田舎
1 エアバッグ
薄暗い部屋の中で、聞こえる音は二つあった。
カタカタとキーボードを叩く音。それから、ヘッドホンのすき間から漏れる女性の喘ぎ声だ。
名無しのごんべえ:このアニメ声の女優さんの名前わかる方いますか?
さとり世代からの使者:さんです。彼女はスタイル抜群で演技力もある素晴らしい女優さんでしたが、すでに引退してます。僕も大変お世話になりました。復活して欲しい女優さんの一人ですね。
片桐サトリはキーボードを叩き、知らない誰かのコメントに返信した。
パソコンの画面の中では、十人弱の男女が裸で交わり合っていた。いわゆる乱交ものというジャンルのアダルトビデオだ。
今日は乱交ものにしぼって作業を進めている。ジャンルごとに進めると捗る。自分の好き嫌いとは関係なく、どんどん質問に返信していけばいい。
桜井穂乃果は長い黒髪と切れ長の目をした、いわゆるアジアンビューティーと言われるような見た目の女優だった。クールな見た目とは裏腹に鼻にかかるアニメ声優のようなしゃべり方をする。デビュー当時はそこそこ話題になったようだが、すぐに企画女優に降格してしまった。確か、五年ほど前に引退している。一部のファンの間では未だに根強い人気があった。
今日は桜井穂乃果の名前を訊ねている動画を三本も見つけた。ようやく世間が彼女の魅力に気づき始めたのかもしれない。
「こんな女と寝れたらなあ」
サトリはズボンを半分下ろし、一生縁がないであろう美女の裸を眺めながら、自分の右手でペニスをしごいた。
ふう。
ひと仕事終え、耳からイヤホンを外した。喘ぎ声を延々と聴き続けるというのも疲れる。
まるでモテる男の台詞のようだが、実際のサトリはほぼ童貞だった。世間でいうセカンド童貞という言葉がぴったり当てはまる。
大学時代に少しだけ彼女がいた時期はあったが、社会人になってからは仕事に忙殺されてとても恋愛どころではなかった。いまは毎日、部屋の中で抱けもしない女の裸を一生懸命眺める生活をしている。
きっかけは些細なことだった。
ある日、たまたま見ていたエロ動画の下に、
「この女優さんの名前わかる方いらっしゃいますか?」
というコメントを見つけたのだ。
違法にアップされたアダルト動画には女優の名前がわからないものも多い。削除されないように、投稿者はあえて名前がわからないようにしているのだろう。
昔から記憶力にだけは自信があったサトリは、なんとなくそのコメントに返信して、女優の名前を教えてあげた。
すると次の日、質問者から、
「ありがとうございます」
という返信があった。
たったそれだけのことだったが、一日中誰とも関わらない生活をしていたサトリにとってはとんでもなく嬉しい出来事だった。自分という存在が少しだけ肯定されたような気がした。
その日から、複数のアダルトサイトを巡回するのがサトリの日課になった。
わざわざ返事を書き込んでもほとんどのコメントは無視された。質問者がコメントを読んだのか、読んでないのかもわからなかった。ごくたまに返される感謝の言葉のためだけに、サトリは毎日書き込みを続けた。
誰よりも早く返信すべく、起きてる間はなるべく書き込みを続けた。彼は誰かに必要とされたかった。幸い時間はいくらでもあった。
そろそろ寝るか。
パソコンの電源を切り、髪を束ねていたゴムを外して、ベッドに横になった。
数年間、外に出ていない彼の髪は伸ばしっぱなしだ。自分で切ることも考えたが、面倒くさくてそのままにしていた。とりあえず今は適当なゴムで縛っている。
目を閉じてもすぐには眠れない。いつものことだ。
ずっとパソコンのブルーライトを浴びているせいで、寝つきが悪いのだ。
人間とは不思議なもので、何もしていない時間が続くと、余計なことを考え始めてしまう。
どうして自分は生きているんだろう。人生の意味って何だ、生きる価値のある人間とは、、、。
いかん、いかん。
サトリは呼吸に意識を集中した。
「スー」
鼻から空気を吸い込み、
「ハー」
と、口から息を吐く。
座禅を組む禅僧のように、頭の中を空っぽにする。
無限の時間が横たわる引きこもり生活を健康に過ごすためのコツは、とにかく何も考えないことだ。
サトリが引きこもり生活を始めてから、三年が経とうとしていた。
引きこもりと言ってもずっと部屋にいる訳ではない。トイレには行くし、家族が寝静まった深夜に風呂にだって入っている。なんならコンビニまで行って欲しい物を買うことだってある。自分なんてまだまだ引きこもり初心者、いつでも元の生活に戻れる。そんな風に考えていたら三年が経っていた。
世間的に見れば、サトリは立派な引きこもりだった。
もちろん、一生部屋に引きこもっていられるわけがない。親だって歳を取るのだ。
もうすぐ三十歳になるのに、こんなんでどうすんだ。気づけば、また、そんなことを考え始めてしまっていた。
ダメだ。眠れない。
もう一発抜いてから寝よう。
サトリはスマホにヘッドホンを刺し替えて、エロ動画を見始めた。
ぶふぉ…ぶぶぶぶぶ。
家の前で、聞き慣れないエンジン音がした。どうやら来客のようだ。
サトリはヘッドホンをずらして聞き耳を立てた。
父親が乗るトヨタのプリウスとは明らかに違う、パワフルで、力強くて、いかにも環境に悪そうな音だった。
どんな車だろう。
少しだけ見てみたい気もしたが、雨戸が閉まっていることを思い出してやめた。彼の部屋は雨戸がずっと閉まっていて、外からの光が差し込むことはない。今が昼か夜かもわからなかった。
サトリはスマホで時間を確認した。
五月十六日(火曜日)の十四時。
平日の真っ昼間じゃないか。こんな非常識な時間に来るなんて。くだらないセールスか詐欺、あるいは宗教の勧誘に決まっている。いずれにせよ、サトリには関係ない。
玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
母親の声がして玄関の扉が開いた。
声からするに、客は男のようだ。どうやら母親の知り合いだったらしい。二人は親し気に話しを始めた。
しばらくすると、母親の足音が階段をのぼってきた。
引きこもり生活をしていると、足音に敏感になる。母親と父親の足音は瞬時に区別できるし、知らない人間の足音もすぐにわかる。
母親の足音の後ろから知らない足音が一緒について来ていた。
あろうことか、二つの足音はサトリの部屋の前で止まった。
「サトリ、お友達よ」
ドアの向こうから母親の声が聞こえた。
友達と言われても、サトリには友達なんていない。
そもそも、彼が地元に帰ってきていることを知っている人はほとんどいない。
「よお、サトリ。聞こえてるか。俺だよ。尾崎リュウスケ。中学のとき同じバスケ部だったろ?」
サトリは思わず身体を起こした。
確かに、尾崎リュウスケは中学時代の同級生だ。クラスは違ったが、同じバスケ部に所属していた。
と言っても、サトリは万年補欠。レギュラーでいつもみんなの輪の中心にいた尾崎が自分の存在を覚えていたことが驚きだった。
「お母さんの職場でね。リュウスケ君に似た子がよく来るなあと思ったら、本人だったのよ。びっくりしちゃったわ」
と母親が言った。
どうして母親が尾崎のことを知っているのだろう?
そういえば、中学時代、母親は自分の息子が出もしないバスケの試合をときどき観に来ることがあった。その時、尾崎のことを「あの子はすごいわねえ」と絶賛していた記憶がある。
尾崎はバスケのプレイもさることながら、さわやかなイケメンだった。女子生徒だけでなく、部員の母親たちからも絶大な人気があった。当時は冗談で尾崎のことをママさんキラーと呼んでいるやつがいたくらいだ。
「じゃあ、私は下にいるから」
そう言って、母親は一階に下りて行った。
たいして仲の良くなかった同級生が引きこもりに何の用があるというのか。中学時代は輝いていた同級生も、今はどんな大人になっているかわからない。学生時代にイケてた奴は大人になったらショボくなっているという話もある。
尾崎がショボい大人になっていた場合、同級生の家を訪れる理由はおそらく、保険の営業か、マルチ商法? 宗教の勧誘? ろくでもない話に決まっているじゃないか。
母親は自分の職場によく来たと言っていた。サトリの母親はショッピングモールの中にあるステーキ屋でパートをしていた。ショッピングモールの中の店とはいえ、頻繁にステーキを食べられるような身分ではあるらしい。リッチな奴だ。
だからと言って、サトリは部屋から一歩も出るつもりはないし、反応するつもりもなかった。じきにあきらめて帰るだろう。
「お前の母ちゃん、美人だよな。お前に全然似てなくて」
母親がいなくなると、ドア越しに尾崎が言った。
無視だ。無視。
「こうやって会うのは、中学卒業ぶりか」
こちらの反応など気にせずに、ドアの向こうの尾崎は喋った。
「お前の母ちゃんから聞いたんだけど、部屋から出ないんだってなあ。母ちゃん、心配してたぞ。だって、たいして仲良くなかった同級生の俺にどうにかならないかっていきなり相談してきたくらいだ」
放っておいてくれ。自分は好きで部屋から出ないだけなのだ。
サトリは無視を続けた。
「ずっとそんなとこにいたら気が滅入るんじゃないか? ちったあ、外に出てきたらどうなんだよ。久しぶりに会いに来た同級生に顔くらい見せろ」
横柄な態度にイラっとした。
人の気も知らないで呑気なことを言うなと思った。
サトリは無視を続けた。
その後も尾崎は、おい、とか何とか言えよなどと続けていた。もちろんサトリは無視を続ける。
「俺はさあ、エアバッグみたいな人間になりてえのよ」
尾崎は急に妙なことを言い出した。
ミシッ。
サトリがふいに身体を起こすと、ベッドが軋んだ。中学生の頃に買ってもらったこのベッドは、少し動いただけで音を立てる。
「お、起きてはいるみてえだな」と尾崎が言った。「あれは二十歳くらいの頃かなあ。免許取ったばかりの頃、バカな連れと一緒に深夜の高速でめちゃくちゃなスピード出しながら走ってて、事故ったんだ。ハンドルを取られて、中央分離帯にドカン! あの時は、ああこれで死んだってマジで思ったね。一瞬、目の前が全部スローモーションになったからな。ああ、これが走馬灯かってなったら、目の前にいきなりクッションが現れたのよ。ボフンとね。エアバッグすげーってなったぜ」
だから何だ、とサトリは思った。
「俺はそれからの人生、ボーナスみたいなもんだと思って生きてんのよ。あの時、死んでたら、全部なかった人生だからな。エアバッグみたいに、間一髪で誰かを助けられる人間になりたいんだ。そんなこんなで今日は同級生の家に来てみたってわけ。まあ、人助けって気持ち良いからな。よく後輩に酒を奢ってるやつとか募金箱に募金している奴らいるだろ、あれって気持ち良いからやってんだよ。みんな気持が良いからやってるんだ。セックスと同じだ」
気持ち良いから? ふざけた野郎だ。誰も助けてくれなんて頼んでいない。
絶対に外になんか出てやるもんか。サトリはそう心に決めた。
「本当に出てこないんだなあ」尾崎はそうつぶやくように言った。「俺って、結構熟女好きなんだよなあ」
ん? 熟女が好き?
それって一体どういう意味だ?
「じゃあ、また来るわ」
尾崎はそう言うと、階段を下りて行った。
やっと帰ったか。サトリは胸をなで下ろした。
最後の台詞が少々気がかりだが、サトリはヘッドホンを掛けなおして、エロ動画鑑賞に戻った。
ドンッ。
しばらくすると、一階からヘッドホン越しにも聞こえる物音がした。ちょうどこの部屋の真下にあるキッチンからだ。
サトリはまたヘッドホンをずらし、聞き耳を立てた。
尾崎と母親が何か話している。何を話しているのか、気になる。
床に耳をくっつけて、二人の会話を盗み聞きしようと試みたが、何を話しているか、はっきりとは聞こえない。
サトリはゆっくり部屋のドアを開け、廊下に頭を突き出して耳を澄ました。
「ダメ。やっぱり入らないみたい」
母親の声が微かに聞こえた。何かに困っているようだ。
「大丈夫。お母さん。俺に任せて」と尾崎が言った。
変な会話だった。
まるでアダルトビデオのセリフみたいだ。
は!
ポルノ漬けになったサトリの脳内には、キッチンで二人が交わる姿がありあり浮かんだ。
ふとしたきっかけで、同級生の母親と禁断の関係を結ぶというストーリーものの作品だ。絡みは三回。一回目は戸惑っていた母親も、回を重ねるごとに積極的になって、若い肉体に溺れていく。
日本の平均年齢が上がるにつれて、最近は熟女もののアダルトビデオが増えている。アダルトビデオを視聴する人の年齢が上がっているのだから当然だ。
みんながみんなロリコンというわけではない。
熟女が好きと言う若い男だって増えている。テレビで熟女好きを公言している芸人だっている。
仮に、尾崎がそういう性癖だったとしたら?
サトリの母親は歳の割りに若く見え、息子の自分が言うのも何だが、美人の部類に入ると思う。
先ほどの尾崎の言動からは、サトリが部屋から出て来ないことを確認していたようなきらいさえあった。
サトリ個人としては、別に母親がどこで誰と何をしようと好きにすればいいと思う。彼女の人生だ。
しかし、二人の不倫関係が父親にバレた場合、あの父親は火がついたように怒るに違いない。
最悪、離婚という可能性だってある。
そうなった場合、この家は父親の持ち家だから、出ていくのは母親になるだろう。
あの父親と二人暮らし。
控えめに言って、地獄だ。
サトリの父親は料理を一切しない。今までは部屋から出なくても母親が食事を用意してくれていたから、快適な引きこもり生活を送ることができていたのだ。それがなくなるのは死活問題だ。
何としても二人を止めなければいけない、とサトリは思った。
不貞行為はダメ、絶対だ。なんとしても未然に防ぐ必要がある。
しかし、丸腰で向かっていって尾崎が逆上したらどうしよう。日の当たらない部屋に引きこもってモヤシみたいになった自分が敵うだろうか。返り討ちに遭うのが関の山だ。
サトリは机の引き出しを開けて、何か使えそうなものがないか探した。
引き出しの奥に、子供の時使っていたのカッターナイフがあった。
刃が錆びていて使い物にならなそうだが、脅しには使えるかもしれない。
パーカーのポケットにそれを入れ、部屋を出た。
サトリは腰をかがめながら階段をゆっくりと下りた。キッチンのドアの前まで来ると、中からは依然としてドンドンと音がしている。
サトリは深呼吸をした。こういうのは勢いが肝心だ。
ドアノブを掴むと、勢い良くドアを開けた。
勢い良く開けたドアの向こうには、ロン毛の男が大きな発泡スチロールを冷蔵庫に入れようと格闘していた。
思っていた状況と、だいぶ違う。
冷蔵庫の中には賞味期限が切れた調味料やら保存食やらが一杯入っていた。昔からサトリの母親はものを捨てるのが苦手なのだ。
そんな大きな発泡スチロールが入るわけがない。
「サトリ!!!」
傍らに立った母親がびっくりした顔で言った。こうして顔を合わせるのは数年ぶりだった。
「この大きい魚もらったの。釣ったんですって。大き過ぎて冷蔵庫に入らないのよ」
と母親が言った。弱冠涙声になっている。
発泡スチロールの箱を開けると、中には名前はわからないが、大きくて立派な魚が収まっていた。
「今朝、海で釣ってきたんだ」とロン毛の男が言った。
「えっと、どちら様ですか?」とサトリが訊いた。
「何言ってるの、尾崎リュウスケ君よ」
サトリは自分の目を疑った。
記憶の中の尾崎はさわやかな好青年だったのに、目の前にいる男はまるで別人である。
髪は肩まで届き、髭も生えている。おまけに腕にタトゥーまで入っている。
以前のさわやかさはどこへいったのか。
「よお。久しぶりだな」
尾崎はそう言って笑った。笑った顔には、どことなく中学時代の面影があった。
「よし、いまから俺んち行くぞ」
2 パラノイド・アンドロイド
「お母さん、サトリ君、しばらくお預かりしますね」
尾崎はそう言って、外に出て行ってしまった。
このまま母親と二人きりになるのは非常に気まずい。だからといって、三人で話すのはもっと気まずい。とりあえず、サトリはこの場を離れることを選んだ。
尾崎を追って外に出ると、
「乗れよ」
家の前に停まった黒くてゴツい車を指して、尾崎が言った。
たしかあれはベンツのゲレンデという車だ。
外車なんて初めて乗る。
サトリは助手席のドアを開けた。カッコよく乗ろうとしたが、地面から乗り口までが思ったよりも高く、もたついた。危うく転げ落ちるところだった。
全く外に出ない生活をしていたから、足腰が相当弱っている。
「おいおい、大丈夫かよ」
あきれたように尾崎が言った。
「仕方ないだろ」
こんな車初めて乗るんだからとサトリは思った。
運転席に乗った尾崎がキーを回してエンジンを吹かした。
ぶぶぶぶぶっぶ!
部屋の中で聞いていたときの何倍もパワフルな音がした。
サトリは久しぶりに外に出たという実感が沸いてきた。
たいして仲良くなかった同級生との二人きりのドライブが始まった。
車内に音楽はかかっておらず、沈黙が気まずかった。
「何かかけるか?」尾崎が訊いてきた。
「あ、うん」
「ブルートゥースに繋げば聴けるぜ」
サトリは自分のスマホをカーナビとリンクさせた。
「はあん、良いわ!! もっとちょうだい!!!」
車のカーナビとサトリのスマホがリンクした瞬間、スピーカーから流れ始めたのは、直前まで彼が観ていたエロ動画の音声だった。
サトリは慌てて動画を止めたが、時すでに遅し、尾崎は爆笑した。
ハンドルを持つ手が大きく揺れ、同時に車も左右に大きく揺れる。めちゃくちゃ危ない。
「お前、ウケるなあ」と尾崎が笑いながら言った。
「こ、これはちょっとした手違いで」
車は尾崎の笑いがおさまるまで一旦停止した。
結局、音楽は尾崎が自分のスマホでかけた。
知らない洋楽だ。
カーナビの画面にはフランク・オーシャンの「シンク・アバウト・ユー」と表示されていた。
「素朴な疑問なんだけど、引きこもりって部屋で何してんだ? ずっとAV観てるわけじゃねえだろ?」
サトリは自分が部屋でしていたことを言うかどうか迷ったが、思い切って言ってみることにした。
尾崎が家に来てくれたおかげで自分が部屋の外に出られたことは確かだ。
少なくない恩義は感じていた。
「他の引きこもりの人がどうかは知らないけど、僕はネット上にあるエロ動画サイトを巡って、コメントに返信を書き込みまくってた。この女優の名前教えてって聞いてる人に対して、その女優の名前を教えてあげるんだ。馬鹿らしいかもしれないけど、単純に、誰かと、やりとりできることが、嬉しかったし、人に、感謝されたかったんだ、と思う」
すでに恥ずかしい思いばかりしていたので割と自然に話せた。後半は少し涙声になってしまったが。
尾崎は黙って聞いていた。サトリの話に感じ入っているようだ。
と思いきや尾崎は口を開いてこう言った。
「お前って、AV博士だったんだな」
こいつは小学生か!
サトリの反応などお構いなしに尾崎は話し続ける。
「だったら、ちょうど良いぜ。これから行くとこは、可愛い女の子もいるからよ。部屋で一人でシコってるだけじゃ、面白くないもんな」
いま向かっているのは尾崎の家と言っていたから、尾崎の彼女? もしくは奥さんがいるということなのだろうか?
いろいろな考えが巡ったものの、三年間引きこもっていたサトリは言葉に詰まってしまった。そもそも誰かとこうやって話をするのも久しぶりなのだ。機転というものが失われている。
「尾崎は、どこに住んでるんだ?」
仕方なく、他の話題を振った。
同じ公立中学校に通っていたのだから実家は近いはずだった。
「竜谷町ってとこ」
めちゃくちゃ山奥じゃないか。
中学の同級生だから、てっきり近くに住んでいるかと思ったが違うようだ。尾崎は実家を出ているらしい。まあ、サトリのように実家の子供部屋で生活している方が珍しい。
「ここからずっと北の山の奥だ。まあ、着けばわかるよ」
尾崎の運転する車は北を目指して走り出した。
サトリの実家は広岡県原松市にある。
広岡市は南北に細長い地形をしていて、南の沿岸部は市街地、北の内陸部には山々が連なっている。
サトリの実家は南の沿岸部にあったが、母方の祖父母の家が北の山間部にあって、小さい頃は夏休みになる度に、祖父母の家に遊びに行ったものだ。川遊びやキャンプ、花火なんかをして遊んだ記憶がある。
小さい頃は楽しかったが、大人になってみると、なんであんな不便な場所にわざわざ住む人がいるのかわからなかった。
山間部は人口も減っているし、市街地に住んだ方が絶対良いだろうに。
「俺はいま、山奥でゲストハウスをやってるんだ」
と尾崎が話し始めた。
「ゲストハウス?」
「うーん、旅行者とかが泊まるための安い宿ってとこだな」
「なんでまたそんな山奥で?」
サトリは疑問に思ったことを訊いてみた。
「俺の死んだ爺ちゃんの実家って金持ちだったんだ。昔は水運って言って、トラックも電車もないから川の流れを使って木材を運んでたんだぜ。山にたくさん生えている木を切って、川の流れ使って海まで運ぶんだ。そこから、それを船で江戸に運んでたんだ。江戸城を建てるときに使った木材もここら辺の木なんだぜ。だから、当時はすげー景気が良かったんだってさ。これから行く竜谷町も、あんな山奥にあるのに、昔は人の行き来が盛んな宿場町だったんだ。爺ちゃんの実家はそこで結構有名な旅館を経営してた。でも、海外から安い木材が輸入されるようになって、すっかり人が減っちゃって廃業したんだ。建物自体は立派だからさ、売るに売れないって感じで残してあったんだ。爺ちゃんは六人兄弟でさ。兄弟のうち誰かが生きてるうちは処分しないでおこうってなって、長年放置してたんだけど、ちょっと前に全員死んじゃって。どうしようかって話になったんだ。山奥にあるほぼ廃墟みたいな建物を欲しがるやつなんて親戚中探しても誰もいなかったから、俺がタダ同然で手に入れたのよ。結構良い感じの日本家屋でさ。リフォームして、古民家ゲストハウスとしてオープンしたってわけ」
「そんな山奥で、お客さんなんて来るのか?」
「これが意外と来るんだ。トレッキングする人たちとか、夏は川下りの客も来るし、最近は海外からの客も多い。みんなガイドブックに載っていない、ディープな日本を探してんだよ」
ディープな日本ねえ。
でも、安宿じゃあ、たいした儲けにはならなさそうだ。
「儲かるの? この車、高そうだけど」
「うん、まあ、この車は中古で買っただいぶ古い型のだし。それに、俺は他にもいろいろ手広くやってるからな」
手広くねえ。
山だし。松茸でも獲るのか?
そんなことを考えていたら、サトリは何だか急に眠くなってきた。
そういえば、尾崎が来た時、ちょうど今から寝ようと思っていたところだった。
目を覚ますと、窓の外はすっかり山道になっていた。
山上から流れる川と並走するように、尾崎の運転する車は結構なスピードで走っていた。
周りに民家は少なく、ほとんどが森だ。背の高い木がびっしりと生えている。
道路は舗装されているものの幅が狭い。
にもかかわらず、尾崎はアクセルから足を離さない、対向車とすれ違うときはひやひやした。
「お、起きたか。ここから竜谷町だ」
しばらく走ると、ぽつぽつと民家が見え出した。
尾崎が話していたかつての宿場町に入ったようだった。
車はゆっくりスピードを落として、一軒の長屋の前に停まった。
「レイバーズ・ハウスへ、ようこそ」
尾崎は車を降り、サトリを家の方に案内した。
レイバーとは、自由奔放に楽しく生活する人という意味だ。尾崎が言うには、昔のヒッピーみたいなイメージ、らしい。サトリにはぴんとこなかった。
目の前にある長屋はずいぶんと古い日本家屋で、まるで時代劇のセットのようだった。
玄関に入ると、土間になっていた。
趣がある。たしかに外国人観光客などは喜びそうだ。
壁が靴棚になっており、そこにはびっしりと靴が収まっている。
繁盛しているように見えたが、よく見ると、半分以上はホコリを被ったまま使われていないような靴だ。ただ単に整理されていないだけだった。
「お、今日のお客さん?」
痩せ型で茶髪の男がニコニコしながら話しかけてきた。歳は三十代前半といったところだろうか。よく日に焼けている。サーフィンとかしそうだ。
「いや、こいつは中学の同級生のサトリだ」と尾崎が言った。
「へぇ、リュウちゃんの中学生のときの同級生か! 俺は伊野タダオ。よろしくね。伊野でいいよ。ねえ、リュウちゃんって昔はどうだった? やっぱ昔からモテたよねえ」
なんというか距離感が近い。すごい勢いで話しかけてきた。
決して悪い人ではないと思うが、ずっと引きこもり生活を送っていたサトリは対人スキルがほぼゼロになっていた。
精一杯の笑顔、というか苦笑いをしてスルーするほかなかった。
「あんまりいじめるなよな」
「えー、普通に話してただけじゃんよ」
伊野さんは無邪気に笑いながら言った。
「こいつは今、病み上がりみたいな感じなんだよ」と尾崎が言った。
サトリは精一杯の笑顔を作った。
「そうなんだ。大変だなあ」と伊野さんはたいして関心なさそうな顔で言った。「あ、そうそう。今度ライブやるからサトリも来てよ」
「ライブ?」とサトリが尾崎に訊いた。
バンドでもやってるのだろうか。
「伊野はラッパーなんだよ。山際サウンドクルーって三人組ユニットのメンバーなんだ。他のメンバーもときどき遊びに来るぞ」と尾崎が言った。
ラップか。
普段はアニソンくらいしか聴かないサトリにはあまり馴染みがなかった。なんだか怖そうというイメージしかない。
だが、目の前にいる伊野さんは怖くなかった。
「じゃあ、良かったらライブ来てくれよ。俺はこれから農業協同組合に行かないと行けないから、またな」
そう言って伊野さんは出て行った。
「あの人もお客さんなの?」
「いや、伊野は近所の農家だよ。ふらっとよく遊びに来るんだ」
どうやらレイバーズハウスは、宿泊客以外の人も気軽に出入りできる場所らしい。
現にサトリも宿泊客ではないが、こうやって遊びに来ている。
「ここはゲストハウスって言ってるけど、もっと自由なとこなんだ。伊野みたいに近所のやつも気軽に遊びに来れるし、ふらっと旅行で来たやつが気づいたら半年以上泊まっていたりもする。そういうやつは金がなくなったら伊野のとこで働いたりしてるよ」
そう言って、尾崎はレイバーズハウスの中を案内してくれた。
外観は江戸時代の建物のようだったが、内観は現代風にリフォームしてあり、そこらへんのアパートとさして変わらなかった。普通に生活できそうだった。
一階は共有スペースになっていて、宿泊客なら誰でも利用できる広いリビングとキッチンがある。
リビングにはテレビやソファー、大きな本棚が置いてあり、好きにくつろげるようになっていた。今も何人かの宿泊客がテレビを観たり、漫画を読んだり、談笑したりしている。
キッチンでは、自分で用意した材料を自由に調理できるようだ。普通の旅館と違って、ゲストハウスでは食事の提供がないとのことだった。
二階は宿泊客が寝るためのスペースになっている。
ドミトリーと書かれた大きめの部屋には、畳の上に二段ベッドがいくつも並べられている。いわゆる相部屋だ。一部屋に何人も寝泊りするため、安く泊まれる。
少し値段が高いが、個室もいくつかあった。
グループやカップルが泊まることもあるし、一人で泊まる人もいるらしい。
一通りハウスの中を案内し終わると、尾崎は一服しようと言って外に出た。
軒下に置いてある灰皿の前に座って、尾崎はタバコに火をつけた。
「ゲストハウスはどうだった?」
尾崎が質問してきた。
タバコを吸っていないサトリは手持ち無沙汰になっていたので、じっくりと考えながら答えた。
「古民家って聞いてたからどんなだろって思ってたけど、すごく綺麗で驚いたよ」
「だいぶリフォームしたからな」
「わかんないけど。リフォームって、結構お金かかったんじゃないの?」
「できるところは仲間と一緒にDIYしたんだ。難しいとこは知り合いの工務店にやってもらってな。費用はかなり抑えられたと思うぞ」
DIYとは、たしか自分で作業するみたいな英語の略だ。日曜大工みたいな意味合いでよく使われている。
仲間うちでリフォーム作業をしたなんてすごい。
「自分たちでリフォームした方が思い入れもできるしな」
思い入れか。サトリにとって家というものは住宅メーカーが建ててくれるもの、という認識しかなかった。
「日本は空き家ばっかになってるだろ? それなのに住宅メーカーは新しい家をどんどん建てさせようとしてるんだ。おかしいと思わないか? こんなに狭い国だってのにさ。極端な話、このままいったら日本は、空き家とお墓で埋め尽くされちまうぜ」
言われてみれば、そうかもしれない。これからの日本は死ぬ人の方が圧倒的に多くなる。人が死ねば墓が増え、住んでた家は空き家になる。
「大人になったら親元を離れて自立した方が良いって価値観だって、夢のマイホームを購入させるために国が仕掛けたプロパガンダなんじゃねえのか? だって、みんながずっと実家で子供部屋おじさんおばさんやってたら、新しい家は建たないし、税収だって増えないからな」
そう言って尾崎は煙草の灰を灰皿に落とした。
「俺たちは昔から、自立したちゃんとした大人になりなさいって言われて育ってきたけどよ。ちゃんとした大人って何だよって俺は思うね。ちゃんとしているか、していないか決めてるのは他の誰かだろ。明らかにちゃんと考えて生きてねえだろ、それ。俺は良いことも悪いことも、ぜんぶ自分で考えて決めたいんだ」
ちゃんとした大人か。
サトリもかつては世間で言えば、ちゃんとした大人の仲間だった。
「お前だってそうだろ? 良い大学に入って、良い会社に入って、東京で働くってのが、なんか違うって思ったから、地元に帰ってきたんだろ」
「そうなのかな」
サトリには自分で自分のことがよくわからなかった。
「お前もやるか?」
尾崎は自分が咥えていたタバコをサトリに差し出して言った。
サトリは生まれてから一度もタバコというものを吸ったことがなかった。
子供の頃からずっと、身体に毒だと喧伝されていたからだ。
わざわざお金を払って身体に悪いものを吸う人の気が知れないと思っていた。
だけど、今日はなんだか吸ってみてもいいかなと思った。
ちゃんと健康管理ができている大人はタバコなんて吸わないんだろうな。
サトリは手を伸ばして、恐る恐る尾崎から火のついたタバコを受け取った。
吸い口をくわえ、少しだけ吸った。なんだか甘い匂いがした。
案の定、むせた。
でも、悪い気はしなかった。
どんどん値段が上がっても買う人がいるのだ。きっと、それなりの理由があるのだろう。
「大丈夫か?」
と笑って訊く尾崎にうなずいて、今度はさっきより勢いよく吸ってみた。
サトリはずっと真面目な、いわゆる良い子だった。
父親が学校の先生ということもあり、昔からちゃんと勉強しなさいと言われながら育ってきた。
勉強は正直それほど好きというわけではなかったけれど、お前の将来のためだと言われたので、我慢しながら仕方なくやってきた。
記憶力が良いことに加え、真面目にしっかり勉強してきたので、高校は地元で一番の進学校、大学は都内の有名大学に進学することができた。
大学に入学してからもサトリは真面目に授業を受け、テストのために勉強をした。
だが、父親はもう勉強しろとは言わなくなった。
代わりに今度は、良い会社に就職しろと言うようになった。
サトリは周りの学生が遊んでいるなか自己分析や企業の情報収集を始めて、いち早く就活に備えた。
その結果、都内の有名企業の内定を得ることができた。
会社に入社してからも、サトリは真面目にちゃんと働いてきた。
毎朝、すし詰め状態の満員電車に、駅員に背中を押されながら乗り込み、会社まで我慢しながら通勤した。
サトリは記憶力はすこぶる良いが、応用力がイマイチで、決して仕事ができるとは言えなかった
残った仕事を終わらすために残業して、帰りが終電ギリギリになることも多かった。
入社して三年ほど経ち、仕事にもやっと慣れてきた頃、久しぶりに会社の同期会が催された。
「お前ってなんかロボットみたいだよな。こないだ映画で観たアンドロイドそっくりだぜ」
飲みの席で、一人の男にそんなことを言われた。
サトリとしてはただ周りの期待に応えたいと思っていただけだ。
お前はただ人に言われたことをやってるだけで、会社がなければ何の肩書もない、無価値な人間だ。不景気でいつ会社が倒産するかわからない。良い大学、良い会社の時代は終わった。これからは個人で稼ぐ時代だ。そいつは近々会社を辞めて独立するんだと言った。
その男が言ったように、いま会社が倒産したら、サトリはどうしようもない。
一人で稼ぐ力もない。きっと、どこか別のそこそこ良い会社に再就職するのだろう。
そして、また我慢しながら満員電車に乗る。
サトリは会社に行けなくなった。
正確には、満員電車に乗れなくなった。
電車を待っている駅のホームで急に涙が流れてきて、止まらなくなってしまった。自分は今まで我慢していたのだということに気づいた。
それまでは仕事に慣れるのに必死で、余計なことを考える暇がなかったのだ。
サトリは会社を辞めた。
それまでは会社の家賃補助があったため、都内のマンションに住んでいたが、いつまで家賃が払えるかわからなくなった。
サトリは家賃が払えなくなる前に、逃げるように実家に帰ってきた。
帰ってきたところで、特にやりたいこともない。
部屋でだらだらと過ごしているうちに、引きこもりのような状態になり、数年が経ってしまった。
気づくと、サトリはリビングのソファーに寝ていた。
「お、目覚めたか。本日、寝落ち二回目」と尾崎が言った。
慣れないものを吸ったせいか、頭がくらくらする。
「今日は泊まってけよ」
外を見ると、もうすっかり夜になっている。
今から帰ったら、帰宅は深夜になるだろう。サトリは素直に尾崎のお言葉に甘えることにした。
「そうと決まれば酒だ!」
尾崎はキッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきて、そのうちの一本をサトリの目の前に置いた。
尾崎は勢いよくプルタブを開け、お前も早く開けろと目くばせしてきた。
サトリも急いでプルタブを引っ張って開けた。
「部屋の外にカンパーイ!」
「か、かんぱい!」
サトリは久しぶりに酒を飲んだ。
なぜだろう。引きこもっているときは一滴も酒を飲みたいと感じなかった。特に疲れもしなかったし、ストレスがなかったからだろうか。
今日はいろいろなことがあったからか、久しぶりに飲む酒はとても美味しく感じた。
二人が晩酌していると、リビングに人が集まってきた。ハウスに宿泊している人たちのようだ。みんなで料理やつまみを持ち寄って来て、その場はちょっとした宴会のようになった。
急に知らない人たちが増えて、サトリは緊張した。なにせ自分は三年程まともに人とコミュニケーションを取っていなかったのだ。
尾崎が急に立ち上がった。
「みんな! 今日はこいつの引きこもり卒業を祝ってやってくれ」
おー!と歓声が上がった。
気を遣って言ってくれたのかもしれないが、いきなりのカミングアウトにサトリはこわばった。まったくの逆効果だ。
そう思っていたら、尾崎のやつはおまけにこんなことも言った。
「ちなみに、こいつはAV博士だ。引きこもってるあいだずっと研究してたらしい。男子は気軽に話しかけてやってくれ」
おおおおー!とさっきよりも大きな歓声が上がった。
サトリは顔が赤くなるのを感じた。
これは、いじりなのか?
引きこもっていた事実よりも、AV博士だということをバラされたことの方がよっぽど恥ずかしかった。
より恥ずかしい暴露をされたお陰だろうか、サトリはハウスの人たちと思ったよりも普通に話すことができた。ハウスの人たちはサトリの過去なんて全然気にしていないようで、みんな気さくに話し掛けてくれた。
サトリは尾崎に感謝した。
めちゃくちゃな奴ではあるが、こうして部屋の外に出られ、多くの人と普通に話ができているのは尾崎のお陰だった。
玄関の扉がガラガラっと開く音がした。
「ただいまー」
鼻にかかるようなアニメ声と、ビニール袋がガサガサと擦れる音がした。
「アザミ。おかえりー」と誰かが言った。
すらっとした女性がリビングに入ってきた。
「え! さ、さくらいほっ!!」
あまりの衝撃でサトリは大きな声を出してしまった。
「どうした? サトリ」
「いや、なんでもない。このソファー。桜色だなあーと思って」
「はあ? さてはアザミ見て、こんな美人も住んでるのかって思ったんだろ。お前の頭の中がピンク色じゃねえか」尾崎が呆れて言った。
アザミと呼ばれた女性はきょとんとした様子でこちらを見ていた。
サトリは動揺が隠せなかった。
そこには今朝、動画で観たばかりの桜井穂乃果が立っていたのだから。
3 サブタレニアン・ホームシック・エイリアン
サトリはレイバーズハウスのトイレに籠っていた。
便器に腰掛け、スマホを手にしている。
さっき見たのはどう考えても桜井穂乃果だ。ちょうど今朝観たばかりだから、見間違うはずがない。
『桜井穂乃果』と検索して、昔の画像や動画を見てみる。
うーむ、確かに似ているが、彼女は五年前に引退しているから、それらが撮られたのはおそらく五年以上前だ。五年も経てば人はいろいろ変わるだろうし、引退した後で整形している可能性だってある。
そうだ。ホクロ!
本人かどうか確認するには、ホクロの位置を確かめればいいと聞いたことがある。
すぐに目についたのは左瞼の上にある二個連なったものだが、顔にあるホクロは化粧で隠すこともできる。身体にあるホクロを探そうと思った。特徴的な位置にあるものは除去するかもしれないが、全部は無理だろう。本人でさえ気づいていない場所にあるホクロを探せばいい。
サトリは画面上に置いた親指と人差し指を広げるピンチアウトという動作をひたすら繰り返した。
左の鎖骨あたりに少し大き目のホクロを見つけたが、それ以外のホクロは裸にならなければ見えない場所にあった。どうやって確認しろというのか。
画面から目を離して何気なく床に目をやると、何本も陰毛が落ちていた。うう、汚い。ちゃんと掃除していないのか。
でも、もしかしたらこの中に桜井穂乃果の陰毛もあるのでは? なんだか妙なことを考え出している自分に気づいて、サトリは急いでトイレを出た。
リビングに戻ると、まだ宴会は続いていた。
さっきまで座っていた席に着いて、缶を持ち上げると、中身が空になっていた。
「ビールでいいか」
と尾崎に聞かれ、サトリは肯いた。
「悪い、アザミ。ビール取ってくれ」
尾崎がキッチンに向かって言った。
アザミと呼ばれた女性は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、
「はい。ビール」
とサトリに手渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
サトリは手が震えるのを必死に抑えながら、ビールを受け取った。
「こいつ、引きこもりだったんだよ」と尾崎が言った。
「片桐サトリです。今日、引きこもりを卒業しました」
サトリは照れ笑いを浮かべながら言った。
もういっそネタにしてしまった方がウケるんじゃないかと思ってきていた。
「へー、じゃあ、おめでとうだ。私は横峯アザミ。よろしくね」
やっぱり、アニメ声だ。
もっと彼女と話したいと思ったが、アザミはふらふらとどこかへ行ってしまった。
「アザミさんもここに泊まってるの?」
サトリは隣に座っている尾崎にさりげなく訊いてみた。
「アザミは泊まってるっていうか、働いてる。ここのハウスでヘルパーしてもらってるんだ。今日は用事があるからって街まで出てて、さっき帰って来るついでに買い出し頼んだんだ」と尾崎が言った。
ここで働いている。ということは、ずっとここにいるということか。
尾崎はアザミの過去について知っているのだろうか。サトリはそのことが気になってしょうがなかった。
「もしかして、お前、アザミが気になるのか」
尾崎がニヤニヤした顔で言った。
「そ、そういうわけじゃないけど」
「いいじゃねえか別に。部屋に引きこもってたら、あんないい女とも出会えなかったもんな」
それから尾崎はサトリの耳元で、あいつのフェラやばいよと言った。
へ?
アザミは尾崎としたことがあるってこと? 二人は付き合ってるのか? いや、付き合ってなくてもそういうことするタイプかもしれない。じゃあ、他にもアザミとやったことあるやつがこの中にいたりするのか?
サトリは目でアザミを探した。
テレビの周りに数人が集まってゲームをしている。その輪のなかにアザミの姿もあった。
「お、ゲーム大会が始まってるな。サトリもやるか? お前も子供の頃やっただろ。スマブラ。64版だぜ」
大乱闘スマッシュブラザーズ。
通称スマブラはサトリたちが子供の頃、超絶流行ったゲームだった。たしか、未だに続編が出ている。マリオやリンクなど、任天堂お馴染みのキャラクターたちが闘って、敵を場外に落としたら勝ちというシンプルなゲームだ。
サトリの頭では苦い記憶が蘇った。
子供の頃、サトリの家は厳しかったため、ゲームなんてほとんど買ってもらえなかった。サトリ本人としてはなければなくてもいいかくらいの気持ちだった。
だけど、友達の家に遊びに行ったときに初めてプレイしたスマブラは震えるくらいに面白かった。
このゲームはどうしても手に入れたい。
珍しくサトリは両親にしつこくおねだりをして、お年玉と誕生日の合わせ技で、なんとか買ってもらうことができたのだった。
それから、サトリは一心不乱にスマブラをプレイした。
問題は、サトリがスマブラを極めたとき、すでに周りの友達は誰一人スマブラで遊んでいなかったことだ。強くなったにもかかわらず、誰にも披露することができなかったという寂しい思い出だけが残った。
「ほら、次はサトリの番」
サトリはコントローラーを受け取った。
「負けたら交代だからな」
ゲームが始まると、未だに勝手に手が動いた。
サトリの操るカービィーという丸くて可愛いキャラクターがコンボ技を次々と繰り出し、他のキャラクターのダメージがどんどん蓄積されていく。ある程度ダメージが貯まったところで、スマッシュという必殺技を決めると、他のキャラは面白いように場外に吹っ飛ばされていった。
サトリの腕前に、テレビ前はにわかに沸いた。ゲームに興味のない人も様子を見に来た。
いつの間にか、リビングにいたほとんどの人がテレビ前でゲームを観戦していた。
「もう二時間以上経ってねえか? サトリどんだけ強ぇんだよ」
夢中になってプレイしていたら、時間が経つのを忘れてしまっていた。
「もうやめだ、やめ。他のゲームにしよう」
誰かがそう言って、ゲーム機からソフトが外され、他のソフトが差し込まれた。
サトリは他のゲームはからっきしダメなので、コントローラーを近くにいた男に渡した。
「あれ、もうやめちゃうの? もっと観たかったのに」
気づくと、桜井穂乃果の顔がすぐ近くにあった。
「うわぉ」
サトリは顔が真っ赤になった。
もっと話したいと思っていたのに、実際近くで顔を合わせると上手く話せる気がしなかった。
「なんかめちゃ顔、赤いよ。大丈夫?」
アザミがサトリの顔をのぞき込んで言った。
彼女が桜井穂乃果だろうが、そうじゃなかろうが、もはや関係ない。
サトリはす彼女に惹かれていた。
「ちょっと、夜風に当たって来ます」
そう言って、サトリはハウスの外に出た。顔が火照ってしょうがない。とりあえず、ちょっと落ち着こうと思った。
川のすぐ近くということもあり、外に出るとずいぶん涼しく感じた。
川を眺めるかたちで二個並んでキャンピングチェアーが置いてあった。
サトリはそこに座った。
髪を縛っていたゴムを外して、頭を振った。
半年切らなかった髪は相当伸びている。
すると、後ろから人が歩いて来る気配がした。
もしかして、アザミが追いかけてきてくれてたのかと一瞬思ったが、背格好から男だということがわかった。
その男はサトリの隣にあるキャンピングチェアーに腰掛けると、こう言った。
「野菜ある?」
男の目線は川を向いていた。
一瞬ひとり言かと思ったが、どうやらサトリに向けて放った言葉のようだ。
野菜?
サトリの頭の中で、クエスチョンマークが浮かび上がった。
もしかして、この人はサトリのことを農家か何かと勘違いしているのではないだろうか。
そういえば、昼間会った伊野という男が農家だと言っていた。他にも農家をしている人がいるのかもしれない。
「すみません。僕は農家じゃないです」
サトリはできるだけ感じが悪くならないように言った。「は? 何言ってんだよ」
男は不機嫌に言った。
サトリはちらっと隣に座る男の顔を見た。
髪は短く切られ、小奇麗な格好をしている。歳はサトリと同じか、少し下だろうと思われた。
「ハッパだよ。ハッパ! あるんだろ?」
と男はぶっきらぼうに言う。
「ハッパと言いますと?」
サトリにはやはり何のことだかわからない。
「お前、わざととぼけてんだろ! 大麻だよ、大麻。あるんだろ!」
男は小声だが、語気を強めて言った。
大麻?
大麻ってドラッグじゃないか!
「ないないない、そんなの持ってないですよ!」
首を横にブンブンと振って全力でアピールした。完全にテンパっていた。
男はテンパるサトリの姿を見て、これじゃあ仕方ないという顔をして、気づくと何処かへ行ってしまった。
「お、ここにいたか」
振り向くと、髪の長いひょろっとしたシルエットの尾崎が立っていた。
あの男は自分と尾崎を間違えていたんじゃないだろうか? そんな考えが急にサトリの頭をよぎった。
ずっと部屋に引きこもっていたサトリの髪は伸び放題で、ゴムを外せば立派なロン毛に見えた。筋肉は全然ないが、外では暗くてよく見えない。暗がりで見れば、どちらも髪が長くてひょろっとした男だ。
尾崎は大麻売人なのか!?
いや、まさか。でも、よくよく考えてみれば、尾崎はこんな山奥でゲストハウスを経営しているだけなのに羽振りがとても良い。というか、良過ぎる。
頻繁にステーキを食べ、外車に乗っている。ヤバい仕事をしていても驚きはしない。
「さ、さっき、そ、そこにいた人に大麻くれって言われたんだけど」
尾崎は黙ったままだ。
「尾崎、何か悪いことでもしてるんじゃないのか?」
サトリはストレートに聞いた。
「んな訳ねえだろう」尾崎は笑って否定した。「そいつは何か勘違いしてたんじゃないか? じゃなけりゃ、ただの馬鹿だ」
「よく知らないんだけど。大麻って違法なんだろ」
「ん? ああ、大麻は持ってるだけで捕まる」
「ええええ! ヤバいじゃん!」
「昔、ポール・マッカートニーが来日したとき、大麻持ってて捕まったこともある」
尾崎は笑いながら言った。
ポールなんとかってビートルズのメンバーか。そんな有名人も捕まるなんて笑いごとじゃない。
「言っとくけど、大麻なんてそこら辺に生えてるんだぜ」と尾崎はしれっと言った。
「えっ」
法律で規制されているものがそこら辺に生えてるなんて、にわかには信じられない。
「まあ、そこら辺に生えている大麻は興奮する成分はあんまり含まれていないんだけどな。ちなみに、使用は罪にはならない。麻の実って七味唐辛子にも入ってるだろ。ハッパ吸ってたやつも、蕎麦食ってたやつも、区別なんてつかないからな。そんなもんイチイチ取り締まってたら警察が保たないだろ」
「でも、見つかったら捕まるんでしょう?」
「そりゃあ、捕まるな」
尾崎は大麻について妙に詳しかった。ますます怪しい。
「でもなあ、違法でも何でも、やりたいやつはやるんじゃないか? 百年前のアメリカじゃ、禁酒法ってのがあっただろ。アルコールの製造とか販売が規制されてた。だけど、当時の人がみんな大人しく酒飲むの我慢してたと思うか? 飲みたい奴は、こっそり飲んでたんだよ。普通に売ってないから密造酒だろうな。なんだかよくわからないアルコールでも、いろいろ混ぜてカクテルにして飲んでたんだ。酒飲めないなんて今じゃ考えられないけどな。いつ解禁されるかわからないって状況で、一生酒を我慢する人生か、こっそり楽しむ人生かどっちがいいかって話だろ」
どうして酒の話になっているんだ?
こちらを煙に巻くような尾崎の話しぶりに、サトリは眉をひそめた。
「おーい、リュウちゃーん、買ってきたビール何処に置いたー?」
ハウスの中から誰かが叫んでいる。
「ちょっと待て、今行くー!」
尾崎もハウスの方に向かって叫んだ。
「とにかく、今あったことは忘れろ」
そう言って尾崎はハウスの方へ駆けて行った。
サトリはまた一人になった。忘れろと言われても、サトリは記憶力だけは異様に良いから忘れようがない。頭の中でもやもやと考えが錯綜した。
短い時間ではあるが、ハウスで過ごした時間は心地良かったし、ハウスの住人も悪い人には見えなかった。
だが、さっきの出来事で一気に不信感が募ってきた。なんかここってヤバい場所なんじゃないか?
「危険から身を守るために、一番重要なことは何ですか?」
以前、ユーチューブで武道の達人にこんなことを訊ねている動画を見たことがある。
インタビューを受けている人は達人というだけあって相当強い人に違いない。
護身術を身につけるとか、人間の急所を覚えろとかそういう回答をするだろうなとサトリは思って観ていたのだが、その回答は意外なものだった。
「一番重要なのは、危険な場所に近づかないことです。どんなに鍛えていたとしても、ナイフを持った敵に素手で勝つことはできません。鍛えていれば、自然と危険な場所がわかるようになるんです」
サトリはもちろん鍛えてなんていないし、運動も一切していない。でも、なぜかそのときの達人の言葉を思い出したのだった。
ここは危険な場所かもしれない。
なにかヤバいものを吸わされたり、急に警察が来て逮捕されるかもしれない。
サトリは無性に家に帰りたくなってきた。
唯一心残りがあるとすれば、アザミとあまり話せなかったことだろうか。だが、部屋でオナニーばかりしていた自分ではどうせ上手く話せなかっただろう。
サトリはハウスから離れるようにゆっくり歩いていった。
あたりの山道に灯りはなく、真っ暗だったので、スマホをライトにして足元を照らしながら歩いた。
とりあえず、車が通っている道を目指した。タクシーを呼ぶか、最悪ヒッチハイクすれば帰れると思った。引きこもり上がりの自分にヒッチハイクはかなりハードルが高いが、背に腹は代えられない。
なんとかサトリは車が通る道まで出た。
深夜ということもあり、車は一台も走っていなかった。
どっちに歩いて行けばいいのかもわからなかった。サトリはスマホの地図アプリを開いて、自分がいまどこにいるかを確認した。だいぶ山の奥にいるようだ。
こんな山奥だとタクシーも来てくれないだろうし、来るのにだいぶ時間がかかるだろう。そんなことを考えて歩いていると、後ろから車のライトが近づいて来るのがわかった。
ヒッチハイクのチャンスだ、とは思ったもののいざヒッチハイクをするとなると緊張した。恐る恐る振り返り、手を挙げようと試みたが、そうこうしているうちに車は通り過ぎてしまった。
考えてみれば、こんな夜中に一人で歩いている見知らぬ人間を誰が乗せるというのか。仮に乗せてくれたとしても、あっちが危ない人間の可能性だってある。そんなことをぶつぶつ考えながら歩いていると、また後ろから車のライトが近づいて来るのがわかった。
今度こそは、と思いサトリは勢い良く手を振った。
車はゆっくりスピードを落としながら止まった。
よし! ヒッチハイク成功だ。
「どうかしましたか?」
車の窓から顔を出したのは警察官だった。
車のライトが逆光になっていて良く見えなかった。停まった車はパトカーだった。
「え、いや」
サトリはしどろもどろになった。
「こんなところで何してるの?」
「え、いや」
うまく喋ることができない。
「何、言えないようなこと?」
警察官は訝し気な表情をした。
どうやら助手席にも警察官がいたようだ。
中年の警察官は隣に座った警察官と何かを話をした後、今度はこう訊いてきた。
「君、仕事は? 何してる人?」
これって職質なのでは。
明らかに怪しまれている。ここでサラリーマンと答えても信憑性ゼロだ。サトリは仕事をしていない。正直に答えた方が良さそうだ。
「つ、つい今朝まで、何というか、引きこもりでした」
「ふむふむ。無職、と」
警察官はメモを取りはじめた。
「身分証見せて」
「いまはないです」
そういえば、財布などは家に置いてきてしまっていた。
「引きこもりなのに、こんな夜中に外で何してるの? もしかして、自殺しようとか考えてないよね?」
話が飛躍し過ぎだ。
この警察官は引きこもりがみんな山に行ったら自殺して、街に出たら大量殺人を犯すとでも思っているのだろうか。
「え、あ、友達の家に遊びに行った帰りです」
「こんな山奥に友達? 行きはどうしたの」
「その友達の車で、乗せてきてもらいました」
「ん? じゃあ、そのお友達にまた送ってもらえばいいじゃない」
「いやあ、お酒飲んじゃったんで」
「それじゃあ、飲酒運転になっちゃうね」警察官はがはははと笑って言った。この人、自分で言ったことで笑うタイプの人だ。サトリも苦笑いをした。「だったら、その友達の家に泊めてもらえば良かったじゃない」
もっともな意見だ。
「あー、急に明日の朝、用事あることを思い出しちゃって」
「うーん、君、、、、めちゃくちゃ怪しいな。変なものとか持ってないよね?」
変なもの? 大麻とか?
もちろんそんなもの持ってはいない。
「持ってないですよ」
サトリはパーカーのポケットに手を突っ込んで、裏返すようなポーズをしようとした。
「あ」
ポケットの中に、子ども用のカッターを入れたことを忘れていた。
やばい。これって銃刀法違反になるかもしれない。でも、隠すようなことをすれば、それはそれで怪しい。
サトリはポケットからゆっくりとカッターを出した。
「これ、何に使ったの?」
上手い嘘を考えなければ。
「え、あ、えっと、野菜を収穫するときに」
とっさに思いついた理由を伝えると、警察官はそうかと言った。
「まあ、危ないから乗りなよ。でも、カッターはこっちで預からせてもらう」
サトリは警察官にカッターを預けると、後部座席に乗り込んだ。パトカーに乗るのは初めてだった。
住んでる場所を聞かれたので実家の住所を教えると、
「方向同じだから特別に送ってあげるよ」と警察官が言った。
深夜ということもあり、道は空いていたので、パトカーはすいすい進んだ。
警察官は道すがらよく喋った。
「いやね、鹿とぶつかったって通報があって出てきたんだよね。田舎って最悪だね」
どうやら地元の人間ではないようだった。
サトリの家に着くと、警察官はサトリに身分証を持ってくるように言った。サトリは大人しく言うことに従った。
警察官は何やらまたメモを取った。
「もうあんまり夜中に出歩かないように」
警察官は中高生に言うような台詞を三十歳近いサトリに言って帰って行った。
こうして、幸か不幸かサトリは家まで送ってもらうことができた。
4 イグジット・ミュージック
「サトリ! リュウスケ君から電話よ」
母親の声が聞こえた。
サトリはのぞき込んでいたパソコンのモニターから顔を上げた。
あの日、レイバーズハウスから逃げるようにして帰ってきてから、サトリはしばらく平和な時を過ごしていた。尾崎からスマホに着信やラインが入ったが、すべて無視した。それでも何度も通知があるものだから電源ごと切ってしまっていた。
もう連絡はないだろうと思っていたが、まさか家電にかけてくるとは。
考えてみれば、中学で同じ部活だったし、プライバシーのゆるい学校だったから探せば連絡網の一つくらい出てくるかもしれない。なかったとしても、元バスケ部の仲間に聞けばわかる。
「サトリ! 聞こえてる? リュウスケ君から電話よ」
母親はしつこく二階に向かって大声を上げる。いきなり部屋に入って来てもおかしくない勢いだ。
尾崎が家に来て以来、サトリは普通に部屋を出て生活していた。
一度外に出たとうのに、再び部屋に引きこもるのはカッコ悪過ぎる。引きこもりにだってプライドというものがある。
サトリはもう引きこもりを引退したのだ。
今はエロ動画サイトではなく、求人サイトを巡っている。
せっかく外に出ることができたのだ。いきなり正社員として働き出すのは無理としても、とりあえず、何かアルバイトを始めてみようと思っていた。
床屋に行って髪を切った。もう尾崎に間違えられることもないだろう。
「早くしなさーい!」
サトリはしぶしぶ階段を下りて、リビングに向かった。
母親はにこにこしながら受話器を渡してきた。
彼女にとって尾崎は息子を救ってくれた英雄みたいな存在になっている。なんか、嫌だ。
「おう、サトリ。なんで電話もメールも無視すんだよ」受話器の向こうで尾崎が言った。
「へ、部屋に戻りたくなって。ずっと引きこもってたからさ。禁断症状? みたいな」
サトリは苦し紛れの言い訳をした。
「てか、いつの間に帰った? 遭難したんじゃないかと思って、ビビったぞ」
「タクシー的な車で帰ったから大丈夫だったよ」
「なんだそれ。まあいいや。サトリ、これからライブ行くぞ」
相変わらずこの男は唐突だ。
尾崎の説明によれば、レイバーズハウスで会った伊野という男がライブをするらしい。
彼らは地元で活動する三人組のラップグループで、なかなか良いバイブスをしているという、、、バイブスって何だよ。いや、普通に行かないだろ。
サトリはもう彼らとは関わらないつもりで、必死の思いで歩いて帰ってきたのだ。行くわけがない。厄介事に巻き込まれたくはない。
「ちなみにアザミも来るぞ。なんか、お前に会いたいって言ってたな」
うぐっ。桜井穂乃果には、会いたい。
サトリの決意は、すぐに揺らいだ。
ハウスで会った彼女は本当に桜井穂乃果本人だったのだろうか。どうしても確認したいと思って、サトリは改めて桜井穂乃果の動画を見直した。誰にも言えないが、少なくとも三回は抜いた。改めて、彼女の魅力に気づかされた。
「じゃあ、あとで迎えに行くから」
サトリがえっと言うと、すでに通話は切られていた。
ここで断っても尾崎はサトリの家を知っているから、家に来ることができるだろう。断ったとしても無理矢理来るに決まっている。ライブに行くだけ。ライブに行くだけ。サトリはそう自分に言い聞かせた。
もうすぐ日が暮れそうという時分に、玄関のチャイムが鳴った。
「待たせたな」
顔を見るなり、すぐ出るぞと言われ、サトリはすぐに家を出た。
尾崎はまたあのデカい車に乗って来た。また助手席に乗ろうとすると、先客が座っていた。
「お、最近のリュウちゃんのお気に入りじゃん」
そう言ってアザミは笑った。
来るとわかっていてもいきなり会うとびっくりする。
「あ、ど、どうも」
挙動不審になってしまった。キモいと思われたかも。
今日は助手席にアザミが乗るようなので、サトリは大人しく後部座席に乗ることにした。
「こいつ、来るの渋ってたのに、アザミが来るって言ったらすぐに来たんだぜ」
尾崎がまた余計なことを言った。
ええ! そうなのおとアザミは嫌な顔一つせず明るく言った。
単純なサトリは、なんてええ子やぁ、と思った。気が緩んだついでに質問もした。
「あ、アザミさんはラップ好きなんですか?」
「音楽だったら何でも聴くよー」
アザミはにっこり笑って言った。
か、可愛い。
三人は尾崎の運転で原松市の歓楽街に向かった。
「サトリってクラブとか来たことあんの?」
地下に続く階段を降りながら、尾崎が訊いた。
「もちろんないよ」
その日、サトリは生まれて初めてクラブという場所に来た。
彼のイメージの中のクラブは完全にヤバい場所だった。
誰が誰だかわからないくらい暗くて、羽目を外した若者は酔払い、ナンパをし、トイレでキスだのセックスだのし、怪しい粉を受け渡したりする場所だ。
きっと何かの映画でそういうシーンを観たのだろう。
尾崎はヤバい取引をするためにクラブに来たのではないかと想像もしたが、こんなベタな場所でわざわざ取引をするとは思えなかった。
実際に訪れたクラブは、割と明るかった。
ライトがギラギラと光って、お腹に響くうるさい音楽が延々と流れ、フロアのステージ近くは人でごった返していた。
引きこもりあがりのサトリでは、とてもあの人だかりに入ってはいけない。
どこか落ち着けそうな場所はないかと、きょろきょろとあたりを見まわしてみたが、座れそうな場所はなかった。
仕方なく、壁に張り付くようにして立っていると、
「俺は車だからソフドリにしとくけど、お前、何飲む?」
と尾崎が訊いてきた。
「僕もコーラでいいかな」
「あん?」
サトリの声はうるさい音楽にかき消されて聞こえなかった。
「コーラで!」
耳元で叫ぶようにして言うと、おうと言って尾崎はバーカウンターに向かって歩いて行った。
「伊野さんたちまだかなあ」
アザミの顔がすぐ近くにあった。
サトリは心臓が飛び出そうになった。周りの音がうるさいから女の子とも顔を近づけないと話せないのか。
爆音で音楽が流れている理由が少しわかった気がした。
しばらくすると、フロアの片隅にいるDJがマイクを使って、何かを喋り出した。
日本語を喋っていたが、何を言っているかサトリにはよくわからなかった。知らない単語が多過ぎる。おそらく、伊野さんたちの紹介だということはわかった。
それまで流れていた音楽が止んだ。
「おい、前行って観ようぜ」
尾崎が言った。
「僕はここで見てるよ」
やはり人だかりに入っていくのは無理そうだ。
尾崎とアザミは人をかき分けるようにして、前の方に進んで行った。
フロア前方にあるステージにライトが当てられ、歓声が上がった。
ステージの脇からマイクを握った三人の男が出てきた。
いずれもだぼっとした服を着ている。その中に伊野さんの姿もあった。
曲のイントロが流れ始めた。生演奏ではなく、カラオケだ。
三人は代わる代わるに歌を歌った。歌というか、まくしたてるように何かを喋っているという方が近い。言葉を詰め込めるだけ詰め込んでいる。何を喋っているかはよくわからなかった。ところどころ、聞き取れる単語がある程度だ。
サトリは普段、あまり音楽を聴かない。
たぶん、これラップなんだろうなあ、ということくらいしかわからない。
そもそも、ライブ自体あまり観たことがなかった。
高校の文化祭で、有志のバンドが体育館でライブしていたのをたまたま観たくらいだ。
アニメの主題歌にもなった有名なロックバンドの曲を演奏していて、たいして上手くないということは音楽を聴かないサトリでもわかった。
だけど、ステージの上にはいろいろな物が置いてあった気がする。
各メンバーが持って演奏しているギターやベース、ドラムなどの楽器はもちろん、なんだかよくわからないコードが繋がった箱みたいな機材などが置いてあった。
そのときに比べると、今日のライブはすっきりしたものだ。というか、何もない。
三人の男がカラオケをバックにマイクを持って歌っているだけだ。
だけど、明らかに熱量が違った。
楽器を持っていない分、ステージ上を行ったり来たり、時には客を煽ったりして、常に忙しい。
二曲目、三曲目とぶっ続けに歌った三人はすでに汗まみれになっている。
サトリの耳もだんだんとラップを聴くことに慣れてきた。
母音が同じ言葉にアクセントを付けているのがわかった。たぶん、これが韻を踏むというやつだ。サトリにもそれが心地よく聴こえるようになってきた、ような気がした。
最後の曲の前に、
「まだまだこの後も、素敵なアーティストがたくさん出るんで、楽しんでいってくれ」
という言葉を残して伊野さんたちの出番は終わった。
時間にすれば三〇分ほどだろうか。あっという間に感じた。サトリはヒップホップも悪くないなと思った。
伊野さんたちがステージを降りてしばらくすると、次のライブが始まった。今度は黒い服を来たドレッドの男が一人で歌っている。
人込みから尾崎が戻ってきた。
「この後は、どうするの?」
サトリは尾崎に訊いた。
「とりあえず、女の子と仲良くなっとけ」
女の子と仲良くって、、、ナンパしろってことか?
サトリはフロアを見まわした。
派手な格好をした女の子がたくさんいたが、自分にナンパなんて絶対無理だ。
慣れない場所に来て、すでに疲れている。
こんなに人がいる場所に来るのは、我慢して通っていた満員電車以来だ。
アザミはどこに行ったのだろう。
フロアをキョロキョロと見渡していると、さっきまでライブをしていた伊野たちがフロアの片隅に降りて来ているのが見えた。
ファンなのか知り合いなのかわからないが、女の子たちと気さくに話をしている。ラッパーってモテるのかな。そんなことを考えていたら、いつの間にか、尾崎も一緒になって話をしていた。なんだか異様に盛り上がっている。
伊野に一言声を掛けた方が良いだろうかと思ったが、自分が行って盛り下げたら嫌だなと思ってやめた。
心なしか、さっきよりも人が増えた。満員電車に近くなっている。
サトリは喫煙スペースに行ってタバコを吸うことにした。ここよりはきっと人が少ないはずだ。
先日、シェアハウスで吸ったタバコがなんとなく気に入って、あのあとコンビニで買ってしまったのだ。
銘柄はなんだかよくわからなかったからセブンスターというのを買った。
案の定、喫煙スペースに人はまばらだった。
サトリはタバコを咥え、ライターで火を点けた。
「一本ちょうだい」
AC/DCと書かれたTシャツを着た金髪の女の子にいきなり話し掛けられた。
女の子と仲良くなっとけという尾崎の言葉を思い出し、サトリは素直にタバコを一本あげた。
ありがとうと言って女の子はタバコを受け取って口に咥えた。
何故かこちらをずっと見ている。火をつけろということらしい。
サトリが火を点けてあげると、女の子は美味そうにタバコを吸った。
「てか、お兄さんはタバコ似合わないね」
その女の子は明らかにサトリよりも年下だった。二十歳そこそこといったところだろうか。
それでも、彼女のタバコを吸う姿は妙に様になっていた。
「あと、さっき一緒にいたやつらも」
「知ってるの?」
「まあね」
「そうなんだ」
「悪いことは言わないから、縁切った方がいいよ」
なんだこの子。
人にタバコをもらっといて、失礼だなあ。
「なんでそんなこと言うの?」
「あいつのせいで私の友達捕まったから」
女の子はそう吐き捨てるように言ったあと、タバコを灰皿に捨てて立ち去ってしまった。
友達が捕まったとは一体どういうことだろう? 尾崎の裏稼業に関係しているのか。やっぱりあいつなんかヤバいことしてるんだ、とサトリは思った。
タバコを吸い終わって、サトリはまた元の場所に戻ろうとしたが、すでにフロアは人でいっぱいになっていた。どうやら伊野さんたちよりも人気のあるグループが出てくるようだ。
さっき見かけた場所に尾崎の姿はない。
帰ろうかなと思っていると、遠くにいるアザミを見つけた。
今日の彼女はキャップにグレーのパーカー、ジーンズという地味な格好をしている。きっとナンパ対策なんだろうな。アザミが可愛い格好でクラブなんかにいたら男が放っておかないからなあ。なんてことを考えていたら、目が合った。
アザミはサトリと目が合うと、にっこりと笑った。そして、口をゆっくりと動かして言った。
「ぬ・け・だ・そ」
サトリは一滴もお酒を飲んでないのに顔が火照るのを感じた。
二人はうるさい音楽が流れるクラブから脱け出した。
驚いたことに外に出ても、結構人がいた。
居酒屋を探している人、居酒屋の前で帰りを渋る人、派手な服を着たキャバ嬢っぽい人、居酒屋の呼び込み、キャバクラのキャッチ、いろんな人が入り混じっている。
そういえば、今日は土曜日だ。
明日も休みだからみんな街に遊びに来ているのだ。ずっと休みのような生活を送っていたせいで曜日感覚がなくなっていた。
「飲み直そう! 近くに知ってる店があるんだ」とアザミが言った。
サトリは大人しく後をついて行った。
彼女の足取りはしっかりしていて、居酒屋のキャッチも華麗にスルーしながら、どんどん進んで行った。
しばらく歩くと、こんなところに店なんかあるのかという狭い路地に入った。
錆びれたビルの三階にその店はあった。
二人が店に入ると、初老のマスターがカウンターに座ってタバコを吸っていた。どうやら他に客はおらず、暇を持て余していたようだ。
店内は狭く、カウンター席があるだけだった。
サトリは席に着くと、あたりを見まわした。
知らないアーティストのポスターが壁に何枚も貼られ、カウンター内にある棚には昔のレコードがぎっしりと詰まっている。ここは古い音楽を流す感じの店なんだろうなあと思った。
「マティーニください」
アザミがメニューを見ずに言った。
サトリも酒が飲みたくなってきた。
「何飲む? ソフドリもあるよ」
アザミがメニューを渡してきたが、断って、
「ジン・トニックで」と頼んだ。
唯一名前を知ってるカクテルだった。サトリもメニューを見ずに、カッコよく頼んでみたかった。
「お、いいねえ」とアザミが言った。
ドリンクが揃うと、二人でカンパイをした。
「ライブ良かったね」
「はい。でもまだ耳の奥がキーンってしてます」
しばらく二人は他愛のない会話をした。
アザミは飲むペースがとても早く、気づけばマティーニをおかわりしていた。
「サトリ君って気づいてるんでしょ? 私が昔やってた仕事のこと」
アザミが急に話を切り出した。
「………弱冠」
サトリは気まずそうに言った
「そうか、そうだよね。だってAV博士だもんね。私、全然売れなくて、企画モノばかり出てたけど」
そんなことないですよと言おうとしたが、やめた。言われても、嬉しくないだろう。
その後、彼女は神妙な顔つきになってこう言った。
「お願い。私の過去のことは黙ってて欲しいの」
そういうことか。
心のどこかで期待していたサトリは少しがっかりした。
アザミのような美人に誘われるなんてどこかおかしいと思った。それどころか、彼女はサトリを口の軽いどうしようもない人間と思っているようだ。
「ネットとかにも、書き込まないで欲しいの」
ネット上には、引退したセクシー女優の現在の様子を書き込むための掲示板がいくつも存在している。SNSでこんなことを言っていただとか、どこどこの風俗店で働いているのを見かけたなど、みんな好き勝手なことを書き込んでいる。
誓ってもいいが、サトリは一度もその手のサイトに書き込んだことはない。彼女たちは既に引退したのだから、プライバシーを詮索するのは間違っている。
というか、サトリはアザミに、この男はすぐネットに書き込みそうだと思われていたのか。がっかりを越えて、ショックだ。まあ、実際にサトリはエロ動画サイトにコメントを書き込みまくっていたのだから、誤解されてもしょうがない。
「わかりました。誰にも言わないし、ネットに書き込んだりもしません。元々言うつもりはありませんでしたし」とサトリは言った。
「そっかあ、良かった。ありがとう」
アザミは一安心という顔で言った。
「でも、尾崎や他の人は知ってるんですか?」
「リュウちゃんはなんとなく知ってる。他の人はたぶん知らないんじゃないかな」とアザミは言った。
「そうなんですか」
尾崎は知ってるのか。そうだよな。フェラしてもらってんだから。
「リュウちゃんはモテるからあんまそういうの観ないんだよ。サトリ君は好きなんでしょう?」
「その節は大変お世話になりました」
「お世話になりましたって、、、私は昔の担任の先生か何かですか?」
アザミがその場をなごませようとしているのがわかった。。
「ハウスの人は良い人だし、そんなの気にしないって人ばっかだと思うけど、ハウスの周りに住んでいる人たちは良くは思わないでしょう? 田舎だしね」
店内にはバックミュージックが流れていた。
もの悲しいアコースティックギターの伴奏にボーカルの男がもごもごと喋るように歌っている。
さっきまでいたクラブのうるさい音楽よりは好感が持てた。
「懐かしいな」
二杯目のマティーニを飲みながらアザミが言った。
「これ、レディオヘッドの『OKコンピュータ』ってアルバムだよ。レディオヘッドってイギリスのバンドね。昔、バンドやってる人と付き合ってて、家に遊びに行くと、いつもこれがかかってたっけ。その人、俺はこれを越える作品を作るんだって言ってたなあ」
「へぇ」
サトリは心無い返事をした。
レディオなんとかというバンドも知らないし、昔の男の話にどんなリアクションをすればいいかわからなかった。
「相変わらず暗いなあ。このアルバムのあとに出た『キッドA』も暗いんだけどね」
どこが良いのか、サトリにはわからなかった。なんだかじめっとした曲だなと思っただけだ。これを越えるって、一体どういうことなんだろう。
「私があの仕事始めたのも、その彼氏のためだったの。最初はバンドマンだったのに、気づいたらそいつホストになってて。売上のために協力してくれって言われたんだ。その頃は、私、周りが見えなくなってたから、どんどんお金使っちゃって、気づいたら貯金がなくなって、それでね」
セクシー女優になったのか。
サトリは何て言えばいいかわからなかった。
「始めたはいいものの、知っての通り、私、たいして売れなかったからさ。事務所の人から、もっと激しいことを、もっと激しいことをって言われたの。どんどん撮影の内容が過激になっていった。私、めちゃくちゃ可愛いってわけでもなかったから。身体を張るしかなかったのよ。だんだんね、頭がおかしくなってった。女優の友達の中には、実際にメンタルやられて自殺しちゃった子もいるよ。私も仲良かった子が死んじゃって辛かったな」
セクシー女優の中には人知れず命を絶ってしまう人もいる。サトリもネットで見たことがある。
「このアルバムさ。そういうときに聴くとね。なんか私より堕ちてる人間がいるんだなあってなれたの。まだ大丈夫だって思えたんだよね。最初は気味が悪いって感じだったけど、ずっと聴かされてたら、ある日、急に良くなったの。今まで聴こえなかった音が聴こえるようになったりしてね」
普段アニソンくらいしか聴かないサトリは、いろんな理由で音楽を聴く人がいるんだなあと思った。
「私ばっかり話しちゃった。サトリ君の話も聞かせてよ」
サトリは東京で働いていたこと、地元に帰ってきてから引きこもりのような状態だったこと。それから、尾崎が家に現れて、部屋から連れ出されたことをかいつまんで話した。
「リュウちゃんママさんキラーだったんだ。ウケる」
とりわけアザミは尾崎がサトリの母親を口説いていたところに反応を示した。
二人は良い感じかと思っていたが、嫉妬など微塵も感じられない。
「アザミさんは尾崎と付き合ってるんじゃないですか?」
思いきって聞いてみた。
「リュウちゃん? ないない」アザミは笑って言った。「だって…」
サトリは耳をそばだてた。
「どちらかと言えば、私、レズ寄りのバイなの」
どちらかと言えば、女性が恋愛対象ということなのだろうか。
「女優やってたときの撮影でね。私、初めて女の子とやったの。レズもの。売れない女優は企画ものでいろんなことさせられるのよ。それまで、私、自分ってごくごく普通のストレートだって思ってたんだけど。初めて女の子とやったら、世界が変わっちゃったわ。だって、女の子とやる方が断然気持ち良かったんだもの」
話を整理すると、アザミはレズビアンの傾向があるということになる。喜ぶべきか、悲しむべきか、サトリは判断に困った。
でも、尾崎とは何でもないと聞いてホッとした。
「それに、、、リュウちゃん、あんま宜しくない仕事してるからなあ。お金が必要だったから、仕方がなかったのかもしれないけど」
アザミは含みを込めて言った。
やはり、尾崎は何か後ろめたい仕事をしているらしい。
ハウスに住み込みで働いているアザミが気づかない方がおかしい。
「ホストの彼氏にどことなく似てて、ダメだわ。でも、地元のために頑張ってるのは良いなって思うな。私は身バレして地元に帰れないからさ。単純に羨ましい。竜谷町と似てる小さな町で、噂なんてすぐに広まっちゃった」
確かに、尾崎が竜谷町のために頑張っているのはサトリも認める。
アザミはまたマティーニをおかわりした。
一体いま何杯目だろう。顔色は全く変わっていない。彼女は相当強いみたいだ。
サトリのグラスも空になった。
ジン・トニックはなかなか美味しかったが、何か他のカクテルも注文してみたい。
サトリはカッコつけるのはやめて、大人しくメニューを手にした。
何を飲もうか。メニューを開くと、ずらっとカクテルの名前が並んでいる。
それぞれカクテルの名前の下には、丁寧に説明まで書いてあった。
適当に眺めていたら、こんなカクテルを見つけた。
ブラッディ・サム
(ドライ・ジンとトマトジュースを使ったカクテル)
禁酒法時代のアメリカで、バレないようにトマトジュース
にお酒を入れて飲んでいたことから生まれたカクテル。
禁酒法時代に生まれたカクテルとある。
そういえば、こないだ尾崎はカクテルの話をしていた。当時、どうしても酒が飲みたいと思った人がいなければ、このカクテルは生まれなかったし、こうして現代まで残ることもなかったかもしれない。そう考えると不思議だった。
「すみません。ブラッディ・サムを一つ」とサトリは言った。
「サトリ君はジンが好きなんだね」
一瞬何を言われたかわからなかったが、ジン・トニックもジンを使ったカクテルだということに遅れて気づいた。確かに名前にジンと入っている。
「たまたまですよ」サトリは笑いながら言った。
マスターがブラッディ・サムをサトリの前に置いた。
一口飲むと、意外にもスパイシーな味だった。悪くはない。
きっと店によってレシピが違うのだろう。そういうことも外に出なければわからなかったことだ。
「ところで、アザミさんは、どうしてレイバーズハウスにいるんですか?」
「それこそ、たまたまだよ」とアザミが言った。
「私は三年くらい前、ハウスができてすぐの頃にふらっと訪れたの。その前は、ワーキングホリデーってやつで海外に行ってて、まあ、ほとんど遊びに行ってたようなもんだけどね。竜谷町って私のふるさとになんか似てるんだよね。だからかなあ、気づいたら三年経ってたんだあ」
「へえ、ワーホリ。だから英語が喋れるんですね。でも、さっき言ってた、尾崎のやつあんま良くない仕事してるんですよね。ハウスにいて危なくないんですか?」
「うーん。知らないふりしてるから」
「他にも知ってる人いるんですか?」
「知ってる人は知ってるんじゃないかな。でも、みんな知らないふりしてるのよ。だって、リュウちゃん以外にあの場をまとめられる人なんていないじゃん。何も知らないって顔しとけばいいんだよ。だって、実際知らないし」
「でも、危険じゃないのかなあ」とサトリはつぶやくように言った。
「じゃあ、サトリ君が守ってよ」
「ええええ、僕がですか?」
思わぬ発言に声が裏返ってしまった。
アザミは酔ってるみたいだ。
「じょーだん、じょーだん」とアザミは笑いながら言った。「でも、サトリ君、これからどうするの? 引きこもりはやめたんでしょう」
そうだ。サトリはもう引きこもりをやめたのだ。
「とりあえず、今はなにかバイトを探してます」
「へー、どんなバイト」
「数年、引きこもっていた人でも働けるような、優しくてぬるい職場を探してるんですけど、、、」
そんな職場、なかなか見つからない。
求人サイトを巡っていると、未経験歓迎! フリーター歓迎! などと大げさに書かれているものはあった。
しかし、引きこもり歓迎! と書かれているものは見たことがない。まあ、当たり前の話だが。
「今まで引きこもりでした。なんて、そんなん、正直に言わなきゃいいじゃーん。でも、サトリ君、嘘つけなそうだもんねえ」
確かに、言わなければそれで済む問題かもしれない。でも、すぐに雰囲気でバレる気がする。
「アザミさんは、これからどうするんですか? ずっと、ハウスにいるんですか?」
「いるかもしれないし、いないかもしれない。そんなのわかなんないよ。でも、しばらくしたらまた海外にでも行こうかなー」
海外か。
過去のこともあるし、誰も彼女のことを知らない場所の方が良いのかもしれない。
「いい? サトリ君、女はみんな嘘つきなのよ。私がさっきした話の中にもたくさん嘘がまじってるからね」
「え、どれが嘘だったんですか?」
「それはナイショ」
そう言って、アザミはグラスの中に残ったオリーブを詰まんで、サトリの口の前に突き出してきた。
「あーん」
食べろってことか。
サトリは戸惑いつつも、オリーブを口の中に含んだ。そして、ゆっくりと舌の上で転がしてから、胃の中に落とし込んだ。
5 レット・ダウン
深夜三時過ぎ。
バーを出ると、さっきまで溢れかえっていた人の数もまばらになっていた。
二人はとりあえず駅を目指して歩いた。
すでに終電はなく、アザミはどうやって帰るつもりなのだろうか気になった。
もしかしたら、二人でホテルに入って始発を待つという展開も、なくはない。サトリは一人で勝手に胸を高鳴らせていた。
しかし、その期待も空しく、
「タクシー呼んであるから」とアザミはしれっと言った。
「そうですか。それじゃあ、僕はこれで」
ここから実家までなら頑張れば歩いて帰れる距離だ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ」
その場を立ち去ろうとしたサトリの肩をアザミが叩いた。
「一緒に来ればいいじゃん。このままハウスに」
アザミの発言に面食らった。
だって、サトリがレイバーズハウスに行く理由なんてない。しいて言えば、アザミに会いたいくらいだ。、
「リュウちゃんの仕事の手伝いでもすれば? 仕事ないんでしょう?」
尾崎の仕事って大麻の密売のことだろうか?
「いくら仕事がないからって、流石にあやしい仕事の手伝いするつもりはないですよ」
「いやいや、普通にゲストハウスの方」アザミはびっくりして言った。「人手足りないって言ってたよ。レイバーズハウスは男館と女館で分かれてるのね。今は女館の方を私がやってて、男館の方は、リュウちゃんが自分でやってるの」
自分がレイバーズハウスで働く。そんなこと考えてもみなかった。
短い時間ではあるがハウスで過ごした時間は心地いいものだった。みんな優しかったし、なんというかゆったりした時間が流れている。確かに、あそこでなら自分も働けるような気がした。
しかし、やっぱり不安がよぎる。
「知らんぷりしてればいいんだよ」
アザミが言った。
「自分は何にも知りませんでしたって顔してれば捕まらないでしょ。実際、詳しくは知らないしね」
もちろん、ヤバい仕事を手伝うつもりは毛頭ないが、知ってて知らないふりをしているだけでも罪になるのではないか。
そんなことをもやもやと考えながら歩いていたら、いつの間にか駅に着いていた。
ロータリーに見覚えのあるデカい車が止まっている。
「あ、アプリ呼んだタクシーだ!」アザミが思い出したように言った。「ただリュウちゃんにラインしただけだけどねえー」
アザミはまだお酒が残ってるのか、テンションが高い。
車の前にロン毛の男が立っていた。
「オーナー! ちょうどいま仕事探してる元引きこもりの人がいるんですけどー!」
「うちは引きこもり大歓迎だよ」
尾崎は笑って言った。
ほら、とアザミがサトリに目くばせをする。
なんだかもう断れない流れになっている。だが、よくよく考えてみれば、求人を探すのにも疲れていたし、アザミと仲良くなれるかもしれないという下心も沸いてきた。
「お、お世話になります」
「言っとくけど、うちの仕事は厳しいからな。明日からすぐ仕事だ」
「うん。でも、とりあえず、寝かせてください」
今日は慣れないことをたくさんしたせいですでに疲労困憊だ。
行きと同じように、運転席に尾崎が座り、助手席にアザミ、後部座席にサトリが座った。
サトリは席に座るとすぐに眠ってしまった。
目を覚ますと、サトリはハウスのリビングのソファーの上にいた。
スマホを見ると、昼を過ぎていた。
「お、起きたな。夕方にお客さん来るからそれまでに仕事終わらせろ」
仕事と言われても、ゲストハウスでどんな仕事があるかまだわからなかった。
サトリの中では、ゲストハウスとアパートやマンションの違いもはっきりしていない。
尾崎が言うには、ゲストハウスは賃貸ではなく旅館業だそうだ。
賃貸と旅館業の大きな違いは、衛生管理義務があるかどうかだ。
「まあ、簡単に言ったら掃除洗濯よ」
つまり、ゲストハウスの営業には部屋を掃除したり、シーツを替えたりするのが仕事だ。
ホテルや旅館と同じだが、食事の提供がない分、楽だ。
サトリは尾崎からシーツの替え方や、洗い方、掃除する箇所などをざっくりと教えて貰った。
「あ、あと成海さんの部屋は、成海さんがいる間は掃除しなくていいから」
成海さんは一人で個室に泊まっているお客さんだ。
「じゃあ、あと頼むわ。わからないことがあったらアザミに訊け」
そう言うと尾崎はどこかに行ってしまった。
そうか。アザミも同じ仕事を女館でやっているのか。そう思うと、やる気が出た。
サトリは教えられた通りに作業をこなしていった。
今日の男館の宿泊客は十名、前日から連泊している客が多い。
引きこもっていたときはほとんどシーツなんて替えていなかったから、初日だけでここ数年のシーツ交換記録を更新してしまった。
回収したシーツを洗濯機に入れていると、アザミもシーツの束を持って現れた。
「おーやってるねー」シーツを洗濯機に放り込みながらアザミが言った。「まだ眠ーい」
眠そうにしている姿も可愛い。
洗濯が終わった後は、部屋の掃除だ。
ベッドの下にゴミが溜まらないようにしっかり掃除機をかけ、よく絞った雑巾で畳をさっと拭いていく。掃除も仕事だと思って真剣にやると、なかなかの重労働だ。先日の玄関やトイレといい、尾崎はだいぶ掃除をさぼっていたようだ。
「これ捨てといて」
掃除機を持って成海さんの部屋の前を通り過ぎると、部屋のドアが開いて、成海さんがビニール袋を差し出してきた。
「あ、わかりました」
ちらっと部屋の中が見えた。ごちゃごちゃとカメラやパソコンなど高そうな機械が散乱している。
オナニーしたティッシュとか入ってたら嫌だなと思いながら、サトリは成海さんからゴミの入った袋を受け取った。
成海さんは三つある個室の一つに長期宿泊している(と言っても月の半分もいない)。いつもTシャツにジーンズというラフな格好をしていて、年齢は五十代半ばくらいのおじさんだった。
本当の住まいは東京にあって、ハウスは別荘のように使っているらしい。泊まりたいと思ったときに泊まれるように宿泊代を前払いして、常に個室の一つをキープしているという。荷物もほとんど置きっぱなしだ。
彼のように都会と田舎を行き来する生活スタイルは、巷でデュアルライフと呼ばれている。サトリは全く知らなかった。日本語に訳せば、二拠点生活という意味らしい。
住む場所が二つもあるなんて、あのおじさん意外と金持ちなんだなあ。
都落ちしたサトリからすれば、こんな田舎にわざわざ来る人の気が知れなかった。都会に住んでいる方が明らかに便利なのに。
そうこうしているうちに、宿泊のお客さんが来た。
アザミがチェックインの受け付けをして、そのままハウスのルールや使い方などを説明した。
サトリも隣でアザミの仕事ぶりを見て勉強した。
尾崎が言っていたように、海外からの宿泊客もちらほらといた。サトリは英語がほとんど喋れないので、困ったときはアザミを頼ることになった。
ワーホリに行っていたというだけあって、アザミの英語は上手だ。
サトリはますますアザミに惹かれていった。
日が傾き、辺りが暗くなった頃、どこからともなくカレーの匂いが漂ってきた。
「お、そういえば、今日はカレーの日だ」
アザミが思い出したように言った。
リビングに向かうと、こんなに人がいたかなと思うくらい人が集まっていた。ハウスのメンバーだけでなく、近所の人もまじっている。
輪の中心にいる男は、大きな鍋に入ったカレーを次々とお皿によそっている。
ハウスの住人たちは慣れた様子で列をつくり、順番にお皿を受け取っていく。小学校の給食当番みたいだ。
「井出さーん!」
アザミが嬉しそうに声を掛けた。
井出さんと呼ばれた男は髭もじゃで、見た目はポンキッキーズに出てくるムックみたいだった。
「アザミちゃん」
と井出さんが嬉しそうに言った。
歳は四十半ばといったところだろうか。よく日に焼けている。
「今度はどこ行って来たんだっけ?」
「アユボワン。スリランカだよ」
アザミが言うには、井出さんはスリランカまでカレー作りの修行に行っていたらしい。インドカレーはもう飽きたらしい。
井出さんはネット通販で自分のオリジナルのレトルトカレーを販売して生計を立てている。一番のヒット商品は竜谷産シイタケを使ったシイタケのだしカレーだ。シイタケからはグアニル酸という旨味成分が出るそうで、海外のカレーに負けない、日本ならではのカレーだという。
今日は地元のハンターの方に山で捕獲した猪の肉をたくさん貰ったらしく、イノシシ肉のカレーだった。
「ほら、お前も食べろよ」
尾崎がサトリの分の皿を寄こした。
サトリは目の前に用意されたカレーを見た。見た目は一般的な日本のカレーライスだ。
以前、本格スリランカカレーと書かれたお店に入ったら、よくわからない実や種がたくさん入ったカレーが出てきた上に、激辛で全然食べられなかった。その時の記憶があるため、サトリは少し身構えた。
「美味しいよ、サトリ君も食べてみて」とアザミが言った。
隣ですでにカレーを食べている。
サトリはスプーンで一口カレーをすくって、食べた。
「お、美味しい」
激辛ではない。割と普通のカレーライスだ。
イノシシの肉と聞いて、臭いのではないかと思ったけれど、全然そんなこともない。
「このイノシシ肉は柔らかいし、全然臭くないですね」
「この肉をくれたのは地元の名人ハンターさんだからね。彼は獲物を捕まえるときに、銃を使わないんだ。全部罠を使う。銃を使うと、筋肉が硬くなちゃうんだけど、罠を使って生きたまま捕獲すれば、やわらかいままなんだよ」
「もっと本場のカレーみたいな、こだわりのスパイスを使ったのが出てくると思いました」
サトリは正直に言った。
「ああ、これはオウチ食品のルー使ってるから」
「市販のですか?」スパイスカレーじゃないのか。
「そうだよ。結局、これが一番美味しいからね」と井出さんは言った。「一人の人間が追求できるものなんてたかが知れてる。何十人、何百人って人が関わってる会社に敵うわけがないよ。インドのカレーだって家ごとに味が違うって言うけど、それも、おばあちゃんからお母さん、お母さんから、娘へと世代を越えて作ってきた先祖代々の味だからね。一人の人間が作り上げたわけじゃないんだ」
今日は久しぶりに働いたから、お腹がすごく空いていた。
サトリはカレーをぺろりと平らげ、おかわりまでした。
「いつもはみんな好き勝手な生活してて、好きなもんを作って、好きなときに食べたりしてるけど、今日みたいな日はみんな集まってわいわいやるんだ」と尾崎が言った。
「このあとはみんなで映画を観るんだよ」とアザミが言った。
尾崎がどこからかプロジェクターを持ってきた。
部屋の灯りを消して、リビングの白い漆喰の壁をスクリーン代わりにして、映画の上映会が始まった。
上映されたのは、サトリの知らない古い映画だった。
普段あまり映画は観ないけれど、尾崎にスクリーンの目の前の特等席を充てがわれたため、真剣に観ざるを得なかった。
他の宿泊者と思われる人々も各々好きな場所に座り、くつろぎながら映画を観ていた。
サトリの隣に成海さんが座った。Tシャツにジーパンというラフな格好をしている。
「CGなんてほぼない時代に、この世界観の作り込みはとんでもないな」
成海さんはちょこちょこ感想のような解説のようなことをつぶやいた。
「これ、君が生まれるより前の作品だよ」
一瞬、誰のことを言っているのかわからなかったが、どうやらサトリのことを指して言っていたらしい。
「あ、ええ」
「成さん、そいつ重度の人見知りなんで」
サトリがまごついていると、尾崎が助け舟を出してくれた。
成海さんはそうかと言ってその後は黙っていた。
確かにその映画は、サトリが生まれる前に作られたにもかかわらず、未来の風景がリアルに描かれていた。
アンドロイドたちは感情を爆発させ、生き延びるために必死だった。
サトリは映画を観ながら、かつての自分を思い出した。
社会人だったころの自分は感情を押し殺して、死んでいるように生きていた。会社を辞めた後だって、ほぼ死んだように部屋に引きこもって生きていた。この先の人生で、自分が感情を爆発させることなんてあるのかなと考えてしまった。
そんなことを考えながら観ていたら、あっという間に映画は終わってしまった。
「どうやった?」
スキンヘッドの男がどすんとサトリの横に座り、話しかけてきた。
「へ?」
急に話しかけられたので、サトリは変な声を出してしまった。
「さっきの映画、ワイのチョイスやねん」
男はエセ関西弁で勢いよく喋った。息が酒臭い。すでにずいぶん出来上がっているようだ。
「次はやっぱクラウド・アトラスにしよかなあ、思ってんねんけどな」
何がやっぱなのかわからない。
「自分はさあ、輪廻転生って信じる?」
「はあ、死んだら虫になるとか?」
「虫て。人は人に生まれ変わるんちゃうん? よう知らんけど」
男は急に笑い出した。
何が面白いのかわからない。何か怖い。
「これ、俺が独自に開発しとるソープ。やるわ」
そう言って男はサトリ目の前にグレーの液体をどすんと置いた。
「え、なになに、石鹸?」
サトリは困惑した。怖過ぎる。
「いや、せやからソープやって」
「いや、いらないです」
「クラウド・アトラス観とらんのか、自分。クローン人間の唯一の食料やん。まあ、その正体は廃棄されたクローン人間やねんけどな。だから、共食いしてたってことやね」
何か普通にネタバレをくらった気がする。
「キョウソ、ウザ絡みやめろって。ほら、もう女の子みんな寝ちゃったぞ」と尾崎が来て言った。
気づいたら、あんなにいた人はほとんどいなくなっている。
キョウソと呼ばれたスキンヘッドの男は、悪い悪いと言って頭をかいた。
「でも、面白いよなぁ。実際の人間も他人を食い物にして生きてると思わん? アイフォンを作ったハゲなんて自分の娘にはアイフォン絶対持たせんかったらしいで」
一瞬わからなかったが、ハゲとはアップルの創設者スティーブ・ジョブズのことを言っているようだ。
お前もハゲだろとサトリは思った。
一ヵ月ほど経ったらハウスの仕事にもだいぶ慣れた。
慣れてしまえばどうということはない。宿泊客の数によって仕事の量は変わるが、だいぶ早く終わることも増えた。
仕事のない時間は空き時間になった。
空き時間が増えたサトリはハウスの住人と一緒にだらだらと過ごすようになった。
リビングでゲームに興じたり、漫画を読んだり、自分もハウスの一員になったように感じた。
尾崎はいつも何やら忙しそうにしていたが、ときどきふらっとハウスに現れると、サトリを散歩に誘った。
竜谷町は狭い町だ。徒歩でぐるっと一周できてしまう。
尾崎の話にあったように、林業が盛んだった頃は本当に栄えていたようだ。
丘の上には城の跡があり、かつて城下町だった場所は、いまも家が連なって建っている。
最盛期には遊郭なんてものまであったらしい。遊郭の跡には赤い煉瓦造りの壁が残っていた。
限界集落一歩手前と尾崎が言っていたように、実際に歩いてみると空き家が目立った。
と言っても、ここは空き家と書いてあるわけではない。
庭の草がボーボーで手入れされていない家や、ボロボロで人が住めないような家は明らかに空き家とわかったが、人が住んでいるのかいないのか、よくわからないという家も多かった。実際の空き家の数はもっと多いかもしれない。
「なんで空き家ばっかりになるかわかるか?」
歩きながら、尾崎が言った。
「みんな都会に出て行っちゃったんじゃないの?」
「そうだな。この辺じゃあ、仕事もないしな。でも、誰も住んでないなら壊して空き地にした方が良いと思わないか?」
「うーん、確かに。この家なんかもうボロボロだから、いっそ、壊しちゃった方がいいかもね」
サトリは目の前にある空き家を指さして、小さな声で言った。
その家は少し傾いていて、窓が割れていた。明らかに人は住んでいなさそうだった。
「今の日本の法律だとな。真っ平の更地にしとく方が固定資産税が高くなるんだ。どんどん家を壊しては建ててた高度経済成長時代にはそれで良かったんだけど、更地にしたら税金が高くなるもんだから、空き家はそのまま放ったらかしておくって人が多いんだ。壊すだけでも結構金かかるからな」
なるほど。誰だって払う税金は少ない方がいい。
高い金を払って解体して、更地にしたとしても、その土地が売れるとは限らない。売れなければ、空き家を放ったらかしていたときよりも多い税金を収めることになる。明らかに損だ。
「結果、日本は空き家だらけになりました、とさ」
「そもそも空き家って何が問題なの?」
素朴な疑問だった。
「治安が悪くなるんだよ。お前、割れ窓理論って知ってるか?」
「わかんない」
「割れた窓をそのまま放置しておくと、ヤンチャな奴らはちょっとくらいなら良いかって考え出す。結果、不法侵入や空き巣、放火なんて犯罪が増えて、取り返しのつかないことになるわけよ。ゲストハウスと同じだ。町にも衛生管理が必要なんだな。昔、ニューヨークで行われた調査じゃ、地下鉄のゴミや落書きを綺麗に掃除しただけで、犯罪が減ったらしいからな」
確かに、誰かが綺麗にした場所をわざわざ汚したり壊したりするのは、相当なエネルギーが要るだろう。
二人は町をぐるっと一周して、レイバーズハウス周辺に戻って来た。先ほど歩いてきた町の様子と比べると、心なしかハウスの周りは活気がある。
ちらほらと新しい店ができている。
「お茶でもしようぜ」
尾崎は一軒の古民家に入って行った。
よく見ると表に立て看板が掲げられてあった。
『城の下』
そこは古民家を改装してできたカフェだった。建物自体はレイバーズハウスと同じくらい古いものだ。
店内はすっきりと片付けられており、落ち着いた雰囲気の空間になっていた。平日にもかかわらず、お客さんも結構入っている。
席に着くと、サトリはあたりを見渡した。
「この店も俺たちでリノベーションしたんだぜ」
尾崎が得意気に言った。
「リュウちゃーん!!」
五歳くらいの女の子が尾崎めがけて猛突進して来た。
「おお! ハルカ。今日も元気そうだな」
尾崎は女の子を抱き上げてそう言った。
「また新しい人が増えたんだねえ」
奥から一人の女性が現れて言った。サトリたちと同世代に見える。
どうやらハルカと呼ばれていた女の子のお母さんらしい。
サトリは控えめに頭を下げた。新しい人というのはきっと自分のことだろう。
「こいつはサトリ。中学の時の同級生です。カオルさんも、繁盛してるみたいだね」
「お陰様でね。ところでリュウちゃん、また新しい物件押さえたんだってね。こないだ向かいの吉田さんから、アイツは一体何者だって聞かれたよ」
「大げさだな。竜谷町のゴッドファーザーって呼んでくれよ」と尾崎が言った。
もっと大げさだ。
二人は席に着くと、アイスコーヒーと竜谷茶を使った抹茶プリンのセットを注文した。
サトリは知らなかったけれど、竜谷産のお茶は割と有名らしい。
先日のカレーに入っていたシイタケやイノシシといい、竜谷産の名物は結構ある。そう考えると、竜谷町って意外と観光資源に恵まれているのかもしれない。
カオルさんは注文を伝票に書くと、ハルカと呼ばれていた女の子を連れて、奥に行ってしまった。
「新しい物件を押さえたってどういうこと?」
サトリはさっき聞いた話で気になったことがあったので訊いた。
「うん? この先にある空き家を一軒買い取ったってことだ」
「へえ。レイバーズハウスやこのカフェみたいにリフォームするってこと」
「そう。空き家は減るし、町に活気が出るから一石二鳥だろ」
「でも、買い取るって、めちゃくちゃ金がかかるんじゃないのか?」
サトリはもちろん家なんて建てたことも、買ったこともないが、世間一般の認識では何十年もローンを組んでやっとという世界じゃないのか。空き家と言っても、そこそこの値段になるのではないか。
「空き家は苦労すれば、破格の安さで譲ってもらえる可能性がある」
「えっ」
「空き家ってのはな、必ず誰かの持ち物なんだ。だから、誰の持ち物かを調べて、不動産屋を通さずに直接交渉するんだ。その誰かを突き止めるためにさながら探偵みたいなことしなくちゃいけないんだけどな。近所の爺さん婆さんに話を聞いて、遠くに住んでる親戚の親戚まで連絡して、少しずつコマを進めていく、地味なゲームだよ。苦労して、持ち主に会って話してみるとな、みんなぶっちゃけどうしようか困ってるってことが多いんだ。で、安く譲ってもらった家をみんなで改築して、店をやりたいってやつに安く貸してやってるんだ」
尾崎のやつそんなことしてたのか。本当にゴッド・ファーザーになろうとしてるみたいだ。
「ここはさ、ほぼ限界集落って地域だから、若者が好き勝手できるんだ。これが変に商店街なんか残ってるようなとこだと、いちいちうるさい爺さんが出てきて難癖つけてくるだろうな」
二人は出てきたコーヒーとプリンをぺろりと平らげ、店をあとにした。どちらもとても美味しかった。
外に出て、サトリは改めてあたりを見回した。
このあたりは新しい店がちらほらできていると思ったが、さっきの話だと、その全てに尾崎が関係しているということか。
古民家の一角、一畳ほどのスペースでパンを売る『ねこのひたい』というパン屋も、『リトル・ジーンズ』というオシャレな古着屋も、『ルーラル・サイクル』というこだわりを感じる自転車屋も、確かに今まであった家を改装して作られている。
それにもかかわらず、どの店も今っぽい雰囲気でオシャレに仕上がっていた。オシャレとはほど遠いサトリでもなんだか良いと思ったし、どこか懐かしい感じがした。
「巷じゃ、オジサン政治家がいまだに成長成長って言ってるけどよ。これからまた日本がバブルのときみたいな好景気になることはないだろうな。まあ、ほとんどの若者は何となくわかってるよな。これからこの国は、ゆっくり速度を落としていくだけだ。俺は、そんとき一番必要なのは仲間とかファミリーなんじゃないかって思ってるんだよ。いまこうして空き家を再利用して、町を活性化させるってプロジェクトを進行してるけど、本当に必要なのはそこからつながるってことじゃないかと思ってる」
「なんか、少年漫画みたいだな」
「いいじゃねえか。少年漫画で。俺は新しい町を作るつもりなんだ。この村にある空き家を買い取って、どんどんリノベーションしてな。もちろん、金なんて全然足りないから、いま出資者を募ってるところなんだ」
中学時代、サトリにとって尾崎はまぶしい存在だった。いつも部活のレギュラーでみんなの輪の中心にいたからだ。
でも、それは大人になった今も変わっていなかった。
「だからさ、お前も手伝ってくれよな」と尾崎が言った。
「えっ」サトリはびっくりして言った。「僕にできることなんてあるかな」
「あるある」
「こないだ、クラブで会った女の子がいるんだけど」
「ほう、可愛いか?」
「たぶん」
「お、いいじゃねえか」
「いや、その子に尾崎と一緒にいるの似合わないって言われたんだよ」
「お前は俺と似合わないから良いの」
似合わないから良いだって? なんだか不思議なことを言う。
「という言葉を知らんのか」
全く知らない。なにそれと訊くと、史記に載っている故事成語だという。尾崎のやつ、変な知識は異様にある。
鶏鳴狗盗とは、取るに足らないようなものでも何かの役に立つことがある、とうような意味らしい。取るに足らないって、、、まあ、実際そうだな。
「AV博士も何かの役に立つときが来るかもしれないだろ」
こいつ、まだそれを言うか。
手伝いを頼まれたものの、何を手伝っていいのかさっぱりわからないまま、サトリは日々を過ごしていた。
そんなある日の昼下がり、一人の男がふらっとハウスを訪れてきた。
「こんにちわー」
玄関から声がしたので、アザミとサトリが出迎えに行くと、そこには一人の男が立っていた。
年齢は二十代半ば、サトリより少し歳下だろうか。
ポロシャツにハーフパンツというラフな格好だが、ぴしっと決まっている。どこかの高いブランドもののようだ。
まだチャックインには早い時間だったが、
「ご予約の方ですか?」とアザミが訊いた。
「いや、僕は…」
男はなんだか困った表情をして言い淀んだ。
そして、サトリの方を向いて、
「片桐先輩、ご無沙汰しています」と言った。
どうして自分の名前を知っているんだ。サトリは困惑した。
「おう、来たか」
後ろから声がしたので振り向くと、いつの間にか成海さんが立っていた。
「こいつは安達。あー、サトリは知り合いのはずだぞ」
「安達カケルです。よろしくお願いします」
男はにっこりと笑ってそう言った。
「安達ってあの、中学のときのバスケ部の?」
安達はバスケ部の一つ下の後輩だ。
すぐにわからなかったのは、サトリの記憶の中の安達はもっとずっと太っていたからだ。
「へへへ、頑張って痩せました」
きょとんとしているサトリを見ながら安達君が言った。
「てか、サトリ君、安達カケル知らないの?」
何故かアザミが横から声を上げた。
「へ? 安達君、なんか有名なの?」
どうしてアザミが安達君のことを知っているのだろう。
「だって、私もフォローしてるもん。まさか本物だとは思わなかったなあ」
ほらと言ってアザミは自分のスマホで、安達カケルのSNSのプロフィール画面を見せてくれた。
えっと、フォロワーの数は、、、三百二十三万人!!!?
「安達君、めちゃくちゃ有名人じゃん」
「お陰様で」
なんと、安達君はSNSのフォロワーが三百万人以上もいる。芸能人並みだ。一体何をしたんだ。
よく見ると肩書には、連続起業家とある。なんだそれ。
「安達は竜谷町の出身なんだよな?」と成海さん。
「ええ、いちおう子供のころは。途中で引越しましたけど」
「今日は視察に来たって感じだ」
なるほど。サトリの頭の中で先日の尾崎の話と安達君の訪問がリンクした。
「ちょうどいい。サトリ、安達に町を案内してやれ」
「片桐先輩、お願いします」と安達君が言った。
えええ、そんなの尾崎がやればいいのに、と思ったものの、なんだか断れる雰囲気ではない。まあ、まったく知らない人を案内するわけではないと思えば、少し気は楽だ。
サトリはいつも尾崎とするように、安達君を連れて町を歩いて回った。
彼の話によれば、住んでたのは十年以上前らしいが、ところどころ覚えているようだ。時おり立ち止まっては、ここ懐かしいと言ったりもした。
古民家を改築してできた新しい店舗が並ぶ通りでは、面白いと声を上げて関心していた。
一通り町を見終わると、二人は『城の下』に入った。
「今度はサトリ君が新人を連れて来たのね」
カオルさんが嬉しそうに言った。
二人ともコーヒーを頼んだ。
「いやあ、驚きました。成海さんに面白い場所があるから来いよって言われて来てみたら、僕の生まれ故郷でした。この町、いつなくなってもおかしくないと思っていましたが、見違えましたね」
コーヒーを飲みながら安達君が言った。
「僕も最初驚いたよ。若い人も結構増えているしね。みんな自分たちでイチから作り上げようって感じですごいよ」
「文化祭みたいで楽しいじゃないですか」
「じゃあ、安達君も一緒に町を盛り上げてよ」
「是非お願いします」
「いやあ、尾崎も喜ぶと思うよ。覚えてるでしょ? 中学のバスケ部の尾崎リュウスケ。あいつがこのへんの陰の立役者だからさ」
「え、尾崎先輩、、、ですか」
急に安達の表情が曇った。
「片桐先輩、今回の話は見送らせてください」
突然のことにサトリは理解が追い付かない。
茫然としていると、安達はここは払っておくんでと言ってそのまま店を出て行ってしまった。
え、これってもしかして、やらかした?
一人取り残されたサトリは、自分が何を間違えたのかわらないまま冷めたコーヒーをすすった。