序章
白い部屋は、清廉そのものに見えた。柔らかい安楽椅子に深く沈みこんだ老いた男が、何かを呟いている。片手は膝上の聖典に置かれ、微動だにしない。
大きく開かれた窓からは、冬の穏やかな光が差し込んでいた。神の祝福を受けるには、これほどの日もないだろう。男は短く聖句を唱え、ゆっくりと乾いた空気を吸い込んだ。
扉を軽く叩く音とともに、小柄な人影が姿を現す。まだあどけなさの残る少年は、木製の脇机に置かれた茶碗に視線を送った。
「猊下、そろそろお時間です」
男は冷めた紅の液体を飲み干し、ゆっくりと身体を起こす。純白のケープが、かすかに擦れる音がした。
「マルコ、といったな。生まれはどこだ」
りんとした声が小さな部屋に響く。その皺に覆われた外見からは、想像もつかない若い声だ。マルコと呼ばれた少年は、やや戸惑いつつ、答えた。
「サラスゴ島にある、トゥーリーの村です」
「聖アンジェロが生まれた島か。確か『苦求論』の中で、葡萄の樹の逸話が紹介されていた。果実を喰らう獣と、勇気ある農夫の話だ」
「はい、島全体が葡萄の産地です。名酒で知られるメルランとは比べられませんが、良き実りに恵まれています。聖アンジェロも、農家の出でした」
「きっと神の雫の導きなのだろう」
男は、口元を緩ませる。その微笑は、なぜかマルコをぞくりとさせた。
「民が待っております。こちらを」
差し出された祀杖を受け取った男から、表情が消える。
「では、はじめるとしよう」
従者マルコと、白づくめの影が回廊に出た。木靴が石床に当たり、澄んだ音が反響していく。中庭の噴水は乾いており、葉を落とした木々が寂しげだ。
通路を南に折れると、深紅の絨毯が目に入ってきた。聖堂への渡り廊下の両脇には、十二名の枢機卿が整列している。言葉を発するものはいない。「静寂」は教義の中で、最上位に位置する律言のひとつだからだ。
突き当りの扉が開かれ、先導してきたマルコが男の後ろに下がる。男は歩みを止めず、正確な歩幅で広い露台に出た。十数メートルほどの眼下に集まった群衆の一人が、叫ぶ。
「新たなる教皇、ヴェスタール猊下、万歳!」
祝福の小波は、すぐに荒れ狂い、暴力的な音量が大聖堂に押し寄せる。世界に教皇と認められた男は、民衆からよく見えるように設えられた高台を上り詰め、片手で祀杖を天に掲げると——。
大地に向かって墜落した。