸前で素戔嗚尊が一計を案じ、見事倒すという――まあ、神話ですね」
「それがどう関係あるんです?」
「この話は大蛇を河川を統べる竜神、生き延びた末娘の奇稲田姫を稲田に見立て、治水を表したと見られています。昔河川の氾濫は神の怒りのせいだとされていました。大蛇が娘を攫うのは神に処女を生贄として捧げる儀式。スサノオの大蛇退治は悪習を廃止したこと、とも取れますね」
「娘を食う。蛇は邪淫の象徴。解るだろ」
二人がかりの説明で漸く掴めたような気がする。九重は最後にまとめただけだが。
「アレだ、砕いて言うならお見合いパブみてえなモンなんだな、その宗教」
噛み砕きすぎだ。紗代子が苦笑した。
「最初からそう言えばいいじゃない。孝さんにそう説明されたんでしょう」
「孝の長話は思い出したくねえんだよ。嫌味だか愚痴だかわかんねえし」
「そんな人だったのか」
国定は楡の兄を知らない。姉とは偶に顔を会わせるが、兄の方は名前と顔しか知らなかった。派手な姉弟とは違い、朴訥な人間だという印象を持っている。
「愚痴っぽい人ではありましたよ。美佐子姉さんもお酒が入ると管巻きますし、お姉さんに似たのかしら」
「似たもなにも、ネガティブすぎんだあいつは。良くはねえが悪い顔じゃねえし学歴も金もあんのに、上と下がアレだろ。なんか勘違いしてんだよ」
それというよりは美形に囲まれたせいで、普通という事がコンプレックスになったのではないかと、国定は思う。目の前の夫婦とも幼馴染だそうだから、これに囲まれたらネガティブにもなるだろう。かくいう国定も劣等感はある。資産家の跡取りと言うのが彼の強味ではあるが。
「つまり美佐子さんと楡とは正反対なんだな」
姉と弟は金も学歴もないが、異常なまでにポジティブだ。単に馬鹿なだけだと国定は思っていたが、抜きん出て顔がいいからなのかも知れない。そう考えると腹が立つ。
「俺には妙に突っかかってたがな。タメだってのもあるか」
「君も顔だけはいいもんな」
「だけってなんだよ。つーかちげえよ、コイツ」
言葉の険に気付いたのか、九重は煙草を揉み消しながら、紗代子を親指で指した。
「あいつ惚れてたんだよ、コイツに」
「紗代子さんに?」
聞き返してから、当然だろうと思った。国定などは美しいと思うだけでそういう対象としては恐れ多くて見られないが、幼馴染なら話は別だろう。近くにこんな美貌の女が居て、惚れない方がどうかしている。弟の方だって怪しい。
「昔の事ですよ」
困ったような笑顔だった。癖なのだろうか。
「とにかく抜けさせた方が良さそうね。その団体が何を目的としているのかもわからないし」
「営利目的じゃなさそうだがな」
「入信料もお布施もいらないんだったか?」
「布施は希望者からだけ受け取るそうだ。募金みてえなモンだな。わざわざ希望するヤツなんざ、いんのかね」
妙な宗教だ。金も取らずに信者を集めて、何をすると言うのか。活動資金がどこから出ているのかさえ不明だが、希望者のお布施とやらかも知れないと国定は考える。
テーブルに視線を落としていた国定は、ふと顔を上げた。
「そういえばその、八尾の光会。教祖がいないらしいな」
「は?」
九重が怪訝な声を上げた。
「教祖いなくてどうやって信仰させんだよ」
「集会だけはあるらしいぞ。本当に宗教なのかどうかも怪しいな」
唐突に、ドアが開く音がした。三人一斉に玄関の方を向き、紗代子が反射的に立ち上がる。また鍵を閉めていなかったのだ。
「よっちゃーん!」
女の情けない声が響いた。ハスキーな声と共に現れた女を見て、国定は一瞬身を竦めた。
彫りの深い顔立ち。丸い垂れ目を縁取る睫は、くるりとカールして上を向いている。外人かハーフかと勘繰ってしまう程の美貌。
紗代子が応対するより先にリビングに飛び込んで来たのは、楡美佐子だった。
「あら、姉さん」
「さっちゃん大変! どうしよう!」
珍しく狼狽した様子の美佐子は、テーブルの脇に立っていた紗代子の肩に縋り付いた。困り顔の九重夫人は、女性にしては長身の美佐子を見上げる。
「落ち着いてよ。どうしたの?」
「落ち着けないわよこの状況で! バカ弟共が揃って行方不明なんだから!」
紗代子は眼球が零れ落ちそうな程大きく目を見開いた。
「いつからだ」
九重の鋭い双眸が、美佐子を見る。
「宗ちゃんは三日前からよ。ずっとうちに帰ってなかったから、また彼女ンとこにでも居るのかと思ってたんだけど、さっき会社の方から連絡があって」
「会社にも行ってねえのか」
驚いた声だった。国定も訝しげに顔を歪める。
楡が女の所に入り浸るのは昔からの事だ。しかし風邪でもひかない限り仕事にだけは行っていたから、女の所という訳でもないのだろう。
美佐子が手を離すと、紗代子は台所に入った。
「孝さんは?」
「一週間ぐらい前だったのかなあ。会社から実家に連絡が行ったみたいで、母から私に連絡があったのよ。私ちょっと忙しかったからサ、あの子のマンションに行ったのは昨日なんだけど、やっぱりいなかった。しばらく帰ってもなさそうだったわよ、携帯も繋がんないし」
肩を落として溜息を吐きながら、美佐子は空いた椅子を引いて腰を下ろす。
国定は悲しげな表情で俯く彼女の横顔を眺めながら、険しい表情を浮かべた。どうもきな臭い。年端も行かぬ子供が迷子になるならともかく、大の大人に立て続けに失踪されては事件性があるとしか思えない。妙な所で嫌な話に出会してしまったものだ。
台所から出てきた紗代子が、美佐子の前にそっとティーカップを置いた。
「飲んで。落ち着くから」
美佐子は捨てられた子供のような目で、紗代子を見上げた。
名画の中にいてもおかしくないような女は、矢張り困ったような微笑を浮かべる。それだけが彼女を人間らしく見せているように思えた。
「心当たりは――と言っても、考さんの宗教ぐらいね」
紗代子は椅子を引きながら言った。
「宗教団体が人浚うか?」
「その逆で、入り浸っているとか。そういう集会なら……なんだか考えたくないわね」
「名前からは活動内容も教義も推測し難いですからね。八尾の光なんて……」
カップに口をつけていた美佐子が、弾かれたように顔を上げた。
「ユキちゃん今なんて?」
「は? 八尾の光会?」
「それ私、勧誘された」
九重が煙を吐き出しながら、はあ、と聞き返す。国定も首を突き出した。
「あ、孝ちゃんにじゃなくて、お客さんに。集会まで行ったのよ」
カップを置いて、美佐子は憤慨した様子で身を乗り出した。先程までの悲壮感はどこへ消えてしまったのか。女というのは分からないものだと国定は思う。
「それ、どんな集会だった?」
「凄いわよアレ、もう宗教じゃないわよ。ただの乱交パーティー」
聞いた国定が一番嫌な顔をした。
「……あの子、あんな集まりに参加してたの?」
九重は考え込むように眉を顰めて視線をテーブルに落としている。紗代子は口を僅かに開いたまま絶句していた。
そんな馬鹿馬鹿しい宗教があって堪るものかと、国定は思う。それを目的として作られたのだろうか。だとすれば、一体誰が。そんな会合の為だと仮定するにしても、何故わざわざ手当たり次第に勧誘するのか。
「どうやら、そうらしいな」
九重が肯定すると、美佐子は再び悲しそうに眉尻を下げた。実の弟がそんな集会に参加していたとあっては、悲しむしかないだろう。
「ねえ、あなたそれ、どこから見たの? 何人ぐらいいた? 男女比は?」
首を捻って俯いたまま、紗代子が聞いた。美佐子は視線だけを上げて彼女を見る。怒られているかのような仕草だった。
「どこって……部屋よ。普通の事務所みたいな。ドアを少し開けて、廊下から覗いたの。ちゃんと見てないから人数までは覚えてないけど、十人以上はいたかしら。男女半々ぐらいよ」
「誰か気付かなかった?」
「ううん……こっちを向いてた人もいたけど。わかんない、皆イっちゃった顔してたから」
「ドラッグかな。死臭は?」
「さあ。ていうか、他の臭いが凄すぎてわかんなかったわよ。扉すぐ閉めてもらっちゃったし」
まあ当然だろうと、国定は考える。
紗代子は眉を顰めて考え込んでいた。伏せられた睫毛が嘘のように長い。
「国定さん、あなたその中に入りたいと思いますか?」
突然振られて国定は狼狽した。紗代子の表情は至極真面目だ。
「は? ……お、思う訳ないじゃありませんか。僕は男の裸見ながらそんな事出来ません」
「そうですよね、普通はそう思いますよね。AVじゃあるまいし」
「ましてや独り身であぶれてるような奴らだろ。女だらけで男一人ならともかく、そんな度胸ねえだろうな」
顎に手を添えて紗代子は考え込む。国定も尋ねられて気付いた。果たしてそんな連中が、乱交するものだろうか。
九重が溜息を吐くのが聞こえた。
「国定、お前もう行け。童貞捨てて来い」
「またそれかよ!」
思わず声を荒げ、国定は脱力した。