いつまでも子猫ちゃんじゃいられない
茶色に塗られた扉の前でとっておきのナチュラルラインのワインピースに皺がないか確認をする。家族で東京に行った時に買ってもらったお気に入りだ。この服を着ると気持ちがしゃんとなって力があふれてくる気がする。
最後に櫛で前髪を整えてから、3度目の深呼吸をして、ようやくインターホンを鳴らす決心がついた。おずおずとチャイムを鳴らすと、チャイムの音の後に中性的なよく通る声がきこえた。
爆発しそうな気持ちを押し殺して名を告げると、しばしして扉が開いた。
「あれ? 早かったね」
相沢智也28歳。名倉美弥子のターゲットだ。
社会人らしく髪の毛が短くなっているが、印象的な目元のほくろが美弥子の記憶の中の姿と重なる。ジーンズにTシャツとラフな格好をしているものの、だらしのない印象を感じさせない清潔感がある。
「あ、あの、私っ」
「とりあえず中に入りなよ。どうぞ」
智也は優しく言ってリビングへ誘う。美弥子はお邪魔します、と小さな声で言ってその後に続く。
今夜は海外出張から戻った智也の慰労会を昔から親交のある両家で行う予定だった。
集合時間は午後6時。約束の時間よりも2時間も早く美弥子は智也の家を訪れた。もちろん智也の母が買い出しに出たタイミングを狙って。家でじっとしていることなんてできなかったのだ。
久しぶりとはいえ、慣れているはずの家なのに2人きりだと思うと緊張もする。なぜか足音を響かせてはいけないと思って、ふかふかのスリッパを擦るようにして、智也の背中を見ながらゆっくりと歩く。
話したいことは山ほどあるのに、言葉に詰まった私をどう思っただろう。約束の時間より早く訪れた私を変な人だと思っただろうか。
通されたリビングのソファに座った美弥子は、そんなことを考えながら、キッチンの奥にいる智也を見ていた。帰国したばかりで勝手がわからないのか、扉を開けては閉めることを繰り返している。音が止んだのは、食器棚下部の扉を開けてからだった。
手持ち無沙汰の美弥子は、ただ座っていることが落ち着かず、リビングを見渡した。
智也の家のリビングは物が少なくさっぱりとしている。窓際には背の高い観葉植物が置かれていて、少しも枯れているところがない。智也の母親が持ち前の綺麗好きを最大限に発揮するとこうなるらしい。
私のママにも見習ってほしい、と美弥子は思う。それを口に出してしまったら、しばらくご飯が貧相なことになるから思うだけなのだが。
「ごめん、コーヒーしかなくて。正確に言うと紅茶もあると思うんだけど、どこにあるかわからなくてさ」
ネズミのキャラクターが描かれた可愛らしいマグカップが置かれる。お礼を言う間もなく、角砂糖が入った小さな瓶も差し出された。
「好きなだけ砂糖を入れていいから。今日は母さんもいないし」
「ありがとうございます……」
意気消沈。智也さんの中では甘いコーヒーしか飲めない女の子で止まっているんだ。ま、その通りなんだけど。
ブラックコーヒーは苦いだけの液体なのに、砂糖やシロップが入るだけで飲めなくもない味に変わる。たまに飲むのであれば悪くない。
「それにしてもひさしぶりだね。えーっと、あれを最後に会ったのはーー」
「智也さんが海外出張に行く日の朝です。この家の前で両親と一緒に見送りました」
5つ目の角砂糖をカップに溶かしながら答える。あの時のことは、今でもありありと思い出せる。高校1年生だった私は旅立つ背中を眺めることしかできなかった。もう少し大人だったら、背中に抱きついて引き留めるような言葉を叫びたかった。そんな妄想を何度も繰り返して過ごしていた。
「そうだそうだ。そっかー、あれから3年だもんな。みーちゃんも今じゃ立派な大学生か。早いなぁ」
智也は軽い調子で言って、砂糖が入っていないコーヒーを口に運ぶ。
相沢家は総じて私のことをみーちゃんと呼ぶ。昔から一人称は私だけれど、親しみを込めてそう呼んでくれている。それが続いていることはありがたいこと。それでも愛玩動物のような呼び方するのは、そろそろ止めてもらいたい。特に智也さんには美弥子と名前で呼んでもらいのに。
やっぱり、出るところが出ている体系じゃないと男の人は興味を持たないのかな。
「アメリカはどうでした? 毎日ハンバーガーみたいな?」
「それどんなイメージだよ。ハンバーガー以外にもステーキとかいろいろあったんだぞ。ほら」
智也はスマホを操作して、美弥子にアメリカで撮影した写真を見せる。次々と切り替わる写真は、食事の記録がほとんどだった。本当に海外にいたことを証明するように、まれにハリウッドやタイムズスクエアなどテレビでお馴染みの観光地が表示される。
異国の地の風景を呑気に眺めていた美弥子の心がざわついた。
飲み会の席での写真らしい。どこかの家の一室にも見える。ホームパーティーというものなのかもしれない。テーブルには料理とビールが入ったジョッキが置かれていた。様々な人種の人たちが写る中、智也さんの隣に綺麗な女性がいた。
ただひと言「この綺麗な女の人は?」と訊けばいい。それだけのことなのに、私の口は固く結ばれたままだった。
ウェーブがかった黒髪をなびかせ、智也さんに寄り添う女性から目が離せない。
おっぱいもお尻もボインボイン。見せつけるように強調された胸の谷間は視線を引き寄せるブラックホールだ。私の余分なお肉をかき集めたとしても足元にも及ばないものがそこにある。
智也さんも智也さんで満更でもなさそうに笑みを浮かべている。この距離感は友達のそれではない。私のどこかにある女の本能的な何かが訴えている。恋愛経験は皆無だけれど、そうに違いない。
美弥子の視線の先が固定されたことに気がついた智也は、スマホの電源を落とし、あわててジーンズの脇ポケットにねじ込む。
なにその反応。やましいことがあるみたい。
美弥子の顔に、この家に訪れた時の笑みはなかった。静かにテーブルの上に乗り出していた体をソファーに戻し、膝の上で拳をつくる。
「え、えーっとな。……そうだ。まだお菓子食べてないでしょ。せっかくだから、向こうのお菓子食べてみてよ。みーちゃん好きだと思って買ってきたんだけどさー」
智也は言葉を濁し、席を立つ。わざとらしく背伸びをしながらキッチンへ消えていった。
やっぱり。はっきり言えない関係なんだ。それとも私に言えないだけ?
会えなかった期間が長くても昔からの癖が変わるものではない。都合が悪くなると話を変えるのは智也の悪癖だ。昔のまま変わっていないことが嬉しさと、手が届かない遠くに行ってしまったような不安が美弥子の中でせめぎ合う。
その後智也が出したケミカル色の強い甘いだけのお菓子は、美弥子に自分が恋愛対象から外れた庇護すべき存在であることを示していると思わせるには十分すぎるものだった。
当然、これまでに智也さんに彼女がいたことはある。私は会ったことはないけれど、ママから話は聞いていた。そのたびに私の心は暗い穴底に落ちていった。
だから、いまさら智也さんに彼女がいたとしても落ち込まないつもりでいたし、迷惑じゃないのなら気持ちを伝えるだけで長い片思いを終わりするつもりだった。
それなのにこんなにショックを受けている自分に驚く。自分の体に女性的な魅力は少ないことなんて重々承知している。それでもあのアメリカ大陸で育まれたダイナマイトボディーと、この枯れ枝に皮をまとった貧相な体では勝負にすらならない。
ボインには敵わない。
それは年齢以前の好みの問題で、私に突きつけられた現実だった。
なけなしの勇気が散っていく。今の私の限界はここだった。
*
智也と美弥子の出会いは、彼女が小学2年生の時に遡る。
昔から周りの子どもに比べて発育が悪く、病弱だった美弥子は熱を出して寝込むことが少なくなかった。
共働きの両親は甲斐甲斐しく看病をしたが、どうしても仕事を休めない時は隣家である相沢家がその役を買って出た。
智也と、遠方に住む兄の母親は専業主婦であり、名倉家よりも育児に関しては一日の長があった。相沢家にはいない女の子である美弥子のことを我が子のように可愛がったのは言うまでもない。
しかしながら、智也の母親も終始付きっきりでいるわけにもいかない。そんな時に美弥子の世話を任されたのが智也だった。
親から頼まれたことだとしても、美弥子からしてみれば、優しく看病してくれる歳上のお兄さんであって、同級生が霞んで見えた。
それが恋心だと気がつくまで、そう時間はかからなかった。
智也さんの家の食卓に座ると、どうしても昔のことを思い出してしまう。
熱が下がった後に食べるアイスも、鍵っ子だった私が内緒でケーキをもらったのもこの場所だった。
楽しいパーティーも終わりに近づいていた。
テーブルの上のピザ、オードブル、サラダなどはわずかに残るだけ。
その一方で美弥子の取皿には場違いな筑前煮だけが盛られていた。不格好なニンジンや筋の残ったインゲン、大きなタケノコがほとんど手付かずのまま残っている。
盛り付けられていた器は空になっているものの、そこにあった半数は彼女が確保していた。
「その時に智也が泣いちゃったじゃないのー」
「あったあった! 懐かしい。あんなに小さかったのに、今はアメリカに行ってきちゃうんだもんね。歳取るわけだ」
智也と美弥子の母親たちは思い出話に花を咲かせ、笑い合っている。歳はやや離れているが、まるで姉妹のように仲が良い。慣れない土地に越してきた者同士、通ずるものがあったのだろう。
同じように父親たちもタバコを吸いに外に行ってしまった。あちらはあちらで仲良くしているのだろう。
智也は飲みすぎて席を外してしまった。アメリカにいる間は禁酒していたらしく、ついさっきまで水でも飲むようにビールを飲んでいた。本人は防犯のためだと言っていたけれど、本当のところはわからない。
テーブルの上には智也の飲みかけのビールが残されている。グラスの縁には唐揚げの油で唇の形が薄く型取られて、煽情的だ。
美弥子は目を離すことができず、それをじっと見つめていた。
「あー、すっきりした」
顔を真っ白にしてトイレに向かった智也がリビングに入ってきた。顔色は少し戻っているように見えるものの呂律が回っていない。
美弥子はあわててグラスから目を逸らした。
智也は真っ直ぐ自席に戻り、心配する母親をいなして残ったビールを一気に飲み干した。
テーブルに置かれたグラスから唇が消え、その代わりに泡の跡が残った。
「ありゃ、筑前煮なくなっちゃった?」
智也が残念そうに言う。
「あんた筑前煮好きだったっけ?」
智也の母が怪訝そうな目を向ける。
確かに智也はピザやハンバーガーを好んで食べていた気がする。アメリカ行きが決まった時も本場の味を楽しめると、期待に胸を弾ませていたはずだ。
「いやさ、なんつーの。ハンバーガーとかステーキは好きだったけど、本場に行ったらなんか飽きちゃってさ。和食って日本に帰ってきたんだなぁって感じるし、おかえりなさいって言われているような味がして美味かったんだよ。これ母さんがつくったんじゃないの?」
「みーちゃんママが持ってきてくれたのよ」
パーティーの食事はお互いが持ち寄ることにしていた。出来合いのものもあれば、腕を振るったものも並べられていた。
「筑前煮は美弥子がつくったのよね。しっかり出汁から取るこだわりっぷりで、頑張ったんだよね」
ママが余計なことを言うから、思わず顔を伏せる。
頑張ったんじゃない。ネットで見たレシピにそう書いてあったからそうしただけだ。帰国した人は和食が食べたくなるものでしょ。そうだよね?
「へー! あの小さかったみーちゃんがそんなことまでできるようになったんだ。智也と結婚してくれれば私としては安心なんだけどな。ほら、あんた細い子の方が好みって言ってたじゃない。みーちゃんなら大歓迎よ。私にとっても娘みたいなものだし」
「はぁ? なに言ってんだよ。みーちゃんの気持ちってもんがあんだろ。なぁ?」
そこで私に振られても。ママまで期待するような目でこちらを見ている。ずっと昔にママたちの間で頻繁に交わされていた話は冗談ではなかったのか。私にとっては好都合だけれど、このまま便乗するような度胸はない。
みんなが私が喋り出すことを期待している。視線が集中すると頭の中の余白が急速になくなっていく。なにか喋らないといけない。そんな考えに支配されてしまって、つい余計なことを口にしてしまう。
「智也さんはアメリカにお相手がいるみたいですし……」
しまった、と思った時にはもう遅い。あれだけ智也さんが誤魔化そうとしたことを明らかにしてしまった。
智也の母親が、どういうことなの?と智也に詰め寄っている。それに対して言い訳めいた言葉が発せられているが、自己嫌悪から塞ぎ込んでしまった美弥子には届かない。
「……ボインが好みみたいだし」
借りてきた猫のようにおとなしくなっていた美弥子がこぼした言葉に反応して、智也さんの素っ頓狂な声がリビングに響き渡る。
「ちょっと、それってどういうこと?」
智也は席を立って逃げようとしたところを自分の母親に腕を掴まれ、着座する。
「みーちゃんが勘違いしてるんだよ」
「じゃあ、なんで逃げるのよ。きちんと説明しなさい」
観念したのかスマホを操作して、例の画像を表示させ、テーブルの上に置いた。智也と美弥子の母親たちはじっと画面を見つめ、それから顔を合わせた。
私に気を遣っている。そう感じた美弥子は肩をすぼめて少しでも存在を消そうとした。
「……それで、この人は誰なの? ずいぶん仲が良いみたいだけど」
「アマンダさん、いろいろ助けてくれた同僚だよ。それに既婚者」
智也の発言にまたしても母親たちは顔を見合わせる。
「その既婚者のアマンダさんがどうしてまた。……ねぇ」
智也の母親は言い淀み、不貞行為を連想させる言葉を避けている。息子がとんでもないことをしていたかもしれない。その考えがさっきまでの勢いに歯止めをかけた。
沈黙が続く中、智也が口を開く。
「……似てたんだって」
旦那に? それとも初恋の人に? 皆の頭の中に考えられる可能性が浮かぶ。しかし、中性的で線の細い男が向こうで相手にされるものなのだろうか。
「なにに似てたの?」
智也の母親が代表して尋ねた。
「……昔買ってた犬に」
一瞬の間、その後にくすくすとした笑い声と共に「そりゃそっか」とか「そんな度胸ない」とか実の親に好き放題言われる。美弥子とその母親は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「ほら、そういう顔をする! だから言いたくなかったんだ! みーちゃん、これもらうよ!」
智也は美弥子の取皿を奪い取り、筑前煮を掻き込んで食べる。その食べっぷりに笑いが起こる。智也の母親が「やっぱり好きなんじゃない」と小さく漏らす。
見栄えが悪い筑前煮が全てなくなった。しかも、そのほとんどが智也のお腹の中に収められている。
「みーちゃん、すごく美味しかった。また作ってよ」
ママが肘で私を小突く。私は何度も無言でうなずいた。
体の芯がじんわりと暖かくなる。
好きな人に褒めてもらえるだけで、こんなに嬉しくなるなんて。
智也さんの笑顔をいつまでも見ていたい。私が独占していたい。そのための爪を研ぐ方向は定まった。後は実践あるのみ。
いつまでも子猫ちゃんじゃいられない。