百奇夜行 ~生卵~
好き嫌いにはうるさい父親が、実は生卵が全く食べられない事が私が高校最後の夏休みを過ごしていたとある夕方に発覚した。散々お小言をもらったり怒られた恨みも少しだけこめて、
「お父さん、ずるい!」
と、冗談めかして言ってみる。すると、お父さんは少しだけ真面目な顔になると、こんな話をしてくれた。
父が小学校高学年の頃のこと、というからもう四十年は前の事だ。父の育った実家は山あいの農村だった。今の子供と違ってゲーム機やカードがあるわけでもなく、子供たちは野や山で虫取りをしたり、神社の境内でヒーローごっこをしたりして遊んでいたそうだ。
その日も神社の境内に近い裏山で、お父さんたちは遊んでいた。
「夏休みが終わったすぐ後くらいだったかな、セミがうるさく鳴いていたよ。時間は陽が傾きかけてた頃だな。空が真っ赤だったのをなぜかよく覚えてるよ。」
まだ未舗装だった山道の傍ら、しめ縄の結んである大きな岩の上に何かが動いた。蛇だった。
竹藪なんかの多いそのあたりでは蛇は別に珍しい存在ではなかった。もちろん子供たちも怖がるでもなく、時々は玩具にしたりもしていた。しかし、その時現れた蛇はちょっと違っていた。
「岩の上でな、夕日の色になっていたんだよ。」
要するに白蛇、それも真っ白なヘビだったのだ。前に言ったように子供たちはよく蛇をおもちゃにして、随分ひどいこともしていた。しかし、今目の前にいる蛇には誰も手を出そうとしなかった。
「爺ちゃんやばあちゃんから、みんなきつく言われていたんだ。『白蛇だけには手を出しちゃいけない』ってな。」
ともかく、そのヘビはそっとして帰ろう、という話になりかけたのだが、友達の一人が
「そんなの迷信だ!」
と言い出した。キヨト君という、街の方から転校してきた子だった。成績のいい子で、将来は学者になりたい、と言っていたそうだ。
「あんなの色が違うだけのただの動物だ。何も怖い事なんかあるものか。」
キヨト君はそういうと他の子供たちが止めるのも聞かず、岩に上って、逃げ出そうとした蛇のしっぽを捕まえた。
「えい!」
「あっ!」
キヨト君は蛇を道に力いっぱい叩きつけた。
「父さんたちは必死に、もうやめろよ、って止めたんだけどな。」
キヨト君は体をくねらせて逃げようとする白蛇を何度も何度も地面に叩きつけた。やがて白蛇はぐったりした。
「どんなもんだ!」
他のみんなはもう声も出せなかった。
「キヨト君は体も大きく、力も強かったからな。力づくで止めようという気にはなれなかった。」
それでもまだ白蛇には息があった。必死にはって叢に逃げようとしていた。しかし、キヨト君はそれを目ざとく見つけると、道端の大きな石を持ち上げた。
「やめろ、というひまもなかったよ。」
キヨト君は、その石を白蛇の頭めがけて力いっぱい叩きつけた。蛇は大きく痙攣すると、もう動かなくなった。
「ほら!何にも起きな……」
得意げに宣言するキヨト君も異変に気付いたようだ。
あたりは静寂に包まれていた。
あれだけうるさかったセミの声がピタリと止み、ねぐらへ帰るのか、さかんに鳴いていたカラスの声もしなくなっていた。
「それなのにな、音がするんだよ。キーンっていうな。まるで耳に突き刺さるみたいな音が。」
ざざざざざ!
静寂を破るかのように道の周りの草木が揺れた。風もないのに。
<誰か>が怒ってる。本能がそう告げていた。
「ずっと、ごめんなさい、ごめんなさい、って言いながら家まで走ったよ。」
その晩から父は高熱を出して寝込んだ。やっと熱が引いたのは二日も経ってからの事だった。
学校へ行くと、先日山に行った友達はみんな同じように熱を出していた。あの日の事は誰も話さなかった。話してはいけないことのような気がしたし、何よりもキヨト君が来ていなかったからだ。
キヨト君はそれから何日過ぎても登校してこなかった。どこから出てものか、キヨト君は神様にたたられて体がぐにゃぐにゃになった、いや鱗が生えた、などとの噂が立ったがほんとうのところは誰も知らなかった。
二週間ほどが過ぎた。父は先生から声をかけられた。キヨトの家に授業のプリントを届けるように頼まれたのだ。通学路の途中だからという理由だった。当然、父は断った。
「だいぶ粘ったんだけどな。先生には勝てなかった。あの時の帰り道は普段より何十倍も長かった気がしたな。……オーバーとか言うなよ。」
キヨト君の家は大きな二階家だった。キヨト君の父親が銀行の支店長だったか何かの相当えらい人だったらしい。もうセミの声のかわりにコオロギの声がする季節になっていた。
家は静まり返っていた。誰もいないのだろうか。だったらプリントだけを玄関先に置いて帰ればいい。そう思った矢先のことだった。
「よう。」
上から声がした。父は心臓が飛び出すかと思ったそうだ。おそるおそる上を向くと、二階の締め切ったレースのカーテンの向うに誰かがいた。声からするとキヨト君らしい。
「ありがとう。今降りていく。玄関で待ってて。」
と言って窓から姿を消した。
「今思うと、何であの時すぐに帰らなかったんだろうな。」
玄関の空気はひんやりとしていた。はく製や木彫りのクマ、どこか外国の民芸品、それになにも入っていない大きな水槽が置かれていたことを覚えている。
とととと、と音がして正面の階段から誰かが降りてきた。
「わざわざすまなかったね。」
声はキヨト君だった。
「一瞬呼吸が止まった感じがしたな。息を呑む、ってああいう事を言うんだろうな。」
噂とちがってウロコが生えたり体がグニャグニャになったりはしてなかった。しかし、すでに先日までの面影はなかった。
体格の良かったキヨトくんはガリガリにやせ細り、目だけがギョロギョロとしていた。その目も明らかに焦点を結んでいなかった。なぜか裸の上半身はあばらが浮き出ている。
「こ、これ……」
父は震えながらプリントを手渡すしかできなかった。そしてその時、キヨト君が脇に何か、白く丸いものが入ったザルを抱えているのに気付いた。
「おやつ、どうだ?」
そう言いながらキヨト君はザルから白いものを取り出した。はじめは饅頭かと思っていたのだが違った。
卵だった。白い鶏の卵だった。
「なかなかいけるぜ?」
キヨト君がにやりと笑う。その口はあきらかに人間のものと違う形に裂けていた。
身動きできないでいる父の目の前で、キヨト君は避けた口を開いてその卵を丸ごと口に放り込んだ。
ごくり、という音とともにキヨト君の喉が卵の形に膨らんだ。次に、かしゃり、というかすかな音。喉の膨らみが小さくなる。
ぺっ!
キヨト君が玄関のコンクリに何かを吐き出した。
生卵の殻だった。
ごくり。かしゃり。ぺっ。
ごくり。かしゃり。ぺっ。
ごくり。かしゃり。ぺっ。
どうやって家に帰ったかは覚えていない。あちこちで転んだらしい擦り傷が、膝や肘に刻まれていた。その日は自室で泣きながら震えていたそうだ。
「最後に見たキヨト君の口からちょっと覗いたベロが二股になってたな。」
父がいったん言葉を切る。エアコンの作動音がやけに大きく聞こえる。
「生卵を見るとその時のことを思い出してしまってなあ。」
そう言うと父は晩酌の残りのビールを一気に飲み干した。
キヨト君の家は、その夜不審火によって全焼した。無理心中ではないか、ということだったそうだ。
「噂だけどな、キヨト君の遺体だけは見つからなかったらしい、と聞いたな。」
これが父の作り話かどうかまでは私には判断できない。
ただ、父の腕に立った鳥肌は、エアコンの効きすぎだけではないことは確かだった。