第四話 八股の大蛇 一
・スプラッタ描写があります
・ファンタジー臭がしてきました
高らかに鳴り響いたトースターの音で目を覚ました。寝呆けたままの頭で、何が起きたのかと考える。しかし寝室にまで漂って来た香ばしい香りに、急激に覚醒した。また焦がしていやがる。そう思う。
しかし苛立つ事はない。これが彼の平穏だ。これから先もずっと繰り返される、平和な朝の光景。
顔を洗ってリビングへ行くと、台所で寝間着のまま妻が卵を焼いていた。こちらに気付いておはようと微笑みかける、その笑顔の美しい事と言ったら。
台所に置かれた二つのトーストは、片方だけが焦げていた。わざと焦がすのだ。お陰でこの家には、炊飯器がない。飯は釜で炊かないと焦げないからだ。呆れた悪食である。
懐かしい光景。ついこの間までは夢に見る程焦がれていたものが、今は当然のように目の前に広がっている。込み上げるものに頭の芯が痺れる。
彼はコンロの火を消した妻を、有無を言わさず抱え上げ、再び寝床に戻った。
トーストは冷めた。
八股の大蛇
一
未だ肌寒さの残る中、楡宗一郎は作業着の上に何も着ないまま小型のデイパックを担ぎ、一人河原を彷徨いていた。死体を探しに来たのではない。バーベキューするのに、丁度良い場所を探しに来たのだ。
楡より年下の社員も居る筈なのだが、毎年彼が適当な場所を探す事になっている。他の者に探させて当日死体が出たら困るせいかも知れない。実際彼は自分の歓迎会の時にそれをやって、大変な事になった。
それにしても、何故新歓バーベキューなのか。飲み屋にでも行けばいいのにと思うが、やったらやったで誰よりも楽しんでしまうのが楡である。最近はあまり深く考えないようにしている。毎年恒例、社長の差し入れの高級霜降りサーロインが楽しみなのだ。牛肉とは素晴らしいものだ。社長が来る頃には全員酔っ払っている為、血で血を洗う野球拳大会に発展するのだが。
その争奪戦がまた楽しいのだと楡などは思っているが、敗者は大体毎年二、三人風邪をひく。業務に支障が出るのは困りものだが、社員は皆それが無礼講だと言う認識でいる。楡の会社は妙にずれている。
「この辺でいいんじゃないかなあ」
結局、どこでもいいのだ。死体さえなければどこでもいい。これでは遺体を探しに来ているのと大して変わらぬ。ついでに探してしまったりもする。
楡は足元の石の中から平たいものを一つ選んで、川へ投げる。四、五回水面を跳ねたが、対岸に辿り着く前に水中へ落ちた。石が沈んだ場所から、黒い影が四散する。水中の奇妙な変化に、楡は首を捻った。
「あれ?」
影は、小魚の群だった。散ったそばからまた、元の位置へ集まってしまう。
何かある。楡は乾いた唇を舐めて目を細めた。端正な顔に期待の色が浮かんでいる。
楡は汚れたスニーカーと靴下を脱ぎ捨て、作業着の裾を捲る。川に入る気だ。
「つめてー」
水に足を浸した瞬間、背筋を悪寒が走った。川水は氷のように冷たい。まだ春先だから当然だろう。水ぬるむとはいうものの、雪解け水の流れ込んだ川は、恐ろしく冷たいのだ。しかし楡はぼやくだけぼやいて、平然と小魚の群へ近付いて行く。暑いのは嫌いだが、寒い方はあまり気にならない。
楡の足がすぐ側まで近付くと、太陽の光を受けて煌めく魚が一斉に散った。
「んん?」
怪訝な声を漏らしながら屈んで、水中に沈んでいたものを摘み上げる。皮膚は殆ど魚に啄まれて失われているが、それは人間の腕だった。赤い筋肉が露出して、僅かに残った表皮はすっかりふやけている。
楡は不思議そうに首を捻り、目を凝らして川の中を見る。他の部位はおろか、集る魚の群れさえ見当たらなかった。
「腕だけか……バラバラかなあ」
目の前には雑木林が広がっていた。先ほどまで居た河原の対岸である。ついうっかり迷い込んでしまいそうだが、私有地だから絶対に入るなと、先輩に釘を刺されている。入るなと言われれば入りたくなるのが楡だが、今は切断された人体の一部を持っているので、それは叶わない。土地の所有者に見つかって通報されでもしたら、また国定にどやされる。
「なんか、でかい家」
近付いてみると、林の奥に建造物が見える。木々に隠れてその全貌は窺えないが、コンクリート製の簡素な建物は、小さめの工場のようにも思えた。何にせよ民家ではなさそうだ。
楡は右手に持った誰かの腕を見て軽く肩を竦め、河原へ戻った。持ってきたデイパックの中には、氷を入れたビニール袋が入っている。その中に腕を無造作に突っ込み、靴を元通り履き直して、楡は河原を後にした。
翌日、毎年恒例の新歓バーベキューが行われた。新入社員はやたらと調子のいい男で、誰に対しても気安かった。と言っても彼に限らず、ここの社員は大体そうなのだが。逆に、気安い方が会社には溶け込みやすい。
やたらと眉の細い金髪の青年はその見掛けによらず、手際よく焼いた串を分けていた。気を遣う性分のようだ。気が回らない性質の楡には、何故そうも気を遣うのか分からない。
「ぴーちゃん、ちょっと座りなよ。いいからそんなに気遣わなくて。大人しく歓迎されてなよ」
既に出来上がった同僚達に缶ビールを配っていた友利竜也は、顔を上げて楡を見ると、苦笑いを浮かべた。
仇名が一文字も掠っていないのは、名付けたのが楡だからである。出勤一日目にして、ピアスだらけだからぴーちゃんねと宣言されたが最後、彼のあだ名は鳥のそれのようなもので定着した。そう多くない社員のあだ名の中で馬鹿馬鹿しいものは、大抵楡が付けた名だ。呼ばれて素直に応じる方も応じる方ではある。勤務暦十年近い楡に逆らえる新入社員も、そうそういないのだが。
「いや、なんか動いてないと落ち着かなくて。センパイそれ空じゃないっすか? どーぞどーぞ」
「まーまーぴーちゃん」
差し出された缶を楡が受け取る前に、呂律の回らない声が聞こえた。同時に友利の肩にのし掛かった大柄な女は、曽根崎睦美。際物だらけの社員を纏める女社長である。既に大分酔っている。
「あんたも飲みなさいってほら。ね!」
「社長そんな……うぷ」
睦美の体から放たれるきついアルコール臭に、友利は軽くえづいた。粗方食べ終わって以来忙しなく動いて座らなかったのは、単に酒が苦手だからなのかも知れない。
「ちょっとちょっと社長、離れた方がいいですって。若い子には毒ですよ社長の豊満ボディは」
同僚達がけたたましく笑い声を上げた。睦美は豪快に笑いながら、はちきれんばかりに太った腕で友利の背中を叩く。叩かれた方は痛そうに顔を歪め、実際いて、と呟いた。とんだとばっちりだ。
「まー宗ちゃん、減給されたいみたいね。笑ってんじゃないわよあんたらもよ!」
睦美は近くにいた社員を片端から平手で叩き、また笑った。豪快な性格で、悪態でも冗談なら軽く笑い飛ばしてくれるが、手が早いのが玉に瑕ではある。
楡は漸く解放された友利の顔を、下から覗き込んだ。今にも吐きそうな程青い顔をしていた彼は、楡の視線に気付くと驚いて身を引く。整った顔立ちは一瞬女のようにも見える。
「大丈夫? 抜ける?」
友利は未だ青い顔をしたまま僅かに頷いた。楡も頷いて立ち上がる。
砂利の上に座り込んでいたので、尻が痛い。楡は尻を摩りながら土手を登る。騒ぐ同僚達を横目に、二人はこっそりと輪から抜けた。
「いや助かったす。俺飲めないんスよ。マジ感謝してます」
軽い声音と口調だが、感謝されている事だけは確かのようだ。
「あの人達際限ないからね。早めに帰らないと、終電なくなっちゃうよ」
結局、酒は駄目らしかった。楡は煙草を吹かしながら土手を歩く。友利は少し遅れて後をついて来ていた。既に輪から大分離れている。
「あのセンパイ、どこまで行くんスか」
街灯も碌に立っていない土手を当てもなく歩くのに飽きたようで、友利は楡の背中に問い掛けた。
「止まる?」
言いながら立ち止まった。ぶつかりそうになった友利がたたらを踏む。足の長い楡とは大分歩幅が違うので、少々早足で歩いていたようだ。
「ありゃ、ごめん」
謝罪の気持ちが全く籠もっていない。
楡は土手に腰を下ろして胡座をかいた。どこでも座り込む癖があるから、彼は大抵作業服でいる。
「ぴーちゃんいいの?」
友利の薄い眉が怪訝に顰められた。
「毎年アレだよ、うち。何かある度に宴会だし」
「次からはテキトーに抜けるす。俺バンドやってんで、どーせ遅くまでは居られねーし」
腫れぼったい奥二重の瞼にも、ピアスが付いている。常に眠そうな顔をしているのはそのせいかと楡は思う。
「芸能界目指してる?」
「俺よかセンパイが目指した方が見込みあるカンジっすけどね」
楡は正面を向いたまま首を傾げた。
「俺興味ないもん」
「いやセンパイマジイケメンじゃないすか。マジ羨ましいっす」
「うん。もてるよ俺」
楡は事も無げにそう返した。友利が隣で肩を落とす。
「大変だね」
「好きでやってんで」
ふうんと呟いて、楡は背後のコンクリートに煙草を押し付けた。吸殻を草むらに投げ、背中を丸めて膝に頬杖をつく。春の爽やかな夜風が心地よい。
「でもやっぱアレっすね。音楽業界って、人殺し多いっすわ」
「へ?」
楡は大きな目を更に大きく見開いて、友利を見る。
「なんか俺、そーゆー人に縁があるみたいで。やっと集めたメンバーが二、三人やっちゃってたり」
友利は頬骨の張った顔に苦笑いを浮かべた。そんなに軽く言える事なのだろうか。性的倒錯者の楡には、そういった類の事に関しての常人の感性が分からない。
もしかしたら友利も既に、常人とは違う感性を持っているのかも知れないが。
「何人ぐらい?」
「え?」
「そういう人。会ったの」
友利は一瞬訝しげな表情を浮かべたが、首を捻って考え込む。楡は黙って待っていた。
「――覚えてねっすわ。知らねーだけで、もっといるかも知れねーし」
「そうだよねえ。そんなの数えないよね普通」
楡は煙草を取り出して火を点けながら、気のない声で言った。つまりは楡と同じようなものなのだろう。月に何体という頻度で死体を見付ける、楡と。ジャンケンが強いのとそう変わらない。
「まあ気をつけなよ。俺友達に刑事居るけど、最近の人殺しは皆頭イカレ……ん?」
楡は視線を流した方向に何かを見付けて、怪訝な声を上げた。目を凝らすと、暗闇に人影がぼんやりと見える。
「なんだあの人。酔っ払いかな、フラフラしてる」
「俺全然見えないんすけど」
楡は視力がいい。
絡まれても面白くないので立ち上がったが、何か妙だ。シルエットに見覚えがあるような気がする。
更に目を凝らして、彼は驚愕した。
「兄貴……」
宗一郎の兄、楡孝太郎は上下を変人に挟まれて肩身の狭い思いをするペシミストである。共通の友人に聞いた話では最近は妙な宗教に傾倒しているとの事だったが、兄はごく普通のサラリーマンだ。
それがこんな時間にこんな所で何をしているのか。酔っているにしてもこの辺りに飲み屋はないし、彼の自宅からは離れている。
「お兄さんすか?」
孝太郎は徐々に近付いて来る。ようやく相手の顔が見えるようになって、楡は眉を顰めた。友利が意外そうに目を見張る。宗一郎と全く似ていなかったからだ。
孝太郎は日本人離れした美貌の姉と弟に挟まれたせいで、己の凡庸な顔立ちを嘆いていた。悪くもないし、良くもない。普通なのだ。だから浮いてしまう。
楡も兄がそれを気にしている事を知っていたが、まさか宗教に走るとは思ってもみなかった。兄を嫌っている訳ではないから、どうにかしてやりたいとは思っていたのだが。
「兄貴? 何して――」
楡は目を見開いて、その場から飛び退いた。友利が小さく悲鳴を上げる。
街灯の光を反射して刃が光る。孝太郎の手にはサバイバルナイフが握られていた。更に弟に向かって、それを振り上げる。
顔付きが異常だ。生気が抜けたように白いのに、目だけが爛々と輝いている。
「ぴーちゃん、河原戻れ!」
楡はナイフを持った孝太郎の腕を掴んで、その腹を蹴り上げた。孝太郎は後ろに倒れて頭を強かに打ち付けるが、虚ろな表情のまま壊れたロボットのような動きで立ち上がると、弟に背を向けて来た道を走って行く。
楡は追い掛けようとしたが、肩越しに振り返った。
「帰ったって言っといて!」
友利には、はいと言うのが精一杯だった。そのまま楡は逃げ出した兄の後を追い、闇に消えた。