08 : 明日を生きる世界にいた。追記。
近くで話し声が聞こえて、魔王はゆっくりと瞼を開ける。見えた天上に、自分が眠っていたらしいと気づいた。
「は……?」
なぜ自分は眠っていたのだろう。
「あ、リカが起きた。ジャック、リカが起きたよ!」
やかましい声に煩わしさを思いつつ、顔をそちらに向ける。心配そうな顔をした元勇者ニアと、その横に王佐ジャックが来るところだった。
「なんだ……?」
「憶えてないの?」
怪訝そうにしたニアは、長椅子から身体を起こそうとした魔王を、手をのばして支えてきた。ニアの手を借りるなど不本意であったが、身体が重いのではどうしようもない。
「おれ、なんで……」
「魔力が枯渇したのでしょう。いきなりお倒れになりました」
ジャックの説明に、目を見開く。
「……そんなわけ」
魔力が枯渇することなどあり得ない、と思ったが、そういえば思い当たることがあって魔王は顔を引き攣らせた。
「あんのクソ兄貴……っ」
思い出した。
久しぶりに、本気で息切れを起こして眩暈を感じ、死ぬかもしれないと思ったくらいに力を使った。
兄に対して。
「お気持ちはわかりますが、今はご自愛ください、陛下。魔力は生命力、それをあなたは毎度遠慮なく放出……倒れて当然なのですから」
「兄に夜這いされた弟の気持ちがわかるってのか、ジャック」
「いっそ貞操などくれてやってはいかがです」
「ヤ、メ、ロ!」
あの兄に貞操を奪われるくらいなら死んだほうがいい。奪われた日には自害してやると、魔王はわりと本気だ。そもそも、切実に、嫌である。
「あの変態…っ…おれは弟だぞ」
「兄上さまにはけっこう関係ないですよ」
「関係あるだろ! 弟だぞ、弟!」
「そういうお方でしょう、昔から」
なにを今さら、とジャックは鼻で笑ってくれた。
「今までよく貞操を護れましたよね、陛下」
「食われてたまるか!」
「いっそ食われてしまったほうが楽でしょうに」
「なにが楽になるんだよっ?」
兄に食われるなど、死んでも嫌だ。死ぬときは兄を殺してからにしようと、本気で思う。
「ねえリカ」
「リッカだ、なんだ、欠食児童っ」
「あんまり叫ぶとまた倒れるよ?」
「う……っ」
ニアに言われるまでもなく眩暈を起こし、魔王は再び長椅子に倒れた。
魔力の枯渇なんてだいぶ久しぶりだ。それでも、兄に食われるくらいなら死を選ぶ魔王に、その後悔はない。
「リカが魔力を枯渇させるくらい、お兄さんって強いんだね」
暢気に感心するニアは、魔王がおとなしくなったことをよしとして、魔王の黒髪をよしよしと撫でる。これが不思議と嫌ではないから、魔王も具合が悪いことをよしとして、眉間に皺を寄せつつ瞼をきつく閉じる。
「あれは、おれ以上に、化けもんなんだよ」
「そうなの?」
「殺していいって言っただろ」
「うん。だから、わたしもわりと本気で、挑んでみたんだよね」
「挑んでたのかよっ?」
いつのまに、と思う。
飄々と答えたニアは、どこか不服そうだった。
「なんていうんだろ……魔族って不老不死じゃないんだよね?」
「だったら世界の死亡率が下がるだろうが」
「うん。だから……なんていうのかな。お兄さん、不死? みたいな?」
「……。やっぱりおまえでも殺せねぇのか」
元勇者ニアの力でも、兄は死なない。
それは、と思うところがある。
「やっぱりあいつが魔王の器か……」
「え?」
「ちっ、忌々しい」
腹が立つ。半ば冗談だったにせよ、半ば本気で、魔王はニアに言ったのだ。殺しても死なないから、誤って殺してもいい、と。
だのに、勇者に相応しい力を持つニアでも、兄はやはり死なない。
いろいろな意味で、死ねばいいのに、と思う。
魔王は、こうして魔力の枯渇に陥り、特殊な能力のせいで苦しんでいるというのに。
魔王の兄は飄々と、魔王と並ぶ力を遣い、平然としている。
「……ねえ、リカは魔王になりたくなかったの?」
「は?」
「そう聞こえたんだけど、今の」
ニアの、脳筋族のくせにたまに鋭いその感覚に、魔王は一瞬だけ顔を引き攣らせ、深々と息をつきながら瞼を開けた。
「逆だ。おれは魔王になる必要があった」
「……なんで?」
「おまえには関係ねぇだろ」
「あるよ。だってわたし、最初はわりと本気だったんだから」
「なにが」
「魔王を殺そうと思ったの」
それは珍しく、ニアの真剣な表情だった。こんな顔もするのかと、魔王は軽く驚く。
「悪の根源、魔王。世界に絶望を与える、魔王。人々が苦しめられるのは魔王の存在があるからだ。街の人たちの口癖」
「……えらい言われようだな」
「そうだね。でもみんな、それが嘘だって、わかってたよ」
「は?」
「そうでも言ってないと、心が折れそうだったから。責任を転嫁してたんだよね。魔族には力があって、人間には力がないから」
少しだけ、本当に悲しそうに、ニアが微笑む。そんなニアの顔は、ここに来てから初めて目にするものかもしれない。
「無力だって、知ってたから……その責任から逃れるために、魔王を罵倒した。魔族を迫害した。そんなことしても意味はないって、わかってるくせに……」
人間は愚かだと思う。だが、同時にいとしい生きものだと、魔王は思っている。魔族のような力はなく、魔族のように生きられない人間は、それでも世界に挑み続けて生存している。魔王が世界に挑んでいるように、人間も世界に挑んでいるのだ。
生きるために、死ぬために、喜びを得るために、悲しみを乗り越えるために、人間の生き様はしなやかで、強かだ。
「おれはおまえら人間が憎いわけでも、嫌いなわけでもねぇよ」
「……そうなの?」
「愚かでいとしい生きものだ。われら魔族のようには、生きられない。それでも生きている人間は、世界に必要とされている」
「それいったら、魔族だって世界に必要とされてるよ。むしろ魔族が世界に必要とされてるんだ。人間は……要らない生きものかもしれないよ」
「命ある限り、要らぬものなど世界には存在しない」
この世界にある生命はすべて、世界に必要とされている。生じた瞬間から、それは誰かに、なにかに、求められた証拠だ。
「うん、やっぱり……」
「なんだ」
にっこり笑ったニアが、とても嬉しそうに、魔王の顔を覗き込んでくる。
こうして近くに顔を寄せられたのは初めてだ。ふんわりと香ってきた甘い匂いに、やはりこいつは欠食児童の勇者でも女なのだなと思う。
「リカが魔王でよかった。わたし、殺しに来てよかった」
「……殺してねぇじゃねぇか」
「うん、殺さなくてよかった。殺せなかったんだけど、それでよかった。王サマは間違ってなかったよ。わたしも間違ってなかった。リカが魔王でよかった」
「……器はクソ兄貴が持ってるけどな」
「そうかもしれない。でも、魔王はリカだから」
褒めているのかなんなのか、さっぱりわからないが、ニアは嬉しそうだ。
その笑顔に、僅かながら、照れくささを感じる。
「ねえリカ、リカはどうして魔王になったの?」
てめぇには関係ねぇだろ、と言いかけた口が、息を吸ってから動きが止まる。
ニアが、魔王が魔王でよかったと、言った。本気で殺そうと思っていたと、言ったのだ。
本当に関係のないことだろうか。
「……なんでそんなに気にする」
「リカが生きている世界を知りたいから」
「おれが生きてる世界?」
「わたしは、明日を生きる世界にいて、強さばかりを求めたから」
ただただ生きることに必死だった、明日の食糧を得ることに必死だった、だからどんなことでもしたのだと、ニアの悲しげに微笑んだ双眸が語る。
ニアにも、ニアの、歩んだ人生があるのだと、今さら気づいた。
「……おまえ、けっこうな世界に、いたんだな」
「どうかな。わたしみたいな人は、けっこういると思うよ」
もともと、ニアは傭兵であった。その強さから勇者にされただけで、もし魔王という存在がなければ、ニアは死ぬまで傭兵という、明日を必死に生きる世界にいたかもしれない。そもそも、ニアが傭兵になるまでの経緯を、魔王は知らない。
ひとの人生を、生きざまを、なにも知らないまま語ることは侮辱にほかならず、己れの愚かさを露見しているようなものだ。
「……話せ」
「なに?」
「おまえが、どうやって生きてきたか。明日を生きる世界に、どうやって存在してきたか。話せ」
「……リカ」
「屈辱的だが、そう呼ぶことは許してやる。おれにはおまえみてぇな立派な名はねぇからな、そもそも価値もねえ」
「……リカの名前は素敵だよ。リカ、綺麗な名前だよ」
「とりあえず、褒め言葉として受け取っておいてやる」
嬉しくはないが、魔王に愛称をつけた者は、ニアが初めてである。魔王はとくに、王佐ジャックとオールドー以外に、名を呼ばせていない。女名であることも理由の一つだが、そればかりではないのだ。
「リーガルヴェッカ」
「へ?」
「忌まわしき黒烏、という意味だ」
「リーガルヴェッカ……魔族語?」
「ああ。そんな名前は可哀想だと、オールドーが先代女王に申し出、リッカと名を改めさせた。以来、おれはリッカという名を持っている」
所謂、真名、というやつだ。魔族は真名を持ち、親しい者や伴侶以外に教えることはない。親ですら知らないこともある。それは、真名に魔族を縛る効力があるからだ。だが、魔力の保有量が少ない魔族はともかく、魔王ともなれば真名を知られたところで痛くも痒くもない。
ジャックは少々蒼褪めたが、それは魔王が真名を口にしたからではなく、その過去を魔王が自らニアに話したからだろう。
「リーガルヴェッカ……なんて、呼ばれてたの?」
「そういうガキだったからな。今でも、それは変わってねぇよ」
「忌まわしき……なんて」
「人間にもあるだろ。人間も、人間をそうやって、蔑むだろ。魔族にだってあるんだよ」
本質は変わらないのだと、思う。けれども魔族にはなかったものを人間が、人間にはなかったものを魔族が、持っている。だから互いに相容れず、争いがしばしば起きる。
しかし相容れないことは、なにも異種族間だけのことではない。
「わたしは、おじいちゃんにつけられたの。ニアって、微笑みって意味なんだって。だから、タモンは、おじいちゃんの名前。おじいちゃん、けっこう有名な傭兵だったから、わたしを護るものになるだろうって言ってた。その通りだった。おじいちゃんの名前で、わたしは護られたよ」
「……そうか」
「リカ」
「なんだ」
「リカの名前、綺麗なんだよ。ちゃんと、意味があるんだよ」
リーガルヴェッカという、忌まわしき黒烏の意味ではなく、リッカという名には綺麗な意味があるのだと、ニアは言う。それは、価値もない、と言った魔王に対する、ニアの優しさのように思えた。
「ねえリカ、わたしも話すから、リカも話して」
「……面白くもねぇがな」
「それでも、わたしはリカが知りたい。リカにわたしを知ってもらいたい。わたし、最初から勇者だったわけじゃないんだから」
「……おれも、最初から魔王だったわけじゃねぇ」
「ほら、一緒でしょ? 話して、リカ。わたしも話すから」
心を許したつもりはない。
それでも、明日を必死に生きたというニアの、その人生を知ることは悪いことではない。知って、ニアをいうひとりの人間を知ることができる。
「わたしが生まれたのはイグネシアの最北端、踊り子だったお母さんが、そこにわたしを捨てて行ったの。そこで、タモンっていう傭兵に、拾われたんだよ」
ゆっくりと語りだしたニアに、魔王は身体を休めながら、耳を傾けた。