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神託ガチャ、最終ロール

今日の神託は「落とした小銭が戻る」。世界は律儀に従った。

駅前の端末は、きのうと同じ位置で、きのうと同じ音を鳴らす。紙は一枚、指先に貼りつき、風に負けない。男はそれを財布にしまい、歩きだした。横断歩道では、青が三秒だけ長かった。


1 朝の列


列は毎朝できる。パン屋の前の甘い匂いのすこし手前、第二ポールから第三ポールの間が、神託端末の定位置だ。

列は長いが、動きは早い。端末にカードを差し入れると、胸ポケットに入る程度の厚紙が一枚、静かに出てくる。そこに印字されているのは、毎日ちがう「小さな幸運」だ。


 電車で座れる。

 傘を持っていなくても濡れない。

 締切に気づく。

 落とした小銭が戻る。

 迷惑電話が一度で切れる。

 隣人のドリルの時間が短い。


そんなものばかりだ。都市はそれに合わせて、目に見えないところで調整をする。信号は一拍長く、階段は一段軽く、プリンタは一度だけ詰まらない。

都市は親切だ、と男は思っている。

名札には名字だけ。市役所の都市政策課で、彼は「調整」という言葉を好む。人に説明しやすいからだ。運の分配、負荷の分配、過不足の分配。分配のための小さな紙片。そう考えれば、列も待てる。


その朝の紙片には「落とした小銭が戻る」とあり、駅の自販機で缶コーヒーを買ったとき、つり銭口に五百円玉が余分に転がった。彼は店員を呼び、返した。世界は律儀に従った、という短い満足が胸に残る。こういう仕組みは、律儀に動くかどうかが大事だ。


2 空欄の契約


ある朝、彼は列に並ばなかった。

理由はたいしたことではなかった。目覚ましが一つ鳴らず、ベルトの穴がかすかにきつく感じ、窓の外の雲がいつもより低く見えた。彼は遅刻ではなかったので、パン屋の匂いのところで一度足を止め、それから端末に背中を向けて歩いた。


「今日は、引かなくてもいいだろう」

彼は軽い気分だった。これまで何年も毎朝引いてきたのだ。稀に、一度ぐらい空欄で通すことがあっても、世界は律儀に全体を運ぶだろう。


午前中、職場のプリンタが紙を三度詰まらせた。

彼は二度目までは笑って直したが、三度目で笑いは蒸発した。隣の島から、データ分析班の若い同僚が顔を出した。


「すみません、印刷、いま混み合ってて」

「混み合っているのは、わかります」

「ネットワーク、揺れてるんですよ。朝から妙な偏りで」


偏り、という言葉は、男の耳にひっかかった。

昼休み、彼はコンビニに向かった。横断歩道は、いつもの青の長さに戻っていた。自販機のつり銭口は、足りないと訴えるように硬貨の音を鳴らした。コロッケパンは売り切れ、代わりにたまごサンドが残っていた。

こういう日はある。偶然は、偶然として重なる。彼はそう考えて、端末のことを思い出さないようにした。


3 誤差の飼いならし方


午後、庁内メールが一通、全職員宛で届いた。


【都市OS 速報】

本日の都市内負荷分散状況は通常範囲内です。一部局所的に調整待機が発生しています。必要に応じて各自の神託を確認し、行動の分散にご協力ください。


言い回しは、いつも通り丁寧で、何も言っていないようでいて、何かが起きていることだけは伝える。

同僚の若い男が、背もたれを鳴らして寄ってきた。


「課長、今朝、引きました?」

「課長ではない」

「すみません。さん。引きました?」

「いいや」

「やっぱり」


やっぱり、と彼は聞き返した。


「端末ログは匿名ですが、集計は出ますから。いつも引いてる人が急に引かないと、結構わかるものなんです。波形が変わる」


「波形」

「全体の運の。いや、“揺らぎ”といった方がいいか。朝の神託って、幸運の配布というより、リスクの分割契約なんですよ。皆でちょっとずつ受け持つ契約。引かないと、その“分”が残る」


「残った分は、どうなる」


「溜まります。どこかに。数式はきれいなのに、現実は机の角に埃が集まるみたいに、角に寄る。角って何か、わかります?」


彼は答えなかった。

若い男は苦笑いをした。


「動線に沿って、です。朝の移動、生活の動き、人の繋がり。引かない人の足跡に、調整しきれない負荷が集まる。いや、気にしないでください。統計の話です」


彼は気にしてしまった。

夕方、庁舎のエレベーターが、彼の乗る階に止まるたび、扉が半分で止まり、蝶番のあたりで小さな軋みを残した。

帰り道、信号が点滅に変わるタイミングは、彼の足の速度と合わなかった。彼は二度、角で立ち止まった。

家に帰ると、換気扇の音がいつもより大きく、蛇口から出る水は一瞬遅れて温まった。


4 集まるもの


二日目、彼はわざと引かなかった。

実験のつもりだった。

列は長い。パン屋の匂いはいつも通りで、空は薄く曇っていた。彼は列の横を通りすぎ、駅へ向かった。駅の階段では、上りと下りの人の流れが一瞬絡まり、一歩だけよろめきが生まれ、そのよろめきが二歩目の人に伝わって、三人目の人が手すりに手をついた。


午前十時、彼のデスクの電話が鳴った。区内の小学校で、給食用の配送が一本遅れていると、教育委員会から連絡だった。配送路は彼の通勤路から一本脇に入った通りを通る。彼は地図を思い浮かべた。

午後、区内の一角で断水が起きた。工事の切り回しの段取りが一箇所ずれ、応急の給水車が間に合わない。位置は、朝、彼が傘を忘れて取りに戻った角から二本目の筋だ。

夜、近所で小火があった。焦げた匂いが、窓の隙間から入った。現場は彼のアパートの裏通りで、出火原因はコンセントだった。コンセントのメーカーは、庁舎のエレベーターの制御盤と同じだった。


偶然は偶然として重なる。そう自分に言い聞かせる声は、さすがに薄くなっていた。

三日目、彼はまた引かなかった。

午前中、区内の救急車の出動が重なった。出動先は、信号の連携の遅れた交差点のそばだった。信号はどれも、彼が日頃渡る道に並んでいる。

庁舎で、同僚の若い男が声をひそめた。


「観測、濃いです。そこだけ霧が出るみたいに。誰かが“引かない”と、そこに濃く出る。市全体では、平滑なのに」


「私が原因だと言いたいのか」

「原因というより、器だと思います。器の形に水が集まるみたいな。悪気がないのは、数式が証明してます。だから怒らないでください」


彼は怒っていなかった。ただ、背中に冷たいものが貼りつく感じがした。

四日目、彼は引かなかった。

都市OSからの通知は、語尾に変化を見せた。


【都市OS 通知】

未契約の負荷が観測されています。ご都合のよい時に、神託端末のご利用を推奨します。都市はあなたの自由を尊重します。


尊重、という言葉は、少しだけ硬かった。

五日目、彼は引かなかった。


5 白い通知


六日目の朝、列の端の人が彼を見た。

目は笑っていたが、眉は笑っていなかった。人は、列に並ぶと、列に並ばない人に敏感になる。

彼はパン屋で長めにパンを選び、いつもより遠回りをした。端末は、角の向こうで小さな機械の音を立てていた。


午前九時、庁内メール。


【都市OS 勧告】

未契約負荷の局所集中(閾値超過)を確認しました。最終ロールを推奨します。

※最終ロールは任意の一回です。実施により、未契約分は分散に移行します。


最終ロール、という言葉は、聞き慣れない。

彼は椅子から立ち上がり、都市OSの端末を機械室で見ている施設課の男に話を聞きに行った。

施設課の男は図面を丸め、言った。


「最終ロールは、めったに出ないんです。長く引いてない人向けの、まあ、まとめ決算みたいなものです。引けば、溜まっていた分が解けます」


「引かなかった場合は」

「放置しても、都市は回ります。ただ、揺れが局所化する。奥さんがいるなら、奥さんの周りに。いないなら、通勤路に。いちばん簡単なところに寄る」


彼は独り暮らしで、通勤路はまっすぐだった。

昼、彼は食堂でカレーを食べた。スプーンの先が一度だけ曲がった。金属の疲労だろうと、彼は皿の中で角度を直した。

午後、エレベーターは彼一人を乗せて、三階で止まり損ね、少し上で止まり、少し下で止まった。

夕方、都市OSの通知は白い背景を選んだ。これまで薄い青だったのが、白になっただけで、文字の印象は変わった。


【都市OS 最終勧告】

あなたの未契約負荷は、今日で境界値に達します。最終ロールを推奨します。これは罰ではありません。分担の提案です。


提案、という言葉は、丁寧に見えて、逃げ場を狭くする。


6 硬貨と秤


帰り道、彼は財布から、あの朝もらい過ぎて返した五百円玉と同じ年号の硬貨を一枚、指でつまみ出した。

角の小さな公園へ行き、ベンチに腰をおろした。街灯はまだ点かない。彼は硬貨をひっくり返し、表と裏を同じ回数だけ眺めた。

神託は、表や裏のようなものだ、と彼は思った。どちらでも落ちる。落ちた面に、世界は律儀に従う。それなら、秤はどこにあるのだろう。秤は、指の先にあるのだろうか。

彼は硬貨を膝に置き、目を閉じた。


若い同僚の声が、昼の会話の形で戻ってきた。

——皆でちょっとずつ受け持つ契約。引かないと、その“分”が残る。

——器の形に水が集まる。


器の形は、彼の生活そのものだった。まっすぐな路線、決まった時間の出発、決まった階で降りるエレベーター、決まった棚に置かれたカップ。器の縁は滑らかで、集まったものは流れ落ちずに、静かに満ちる。

彼は硬貨を握り、立ち上がった。

端末へ向かう道は、いつも通りに舗装されていた。途中で、風が一度だけ吹き、砂が目に入った。彼はまばたきをした。世界は律儀だ、と彼は思った。


7 最終ロール


列は短くなっていた。夕方の端末は、朝ほど混まない。

彼はカードを差し入れた。

端末は短い音を鳴らし、厚紙を一枚、吐き出した。


そこには、短く印字されていた。


あなたが引き受ける。


彼はそれを読んだ。

文字は淡い灰色で、裏に透けるように印刷されている。いつもの「電車で座れる」でも「締切に気づく」でもない。説明も注釈もない。

端末の小さな画面が、補足を出した。


最終ロール(委任)

本日中、あなたは都市内の小規模不運を二件、代替的に引き受けます。

引き受けられない場合は、明日に繰越されます。

これは連帯の契約であり、罰ではありません。


彼は紙を財布にしまい、歩きだした。

交差点で、前を歩く老女が袋を落とした。袋の口から、ネギが一本、路面に滑り出た。彼は拾って渡した。老女は礼を言った。

それで一件か、と彼は思った。

しかし、端末の紙に書かれた「二件」は、そういう意味ではないだろう。

世界は律儀だ。律儀すぎる。

彼はそのことを、夜の手前の暗がりで理解した。


庁舎の玄関の外で、雨が降りだした。予報にはなかった雨だ。彼は傘を持っていなかった。

雨は、最初だけ細かく、すぐに粒が大きくなった。

彼は走るのをやめた。

濡れるというのは、不運でも幸運でもない。ただの結果だ。

帰り道の中ほどで、道路に小さな水たまりが連なった。街灯が遅れて点いた。

歩道橋の階段で、彼は足を踏み外した。足首に鈍い痛みが走り、彼は手すりに片手をかけて姿勢を立て直した。

これで一件目だ、と彼は思った。

二件目は、家の前で起きた。

アパートの階段の電球が切れていて、彼は一段を空踏みした。手すりの木ねじが一本抜けかけていて、掌に小さな痛みが残った。

彼は明かりのない廊下を歩き、自分の部屋のドアに鍵を差し込んだ。

鍵は、いつも通りの角度で回り、いつも通りの音で解錠した。

室内では、時計が正確に時を打った。冷蔵庫のモーターは一度だけ唸った。


世界は律儀だ。


8 ただの朝


翌朝、彼は列に並んだ。

列の人は、彼を見なかった。見ないというのは、見ないようにするということで、見ているのと同じだ。

彼はカードを差し入れ、紙を受け取った。

紙には、短く印字されていた。


ポケットの裏地が破れない。


彼はそれを読んで、何も感じなかった。

会社に向かう道で、昨日までの偏りは薄くなっていた。信号は予定通りに切り替わり、エレベーターは滑らかに開閉した。プリンタは一度も詰まらなかった。

若い同僚が、自然な声で言った。


「朝、引いたんですね」

「引いた」

「揺れ、消えました。昨日の二件、ありがとうございました」


彼は何も答えなかった。

昼休み、パン屋でコロッケパンが残っていた。彼は買わなかった。代わりに、たまごサンドを買った。たまごサンドは、少し端が乾いていた。

午後、都市OSが短い通知を送ってきた。


【都市OS】

分担のご協力に感謝します。

あなたの選択は、都市の快適度に寄与しました。


彼は通知を閉じ、机の引き出しから、最初の朝の紙を取り出した。

「落とした小銭が戻る」

文字は、濃度を保っていた。紙の縁は、少しだけ丸くなっていた。


その晩、彼は財布の中に硬貨を一枚、入れた。表も裏も、何度か眺めた。

翌朝、彼はまた列に並んだ。

ポールの影は短く、風は弱かった。

紙には、短い言葉が印字されていた。


エアコンの風向きがちょうどいい。


彼はそれを読んで、胸ポケットにしまった。

駅のホームで、電車はいつも通りの時刻に到着した。座席は埋まっていたが、彼の前にいた人がひとつ先の駅で立ち上がった。彼は座らなかった。ドアの横に立ち、窓の外を見た。

線路脇の柵に、小さな白い紙が貼ってあるのが見えた。風に揺れながら、かろうじて読めた。

小さな字で、こう書いてあった。


ありがとう。


電車は次の駅に向かって走った。

彼は座らなかったことを、少しだけ面白がった。

座ることは幸運だが、座らないことも、不運ではない。


次の週の半ば、彼はもう一度、引かなかった。

理由は、たいしたことではなかった。眠りが深かった。目覚ましが鳴る前に目が覚め、窓の外の雲は高かった。

彼はパン屋の前で足を止め、端末に背中を向けた。

街はすぐには揺れなかった。

午前中、プリンタは順調に動き、エレベーターも静かだった。

昼前、給食配送のトラックが一台、交差点で右折を一度やり直した。

午後、信号の青が一秒だけ短かった。

夕方、救急の出動は平年並みだった。

夜、小雨が降り、彼は濡れずに帰った。


世界は律儀だ。

律儀に、ときどき遊ぶ。


翌朝、彼は列に並んだ。

端末は、きのうと同じ位置で、きのうと同じ音を鳴らした。

紙は一枚、指先に貼りつき、風に負けなかった。

印字された言葉は、短かった。


今日の神託は適用外。自由行動。


彼はそれを読んで、笑った。

自由、という言葉は、軽くも重くもなる。

その日の昼、彼は食堂ではなく外に出た。区役所通りの端にある、古い蕎麦屋に入った。店主は無口で、蕎麦は冷たかった。

箸は割りやすかった。割り箸のささくれは、指に刺さらなかった。

帰り道、横断歩道の青は一拍だけ長かった。


季節が変わりはじめる頃、彼は、神託の紙を財布から抜いて、机の引き出しに束ねて入れるようになった。厚紙は積み重なり、角は丸くなり、色は少しずつ変わった。

ときどき、彼は束から適当に一枚を引き、目を通した。

「締切に気づく」

「隣人のドリルの時間が短い」

「エアコンの風向きがちょうどいい」

「落とした小銭が戻る」


ある雨上がりの朝、彼は束の一番下から、一枚の紙を引き抜いた。紙は古く、印字はかすれていた。

そこには、短く印字されていた。


あなたが引き受ける。


彼はそれを読んで、紙を戻した。

引き出しを閉じ、机に座った。

窓の外では、風が旗を一度だけ持ち上げ、落とした。

世界は律儀だ。

律儀な世界で、人は、ときどき自分の指で秤を傾ける。


その傾きは、たいてい、誰かに見えない。

見えないものは、いつも、どこかで働いている。

端末の隅に小さな字で刻まれた「ありがとう」は、たぶん印刷の仕様で、たぶん誰のせいでもない。

彼はそれを、たぶん、とだけ思うことにして、次の朝も列に並んだ。

列は毎朝できる。パン屋の前の甘い匂いのすこし手前、第二ポールから第三ポールの間が、神託端末の定位置だ。

世界は律儀に、今日もそこにあった。

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