4.僕は、いつまでも月を見ているわけにはいかない。
「あぁ、今日は少し長居してしまいましたね。そろそろ、おいとましなくては」
「もう、そんな時間か」
僕は彼女を見送るために、ロボットを操作した。
外、森の木々のすき間から覗く空に輝くのは青く大きな星。この星の衛星。
「今日は満月か」
森の合間から差し込む青い月光は、深い闇夜の世界に導を示す。
「……導師、実はね、僕はあの月に行きたいんだ」
「月に? それで転移実験を?」
「いや、それとは関係ない。……僕はあの月に抱かれて死ぬのが夢なんだ」
決して不可能ではない淡い夢、しかし、決して叶えるつもりもない語るだけの悲しい願い。
「何を言うのですか、君はまだ若いではありませんか。死に場所を選ぶには早すぎますよ」
「僕は君に会うまでは、あの月で死にたいと、本気でそう思っていたんだ。こんな場所でただ一人生きていても仕方ないだろう? それならば、あの青い月に……ほんの少し僕の思い描いた淡い希望と共に……月へ行って、そして死のうと思っていたんだ。でも、今は違う。たったひとりで死ぬのが怖いんだ。でも、あの月に行きたい気持ちは揺らがない。僕は迷っている」
あの青い星もまた、僕が生きるには厳しい環境であるのは調査済みだった。しかし、僕の知る地球とは様子は異なっているが、あの青い星が非常に恋しいのだ。
「どうしたのです? 今日は」
「きっと月がこんなにも綺麗だから……」
「そういえば、あなたと月を見るのは初めてですね」
「……君と見る月は格別だ」
「そうですね。あなたと二人で、月が美しいという感情を共有できるのは嬉しいことです」
そう言って彼女は笑む。その笑顔を僕はこの機械越しでしか見ることができない、現実とは非常に残酷だ。
今すぐ、この閉ざされた世界から飛び出して、彼女を抱きしめたい。解放された想いを達成したその瞬間、はかなく命が散ってしまおうとも。
「……僕が昔読んだ物語の逸話なんだけれど、異国の言葉で書かれた『I love you』を『今夜は月が綺麗ですね』と訳した人がいたんだよ。その言葉を発する前に、告白には最高の雰囲気が描かれているんだけれど、素敵だろう?」
「それは素敵ですね」
「君と月を見ていたら、ふと、そういう話もあったなぁと思い出した。ただそれだけだ」
僕らには月が綺麗だという事実以外の意味はない。あってはならない。
「……たとえ、一晩の夢だったとしても幸せを得られるのならば、私は命を差し出してもいいと思うことがあります」
「だめだよ、君が死ぬのは僕は耐えられない」
「それは私も同じです」
僕も彼女も、叶わぬ夢を抱いている。何も言わなくとも、それだけは分かっている。
「……今夜のような月光は人の心を惑わします。これ以上の光は、お互いに毒にしかなりません。私はもう、行きます。それでは、また近いうちに。おやすみなさい」
彼女はそう言って、僕の操作するロボットの額に口付けをして去っていく。
森の作る闇に消えゆく彼女の姿を見送って、僕は目をつぶる。彼女と見た月は美しかった、しかし、月に秘めたその夢を叶えることはどちらかの死を意味する。彼女にもそれが分かっている。だから、僕のこの中途半端な愛の囁きを受け止め、そして流してくれる。
「何も問題がなければ、プロポーズしていたのになぁ……」
彼女は知らないことだが、僕と彼女とでは外見は似ている生物でも種として離れすぎている。この星で僕は子孫を残すという、生物において重要な事柄ができない。僕とは身分も生物としても、何もかもが釣り合わない、噛み合わない。
遺伝子操作やクローンの技術を使えば、僕と彼女の遺伝情報を持った人型の生物は作れるだろうが……それを行おうとすると、どんなことになるのか、未知数すぎる。
「僕では、君を幸せになんかできない」
仮に僕がいなくなれば、彼女は僕など忘れて幸せを手に入れてくれるだろうか。
――わかっている、この願いは愚かだということは。僕の勝手なエゴであることは。
「I love you」を「今夜は月がきれいですね」と訳したのは、夏目漱石。
「I love you」を「わたし、死んでもいいわ」と訳したのは、二葉亭四迷。