05 : 明日を生きる世界にいた。1
*シリアスです……たぶん。
野原の一面に花が咲き誇る時間は短い。
踏み潰され、荒らされ、それでも挫けず諦めず太陽を目指し、そうしてまた無残な姿に曝されようとも、咲き誇る意志が消えることはない。
幾度も、幾度も、際限なく繰り返されてきたことでも、短い時間を惜しまずいっぱいに咲き誇る花たちの姿に、いつも心が救われた。
「顔に似合わず、相も変わらず花が好きだな、おまえ」
「……あんたか。似合わなくて悪かったな」
「庭師のルロイが言っていた。陛下がいつも足を運んでくださるから、育てがいがあると。わたしもこの庭は好きだぞ。世界中のどこを探しても、これほど美しい庭はないからな」
ゆったりと近づいてきた男は、茫洋と庭を眺めていた魔王の隣まで来ると立ち止まった。
「今日も綺麗だな」
晴れた空を見上げ、庭に咲き誇る花たちを見渡し、男はのんびりと微笑む。
魔王も、ほっと息をつくと改めて花たちを見やった。
「ああ、綺麗だ」
多いときでは日に一度、忙しくても一週間と空けず、魔王はこの美しい花が咲き誇る庭に足を運ぶ。特別この場所が好きというわけではないが、ここに来ることだけは忘れないくらいには、この景色を特別視しているのだと思う。いや、この庭だけでなく、花が咲き誇る場所ならすべて、魔王は特別視していると言えるだろう。
「なにか、お悩みかな」
ただぼんやりと美しい花を眺めているだけなのに、なにを思うてか男はそう問うてくる。
魔王は薄く笑い、和ぐ風に呼吸を任せた。
「悩みは尽きねぇよ。おれは、王だからな」
「そうか」
「でも、そうだな……ここに来ることを忘れられねぇくらいには、おれはまだ王として未熟なんだろう」
「おや、弱気だな」
「かもな」
くっ、と咽喉で笑い、魔王は庭の中心へと足を向けた。放っておいてくれる気はないらしい男は、魔王のすぐ横を離れることなくついてくる。
「王佐が捜していたぞ。宰相も、王陛下はいずこやと、走り回っていた」
「なんだ、おれの居場所も把握できねぇのか」
「足跡が残されていないからだろう」
「そう言うあんたは、辿り着けたがな」
「それはおまえ、わたしだからだよ」
「当たりをつけたらおれがいたわけか」
「わたしには容易いことだ」
朗々と笑う男に、魔王は苦笑する。ジャックだけでなく宰相も魔王を捜して走り回っているから、男も魔王を捜しにここまで出張ってきたのだろう。
「わざわざ足を運ばせて悪かったな」
「なんのことだろうな」
わざとらしさを感じなくもない男の白々しさを笑いつつ、魔王は目指して歩いていた庭の中央で一度足を止め、視線を巡らせて目的のものを見つけると、そちらに数歩進んで漸く立ち止まった。
「……よう、ヴィイ」
庭の中央には、背の高い花に埋もれるようにして、墓石が隠れている。
ヴィイ、名が掘られた墓石の前で膝を折り、手向けに持ってきていた酒瓶を置いた。
「律儀なことだな、おまえ」
「あんたに言われたかねぇよ」
「さっさと忘れてしまえばよかろうものを」
男は肩を竦めて呆れて見せたが、魔王が墓石の前に置いた酒瓶に手を伸ばすと栓を開け、墓石にゆっくりと、そこに眠る者に捧げるかのように注いだ。
「わたしは、これにあまり酒を勧めたくはないのだが。まあ、たまにはよかろう」
酒瓶の中身すべてをくれてやるつもりはないらしく、半分ほど残して酒瓶は墓石の前に戻された。
どうせなら飲み交わせるように器でも持って来ればよかっただろうか、と思ったが、昼間から酒を飲んだらジャックになにを言われるかわからない。飲み交わすのはまた今度にしよう。
「リッカよ」
「……なんだ」
「これの時代は終わった。今はおまえの時代だぞ」
「んなこたぁわかってる」
「ならば、これのことは本当に忘れてしまえ。ここに来るのはわたしだけで充分だ。今を生きるおまえが、死んだこれに引き摺られてはならぬ」
男が立ち上がり、魔王にもそれを促してくる。この男がいると長居を許してくれないから困ったものだ。
「そんなつもりはねぇよ。ただ……たまに逢いたくなるだけだ」
「その衝動が駄目だと言っている」
「逢いたくなるくらいいいだろ」
「日を空けず来るようでは、いいとは言えんな」
ほら行くぞ、と男が魔王の腕を引っ張る。不快ではない強さだが、今は、ジャックたちに捜されていようとも仕事に戻る気がしなくて、魔王は腕を突っぱねた。
「少しくらい休ませろ」
「王に休日はない」
「息抜きは必要だ」
「感傷に浸ることは息抜きではない」
「オールドー」
「なんだ」
男は、曇り空のような瞳を曲げることなく、魔王に呼ばれて振り向く。そこになにか感情があればよかったのだが、生憎と今は男には魔王をここから引き離すことしか目的にないらしい。
魔王は仕方なく、ため息をついて諦めた。
「わかった、戻る。けど……仕事には戻りたくねえ」
「ああ……あの娘か」
ついた息が一瞬、止まりかけた。
「……なんであんた知ってんだよ」
「隠居の身でも噂くらいは聞く。なかなかの娘だと聞いたぞ」
「どういう意味だ、それ」
半ばげんなりして男の言葉を聞き、墓石から離れるならそれでいいと思ったのか引っ張られていた腕を解放されると、魔王は来た道を戻るべく墓石に背を向けた。
「おまえと対等に戦えると聞いた。そんな奴は、ヴィイ以外には初めてのことだ。おまえには打ってつけの嫁ではないか」
「ヤメロ」
「なにを厭う」
「そもそも好みじゃねぇんだよ、あんな貧相なガキ」
欠食児童元勇者ことニアのことを、少女という発想すら浮かばず少年だと思っていたことは記憶に久しい。勇者を名乗るだけあってその剣や魔法の腕は惚れ惚れするが、少女だとわかった今、残念ながらニアは魔王の趣味ではなかった。そもそもニアは魔王から見ても充分に貧相な身体つきをしていて、肉体的に魅力を感じることもない。魔王はふくよかなほうが好みである。
「わがままだな」
「いやあのな、それぞれの好みにケチつけんなよ。それ言うならあんただって、ヴィイのどこがよかったんだよ? あれこそ、筋肉の塊じゃねぇか」
「わが妻に無礼な発言は許さん」
「ぃで!」
好みにケチをつけられたから、同じようにケチをつけてやったというのに、自分のことは棚に上げた男に容赦なく魔王は殴られた。地味ではない派手な痛みに、じんわりと涙が浮かぶ。
「まあ、あれのよさを知っているのは、わたしだけで充分だがな」
「だったらケチつけられたくらいで殴んじゃねぇよ」
「それと無礼な発言は関係ない」
そういえば、と思う。
この男、一見すると酷薄な印象が強く、なにかに執着するような性格には見えず、なにに対しても興味すら見せないだろうという感想を抱かせる容姿をしているのだが、自身の妻に対してだけはその印象を覆す男だ。
魔王はふと立ち止まり、背にしていた墓石を振り返る。
「……なにをしている、リッカ」
「なあ、オールドー」
墓石には、ヴィイ、と名が刻まれている。この男と、自分と、そしてジャックがそう呼ぶことを許されている名だ。そしてその名は、この男の妻だった。
「悪かった、な」
「……なにを今さら」
ふと口を突いて出た謝罪に、男が怪訝そうにする。本当に今さらであったが、どうしても言いたかった。
「悪かった。ヴィイは、あんたにとって唯一無二の、かけがえのない存在だったのに」
男の妻は死んだ。だから墓石がある。あの墓石の下に、男の妻であった魔族が眠っている。
「あれの選択にわたしが口を挟む余地などない。そんなこと、おまえとて知っておろうに」
「そうだけど……だから、あんたは残されちまった」
本当は一緒に眠ってしまいたかっただろうに、それでもこの男は、留まることを選んでここにいる。
魔王に対して恨みや憎しみもあるだろうに、魔王にそれらを感じさせることなく、今もなお隣で穏やかに佇んでいる。
「一緒に、いたかっただろ」
もっと、もっと、生きていたかっただろう。
もっと、たくさん、笑い合っていたかっただろう。
「悪かったな」
魔王のせいで、男の妻は死んだ。
魔王が望んで進んだ選択のせいで、男の妻は命を失った。
後悔はしないと決めたのに、いつだって後悔などするものかと思っているのに、ほんの少しだけ、自分はなにかを間違えたのかもしれないと、思ってしまう。
「不愉快だ」
男が言った。
「わたしは、あれの選択が方向を違えたなどとは思っておらぬ」
「……それはわかってる」
「では迷うな」
男は、躊躇う魔王を叱咤するように、声を強めた。
「おまえは王だ。王となることを望み、選び、今そこにいる。あれはおまえのその選択を諾とした者であり、喜んでさえいたのだ。わが妻を愚弄する気か、おまえは」
「愚弄……」
ハッとする。
後悔しないと決めたのは、魔王だけではなかった。
「あれの分まで生きると、あれの想いを上回るだけのことをすると、おまえは言ったであろう。それを違えるならば、わたしはおまえを裏切り者として、呪い殺してくれるわ」
射殺さんばかりの凄みを受けて、魔王は魔王でありながら僅かに冷や汗をかく。力の上では魔王のほうが強くとも、男には経験という、魔王には届きようもない歴史がある。技術ではどうしても男に劣る魔王は、充分に男に押し負ける可能性があった。
「……っ、後悔はしねぇって決めた」
ぎゅっと強く拳を握り、負けてたまるかと、男を睨み返す。
「おれは、王になる必要があったんだ。王になった今、おれに後悔はねえ」
震えそうになった声は、どうにか抑えることができた。それでも、魔王のそんな虚勢は男には明け透けであったようで、男は不敵に微笑んだ。
「わたしに殺されたくなければ、王であることを否定されたくなければ、振り返らず前のみを見て突き進め。それこそが、あれの選択した結果だ」
挑発するかのような男の言葉に、魔王は目を細めた。
「おれの道も、ヴィイの選択も、なにも間違っちゃいねぇよ」
言い放つと、男は満足したように頷いた。