4「送信しなかった夜」
彼女がSNSで発言しなくなってから、もう一年近くが経っていた。
大学生の頃に始めたアカウントは、いつの間にか自分の言葉を発信する場になっていた。日々の出来事や、ふと感じたこと。
誰かに読まれているという感覚は、小さな自信を与えてくれた。
フォロワーが増えるたびに、自分の言葉が届いていると思えた。
ある日の投稿が、予想外に拡散された。
最初は戸惑いながらも読んでいた。
やがて、その中に混じる鋭い言葉が、画面を閉じても残るようになった。
そして、言葉が誰かを傷つけていることに気づいた。
すぐに投稿は削除した。
通知も止めた。
それでも、しばらくはスマートフォンを開くたびに、指が少しだけ重かった。
批判の内容自体は、もうほとんど覚えていない。
覚えているのは、あの一週間のあいだに、自分が「書く前に相手の顔を想像する」ようになってしまったことだった。
以前は、思ったことをそのまま打っていた。今は、打つたびに、誰かの目を先に考えてしまう。
アカウントは消さなかった。
消すことで、何かが決着してしまう気がしたから。
毎日、画面を開いては閉じる。
書きたい気持ちはある。
でも、送信ボタンの前で、指が止まる。
その止まり方が、もう習慣になっていた。
そんな時期に、本屋で一冊の本を手に取った。表紙はシンプルで、特に目を引くものではなかった。
ただ、手が伸びた。
『彼女の計画』。
読み進めるうちに、何度も指を止めた。
言葉が人を救うこともあれば、傷つけることもある——その両方が、淡々と書かれていた。
彼女は、読み終えたあと、しばらく本を抱えたまま動けなかった。
その夜、再びSNSを開いた。
タイムラインには、さまざまな意見が流れていた。その中に、一人のユーザーの投稿が目に留まった。
彼女は、コメント欄を開いた。
指が、キーボードの上で止まる。
言葉を打ち始める。
自分の気持ちを、伝えたい。
でも、その指が、一度だけ止まった。
打ちかけた言葉を、全部消した。
画面を閉じる。
何も書かなかった。
何も起きなかった。
でも、その「何も起きない」ことが、彼女にとっては救いだった。
翌日も、また同じような投稿を見つけた。
彼女は、コメント欄を開いた。
そして、言葉を打ち始めた。
前よりは、少しだけ丁寧な言葉を。
相手の立場を考えながら、ゆっくりと。
そのまま送信した。
数分後、彼女は後悔した。
また誰かを傷つけてしまったかもしれない。でも、読み返してみると、以前のような鋭い言葉はなかった。
まだ拙い。
でも、少しだけ優しい。
彼女は、そのことに気づかなかった。
しばらくそのコメントを眺めていた。
何も変わっていない。
でも、今夜は、少しだけ眠れそうな気がした。
【観測記録】
対象:匿名(読者D)
作品:一冊の本
読了後経過:一週間
観測項目:「書かない」と「書く」の間
特記事項:
彼女は、コメントを書くのをやめたわけではない。
ただ、書く前に一度立ち止まることを覚えた。
そして、翌日、また書いてしまった。
それでも、前より少しだけ、傷つける言葉が減っていた。
その変化は、彼女自身も気づいていない。
観測は、続いている。
―『読後観測』―読者地図―は各話を独立短編で投稿―
第1話「今日は、書かなかった」
https://ncode.syosetu.com/n9601mn/1/
第2話「赤ペンを置いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9607mn/1/
第3話「ノートを戻さなかった日」
https://ncode.syosetu.com/n9612mn/1/
第4話「送信しなかった夜」
第5話「何も感じなかった本」
https://ncode.syosetu.com/n9621mn/1/
第6話「感想を書いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9625mn/1/
また、「読者地図」にも「読後観測シリーズ」として同時投稿されます。
―――関連作品―――
『彼女の計画』
カフェ「あおい」で上司の裏アカを覗いた瞬間から、私の日常は狂いはじめた。
『読者地図』本編はこちら。
物語が届く/届かないのは、作品の問題ではないかもしれない。




