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化粧師  作者:
12/31

第三話 天女の羽衣 六

  十


「複雑っすよねえ」

 結局一晩中ファミリーレストランで話し込んでいた五人は、各々疲れ切った表情を浮かべていた。各々だらしない姿勢で、ソファ席に凭れている。

 落首花が消えた後、九重は紗代子に付き添って病院へ向かった。北見は今頃、押し付けられた事後処理に奔走している事だろう。北見というのはどんなに無茶な事でも、文句も言わずに引き受けてしまう男なのだ。

「事件自体は単純なものだったがな」

 沼津の呟きに、コーヒーを啜りながら国定が応える。

 国定と佐島は、気分が悪いと言って逃げてきた。佐島はともかく、国定は責任感の欠片もない。両名とも、気分が悪かったのは嘘ではないが。

「あの子さあ、気付いてたなら、何で早くさっちゃん助けてくれなかったんだろ」

 楡は頭の後ろで腕を組み、背もたれに寄りかかったまま国定の斜め上辺りの空間を見ていた。何も見ていないのだろう。

「彼女の考える事はわからないです。人を助けたかと思えば、他の誰かを殺したり」

 杉里だけは元気そうだった。分厚いノートに忙しなく、何やら書き込んでいる。

「気紛れなだけなんじゃないすかねえ」

 両手で頬杖を付いた佐島は欠伸混じりに言った。目が半分しか開いていない。殺人鬼が考える事など彼にとってはどうでもいい事だ。

「あいつ、なんでああ九重に絡むんだ?」

 国定は眉根を寄せて呟く。前回もそうだった。彼女は九重について何らか知っているような節がある。

 コーヒーが寝不足の胃に染みる。かと言って帰る気にはなれなかった。

「年頃の女の子ですからねえ。そういう事じゃないですか」

「明治から生きてて何が年頃だよ」

 首を捻った杉里に呆れた声で突っ込みながら、国定は痛む額を抑える。

「義近変な子にもてるからねえ」

「お前とかな」

「気持ち悪い言い方しないでよ」

 銜え煙草のまま器用に喋った楡は、心外そうに眉を顰めた。

 国定はそういった類の事には疎いが、あの殺人鬼がそれだけの理由でこちらに助言したとも思えない。そもそもそんな感情があるのかどうかさえ疑問だ。

 否、感情自体はあるのだろう。国定は落首花が一瞬見せたあの切なそうな顔が、どうにも心に引っ掛かっていた。あの殺人鬼らしからぬ小娘のような表情に、国定は微妙な気持ちになった。彼女のあの表情が、何を考えて浮かべられたものなのか、国定には分からない。けれどただ一つ言えるのは、あの顔を見た事で国定が罪の意識を感じてしまった、という事。シリアルキラーに対して覚えていい感情ではない。

 落首花を追う事。国定にとって、それは唯一何も知らぬ他人に言える、警官たる所以である。実際はそうでないにしろ、もし万が一、彼女を追えなくなってしまったら。追わなくなるだけの理由が出来てしまったら。

 自分は、どうすればいいだろう。

「でも良かったすね九重さん。奥さん無事に見付かって」

 佐島は沢村邸を出てから始めて笑顔を見せた。安堵したような笑みを見た沼津がつられて安心したのか、欠伸を漏らす。

「あれだけで記事書けそうですよ自分。現代に蘇る羽衣伝説!」

「それともまた違うと思いますよ」

「この人後輩? 杉さん大変だね」

「楡さん友達に持った国定警視も大変そうですけどね」

 楡が視線を向けたので、佐島は慌てて目を逸らした。叱られた子供のような表情だが、失言したのは彼本人だ。

「国さんも変態だからいいじゃん」

 今度は国定が嫌な顔をした。

「僕をお前と同列に並べるなよ」

「お二人共充分変態です、少なくとも理由ありきの弦太郎さんよりは」

「だから比べるなって」

 どちらも、あまり変わらないのかも知れない。故無き狂気か、なまじ理由がある為に進行して行く狂気か。ならばお前も犯罪者かと問われれば、それは違うと国定は答えるだろう。彼は見ているだけだ。他には何もない。それが果たして狂気であるのかさえ、判別出来ない。傍観するという、ただそれだけの為に動いている。落首花を知り、追い始めるまでは、国定が警官である理由はそんな下らない事だった。それ以外の理由、根底にあるものは、自分でも考えたくはない。

 無論、悪は駆逐すべきだと思う。国定は生来真面目な性格だ。しかし、それとこれとは別問題なのだ。今回犯人に対して憎悪を抱いたのも、同じ倒錯者としての同属嫌悪だったのかも知れない。或いは単純に、自分自身の正義感が彼の行為を悪だと判断したのか。後者であって欲しいと、国定は思う。身勝手な事だ。

 雪が九重紗代子だと知った時、国定は安堵感すら覚えた。同時に、不安だった。既に彼に手を付けられていたりしたら、九重に合わせる顔がないと思った。彼に、あれほど妻を想っていた彼に、なんと説明したらいいのだろう。そう思い悩んだが、悩んでいる間もなく、事実だけを告げるしかなかった。

 今まで九重に対して感じていた引け目は、警官としての立場から来る感情だったのだ。行方不明の妻を見つけられない事。国定はそれを、引け目と感じていた。困っている人を助けるのは警官の役目であるなどと、そんな子供じみた妄言を吐くつもりはない。けれど、そう考えているのは確かだった。

「とにかく今日は全員休め。明日には、北見警部から連絡があるだろう」

 国定はそう言って、疲れた体を起こした。


  *****


 もう何年も、夢を見ていた気がする。永遠とも思える程永く、逃げ出したくなる程辛い夢。それが覚めるのを、私は只手を拱いて待っていたのだ。あまつさえ、夢の中で置かれた状況を打開しようともしなかった。なんて愚かだったのだろう。すぐにでも、逃げ出す事は出来たはずなのに。

 何かが終わった瞬間、聞き覚えのある声がした。懐かしい声だと、そう思った。遠い昔に、何度も聞いたような気がした、強く呼ぶ声。その声が意味するものが私の名だと認識した瞬間、私は長い悪夢の呪縛から解放された。

 ここは何処なのだろう。微かに消毒液の匂いがする。何も感じられない。微かな音の気配すらもない。

 否。

 額の辺りに、感触がある。冷たくて、固くて、しかし何故か懐かしい。ゆっくりとした動作で、頭から額を往復している。

 嗚呼、これは撫でられているのだ。低い体温や骨ばった手の感触、少しぎこちない手つきまで、私は覚えている。

 それは間違いなく幼い頃、私が泣くと撫でてくれた手。困り果てて私を宥めながら、慣れない手つきで撫でてくれた。

 そして私を愛した手。

 やがて鼻につく匂いが、私の意識を急激に目覚めさせる。苦い煙の香り。煙草の強い臭い。何度言ってもやめなかった。私の髪にまで染み付いて漸く、彼は少しだけ本数を減らした。


――嗚呼。


  十一


 ベッドに横たわる紗代子の白い瞼が僅かに動いた瞬間、九重は額を撫でていた手を止めて身を乗り出した。

 紗代子が昏睡状態に陥ってから、既に一週間以上が経過していた。今目の前にいる、この八日間、ずっと眠り続けていた最愛の妻。五年もの間、忘れる事が出来なかった人。それがようやく、彼の元へ戻る。

 紗代子はゆっくりと目を開き、彼にしては珍しく呆然とした表情の夫を見て、花開くように微笑んだ。

「義くん」

 彼女は子供の頃からの綽名で夫を呼ぶ。それはずっと、彼が待ち望んでいた声だった。待ち望んでいた表情だった。

 堰を切ったように込み上げるものを抑えられず、彼は妻を抱き締めた。泣いているのか、紗代子の肩が僅かに震えている。

「……紗代」

 五年の虚は、漸く埋められた。

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