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雨のち、分かれ道

作者: 久遠 睦

第I部 ある時代の終わり


第1章 心地よい沈黙


その夜も、田中里美と健太のアパートは静かだった。七年間という歳月が積み上げた静けさ。それは安らぎに満ちた親密さからくるものではなく、交わすべき言葉が見つからない、意味のある会話の不在が生んだ静寂だった。

里美はスマートフォンを片手に夕食のパスタを口に運ぶ。向かいに座る健太も同じだ。画面を滑る指の音だけが、二人の間に存在する唯一のコミュニケーションだった。

「来月の家賃、振り込んでおいたよ」 健太が画面から目を離さずに言う。 「うん、ありがとう。光熱費は私の方で」 里美も顔を上げずに答える。請求書と食料品。二人の会話はいつからか、生活を維持するための事務連絡に終始するようになっていた。

七年前、この部屋で暮らし始めた頃は違った。些細なことで笑い合い、未来について語り合った。彼の腕の中で眠りにつく夜は、世界のすべてがそこにあるように感じられた。しかし、時が経つにつれ、情熱は薄れ、会話は途切れ、お互いの存在は空気のように当たり前のものになった。楽ではある。けれど、この関係が停滞していること、ただの習慣と惰性で続いている「慣れ合いの関係」であることにも、里美は気づいていた 。結婚の話もいつからか立ち消えになり、二人は恋人というより家族、あるいは同居人のようになっていた 。その安定と引き換えに何かを失っているという漠然とした不安を、里美は見て見ぬふりをしてきた。この心地よい沈黙が、実はもっと深い問題の兆候であることに気づきながら。二人はもう、共に未来を創造することをやめてしまっていたのだ。


第2章 デジタルの亡霊


健太がシャワーを浴びている間、コーヒーテーブルの上に置かれた彼のスマートフォンが、短く、しかし執拗に振動を繰り返した。画面が点灯し、通知バナーが里美の目に飛び込んでくる。出会い系のアプリからだった。

『ユイ(24)から新着メッセージがあります』

心臓が氷水に浸されたように冷たくなる。好奇心と、知りたくないという恐怖がせめぎ合う。しかし、指は勝手に動いていた。ロックのかかっていない画面を開くと、そこには一つのメッセージだけでなく、長く、親密で、ふざけ合った会話の履歴が広がっていた。知らない絵文字、二人だけに通じるような冗談、そして、明らかに肉体関係を匂わせるやり取り。

相手は二十四歳。その数字が、里美の胸に重くのしかかる。三十歳になった自分。その現実が、若い女性の名前と共に、残酷なコントラストを描き出していた。


第3章 受け入れがたい言い訳


シャワーから出てきた健太に、里美は静かにスマートフォンを突きつけた。健太の顔から血の気が引いていく。最初はしらを切り、次に逆上しかけ、最後には観念したようにため息をついた。そして、彼は里美が最も聞きたくなかった言葉を口にした。

「彼女は遊びだよ。本命はお前だけだって」

その言葉は、里美の中でかろうじて保たれていた何かの糸を、ぷつりと断ち切った。遊び? 本命? その二元論が、七年という歳月を、共有してきた生活のすべてを、あまりにも軽く、侮辱しているように思えた。健太の言い分は、目新しさや刺激を求めるだけで、本気で現在の関係を終わらせるつもりはないという、浮気をする男性の典型的な心理をなぞっていた 。彼にとって、この関係は安定した「ホームベース」であり、そこから安心して「遊び」に出かけるためのものだったのかもしれない。

しかし、里美にとって、この七年間は「遊び」ではなかった。人生そのものだった。信頼、時間、愛情。彼女が捧げてきたすべてが、彼の「本命はお前だけ」という言葉によって、都合のいい安全網として扱われていたのだと悟った。怒りは、性的な裏切りに対してだけではなかった。それは、二人の歴史そのものに対する、あまりにも深い冒涜への怒りだった。

「別れよう」 里美の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷静で、決定的だった。健太の言い訳は、二人の間に横たわる、埋めようのない価値観の断絶を明らかにしただけだった 。彼が考える「本気」と、彼女が信じてきた「本気」は、まったく別のものだったのだ。


第4章 一人きりの最初の夜


健太は最低限の荷物をボストンバッグに詰め、静かに出て行った。ドアが閉まる乾いた音が、すべての終わりを告げていた。一人になったアパートは、急にだだっ広く、見知らぬ空間のように感じられた。

心地よかったはずの沈黙が、今は耳を圧するほどの重さで里美にのしかかる。玄関の鍵をかけ、明かりを消す。一つ一つの動作が、これまで二人で共有してきた生活の終わりをなぞっていくようだった。テーブルの上のマグカップ、ソファのクッション、歯ブラシ立ての空いたスペース。すべてのものが、失われたものの存在を雄弁に物語っていた。

里美はベッドに倒れ込み、シーツに顔をうずめた。健太の匂いがまだ微かに残っている。その瞬間、張り詰めていたものが切れ、嗚咽が漏れた。それは感傷的な涙ではなかった。七年間という時間が、自分の身体の一部をむしり取るような、原始的で、肉体的な痛みを伴う悲しみだった。失恋の回復プロセスにおける最初の段階、ただ「喪失の事実」だけが胸を打つ、どうしようもない痛みだった 。


第II部 新しい世界


第5章 三十歳、見えない女


数週間が経ち、友人の誘いで里美は久しぶりにグループでの食事会に参加した。賑やかな居酒屋のテーブルで、彼女は無意識に周囲の男性たちの視線を追っていた。そして、気づいてしまった。彼らの関心や、楽しそうな視線が、決まって二十代前半の若い女性たちに向けられていることに。

自分はまるで、そこに存在しないかのように、誰の視界にも入っていない。三十歳、七年ぶりに一人。その事実が、社会の容赦ない現実となって彼女に突き刺さる。焦りと共に、自信が急速に失われていくのを感じた。「もうダメだ」「自分なんて」。失恋した女性が陥りがちな、自己否定的な思考が頭をもたげる 。若い女性が持つ、無意識の輝き。それと比べて、自分はくすんで、見えなくなってしまったのではないか。そんな恐怖が、じわじわと心を蝕んでいった。


第6章 瓦礫の撤去


週末、里美は一つの決意を実行に移した。この部屋から、健太の痕跡を、七年間の記憶を、すべて消し去ること。

押入れの奥から、思い出の品々を詰め込んだ段ボール箱を引っ張り出す。古い写真、旅行先で集めたチケットの半券、健太が置き忘れていったセーター。一つ手に取るたびに、記憶が鮮やかに蘇る。楽しかった日々、笑い合った瞬間。それらを思い出すことは、まだ痛みを伴った。しかし、同時に、彼が自分の意見を尊重しなかったこと、里美が彼の機嫌を伺っていたことなど、関係の中にあった歪みにも気づかされた 。

思い出の品を処分するという行為は、失恋からの回復において推奨される、重要なステップの一つだ 。それは痛みを伴う外科手術のようだったが、一つ、また一つとゴミ袋に詰めていくうちに、心の中の澱が少しずつ晴れていくのを感じた。これは過去との決別であり、自分の空間を、そして自分の人生を取り戻すための、物理的な儀式だった。


第7章 私自身への約束


健太のものがすべてなくなり、がらんとした部屋で、里美は不思議なほどの静けさと決意を感じていた。悲しみはまだそこにある。でも、それはもう彼女を支配するものではなかった。

ノートパソコンを開き、新しいページを作成する。これまでなら、目的もなくSNSを眺めて時間を潰していただろう。しかし、その日の彼女は違った。真っ白なページに、彼女はリストを作り始めた。それは、失ったパートナーの代わりを探すためのリストではない。自分自身を再構築するための、自分への約束だった。

そのリストは、三十代の女性が人生を豊かにするために「やっておくべきこと」として挙げられる項目に基づいていた 。

健康・運動習慣: ヨガ教室に通う。心と身体のバランスを取り戻す。

キャリアアップ: 職場で新しいプロジェクトに挑戦する。仕事に打ち込むことで、自信を取り戻す 。

新しい趣味・経験: ずっと欲しかった一眼レフカメラを買って、使い方を学ぶ。

これは、受動的な悲しみから、能動的な自己再建への転換点だった。恋愛だけに依存しない、自分の足で立った人生を歩むための、具体的な行動計画。里美はリストを眺め、小さく、しかし力強く頷いた。ここから、新しい人生が始まるのだ。


第III部 自己の再構築


第8章 コーナーオフィスとカメラのレンズ


里美の新しい生活は、二つの異なる世界で同時に始まった。

平日のオフィス。彼女はライフスタイル雑貨を扱う会社でウェブマーケターとして働いていた。マーケティングは、三十代女性に人気の高い、成長分野の職種だ 。別れの痛みを乗り越え、仕事に没頭する中で、彼女の能力は開花し始めていた。会議室で、彼女は新しいマーケティング戦略を自信に満ちた声でプレゼンしていた。データを分析し、消費者のインサイトを突き、創造的な解決策を提示する。その姿には、以前の彼女にはなかった力強さが宿っていた。

そして週末。里美は公園の緑の中にいた。首から下げた一眼レフカメラを構え、ファインダーを覗き込む。絞り、シャッタースピード、光の角度。夢中になって完璧な一枚を追い求めていると、他のすべてを忘れることができた。彼女が参加した社会人向けのカメラサークルは、同じ趣味を持つ人々が集まる、穏やかで心地よい場所だった 。技術的な情報を交換したり、互いの写真を褒め合ったりする。そこには、恋愛市場のような値踏みする視線はなく、純粋な尊敬と励ましがあった。

仕事とプライベート。両方が充実していく中で、里美の人生は再び彩りを取り戻し始めていた。それは誰かに与えられたものではなく、彼女自身の手で築き上げた、確かな充実感だった。


第9章 先輩の導き(一人目の男性:武田、33歳)


武田健司たけだ けんじ、三十三歳。彼は里美の会社の関連部署で働くシニアマネージャーだった。穏やかで有能、そして観察眼が鋭い。彼は里美が別れの後に落ち込んでいたことにも、そして最近、仕事で目覚ましい活躍を見せていることにも気づいていた。しかし、彼は決してプライベートに深入りすることはなかった。

あるプロジェクトが成功裏に終わった日、武田は里美を労う言葉と共に、的確なアドバイスをくれた。 「田中さん、今回の分析は見事だった。特に、ターゲット層のインサイトを掘り下げた部分が、キャンペーンの成功に直結したと思う。次は、このデータを長期的なブランド戦略にどう活かすか、考えてみるといいかもしれない」

会話は仕事の話から始まったが、自然と個人的な話題へと移っていった。 「週末は何かリフレッシュしてるの?」 「最近、カメラを始めて。サークルにも入ったんです」 里美がそう言うと、武田は興味深そうに微笑んだ。

二人の間の空気は、互いのプロフェッショナリズムへの尊敬に基づいていた。それは、職場恋愛が始まるきっかけとして最も健全な形の一つだった 。武田は、里美の困難を乗り越えた強さと、仕事への真摯な姿勢に惹かれていた。「頼りになる」「尊敬できる」。その感情は相互のものであり、二人の関係の確かな土台を形成しつつあった 。彼は安定と成熟、そして共通の職業的価値観に基づいたパートナーシップを象徴する存在だった。


第10章 違う絞り値(二人目の男性:蒼井、28歳)


蒼井勇太あおい ゆうた、二十八歳。彼はフリーランスのグラフィックデザイナーで、写真は単なる趣味ではなく、本気の情熱を注ぐ対象だった。エネルギッシュで創造的、そして世界をアーティストの目を通して見ている。

カメラサークルの撮影会で、彼は里美に声をかけた。 「田中さん、今の設定だと少し白飛びしちゃうかも。露出補正をマイナスに振ってみると、空の青がもっと深く出ますよ」 蒼井は、里美がカメラの扱いに苦戦しているのを見て、自然に手を差し伸べたのだ。

彼の教え方は的確で、何より楽しそうだった。二人の会話は、共通の趣味を中心に、軽やかで遊び心に満ちていた。彼は里美の外見ではなく、彼女が切り取る写真のユニークな視点を褒めた。 「面白い構図ですね。普通、この花を撮るときはもっと寄るけど、あえて引きで背景のビルを入れるんだ。物語を感じます」

蒼井との繋がりは、「趣味」という共通言語から生まれた 。五歳という年齢差は存在したが、それは壁ではなく、むしろ新鮮な刺激だった。彼は情熱と創造性、そして共有する喜びと互いのインスピレーションに基づいた関係を象徴していた。彼らの関係性は、年齢差のあるカップルが互いの違いを楽しみ、学び合うという、ポジティブな側面を体現していた 。

三十代の女性がパートナーに求めるものには、安定や尊敬といった成熟した価値観と、共に情熱を分かち合える emotional な繋がりという、二つの側面がある 。武田と蒼井は、奇しくもその二つの理想的なパートナー像を、それぞれ体現しているかのようだった。里美の選択は、単に二人の男性を選ぶことではなく、二つの異なる幸福の形を選ぶことを意味していた。


第IV部 予期せぬ選択


第11章 二つの告白


里美が築き上げた穏やかな日常は、二つの予期せぬ出来事によって、心地よくも悩ましい波紋を広げられた。

まず、武田からだった。大きなプロジェクトが一段落した夜、彼は里美を食事に誘った。落ち着いたレストランで、彼はワイングラスを置き、まっすぐに里美を見た。 「田中さん、君のことが好きだ。仕事仲間として尊敬しているだけじゃない。一人の女性として、君に惹かれている。もしよかったら、俺と付き合ってくれないか」 彼の告白は、彼の人柄そのもののように、穏やかで、誠実だった。

その数日後、今度は蒼井からだった。二人はカメラサークル仲間と、夕景を撮るために海辺に来ていた。空が燃えるようなオレンジ色に染まる中、夢中でシャッターを切る里美の隣で、蒼井がふっとカメラを下ろした。 「里美さん。俺、里美さんが好きです。ファインダーを覗いてる時の、あの真剣な目が、どうしようもなく好きだ。俺と、付き合ってください」 彼の告白は、情熱的で、少し衝動的で、美しい夕焼けのように里美の心を揺さぶった。

立て続けの告白に、里美は心底驚き、そして混乱した。失恋の痛手から立ち直るために自分磨きに集中していただけで、積極的に恋愛を求めていたわけではなかった 。しかし、気づけば、二人の魅力的な男性が目の前に現れていた。


第12章 二つの未来を天秤にかける


里美の頭の中で、思考がめまぐるしく回転する。彼女は、かつてのように感情だけで動くことはなかった。三十代の恋愛は、その先の「生活」を想像することでもある。彼女は、それぞれの男性と歩む未来を、冷静に、そして真剣に思い描いた。

武田との未来。それは、安定と安心に満ちているように思えた。互いのキャリアを尊重し、支え合う対等なパートナー。週末は一緒に過ごしたり、時にはそれぞれの時間を大切にしたりする。経済的な不安もなく、穏やかで、満たされた日々。それは、健太との関係で手に入れられなかった、成熟した大人の関係だった。結婚相手に求める「相性」や「価値観」といった要素を、彼は満たしているように思えた 。

蒼井との未来。それは、冒険と発見に満ちているようだった。一緒にカメラを片手に知らない街へ旅に出る。彼のクリエイティブな仕事を手伝ったり、逆に彼からデザインのヒントをもらったりする。刺激的で、予測不可能で、毎日が新しい。それは、過去の自分から完全に決別し、新しい人生を歩むことを意味していた。

どちらも素晴らしい未来だ。どちらも、今の彼女にとっては魅力的な選択肢だった。安全な港か、未知なる大海原か。里美は、簡単には答えを出せずにいた。


第V部 決断の問い


第13章 問いが生まれるとき


答えの出ないまま数日が過ぎた。ある夜、里美はパソコンで最近撮った写真を見返していた。その中に、一枚、特に気に入っている写真があった。雨上がりの路地にできた水たまりに、古い街灯の光と、色とりどりのネオンが映り込んでいる。ありふれた風景なのに、彼女の目には特別な一枚に映った。

その写真を見つめているうちに、里美はふと気づいた。この写真が撮れたのは、自分が一人でカメラを手に、雨上がりの街を歩いていたからだ。仕事で培った観察眼、新しい趣味への情熱、そして一人の時間を楽しむ心の余裕。この一枚には、今の彼女を形作るすべてが詰まっていた。

仕事、趣味、一人の時間。これらは、失恋の痛みを乗り越える過程で彼女が手に入れた、何にも代えがたい宝物だ。そして、これからの人生で、決して手放したくないものでもある。

その瞬間、里美の中で問いが形になった。

本当に大切なのは、どちらの男性が自分をより愛してくれるか、ではない。本当に大切なのは、どちらの男性が、自分が自分のために築き上げたこの人生を、ありのままに愛してくれるか、だ。彼女の自立した心を、パートナーシップの一部として尊重してくれるのは誰か 。この問いの答えこそが、彼女の進むべき道を示すだろう。それは、彼女が過去の経験から学んだ、究極の自己尊重の表れだった。


第14章 二つの答え


里美は、武田と蒼井に、それぞれ会う約束を取り付けた。そして、二人に対して、全く同じ二部構成の質問を投げかけた。

まず、武田と会った。カフェの落ち着いた席で、彼女は切り出した。 「武田さん、真剣に考えています。だから、教えてください。まず、私のどこが好きですか?」 武田は少し考え、そして誠実に答えた。 「君の、困難に立ち向かう強さと、物事の本質を見抜く知性だ。仕事ぶりを見ていて、心から尊敬した」 それは、里美が自分でも誇りに思っている部分だった。彼女は頷き、核心の問いを続けた。 「では、私の今の生活—仕事や趣味、一人の時間—を、武田さんとの未来の中でどう見ていますか?」

武田は自信を持って答えた。「素晴らしいシナジーが生まれると思う。僕たちは互いのキャリアをサポートし合える。パワーカップルになれるよ。週末は、君が写真に打ち込む時間も尊重する。その間、僕は溜まった仕事を片付けたり、あるいは二人で新しい共通の趣味を見つけるのもいい。お互いに自立しながら、快適で、効率的な生活を一緒に築いていこう」 彼の答えは、論理的で、協力的で、そして現実的だった。二つの独立した個が、互いを尊重し合うパートナーシップの形を示していた。

次に、蒼井と会った。夕暮れの公園のベンチで、里美は同じ質問をした。 「蒼井くん、私のどこが好き?」 蒼井は即座に、屈託なく笑って言った。 「里美さんが、完璧な一枚を見つけた瞬間に、目がキラキラするところ。あの顔を見てると、こっちまで嬉しくなるんだ」 それは、彼女自身も気づいていなかった、無意識の表情だった。里美は少し照れながら、二つ目の質問を口にした。 「私の今の生活を、蒼井くんとの未来の中でどう見てる?」

蒼井は、公園の木々を見上げながら、楽しそうに言った。「里美さんの生活? それがすべてだよ。俺は、その一部になりたいんだ。里美さんのレンズを通して世界を見てみたいし、俺が見てる世界も里美さんに見せたい。仕事があるから里美さんはシャープでいられるし、写真があるから情熱的でいられる。俺との未来は、それを変えることじゃない。そこに、俺が加わるってこと。一緒に撮影旅行に行くのもいいし、里美さんが一人で行くのもいい。大事なのは、帰ってきたら、その写真を俺に見せてくれることだよ」 彼の答えは、単なる「尊重」や「許容」ではなかった。彼女の人生そのものへの、積極的な興味と祝福に満ちていた。それは、個々の独立性を、共有する世界の豊かさとして捉える、統合的なパートナーシップの形だった。


第15章 これからの道


二つの答えは、どちらも素晴らしかった。武田の言葉は、里美がかつて経験した無視や無関心とは無縁の、確かな安心感を約束してくれた。彼となら、穏やかで満たされた未来が待っているだろう。

しかし、里美の心を強く打ったのは、蒼井の答えだった。

武田は、彼女が築いた人生を「尊重」してくれる。しかし蒼井は、彼女が築いた人生に「興奮」してくれた。彼は、彼女の自立した姿を、パートナーシップの中で管理・調整すべき要素としてではなく、彼女という人間の魅力の源泉そのものとして見ていた。

里美は、もう誰かの人生の付属物になるつもりはなかった。彼女の人生は、彼女自身のものだ。そして、その人生を丸ごと愛し、共に楽しんでくれる人こそが、彼女が本当に求めるパートナーなのだと、はっきりと悟った。

彼女の選択は、決まった。

数日後、里美と蒼井は、海辺の小さな町にいた。蒼井がずっと撮りたがっていた、古い漁港の風景を撮影するためだ。 「ねえ、ここのシャッタースピード、もう少し落としてみたら? 波の動きがもっと滑らかに写るよ」 里美が自分のカメラの設定を見せながら言うと、蒼井は「なるほど!」と子供のようにはしゃいで自分のカメラをいじり始めた。

ファインダーを覗く二人の間を、潮風が優しく吹き抜けていく。物語の終わりは、劇的なキスや永遠の愛の誓いではなかった。それは、互いへの尊敬と、共有する喜びに満ちた、穏やかで幸福な瞬間の始まりだった。彼女が自らの手で掴み取った、新しい人生の、確かな一歩だった。


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