明るみの中
「おはよう」
彼女の声は不思議と雑音に混じらない透き通るような響きを持っていた。
俺はその声が苦手だ。
おそらく会話を途切らせた俺への挨拶に、彼女の机を囲む2人の女子クラスメイトが同時に俺へ顔を向けた。
俺はそれらを無視して彼女の後ろを過ぎ、自分の椅子を引きながら「おはよう」と呟くように、どうでもよさそうに言った。
彼女の声を模範とするなら、俺の声は雑音に紛れて隠れる、カメレオンのような声だろう。
「あんたらさ、昨日2人で帰ったんでしょ?」
会話に俺を巻き込むようにして、彼女の目の前に立つやたら背の高い女子が俺を見る。
その目はどこか鋭く、好奇心のようなものが窺えた。
上手くかわす答えがすぐに出てこなかった俺は、少し多めに息を吸ったものの吐き出す言葉はなく、ただの息としてまた体外へと戻した。
「そうだよ。ね、キョウくん」
彼女は親しげに俺に笑いかけた。
俺は校門で外したイヤホンを探すために鞄の中を手でかき回した。
「…本当に帰っただけだよ。幸田さんが何を想像してるかはわからないけど」
口に出してから後悔した。
言った瞬間、幸田さんの眉がピクリと渋くシワを作ったからだ。
「別に聞いただけじゃん。なんで朝からそんなに機嫌悪いの?」
そっくりそのまま返したかったが、俺の返答が幸田さんと同じ高さから返ってくることが許せなかったのだとしたら、何を言っても状況は悪化するのだろう。
「昨日はあんまり寝れてなくてさ」
俺は珍しく口角を上げてみた。
いつも読んでいる本の中の登場人物が俺の代わりに人間らしく生きてくれるので、表情が変わることが少ないのは自覚している。
それを欠点と思ったことはないけど。
「じゃあ、毎日寝不足なんだ?昨日も一昨日も、ずっと前も」
朝木芽衣はクスクスと笑った。
その笑顔は彼女を幼く、より無邪気に見せる笑顔だった。
「それは俺がずっと不機嫌だって言いたいの」
俺は絡まったイヤホンをカバンから出して、こんがらがった1番端から丁寧に解いていく。
「違う違う。キョウくんは今、不機嫌なんじゃなくって、これが普通なんだよって伝えたかったの、美聖に」
そう言う彼女に、美聖もとい幸田さんがふぅん、と重たく沈むように呟いた。
その隣にいた、同じくクラスメイトの槙田さんは始終ニヤニヤと笑っていた。
「そう、普通」
目は合わせなかったが、幸田さんには伝わった雰囲気があったので、俺は気にせず解いたイヤホンを耳にはめて音楽プレーヤーを取り出した。
選んだ曲はサザンの『渚のシンドバット』。
意外に思われることが多いが、この曲はかなり好きだ。
俺は音楽を聞くとき、歌詞はあんまり気にしない。
好きな声色とメロディーなら男でも女でも関係なく雑多に聞く。
なので、歌手は同じだったとしても好きな曲と嫌いな曲がかなりはっきりと別れる。
「・・・・・・」
「・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・」
聞き馴染んだ音楽の、更にバックグラウンドに、微かに彼女たちの会話が覗き込む。
内容まではわからない。過敏になって気にしている訳でもない。
「・・・きなの?」
「・ん、好き・・」
桑田の独特な声が途切れ、少しの間奏に入った時に、微かな会話が少しだけ目立って聞こえた。
朝木芽衣が、何かを好きと言ったように聞こえた。
ただ、そこにはサザンとイヤホンという壁があったので、確信は持てない。
だが、何かを好きだと言った気がした。
俺にはどうでも良いことだったのに、2番が終わっても、俺はサザンに集中できなかった。
「・・・」
担任が真っ黒のクマを見せつけるような見下す態度でやってきて、気まずい朝はなんとか過ぎた。
1時間目は、げ、体育だ。サボったらまた何か言われるだろうか。
でもいい。
他の教科は真面目に頑張っているし成績も悪くない。
体育で他の全てを棒に振るようなことにはならないだろう。
俺は体操着の着替えを持って大移動する生徒の大群に、一人手ぶらで紛れた。