02,猫又と大太郎法師は不法侵入とか気にしない。
美川家の朝は結構早い。
一〇月末の早朝〇四時五四分。まだ薄明るいと言うか薄暗い。いや、ぶっちゃけ暗い。少し明るい気がしたが気のせいだ。不覚。
畳とタンスと学習机代わりの卓袱台くらいしか無い殺風景な一〇畳間。
その中心に敷かれた布団の中で、皿助は健やかなる睡眠を取っていた。
「ッ」
四時五五分になったと同時、皿助が開眼。
「せいッ!」
刹那、二度寝願望を突っぱねるが如く、皿助は全力で毛布を蹴り上げた。
さながら竜にならんと滝を駆け上がる鯉の様に舞い上がった毛布。
毛布が上昇・滞空している間に皿助は身を捻り、シュババババッと言う空を切る音を伴う程の速度で回転しながら立ち上がる。さながらブレイクダンスの風車っぽい奴。その回転の最中に指で枕を引っ掛け、布団の外へ放り出す。
この間、僅か四半秒以下。
「しッ!」
枕と毛布を取り払われ、敷き布団の上にはシーツを残すのみ。
皿助は左手でシーツを取り払い、右手で敷き布団の端を掴んで勢い良く持ち上げ、一気に三つ折り。
敷き布団を畳み終えた右手でシーツの端を掴むと、そのまま両手でシーツの端を引っ張ってパンッと広げる。
ここで半秒経過。
蹴り上げた毛布が、降下を始める。
「……ふっ……」
ッ! 何と言う事だろう。
毛布の降下開始に気を取られ、我々が皿助から気が逸れた一瞬…いや、刹那の間に、皿助はシーツを畳み終え、三つ折りにした敷き布団の上に乗せていた。
どや顔である。「毛布、存外に鈍いな」とでも言いた気である。毛布相手に大人気ない。
皿助は悠々と余裕たっぷりな動作で毛布を掴み取り、そして畳む。
畳んだ毛布と枕をシーツの上に重ねて置き、一息。
ここまで、皿助開眼から僅か一秒半の出来事。
後は一山にまとめた布団シーツ毛布枕を持ち上げ、押入れに突っ込んでしまえば完遂である。
「よいしょ……、ッ」
布団達を持ち上げた瞬間、皿助は脇腹に僅かな痛みを覚えた。
じんわりと、腹の肉の奥で何かがゆっくり広がっていく様な鈍い感触の痛みだ。
大した痛みではないが、決して無視はできない程度。
「……晴華ちゃんのアレか」
その鈍痛の原因に、皿助は心当たりがある。
昨日の夕方、河川敷にて出会った河童の姫様、晴華。
皿助は晴華に、全力の突進を喰らった。
あれはもう凄まじかった。
何分、皿助は肋骨を粉砕骨折するのは初めてだった。皿助の肋骨は骨折処女だったのである。
故、夕日の空と一体になりながら、「肋骨が砕け散るとこんなにも耳の内に鈍い音が響くのか」と新鮮な驚きを覚えていた。
「ふむ……やはり、妖怪の不思議お薬でも、完治とはいかないか」
あの後、晴華ちゃんが「ひぇぇぇ」と阿鼻叫喚しながら取り出したお薬。確か『河童の妙薬』とか言う謎の軟膏だったか。
その効能は凄まじく、骨折や筋肉の断裂も一瞬で治癒した。
だが、いくらすごく発展した妖怪科学の産物と言えど、限界はあるのだろう。
なので、激しめに動くと腹の奥がやや痛む。と言う訳だ。
「……まぁ、『報い』と言う奴だな」
純粋な感動から抱きつこうとした晴華を、若干の下心で出迎えようとした皿助への天罰。因果応報。
そう考えれば、この程度の痛みは妥当な物だろう。いや、むしろ足りないくらいかも知れない。神様の温情判決に感謝しよう。
さて、と、皿助は思考を寝具の片付けに戻す。
押入れの麩の前へ行き、足を使って麩を開…
「どうぞですニャン」
皿助が麩を開ける前に、黒い着物に身を包んだ小柄な少女が麩を開けてくれた。
「おお、ありがとう。助かった」
「どういたしましてですニャン」
黒い着物の少女がニッコリと笑う。
不思議な雰囲気の少女である。何より不思議なのは、少女の耳の形状か。
頭髪は少し毛質の違う黒毛に覆われた三角耳。まるで犬猫の類、獣のそれだ。
「ゥヴォォ」
「む?」
いつの間にやら。
皿助の背後には、巨大な岩石が……いや、違う。巨大な岩石と見間違う程に無骨な、浅黒い大男が立っていた。
とてもデカい。天井に頬ずり状態だ。その巨体故、そこそこ広いはずの皿助の私室にどうしようもない圧迫感をもたらしている。
「ヴォヴォ」
大男はそう一唸りすると、皿助が抱えていた寝具一式を片手で鷲掴みにし、静かな動作で丁寧に押入れの中へと押し込んだ。
「おお。そんな事まで手伝ってもらってすまない。ありがとう」
「ヴォウ」
大男もニッコリと笑った。
「ふむ……」
……………………。
「……ところで、君達は何者なんだ?」
全く意味がわからないな、不思議だ。と皿助は心の底から思う。
何だこの不思議少女と不思議大男。
少女の方は獣耳で不思議。大男の方は最早「大柄ですね」とか言う感想で済ませていいサイズでは無いので不思議だ。皿助の父よりも大きい。
皿助は現実で獣耳をこさえた少女など見た事が無いし、父よりも大きな男を見た事も無い。実に不思議。
何よりの不思議は、一体いつの間に入室したのかと言う点である。本気不思議。
「ニャッニャッニャッ。これはこれは、申し遅れましたですニャン。私は『妖怪保安局』対人間課所属、丹小又と申しますニャン」
「ヴォヴォオ、ヴォッ」
「こっちの、見た目の厳つさが留まる所を知らないけど実は草食系なのは私の同僚、大鱈と言いますですニャン。以後お見知りおきをですニャン」
「ヴォルォォオオオオ」
よろしくぅ。と言わんばかりに、大鱈が唸る。
「はぁ……『妖怪』保安局と言う事は……」
「はいですニャン。私は『猫又』、大鱈は『大太郎法師』と言う妖怪ですニャン」
「……何と言うか、晴華ちゃんと言い、やたらと人間めいているな」
丹小又は猫耳をもいでしまえばただの少女だし、大鱈も少し縮めればただの筋肉質で浅黒いおっさんでしかない。
まぁ、それでも頭に醤油皿を乗っけてるだけよりは、いくらか人外感に恵まれているが。
「少々妖怪感が足りない、とは常々言われますですニャン」
「ヴォゥオ」
僕達も頑張ってはいるんですけどね。と大鱈が苦笑。
「で、妖怪保安局…名前から妖怪の警察機関の様な物だと察するが……」
「まぁ、妖怪社会は各種族ごとの自治権が半端じゃないので、人間で言う警察程の権力は持ち合わせちゃいないですニャンが、似た様な物と考えていただいて結構ですニャン」
「ヴォヴォヴォォォオオ」
「そんな組織に所属するお二人が、ウチに何か用か?」
美川家には人間しかいないはずだが。
……いや、そうでもないかも知れないな、と皿助はふと考える。
皿助は今までとても良い人生を歩んできた。それは幸せと言えるだろう。
もしかしたらだが、この家には「幸せを呼ぶ」と名高いあの『座敷童子』が……
「この家に、と言うか、貴方に用があってお邪魔させていただいてますですニャン」
「ヴヴォォン」
「俺に用?」
美川家座敷童子めっちゃ定住説は無さそうだ。
「はいですニャン。さて、美川皿助さん」
「! 何故俺の名前を」
「ボスから大体の事は聞いてますニャン。貴方の名前、貴方の住処、貴方のホクロの位置、そして、昨日の夕方の一件」
「……!」
「ボスはいわゆる『千里眼』を持っていますですニャン。この世の全てを見て知る事のできるすごい眼ですニャン」
「……そうか……」
皿助は少しばかり身構える。
昨日の一件を知り、妖怪の警察的な物が、自分を訪ねてくる。
その理由について、推測できる答えはそう多くない。
皿助は昨日、晴華を守るためとは言え、冠黒武と言う烏天狗を「暴力的な手段で退けた」。もしもこれを人間に置き換えるなら、立派な傷害行為だ。
それを理由に皿助を拘束しに……
「では早速本題ですニャン。これをお飲みくださいですニャン」
「………………ん? 何だこれ……桃色の、丸薬か?」
「ですニャン。『カマイタチ製薬』が市販している汎用回復薬ですニャン。河童の妙薬程では無いですニャンが、人間如きの単純な体細胞ならめちゃんこ効くと思いますですニャン。あ、水無しでイケるタイプですニャンのでご安心」
「回復薬?」
「皿助さん、貴方、まだ少し、お腹に痛みが残ってるんじゃないですニャン?」
「それは、まぁ……よくわかったな」
「ボスは全部お見通しですニャン。河童の妙薬は軟膏故、体の深い所の痛みは取りにくいんですニャン。でもこの薬なら飲むタイプなので余裕って寸法ですニャン!」
「ヴォオ」
「……えーと……つまり、お二人は……俺の怪我を完治させるために来てくれた、と言う事か?」
「その通りですニャン。『妖怪に関わってしまった人間の諸々アフターケア』が私達の所属する『対人間課』の職務領域ですニャン」
「ヴォヴォ」
「手厚いな、妖怪社会」
「まぁ、善意と言うより打算の上での手厚さですニャン。人間を雑に扱うと『陰陽師』の連中がうるさいですニャンから」
「陰陽師……」
この前の日曜日に映画でもやっていた。
確か、平安時代頃から妖怪やらなんやらと戦っている人達、だったか。
今まで妖怪同様、フィクション的存在…いわゆる非実在青少年的な類のモノだと思っていたが……丹小又の口ぶりから察するに、これまた妖怪同様実在する様だ。実在青少年的存在だった訳である。
「妖界史上、連中とガチって痛い目を見た妖怪も少なくはないですニャン。妖怪保安局は妖怪同士の衝突の処理はモチロン、妖怪と人間の関係性にも細心の注意を払ってる訳ですニャン。種族を問わず、大きな揉め事は誰も得しないですニャンからね」
「苦労している様子だな」
まぁ、それはともかくとして。
皿助はありがたく丸薬を受け取り、口に放り込む。
「…………お」
本当にめちゃんこ効く。一瞬で、痛みの余韻が消えて失せた。素晴過ぎる。非常にすごい。
「ちなみに私と大鱈のコンビは『妖怪同士の争いに巻き込まれた人間や人間界の土地へのアフターケア』がメインですニャン。支給されている機装纏鎧の特性もそっち系ですニャン」
「機装纏鎧の特性?」
「機装纏鎧が持つ個性、まぁ独自の特殊能力ですニャンね。貴方が使ったダイカッパーなら『超膂力』。相対した漆飛羅天喰は『風の操作』」
「ダイカッパーにそんな特性があったのか」
確かに、すごいパワーではあったが。
「私の機装纏鎧『戯伽寝虎』は記憶や精神の操作で、妖怪同士の過激な戦闘を見た事によるショックを取り除きますですニャン」
「ヴォオ、ヴォヴォヴォウヴォヴォヴォ」
「大鱈の機装纏鎧『萬拿楽保地』は簡単に言うと地形が操作でき、どんな激戦の痕跡だろうと綺麗さっぱり隠滅しますですニャン」
「ヴォー」
「それはすごいな……」
この二人は後処理のプロフェッショナルと言う事か。
「と言う訳で、貴方が望むのであれば、先日の夕刻の件……貴方の記憶から削除する事もできますですニャン」
「? いや、そんな事は絶対に望まないが」
そんな事をしてしまったら、晴華の事まで忘れてしまう。
付き合いの長さなど小事。皿助に取って、晴華はもう大切な友人の一人だ。
「そうですニャンか。まぁ、ですニャンよね」
おそらく、ボスとやらから皿助と晴華の関係性、そして皿助のある程度の性格や行動思想は聞き及んでいたのだろう。
予想通りですニャン。と言わんばかりに、丹小又は話を進める。
「では、ここで一つ、忠告ですニャン」
不意に、丹小又の声のトーンが一段階落ちた。
真面目だ、至極真面目な話をするぞ。そんな意気のトーンだ。
「誤解無き様に言わせてもらいますですニャンが、あくまで、妖怪保安局対人間課がケアするのは『妖怪に関わってしまった』人間のみですニャン。『妖怪に自ら関わる人間』は対象外ですニャン」
「それはつまり……」
「例えば、妖怪に関する記憶を望んで保持し、自発的に妖怪に関わる人間に対しては……規定に従い、我々はその人間のケアは行わない……いえ、行えないですニャン」
昨日の一件、皿助はあくまで成り行きで巻き込まれただけ。
だから丹小又達は皿助の怪我をケアするべく、今ここにやって来た。
だが、もしこれから皿助が晴華のために自分から妖怪に関わるのであれば、もうケアはしない。
どんな怪我をしても……そう、例えばまた天狗族の追手的な者と戦闘し、致命傷を負ってしまっても、妖怪保安局は皿助を見殺しにする。
「おそらく、あの河童姫はまた貴方の前に現れますですニャン。現状、唯一の助けである貴方にすがるでしょう。……正味な話、人間が妖怪と関わるとロクな事にならないですニャン。生物としての性能に差があり過ぎるため、妖怪側は貴方の命を奪うつもりはなくとも、貴方は死んでしまう事が充分に有り得ますですニャン。現に、それは体験済みと聞いてますですニャンが?」
「……………………」
確かに、皿助は晴華の飛びつき抱擁で重傷を負った。
当然、あの時の晴華は、皿助を傷つけたいなどとは思っていなかっただろう。
「河童姫の事情も聞いてますニャン。肩入れしたくなる気持ちは充分に理解できるので、私としても河童姫を応援したいですニャンが……今回の件、公的には『河童族の内輪揉めの解消に天狗族が手を貸しているだけ』…残念ながら我々妖怪保安局は介入できないのですニャン」
今回の件は「河童・天狗両族長の決定に、河童族の姫である晴華が不満を持って家出した」事に始まる。そして天狗族はあくまで「河童族の代理として晴華を連れ戻しを請け負っている」だけ。
言ってしまえば河童族の御家騒動の様な物であり、天狗族はそれに助力しているに過ぎない。
妖怪社会に置ける公的認識としては『A家のワガママ家出娘を、B家のお節介さんが「ほら、おウチ帰るよ!」と無理矢理手を引いて連れ帰ろうとしている』だけ。そしてA家はB家のやり方を承知した上で黙認、つまり事実上許可している。
公的には、事件性が極めて低い案件と言わざるを得ない。
そして先程丹小又が言った通り、妖怪社会は種族ごとの自治権が強い。
事件性が低い種族内の騒動とされる本件には、介入できない。
「……でも、だからと言って、貴方がこの問題に介入すると言う事は、貴方個人が天狗族と事を構えると言う事になりかねないですニャン。そして、天狗族は妖怪の中でも『鬼』と並ぶ程の武闘派で名が通ってますですニャン」
「ヴォヴヴヴォオオオ。ォォォオヴォ、ヴォオオオ」
「大鱈の言う通り、それらを承知の上で、尚、あの河童姫と友達であり続けたい…記憶を保持し続けるのであれば、今後、妖怪との…特に天狗族との関わり方は、充分に熟慮してくださいですニャン」
要するに、記憶を削除しないなら、妖怪保安局は皿助を「妖怪と自主的に関わる人間」と判断し、もうケアを行わない。助けない。つまり、皿助が今後、天狗と揉めて怪我をしても丹小又達は助けには来ないと言う事。
晴華と友達でいたいと言うのならそれで良い。そうしてあげると良い。
でも、天狗族に喧嘩を売る様な真似は避け、危険の無い様に気を付けろ。
そう、丹小又は忠告しているのである。
「……ふむ。承知した。忠告、感謝する。善処もする」
「では、用件は以上になりますですニャン。もう関わる事は無いかと思いますですニャンが、またご縁がありましたら!」
「ヴォヴヴヴォオオオオオオオォォォ」
それだけ言うと、丹小又と大鱈はさっさと窓際へ移動。
丹小又が窓を開けると、大鱈はまるで軟体動物の様に体をグニャグニャと畳んで窓の外へ。丹小又もそれに続く。
「ごーきーげーんーよーでーすーにゃぁーん」
「ヴォォーオーオーオーオーオーオォォォー」
「……天狗との、関わり方、か」
遠退いて行く丹小又達の声を聞きながら、皿助は考える。
晴華と友達でありながら、晴華に害を成す天狗族とは揉めない様にする……
「……かなり難しそうだな」
未熟者故に実際に死んだ事が無いので、皿助は『死の恐怖』と言うモノは今いちピンと来ない。だが、早死は損だと聞いているので、極力長生きはしたいと思っている。
なので、この件は早死しない様に上手くやるしかあるまい。
そのためには、充分な対策をした方が良いのだろうが……この件に関しては、余りにも今後どうなるかが予想できな過ぎる。
何か考えようにも、妖怪に関する情報が少ない。
理想としては、次に晴華に会う頃にはこの問題が綺麗さっぱり解決している事、か。
「ふむ」
今はとりあえず、目下、朝の身支度を優先するとしよう。
◆
皿助には非常に付き合い長き友人がいる。
そう、『幼馴染』だ。
その名は平良月匈音。何を隠そう、皿助と同じ高校一年生である。
深い紺色の冬仕様セーラー服を着こなす様はまさに立派女子高生。
成績優秀。その三つ編みのお下げと瓶の底をくり抜いて作った様な眼鏡はあらゆる意味で伊達に非ずと言う事。
そしてスタイル……主に胸部について言及するならば、物足りない程に健全である。ラーメンで言えば極めてあっさり。月匈音の実家は八百屋を経営しているので、幼少期から健全な栄養には困らなかったはずだが……いかんせん、肉の官能的栄養が足りず、健全が過ぎてしまったのだろう。悔やまれる。
「………………………………」
朝八時間近。
学校へ向かう支度を済ませ、皿助が迎えに来るまで実家の八百屋の開店作業を手伝っていた貧乳、月匈音は少々戸惑っていた。
店頭、道路を挟んだ向こう側の電柱の影。そこから何やら弩助平な豊満恵体を和装で包んだ少女そこにいたのだ。
妙な事に、その少女、頭に小さな醤油皿を乗せている。
ファッションは自由だが、流石に衣類・装飾品とは完全に別系統の文化である食器を組み込むのは如何な物だろうか。
まぁ、そうは言っても。
月匈音的には正味そこは百歩譲れる。百歩では不足だと言うのであればもう少し譲っても良い。
何故そこまで譲れるのか。
単純に、至極どうでも良い事だからだ。
何を隠そう月匈音、自身と家族親族と皿助、そしてそれらの人物が必要としている人材以外の人類に対しては、ぶっちゃけ生きていようが死んでいようが構わない程度に興味が無いのだ。
月匈音が戸惑っているのは、あのイカれたファッションセンスを憚りなく晒す少女の『視線』。
あの少女、ひたすらこっちを見ている。とてもとても見ている。凝視している。瞬きくらいすべきだ。
もし視線に物理エネルギーがあったのならば、月匈音は胸を貫かれて死んでいただろう。
自身の豊満が過ぎる罪深いバストとは次元を隔てた哀愁を纏う月匈音の胸に何かを想っている……と言う訳では無さそうだ。
あの少女の視線は、月匈音が抱きかかえたダンボールの中身……大量のキュウリにロックオンされている。
「…………………………」
何なんだろう、アレ。気持ち悪い。死ねば良いのに。
そんな感想が、月匈音の絶壁めいた胸の中で止む事を知らない。
「おはよう月匈音。朝から精が出ているな。相変わらず店の手伝いか。実に殊勝」
と、そんな所に大柄学ラン野郎であり月匈音の幼馴染、皿助が登場した。幼馴染らしく、月匈音と共に登校するためだ。小学生の頃からの習慣である。
「ああ、おはよう皿助。丁度良い所に来たわね」
「何だ、有事か? 任せ…」
「あ、べーちゃん!」
「え?」
「む? その声は……」
何が一体どう言う事か。
月匈音が草一本無い不毛の荒野の様な胸に抱いていたキュウリに奇妙な程に熱い視線を送っていた少女が、電柱の影から飛び出し、トテトテと言う間抜けな足音を伴ってこちらに駆け寄って来た。まるで飼い主を見つけた犬コロの様な、とても無邪気な笑顔を浮かべていると言うオマケ付きだ。
「君は……晴華ちゃんじゃあないか」
「はい! 確かに晴華です! 昨日の夕方ぶりですね!」
「……皿助、知り合いなの?」
「ああ、河童の晴華ちゃん。俺の良き友人だ」
「河童って…いえ、そんな事よりも、友人?」
「うむ」
「はい! 昨日会ったばかりですが、気分的には心の友です!」
「ところで心の友よ。何故こんな所に?」
「あ、実はですね……」
と、ここで突然、辺り一帯に地響きの様な怪音が響き始めた。
「え? 何? 敵襲?」
「いや、違うな」
警戒し殺戮態勢に入る月匈音に対し、皿助は非常に冷静。どころか、その表情には少し呆れた様な色が見える。
「…………………………」
皿助の呆れた視線を受け、晴華はお腹を押さえて沈黙。
「……察した。逃亡生活を始めたは良いモノの、よくよく考えると人間社会に置ける先立つ物…金銭を持っておらず、食料の調達が困難な状況に陥り……ズバリ空腹か」
まぁ、昨日の今日だ。
天狗との騒動が解決している訳もなく、晴華は予定通り逃亡生活の只中なのは確実。
その状況で腹を豪快に鳴らすとあれば、それくらいしか想像できない。
「はい……まぁ、河童は水さえ飲んでいれば半年は生きれるんですけど……お腹は普通に空く物で……そんな中、キュウリの香ばしい匂いがして……いつの間にかここに導かれし河童」
「ああ、さっきまでの異様に灼熱な視線はそう言う……」
やれやれ、と月匈音は溜息一つ。
そしてダンボールの中から一本キュウリを手に取ると、
「はい」
「……え?」
キュウリを、晴華へと差し出した。
「も、もしかして、くれるんですか……?」
「何か不思議? 大体、この動作に、それ以外のどう言う意図があると思うの?」
「で、でも、あなたは察するにべーちゃんの仲良い人みたいですが……私とは何の関わりも無いのに、そんな厚意を……」
「皿助は私の物。すなわち、皿助の友達も私の物。自分の物は大事にする。厚意とかじゃなくて当然の行為よ」
晴華が赤の他人だったならば、月匈音だってこんな施しはしない。「その乳でも取って食ってリサイクルしてろファッキン」と吐き捨てて終わりだ。
だが、皿助の友達とあれば別。別次元。慈母が我が子に対する様に、無償の愛すら惜しみはしない。さながら聖母ッ。
「晴華ちゃん、遠慮はいらない。何故ならこいつは俺や俺の関係者に不思議と非常に優しいからだ」
「ぅ、ううう……感動です! ツクネさんでしたっけ!? 親愛を込めてツッキーと呼ばせていただきます!」
「なら私は……確か、晴華ちゃんだったわね。パッチーと呼ばせてもらうわ」
「ツッキー! 今こそ感無量のハグをッ! とりゃぁぁああああああああ!!!!」
「ん? バッチ来いパッチー」
「あ、待て! 月匈音! 晴華ちゃん! ストッ…」
「はぁ? 皿助、何を慌てげぶるぁッ」
「あっ」
「月匈音ぇぇぇぇええええええええッ!!!!」
◆
「ご、ごめんなさい……昨日皿助さんに飛び付いた時よりは、かなり加減したつもりだったんですが……」
まだまだ加減が足りなかった、それだけの実にシンプルな話だろう。河童恐い。
「あー、死ぬかと思った……肋骨にヒビ入るってあんなに痛いのね……一瞬完全に意識飛んだ。肋骨折れてもちょっと眉を顰める程度で済む少年漫画の主人公って化物だわ」
河童の妙薬で復活した月匈音が「やれやれ」と言った調子で口から溢れた吐血の筋を拭う。
「本当にごめんなさい……キュウリを食べる体力が残る程度にお腹切ります」
「店先を汚されると掃除が面倒だからやめて。血糊って落としにくいのよ本気マジで」
「ですが、この失態は……」
「良いから、さっさとキュウリ食べなさい。可能な限り美味しそうに能天気な笑顔を浮かべて食べなさい。それが八百屋の娘に対する何よりの償いになるから」
「そ、そんな素敵な償いの文化が……!? で、では早速!」
と、晴華はキュウリを掴むと……何故かそれを、豊満の胸の中央、素敵な深淵へと繋がる谷間にスポッと差し込んだ。
「……何をしているんだ、晴華ちゃん」
「はい? キュウリを人肌に温めているだけですが? 何か不思議が?」
「いや、だから何故?」
「? キュウリをいただく前には、まず懐に入れ、感謝の心を以て人肌に温めるのが当然の礼儀じゃ……あ、もしかしてこれ、カルチャーギャップと言う奴ですか!?」
「まぁ、私達にはそんな文化は無いわね」
どうやら、河童に取ってキュウリはとても神聖な食べ物らしい。
食す前には懐に収め、「私の元へ来てくれてどうもありがとう」と言う思いを込めて温める、と言う習わしがある様だ。
「感謝の念を込めて懐で人肌に温めた後、キュウリの表面を丹念にしゃぶりねぶり回して皮の味を存分に楽しんでから、豪快にしゃくっ! これが私達河童がキュウリをいただく作法なんです。なのでその……必ず最後はすごく美味しそうに食べると約束しますので、少々お時間をください!」
「いや、まぁ別に急かしはしないわよ。自分のペースで食べなさい」
「ありがとうございます! 本当に優しい!」
「うむ……むっ」
幼馴染と友人のやり取りを微笑みながら見守っていた皿助が、ふと自らが登校途中であった事を思い出した。
「おい月匈音。そう言えば学校だ」
「あ、いけない。どうでも良すぎて忘れてた。まぁ準備は済んでるからいつでも出られるわ」
「そうか。では行こう。晴華ちゃん、すまないが俺達は野暮用がある。またいつか、ゆっくり話をしよう」
「あ、はい! じゃあ私も逃亡再開します!」
「ひもじくてしょうがなくなったら、いつでもウチに来なさい。キュウリくらいなら分けてあげるわ」
「ほぁああ!? マジですかツッキー!? 私、結構お言葉に甘える系の河童ですよ……?」
「バッチ来い。自家農園持ち八百屋の懐事情がどんだけ豊かかを思い知らせてあげるわ」
「ツッキー大好き!」
◆
某所。暗くて何も見えない場所。
室内なのだが、蛍光灯が完全に切れてしまっているらしい。
「……ふぅむ、あの若い烏天狗、しくじりおったか」
声色は幼い少女の様だのに、調子は非常にゆったりとしていて、大人めいた余裕に満ちている。
そんな矛盾を抱えた声が、闇の中に響き渡った。
「はっ。機装纏鎧もまともに起動できない様な『河童の姫君』だけなら、奴で余裕充分と考えていたのですが……」
淑やかな幼女の声に応えたのは、対象的なハスキーボイス。暗闇故に声の主の姿は見えないが、確実に男性で、それもそこそこの大柄、歳もそれなりに積んでいるだろうと想像できる。
「どうやら、河童の姫君に与し、代理として機装纏鎧を使用し戦う奇特な人間が現れた様です。トルノーズの小隊副隊長補佐と言えど、結局支給されている機装纏鎧は粗造量産な代物。実験段階にある『例の新兵器』を併用していれば、話は違ってきましたでしょうが……現状、あんな粗末な品で一種族の姫を守護する逸品をまともに相手にしては、手も足も出ず当然の結果と言えますでしょう」
「……まぁ、それはひとまず置いといて。替えの蛍光灯はまだなのか? オヌシの顔も見えないレベルで暗いんじゃが。そしてこの状況で普通に報告始めるオヌシの神経も中々のもんだのう」
「お褒めに授かり光栄。恐悦至極。蛍光灯はストックが切れていたため、至急調達に行かせている所です。どうか、もう少々ばかりお待ちください」
幼女は闇の中、「褒めてないけど」と溜息を吐く。
「では、話戻すが……どうする気なのじゃ? 次はトルノーズ小隊副隊長でも動かすのか?」
「いえ。相手は特機。機装纏鎧に不慣れな人間が操縦しているとは言え、おそらくトルノーズ小隊隊長クラスの改機でも手に余るモノと予想します。しかしそれ以上の人員を動かすのは容易に非ず」
「オヌシが出れば良いじゃあないか。暇なのじゃろう?」
「この後、族長様に妖怪ゴルフのお誘いを受けております故、どうかご勘弁を」
「……………………では、どうするのじゃ?」
「ここは『MBF』の連中を動かそうと考えております」
「! あのゴロツキ共を……」
「ゴロツキと言えど、戦力的価値は確か。更には特機を擁し、それを用いた戦闘にも慣れている。連中なれば、河童族の特機にも充分対抗できましょう」
ただ……、とハスキーボイスは少し間を開け、
「血の気の多い戦闘中毒者染みた連中故、河童の姫君の協力者……その方の『命の保証が確実では無い』と言うのが、少々の難点ではございますがね」
◆DATA◆
●戯伽寝虎
□規格:特機、特殊運用極軽装型、三メートル級
□媒介:特殊繊維の肉球手袋
□固有特性:『暗現誘幻』
・属性:特殊
・条件を満たすと、相手の精神状態の調整や記憶の改変が行える。
□性能指標
・耐久性★☆☆☆☆
・機動性★★★★★★★★★★★★★★★
・破壊性☆☆☆☆☆
・操作性★★☆☆☆
・特別性★★★★★★★★
・総評
兵器と言うか、やたら大掛かりで非常に萌える記憶消去装置。
□妖術武装
・無し。
●萬拿楽保地
□規格:特機、特殊運用可変式極重装型、五〇~一〇〇メートル級
□媒介:妖木でこさえた杭打ち用の大槌
□固有特性:『万物流移』
・属性:特殊
・あらゆる物質を粘土の如くこね回したり動かしたり出来る。
□性能指標
・耐久性★★★★★★★★★★★★★★★
・機動性☆☆☆☆☆
・破壊性★★★★★★★
・操作性★☆☆☆☆
・特別性★★★★★★★★
・総評
兵器と言うか、大掛かりが過ぎる土木工事用重機。
□妖術武装
・充塗治工指筆
属性:特殊
指先に装着する筆型の装備。
筆先でなぞった場所に思い通りの色を付ける事が出来る。
そして色を付けた箇所を、使用者が抱くその色のイメージに深く適合する材質(緑色なら植物、赤茶色ならレンガ等)に変換可能。
なので草原が焼け野原になろうと、使用者次第では完璧な復元が出来る。
使用者の彩色センスとイメージ力が問われる逸品。