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以て血を

イースマスの獣

作者: 志摩鯵
掲載日:2025/09/04




黒雲に包まれる大都会。

その源は、林立する高層大廈(ビル)から伸びる煙突から溢れる黒煙だ。


大聖堂のような復古建築(ゴシックリバイバル)の輝く高楼。

だが眩(まばゆ)い発展の翳(かげ)に増え続ける汚物。


誰かが豊かな暮らしを謳歌するなら代償を払う側は、犠牲者だろう。

煙突掃除人は、そんな産業革命の一面だ。


炉内の温められた空気は、膨張して軽くなり上に昇っていく。

この時、押し出される空気の代わりに酸素を含む新しい空気が吸引される。

これが煙突効果である。


しかし使い続けることで煙突内は、灰や煤が付着する。

これは、煙突効果を低下させ、火事の原因にも繋がった。


煙突掃除は、それらの問題を解決(クリア)するために必要な作業である。


産業革命により煙突は、より長く、より複雑に設計されるようになった。

こうした狭い煙突内は、大人が入ることができない。

そのため時には、小さな子供を煙突掃除人に利用するようになる。


しかし煙突内は、高温のままであり煙突掃除は、死と隣り合わせ。

などという表現すら生ぬるい完全な使(・)い(・)捨(・)て(・)であった。


31888年。

慈善家のスカーヴィル伯爵キャサリンは、煙突掃除人法を制定させた。

これによって煙突掃除人には、輸(・)血(・)液(・)が配られることになる。


ここでいう輸血液とは、宿礼院(ホスピタル)が《星界の智慧》で精製した特別な血液製剤のことである。


あらゆる怪我や病を治し、複雑な骨折や傷もたちどころに塞ぐ。

生物の持つ自己復元性を最大喚起する代物である。

―――と宿礼院は、説明していた。


しかし輸血液は、本来、獣狩りのために用立てられた代物である。

他は、宿礼院の系列病院でしかお目にかかることはできない。


故に生れながら重い病気を持つ子供は、煙突掃除人を目指した。

それが輸血液を手に入れる数少ない道だったからである。

例え肌を擦り切らせ、焼かれる生き地獄のような勤めでも。


しかしこれは、慈善事業ではない。

考え得る最悪の環境で働く子供たちを実験台にした宿礼院の治験。

そう冷笑するものもあった。


ともかく宿礼院は、煙突掃除人と契約を結んだ。

これは、煙突掃除人法により未成年であっても有効である。


ひとつ。

煙突掃除人は、煙突に入れないほど大きくなったら人間牧場で献血に従事する。

つまり次の輸血液を供給するための人(・)畜(・)となるのである。


ひとつ。

煙突掃除人は、煙突掃除人と結婚し、産まれた子供も煙突掃除人になること。

これは、輸血液が生物にもたらす影響を鑑みたものである。

つまり輸血医療を受けた人間は、人類の生態系から隔離されるのだ。


ひとつ。

煙突掃除人は、定期的に健康診断、身体検査を受ける事。

これは、福利厚生と輸血液の影響を監視する意味合いがあった。


煙突掃除人法は、煙突掃除人に人間らしい暮らしを約束するものだったはずである。

しかし宿礼院は、人間性と引き換えに血を配給する契約を交わした。


だが宿礼院の目的が何であれ、子供たちにとって微かな生きる希望であった。






煙突掃除人法の制定以降、相変わらず煙突掃除夫は、灰と煤で汚れている。

これでも年(・)に(・)数(・)回(・)、身体を洗うことが許される時代よりマシだ。

煙突掃除夫を利用した家主は、彼らに浴室を提供するよう義務化された。


煙突掃除夫は、裸で煙突内に入ることもある。

ともかく何一つ安全に対する配慮がない。


今、少年煙突掃除夫の裸を夫人が熱っぽく見つめている。


銀髪(プラチナブロンド)にアメジスト色の瞳。

そして艶やかに鍛えられた肉体に夫人は、吸い寄せられた。


少年煙突掃除夫は、13~14歳ほど。

しかし慣れた手つきで夫人に手を出した。


今し方、仕事を手早く済ませたように夫人も寝室に連れ去った。

そして旦那のいない間に熟れた夫人の肉体を手に入れた。


丁度、夫人には、18歳と16歳になる娘もいる。

少年は、目ざとく彼女らにも目をつけた。

二人とも狼に狙われた羊のようなモノである。


夫人に続いて娘二人も少年は、モノにする。

手当たり次第だ。


「んっ………ぐう。」


荒淫の後、少年は、輸血液を注射器に移し、自分で腕に注(さ)す。


うららかな午後。

振り返って少年は、狂ったようにシーツを掻き毟(むし)り、だらしなく手足を投げ出す女たちを見て独り頷き、男の支配欲を満足させてほくそ笑んだ。


彼は、ジル。

口の悪い仲間は、種馬のジル(ジル・ザ・スタリオン)と呼んだ。


長居は、無用。

仕事道具をひっつかみ金を受け取ってジルは、家を後にする。


玄関から外に出て、すぐ1台の蒸気機関四輪車(スチーマー)が彼の前で停車した。

ピカピカに輝く黒塗りの高級車で庶民には、考えられないような値がする。


訳知り顔でジルは、その四輪車に近づいていく。


「院長(チャンピオン)、御用ですか?」


ジルは、四輪車の後部座席に座る老紳士に声をかけた。

少年は、この住む世界が違う老紳士と顔見知りらしい。


「景気は、どうです?

 ……この前の法律、なんて言いましたっけ?」


ニヤついたジルが勝手に喋っている。

ピカピカのスーツを着た老紳士は、不快そうに口を開いた。


「早く乗りたまえ。

 君も人目に付くと面倒だろう?」


「あははっ。」


思わずジルは、乾いた声で笑った。


「俺、こんな煤だらけですぜ。

 ここでお伺いしますよ。」


そう話してジルは、自分の服を引っ張った。

彼の言う通り、そこら中が煤だらけだ。


「良いから乗らんか。」


老紳士は、ジルに向かって四輪車の扉を開けた。

仕方なくジルは、四輪車の中に滑り込む。


「ふへえ。

 本革のシートが勿体ない。

 なんてことを…。」


まるで気にしていない風のジルは、笑いながら座席に転がり込んだ。

老紳士は、ずっと難しい顔で正面を向いたままだ。

ジルを見ようともしない。


やがて四輪車は、猛烈な蒸気を噴射して走り出した。

車内でジルは、流れる街の景色を見ていたが思い出したように口を開く。


「……あっ、院長。

 獣狩りのご用命ですよね?」


「……次の選挙のことだが……。」


ジルを車に乗せた老紳士、”正直者(オネスト)”ジョハンは、前を見たまま話し始めた。


「ベルチェスター伯は今、別荘に家族で滞在している。

 彼の娘に接近して適当な問題を起こしてくれれば良い。」


「おやおや。

 随分と回りくどい。」


ジルが茶化すとジョハンは、肩を揺すって答える。


「ヒューを殺すほどのことはない。

 少しばかり彼の近辺を騒がせてくれれば良いのだ」


「はあ。」


「いつものように煙突掃除夫として顔を出せば良い。

 その辺りは、任せる。」


しばらくしてジョハンは、四輪車を降りた。

彼は、その場で待っていた別の四頭立ての馬車に乗り換える。


(政治家も大変だな…。)


ジルは、逃げるように立ち去るジョハンを見ながらそう思っていた。


ジルも別に用意されていた馬車に乗り換えた。

目的地は、イースマスだ。






イースマスは、リボン州サウスハム地区にある港町である。

産業革命期の環境破壊から免れた美しい自然を有し、国立景観(ナショナル・ランドスケイプ)に認定された。


取るに足らない田舎町に特別な価値を与えたのは、穏やかな気候と濃紺の湾(ラグーン)。

そして中世の歴史的景観、教会や街並みである。


この100年で町の景観を破(・)壊(・)したのは、黄金の補佐官像だけ。

あとは、景観保護のため近代的建物は、もちろん民家ひとつ、道一本増えてはいない。


最寄りの駅は、町から見えない丘の向こう側に隠されている。

ここは、国立景観に含まれておらず、ここから新市街が広がっていた。


「どうもー。

 煙突掃除はいかがですか?」


ジルは、適当な建物を見つけて声をかける。

いつも煙の出が悪いのを見計らって扉を叩く。

彼には、分かるのだ。


まず家主は、面倒くさそうに顔を出す。

最初は、機嫌が悪そうな男もジルの話に乗せられる。


「いや、やっぱり煙突掃除なんか要らない。

 悪いが帰ってくれ。」


「そんなこと言わないで。

 俺も金がなくて困ってるんだ。」


「泣き落としか。」


そう答える家主の目に同情の色をジルは見た。

無理に追い返すつもりはないようだ。


そもそもプロの目から見て煙突掃除が必要な家だ。

家主もそれさえ分かればジルを追い返したりしない。

問題は、他の煙突掃除夫ではなくジルを選んで貰うことだ。


玄関先で粘ること15分ぐらい。

いよいよ家主が根負けした。


「いいや。

 じゃあ、頼もうか。」


と家主は、不承不承でジルに仕事を頼んだ。


ジルも仕事が欲しい訳じゃない。

仕入れたいのは、ベルチェスター伯についての情報だ。


「……この辺りで大きな家?」


それとなくジルは、住民に話を振ってみる。


「へえ。

 大きな屋敷ですと煙突も多いでしょ?」


「それじゃ、ベルチェスター伯の別荘だな。」


ったく。

ここで違う名前が出たら時間の無駄だった。

ジルは、一先ず、ホッとした。


街には、伯爵の別荘で働く使用人も住んでいる。

あれだけ立派な屋敷だから内情は、筒抜けだ。


「伯爵様には、愛人とか隠し女が居たりするんですか?」


ジルは、ヘラヘラしながら訊いた。

もちろん今回の依頼通り、伯爵の近辺で醜聞(スキャンダル)を狙っている。


ここで話に出てきたのがニニだ。


ヴァージニア(ニニ)・アン・メアリー・ウォーリス・マクシェリー。

彼女の愛称がニニである。

伯爵の遠縁の娘で今は、養子になっている。


”正直者”ジョハンが言っていたベルチェスター伯の令嬢というのは、この娘のことらしい。

伯爵に生物学上の娘は、存在しない。


「養子とか言って実は、伯爵の女だったりしませんか?

 げへへへ…。」


「それは、伯爵を勘違いしてるよ。

 伯爵は、帝都(ヤーネンドン)に住んでるからね。

 ニニに手を出したりはしてないさ。」


これは、後で別の人間から聞いても同じ答えだった。


ニニは、伯爵の愛人どころか伯爵に愛想良くしているところを見た人はいない。

そういう女を伯爵が好きという訳でもないようだ。

本当に親戚の子だから引き取っただけということらしい。


確かにニニは、美人だという。

だが全く働いている様子もない。

幾ら貴族でも質が悪い。


「そうだなぁ。

 噂じゃどこかの貴族の令息と婚約があったらしいんだけど…。」


「ははあ。

 …許嫁ね。」


ジルは、良いことを聞いたと頷いた。

しかしそんな噂話をジョハンが知らぬハズはない。


話を聞いていくとこの縁談は、上手くいかなかったらしい。

なるほどこれでは、ジョハンが気にかけないはずだった。

だがジルは、そこにカラクリがあると直感した。


「ニニと許嫁は、愛し合ってて今も思いが続いてるとか?」


「いや、そこまでは…。」


結局、近所の人間の噂話し程度では、核心に迫ることはできなかった。






ジルは、何日か街を回って情報を仕入れ、伯爵の別荘に向かった。


もちろん煙突掃除にも顔役がいる。

他所から来た煙突掃除夫に仕事を盗らせたりはしない。


だが糞虫の巣は、裏社会に通じている。

ジルが狩人であるということは、彼らも承知している。

もし誰かが見慣れぬジルの素性を疑ってもそれなりに誤魔化しは効くはずだ。


「ごめんください。

 煙突掃除の御用はありませんか?」


「……ん。」


まずい。

ジルが声をかけたのは、使用人ではなく伯爵本人だった。


ベルチェスター伯、ヒュー・ジェラルド・ウォーリス・マクシェリー。

貴族院議員で軍需副大臣を務めたこともある。

あまりパッとしない男だ。


貴族だからと言っていつも派手な格好という訳ではない。

質素な服で伯爵は、過ごしていたようだ。


流石のジルもビックリする。

こんなところで伯爵に出くわすとは、思ってもみなかった。


「煙突掃除夫か。

 ………良いだろう。」


伯爵は、そう言ってジルを別荘にあげた。


向こうは、警戒する訳がない。

分かっているがジルは、溜息が出た。


「はあ。

 ………なんで焦ってるんだ、俺。」


とりあえずやることは、決まっている。

伯爵の娘、ニニと関係を持ってお(・)さ(・)ら(・)ば(・)すれば良い。


もし同意がなければ力づくでも構わない。

強姦でも世間は、馬鹿な娘と女を悪く言うものだ。


例え表面上は、同情を装ってもそれが人間の悪癖だ。

他人の不幸を喜ぶ生き物だ。

特に噂話を好む類は、その傾向が強い。


だがまずは、真面目な煙突掃除夫を演じるだけだ。


ジルは、煙突に潜り込んで仕事を始める。

中は、冗談じゃない熱さと危険が待っている。


「ったく。

 俺が狩人でなかったら死んでるぜ。」


ジルは、一仕事終えてぼやいた。

実際、普通の人間は、次々に病気になって死んでいく。

煙突掃除なんて人間のやることじゃない。


あらゆる意味で獣狩りの狩人より酷い。

だが侵入するための仮の姿とはいえ手抜きはできない。


「………!」


ジルは、一瞬、獣(・)の気配を感じ取った。

今、廊下を通った奴がそうだ。


(嘘だろ。

 俺がここまで気配を感知できない獣は、初めてだ!)


人々が子供のころ、御伽話で聞かされた獣化と呼ばれる怪奇現象。

それは、人が人でなくなる怪異である。


だが人々を震え上がらせるのは、獣を狩る狩人。

夜の闇を駆ける殺し屋たちである。


少年煙突掃除夫は、ジルの世を忍ぶ仮の姿だ。

彼と彼の仲間は、糞虫の巣(スカラベズ・デン)を名乗る狩人の集団のグループの一つなのだ。


犯罪者、娼婦、芸人、下層の労働者。

怪しげな職業に扮し、街に潜む獣を狩る者たちだった。


「ジョハンめ。

 これは、伯爵の一件の前に獣狩りから手を付けるか。」


ジルは、そう呟くと仕事道具から恐ろしい拷問器具のような武器を引っ張り出す。

分厚いギロチンにノコギリ刃を着けた化け物のような武器だ。

慎重に包みを解くと刃には、まだ獣の毛や血がこびりついている。


ジルは、幽霊のように静かに、しかし風のように素早く廊下を移動する。

これは、狩人の独特の技だ。


「………む。」


ジルは、通り過ぎようとした部屋に若い娘を見つけた。

順番が違うが伯爵の娘、ニニらしい。


いかにも擦(す)れた感じの娘でつまらなさそうに本を読んでいる。

もちろんジルが興味を持ったのは、抜群のプロポーションの方だったが。


「こちらにも煙突がありますよね。」


ジルは、そう言って何気なく部屋に入った。


素早く処刑道具のような武器は、部屋に隠す。

案外、人間は、急に部屋に物が増えても気づかないものだ。


「煙突掃除夫?

 ……分かった、ここを出ていく。」


娘は、そう言って本を本棚に戻した。

そして部屋を出て行こうとする。


「どうも、ありがとうございます。」


ジルは、そう言いながらニニのお尻を見ていた。


(…確か獣の気配は、ここまで来ている。

 どこかで巻かれたか。)


ここでニニが獣というのは、安易な素人の判断だ。

獣は、もとは人間なのだから、ずっと悪知恵が働く。

とはいえ大半が理性を削られ、訳も分からぬ化け物になる方が多いのだが。


仕方なくジルは、煙突掃除を始める。

こっちもまだまだたくさん残っていた。


小1時間後。


「ああ、やだやだやだ。

 …これなら墓荒らしとか他の部署に転属したいや。」


ジルは、そう言いながら暖炉から出て来た。


(む?)


部屋で写真を見つけた。

察するに例の破談になった許嫁だろうか。

伯爵の家族に若い男はいないハズだ。


(考えてみれば伯爵には、跡継ぎがいない。)


ヴィネア貴族は、家を何としても残そうという文化はない。

特に理由がなければ家門が絶えることも吝(やぶさ)かではなかった。


だが義理の娘に許嫁まで計画した伯爵が家名を残そうと奔走したのは、想像できる。


(………何が上手くいかなかったんだろう。)


ジルは、写真を見ながら考える。


(待て。

 この男、誰かに似て………。)


ずっと見ていると見覚えのある顔だ。

しかしいくらなんでも貴族や金持ちの顔を全部、覚えている訳がない。

まして子供の顔から親を予想するのは、立派な特殊能力だろう。


(うーん、ダメだ。

 分からん。)


そう思ってジルは、部屋を出る。

獣の痕跡を改めて探す。

獣の痕跡を探そうとした時、


(そうだ!)


丁度、写真の若者に似た貴族を思い出した。


(ゴセリン伯爵スノー・ル・ロンドン!

 ―――血統大臣だ!)


だがすぐにその考えを頭から振り払う。


(いやいやいや…。

 あのおばさんの息子は、こんな若者じゃなかった。)


ゴセリン伯が若い頃にできたとかで息子も齢をいってた。

こんなに若い息子はいないはずだ。


「そこの。」


ジルは、急に後ろから声をかけられた。

振り返ると齢食ったオバサンが立っている。

コイツが伯爵夫人か。


「煙突掃除は、どうなっているの?

 疲れるのは、分かりますができないなら帰って貰います。

 別に明日でも構わないのだから。」


(気持ち悪い。)


ジルは、ハッキリいって我慢するのが精一杯だった。

誰がどう見ても人間じゃない。

だが獣とも気配が違う。


伯爵夫人は、何か嗅いだ事のない悪臭がした。

刺激臭というか機械油とも違う薬品っぽい臭い。

そして顔が仮面のように作り物っぽかった。


(なんだ、これ…?

 …獣とも気配が違うがどう見ても人間じゃないよな。)


「す、すいません、奥様。

 あと一つ済ませたら明日、お伺いします。」


「そう。」


短く答えて夫人は、部屋を出て行った。

明らかに独特の臭いは、夫人と一緒に薄くなる。


(この俺が初(・)め(・)て(・)見る。)


ジルは、かなり動揺していた。

自分が経験したことのない存在に。


(あ(・)れ(・)が何であれ、このまま帰る訳にはいかない!)


ジルは、不気味な伯爵夫人をそのままにして帰ることはできなかった。

獣狩りの狩人として怪異を捨て置くことはできない。


だが今日は、帰ろう。

さすがに本当の本当に疲れた。


荷物をまとめて屋敷を出ようとする。

すると例のニニがジルに声をかけて来た。


「ちょっと、お前。」


「はい。

 なんでしょう、お嬢様。」


「お前、獣の狩人でしょう?」


ニニがぴしゃりとそう言うとジルは、惚(とぼ)けたふりをする。

こんな簡単にボロを出すほど甘くない。


「誤解ですよ、お嬢様。

 僕のようなつまらない煙突掃除を捕まえて何を仰る。」


「私は、夢を見たの。

 恐ろしい獣と戦う美しい狩人の姿を。

 お前は、その狩人様にそっくりでした。」


ニニは、そう言ってジルに近づいた。

一瞬、ジルは、考えた。


「では、しがない煙突掃除を虐めて何が楽しいんですかい。

 僕は、何かお気に障りやしたか?」


「この屋敷に獣が潜んでいる。

 私は、知っているの。」


どうもニニは、本気で言っているようだ。

ジルは、話を聞くことに決めた。


「はあ。

 ………伯爵夫人が?」


「知っているの!?」


ニニは、驚いた。


「そこまで分かっていて帰ろうというの!?」


「それは。」


「いいえ!

 一度、帰って獣狩りの装備を整えるのね!?

 そうでしょう!!」


ニニは、興奮気味にそう詰め寄った。

ジルは、かなり面倒くさそうに目を回した。


「なんだ、あんた。

 ちょっと落ち着いてくれよ。」


「そうね。

 獣のことは、どうでもいいの。」


ニニは、一方的にそう宣言した。


彼女は、きっと屋敷の中に缶詰めになって気がどうかしたんだろう。

人と話すのも久しぶりなのかも知れない。

養子という立場も彼女にとって苦しいに決まっている。


「あなた、血統大臣スノーを知っていて?

 彼女の息子も狩人様なの。」


「あ、はい?」


ジルは、顔をしかめた。

どうもこれが自分を呼び止めた彼女の目的らしい。

だがル・ロンドンの息子が狩人なんて噂でも聞いたことがない。


ル・ロンドンの息子は、知っている。

確か警察のお偉いさんで40は、越えている。

ニニの許嫁には、齢を取り過ぎだ。


(警察幹部は、表向きで狩人ってか?

 それにしても聞いたことないぜ。)


「知りませんね。」


「私、とても苦しいの。」


ニニは、感極まった顔で俯いた。

ジルにとっては、疲れてるのに迷惑な話だ。

しかし恋する令嬢の悩みを少しは聞いてやろう。


「私、彼の名前も思い出せない。

 彼女が、血統大臣がおかしな血を打ったの。

 すると彼との思い出は、すべてなくなってしまった!」


この話は、さすがにジルを本気にさせるものがあった。


「思い出せない?

 それが血液製剤の影響だという証拠はあるか?」


「日記よ。」


ジルとニニは、彼女の私室に場所を移した。

ニニは、早速、日記をテーブルに広げる。


「………これは、ずいぶんと個(・)性(・)的(・)だな。」


日記の然るべき部分は、読むことができなかった。

悪夢と溶け合いページの表面が歪(ひず)んでいる。

おそらく普通の人間が見れば白紙に見えるはずだ。


「あなたには、どう見えるの狩人様?」


「文字が歪(ゆが)んで見えるが。」


「そうなのね。

 人によって違うでしょうけど読めないようにされてるわ。」


ニニの表現は、他にも見せた相手がいることを仄めかす。

だがジルは、そこに関心を持たなかった。


「あんたには、どう見えるんだ?」


「読めない。

 けどここを見て何かが胸にひっかかるの。

 それが写真の彼だと分かった。」


ニニは、若い男の写真を指差す。


「あれは、どこに?」


「……だんだんと思い出せなくなるの。

 記憶が都合のいいように繋ぎ合わされる。」


ニニは、そう言いながら男の写真を手に取った。


「良く分からない。

 何も分からない。

 けど胸が熱く張り裂けそうになる。」


ジルは、改めて日記を調べる。

他のページも悪夢に飲み込まれている箇所があった。

すべて許嫁と関係ある部分だろう。


「うん?」


(なんで俺は、他人の日記なんか読んでるんだ。

 しかもここは、仕事で来た貴族の屋敷じゃないか!)


ジルは、驚いて日記を閉じる。

そして慌てて部屋を出ると屋敷から出て行った。




翌日。

ジルは、伯爵の別荘に訪れる。

やり残した煙突の掃除を終わらせ、適当にスキャンダルを起こすために。


(とりあえず伯爵夫人と寝るか。)


そんなことを考えていた。


だがある部屋に入ると強烈な悪臭に、ふと記憶が刺激される。

昨日嗅いだあの臭いだ。


(そうだ。

 これは、絵具の臭い。)


ジルは、部屋にかかっている若い娘の油絵を見た。

擦(す)れた感じのする若い貴族の娘だった。


(馬鹿だな。

 すっかり乾いた絵から絵具の臭いなんかするわけないのに。)


部屋を見渡してからジルは、そう自嘲した。


(でもこうやって色んな部屋を見られるのも煙突掃除の面白さだよな。

 まあ、そんなこと言ってる余裕ねえけど。)


ジルは、そんなことを考えながら部屋を出る。

そして忘れてしまった。


だが貴族の娘の絵は、まだ絵具が完全に乾き切っていなかった。

他にも、他にも、乾燥が済んでいない油絵が屋敷に掛かっている。


けれどジルも、他の狩人も、そのことには気付かない。

イースマスの獣は、まだ誰も見たことがないのだ。




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