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第一話 少女

 雨が降っていた。

 その街には、雨が降っていた。

 

 その街には、化け物が出る。

 

 浸水した街。その水面がこぽこぽと音を立てて盛り上がった。それは徐々に形を作り始め、人に似た二つの腕を持つ二足歩行の生物と成る………否。それを生物と言っていいのか、そこに魂が宿っているのかは分からない。不可思議な現象ではあるが、それは液体の質感を残したままに人型に纏まっている。

 

 人間の様に腕を動かし、歩く。その無色透明の化け物は街の景色を身体に映しながら歩いて行く。そんな化け物は、前方に少女の姿を捉えた。目の無い彼がどうやって少女の存在を認識したのかは分からない。ただ、化け物は。

 

「………………ぁ、ああ……」

 

 何処かで、化け物は感じていた。その少女に抱く、意味も分からぬそれを。生まれたばかりの化け物は感情と呼ぶそれを、知らない。何も知らない筈の哀れな化け物。記憶の始まりは僅か数分前。だが、彼は明確に感じ取っていた。

 

 暖かい陽だまりの様な親愛を、その存在に対して溢れ出る感謝と喜びを。

 

 その存在が今ここに息衝いていることへの恐怖を、湧き上がる様な無尽蔵の憎悪を。

 

 全てをその存在に求めてしまいたい信頼と、罪悪感に似た何かが化け物を苛む。正反対の感情はどちらも我が物顔で存在しない心を席巻している。混濁する世界に、化け物は耐え切れず本能に従った。

 

 化け物は破壊を、求める。

 

 その手が伸ばされた。少女の矮躯を引き裂かんと指の先に鉤爪に似た鋭利な刃が形成される。少女はその場から動けずに………。

 

 

 

 

 

 動かずに、居た。

 

 可愛らしい水色の傘の先端が水飛沫を跳ね上げて化け物の上半身を浅く削り、振り上げの一撃が下顎から後頭部までを豪快に割る。

 

「………精々、成仏することね。あなたにできるのか、分からないけれど」

 

 少女は傘から化け物の水滴を払いながら言う。その言葉は状況を理解しきれない化け物の敗北を告げた。真っ二つに両断された体が元に戻らない。そんな違和感を覚えた次の瞬間、意識が暗転する。

 

 ……………化け物は、個を持たぬ雨水へと還った。

 

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 西に位置する小国、ジャウザー。そこではとある神話が語り継がれている。それは名も残されていない程気紛れな雨を司る神と、その裏切り者が犯した罪の話だ。

 

 それは、救われた。

 それは、強欲であった。

 それは、雨の神を裏切り を奪った。

 それは、存在を得たがった。

 それは、神の持つ物を奪い自分の物にすれば何かになれると思ったのだ。

 

 それはいつしか死んだ。それが名付けたベテルという街で、死んだ。死んだそれは神ではなかったのだと、人々は落胆した。しかし、雨の神は死してもそれを決して許さなかった。そして、それを神と仰いだ人の子を許すこともなかった。

 

 神は人々に制裁を与えた。雨を降らせ、その雨水から化け物を生んだ。その化け物はそれによく似ていた………。

 

 

 と、いうのがその神話で描かれた雨の神と裏切り者、そしてこの国に降り続ける雨にまつわる話である。要するに裏切り者は雨の神への恩を仇で返し、地上に降りた。その裏切り者を神だと勘違いした人間達を雨の神は許さず、人を襲う化け物を生み出している訳だ。

 

 人を襲う化け物がそれの姿をしているのはそれが神ではなく化け物だと知らしめる為のもの、などと言う様々な説が浮上しているが、未だ理由は解明されていない。神の思惑など人間には分かったものではない。神が何を望むのかも分かってはいない。人間の滅亡を望むのか、失ったものを取り返したいのか、はたまた他の何かがあるのか。

 

 気紛れな雨の神は、人々に雨の化け物を倒す術を与えた。

 

 化け物は単純に攻撃してもすぐに再生してしまう。彼らの素となる雨はジャウザーに降り注ぎ続けるのだから、尽きることはないのだ。だから常人には化け物を倒すことができない。しかし、彼らは違う。雨の神の血液をその身に取り込み、化け物への対抗手段を持った元人間。

 

 人でなくなった彼らは弱き人間を守る為に戦うのだ。その一撃は化け物の体を引き裂き、意思を持たぬ液体へと返還する。物体の在り方に干渉する神の奇跡。その一部を譲り受けて彼らは人間に害を為す化け物を裁く。そんな彼らを、人々はこう呼んだ。雨の神の力を持つ、人ならざる御子。雨と共に生き、我らを守り生かす守護者………。

 

 

 ——————雨の使徒、と。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ゴーン、ゴーン………。

 

 教会の鐘が鳴る。その重々しい音色は雨音を掻き消し、街中に響いた。祈りの時間か。と店の壁に付けられた掛け時計を見て、コルリオ・ヴァルクスレインは嘆息する。

 

 この国には靴を飛ばして占うまでもなく毎日雨が降るのだが、それで晴れる訳もないのに人々は毎日決まって教会で雨の神に許しを請う。この雨を止ませて下さい、と祈り続ける。そうやって一日も欠かさずに毎日決まった時間に教会に集まる人々にコルリオは半ば呆れていた。

 

 雨の神の気持ちにもなってみろ。この国だけでなく全世界の雨を司るのだからジャウザーばかりに構っていられない。祈られても困る。それなら教会で何分間も祈り続けるよりは晴れ乞いの人形でも作っていた方が余程有意義だろう。

 

 そう思っている為にコルリオは教会には通わず、大体は自身の経営する道具屋に引きこもっている。外で化け物に遭遇しても面倒臭いので店のカウンターに突っ伏してぐだぐだと一日を過ごすのが常だ。客は時折訪れるが、それでも一日に二人来れば奇跡という有様である。当然売り上げも殆どない。

 

「……………暇だな」

 

 そう呟いて、コルリオはカウンターの上で寝返りを打った。行儀が悪いのは重々承知しているが、そもそもそれを咎める者が居ないのだ。何をしても怒られない上に、居てくれたらカウンターに寝転がる程暇になっていない。居ればカウンターで綱渡りという虚しい行動に走る事も無かった。そして自分の体幹が想像を遥かに超えて弱い事を知る事も無かった。今度からは床にマットレスを敷いてからやる事にする。腰が痛い。

 

「……………暇だな」

 

 鈍痛に襲われる腰を慰めながら、コルリオは呟いた。思い返せば先刻も同じことを言っていた気がする。しかし暇なものは暇なのだ。暇な時に暇と言って何が悪い。と、心の中で暇を連呼しながらコルリオは謎の言い訳をした。正直謎の言い訳でもしていなければやっていけない。とても暇だ、そして腰が痛い。

 

「…………暇」

 

 カランカラン

 

 三度目の暇宣言をしようとしたその時、来客を知らせるベルが軽やかに鳴った。おぉ、と小さく歓声を上げてコルリオは立ち上がる。立った勢みに腰が痛い。ゔ、低い悲鳴を上げながらも歯を食いしばってコルリオは顔を上げた。

 

「いらっ、………しゃ―い……」

 

 笑顔でしようとした歓待の挨拶は尻すぼみになった。

 

 その客は、十五歳程に見える少女だった。勿論子供だからあまり沢山物を買ってもらえないな、などと思った訳ではない。断じて思っていない。ただそれが母なる海に誓って嘘ではないか、と言われると嘘である。とそんな事はさておき、コルリオが気にかけたのは少女のその姿だ。

 少女は裸足で、髪も服もずぶ濡れになっている。雨に長時間降られていたのか、顔や肌は青白い。裸足で外に居たなら石などで足を汚している可能性もある。その為コルリオに助けを求めたのかも知れない。だとしても、だとしてもだ。

 

 ……………普通そんなに濡れたままで店の中まで入って来るか?

 

 少女の服からは水が滴り落ち、足元にはこの数分間で既に水溜りが出来上がっている。そういうものは普通は軒先で申し訳程度に絞ってから店に入るものではないだろうか。少女の格好は明らかに外からそのまま入ってきた様に見えるのだが。

 

 床の清掃が面倒臭いというのもあるが、それ以前にその雨水から化け物が湧いて出たらどうしてくれる。と眉間に皺を寄せたコルリオに一切構わず、ぴとぴとと水滴を落としながら少女は歩いて来る。

 彼女は迷いのない足取りでカウンターの前に立つと、背の高いコルリオを見上げた。

 長い睫毛に縁取られた鋭い目で見られると、そのつもりは無さそうでも睨まれている様な気分だ。思わず気圧されて後退るコルリオ。そして少女は懐から何かを取り出した。

 

 ドンッ

 

 カウンターに盛大な音を立てて何かの袋が置かれる。見てみれば縛られた袋の口から覗くのは、年若い少女には見合わぬ大量の金貨だ。

 

「何か食べ物を」

 

 少女は冷淡な声色でそう言った。有り金を全てひけらかし、その上で欲しい物を要求するその意気や良し……!と、言いたい所だがそれは賭場でやれ。大一番の勝負所でやれ。何をしがない道具屋でやっているのだ。そんな事をやられても困る。

 と、白目を剥くコルリオに、少女はもう一度言った。

 

「何か食べ物を」

 

 何故その用件で道具屋に来た。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「っていうのが来たんだけど何あいつ」

 

 あの後は結局貰い物のクッキーを渡して帰ってもらったが、コルリオは未だに傲岸不遜な彼女の態度が理解できないで居た。というより、道具屋に食べ物を求める神経が分からない。コルリオは甘いものを好む為、焼き菓子は常備しているがまさかそれを見抜いたわけではあるまい。

 

 あの後床の清掃をした時に思っていたが、裸足や全身ずぶ濡れの姿も考えればおかしいのだ。彼女は傘を手に持っていた。浸水した街を歩くのだから、足が濡れるのはまだ分かる。だが、傘を差していて頭まで濡れるだろうか。だとしたら水溜まりではしゃぎまわるという化け物を呼ぶ自殺行為に走っていたか、傘を差さずに街を歩くという暴挙に出たか、だ。

 

 この街の雨は本当に酷い。風が吹かない為横殴りではないものの、ピンと張った紙を置いておけばその紙を雨水が突き破る程だ。この雨は中々に痛い。そんな行動に出ているのだとすれば少女の両親は早急に対策を練るべきである。と、隔週に一度店にやって来る常連のジョンという男に愚痴っていると、ジョンは驚いた顔をして言った。

 

「そりゃあ、雨の使徒様じゃあねぇか?こんな小さい店に来るたぁな」

「小さくて悪かったな………。雨の使徒って?」

 

 ジョンの全く悪気の無さそうな言葉に少し傷付きつつ、コルリオは聞いた。すると彼は更に目を見開く。

 

「お前さん知らんのかい?いくら他所もんでもそりゃあ不味いだろう」

「えっ、何それ怖い」

 

 脅しをかける様に言ったジョンに、コルリオは我が身を抱いて顔を青褪めさせた。昨日少女にクッキーを売った時、実は銅貨一枚分ぼったくっていたのだ。床の清掃に関する腹いせだったが、まさか彼女は権力者の娘だったりするのだろうか。

 そうだった場合荷作りは明日から始めよう………。と、脳内で国外逃亡の準備を始めるコルリオに、ジョンは人差指を立てて言った。

 

「雨の使徒ってのはあの化けもんを倒せる力を持った奴らの事だ。雨の使徒様がいなかったら今頃この国は化けもんで溢れ返ってるだろうよ」

「へぇ………そうなのか……」

 

 コルリオはジョンの言葉に頷いた。それなら国外逃亡は免れるだろうか。でも一応荷作りはしておこう。と順調に作戦を練りながらコルリオは聞いた。

 

「あんな子供が大人でも敵わない化け物を倒せるのか?」

「あぁ、雨水を浴びれば浴びる程強くなるらしい」

 

 成程、ずぶ濡れだったのはその所為か。とコルリオは納得………否、納得はしていない。それにしても服の裾くらいは絞ってよかったと思う。今度店に来たらクッキーに文句の手紙入れてやる。と無駄な誓いを立てるコルリオに、ジョンは言った。

 

「今代の雨の使徒様は特殊らしいな、普通は武器を媒体に化けもんを倒すもんらしいが今回は傘らしいぞ

「へー……あの傘、武器だったのか……」

 

 殴られたら軽く消し飛べるな……。と大量の冷や汗を掻くコルリオ。その顔色が優れない事に気付いたのか、ジョンは冗談めかして言った。

 

「まさか雨の使徒様にぼったくるとかしたんじゃねぇだろうなあ?お前そういう所あるからな……………おい」

「………………」

「コルリオ」

「………………」

 

「コルリオおいテメェ目ぇ合わせろ、何か言えよおい」

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ジョンにとことん叱られたその翌日、びしょびしょになった新聞が店の前まで流れてきた。幸い破れている所は無く、濡れているだけの様だ。

 

 今日も今日とてたっぷり十三回「暇」という言葉を吐き出したコルリオは、暇潰しの為に新聞を扇子で扇いで乾かしながら読んでいた。ちなみにこの扇子は店の倉庫にあったものだ。孔雀の羽根が付いていて、如何にも貴婦人の持ち物と言った抜群の存在感である。全く仕入れた覚えがない。

 商品を自分の店の物だからと使うのは良くない事だが、この店に貴婦人は来ないので売れない。と確信しているのでコルリオはこの孔雀扇子を愛用している。店の前に流れ着いた新聞や本を乾かすのにとても便利なのだ。

 

「えーと………?何日のだこれ?それ以前に今日が何日だ…?」

 

 と、カレンダーと新聞とで視線を行き来させながら水で滲んだ数字を解読すれば、どうやら三日前のものらしい。こんなに新しいものが流れてくるのは珍しい。と、思いながらでかでかと書かれた見出しを読めば、そこには。

 

「役立たずの、雨の使徒……」

 

 その言葉に、コルリオは顔を顰めた。

 

 役立たず、という言い草は無いだろう。雨の使徒は自分達で戦えもしない一般人を守っているという話だった筈だ。そんな人間達に「役立たず」などと雨の使徒を罵る権利があるだろうか?幾ら何でも虫が良すぎる。記事を書いた人間は雨の使徒を感情の無い機械や何かと勘違いをしているのか?

 雨の使徒である少女。一度出会ったのみ、情が無いどころか第一印象は最悪だったコルリオでも、流石にその記事の言い放題な内容には胸を悪くした。

 

『行方不明者は今月で六人目、政治家『×××』の息子も消息を絶つ』

 

 そこには、政治家の息子が行方不明になった事を執拗に責める様な事が書かれている。だが、果たしてそれが一人の少女だけの責任だろうか?雨はこの国全域に降っている。その中でたった一人で国民全員を守らせることの異常性に気付いていないのだろうか。あんな小さな少女に。

 新聞社の人間は大概性格が悪いらしい。雨の使徒なんて単語をコルリオが見たのは、この新聞が初めてだ。つまり、それは今まで彼女が人々を守り続けてきた事が全く記事にされていない、という事になる。それなのに、今回は政治家の息子が攫われたから取り上げた。その性格の悪さには最早感心する。悪い所ばかりを穿り返すのがそんなに楽しいのだろうか。政治家の息子だから居なくなると大騒ぎするというなら、そいつは永遠に温室に入れて大切に育てておけば良いのだ。

 と、憤慨を通り越して呆れるコルリオは重い息を吐いた。こんな新聞を読むくらいなら、暇で居た方がずっとマシだ。と新聞を折り、紙飛行機にして飛ばす。

 

「まぁ、そうだよな」

 

 乾かした時に歪んだ新聞飛行機は、数秒と待たずに床に落下した。それを拾い上げるのも面倒で、コルリオは頬杖を付いて外の景色を眺めた。相変わらず、雨は降っている。あの少女は、未だ愚かな人を救う為に尽力しているのだろうか。

 

「………文句の手紙は、やめとくか」

 

 今度彼女が店に来たら、今度は銅貨二枚分安くしても良いかも知れない。前にぼったくったお詫びも兼ねて。

 と、そんなことを言っていても少女がまた店に来るかなんてわからな

 

 カランカラン

 

「何か、食べ物を」

 

 …………来た。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「クッキーもう無かったからパンにする、四枚で良いか?」

 

「一枚で良いわ」

 

「分かった三枚な」

 

「あなたも食べるのね?」

 

 十二時過ぎ………昼頃。コルリオは少女と自分の為にパンを焼いていた。

 

 少女は店の食べ物を買いに来たのに何故わざわざパンを焼くのかと言うと、もし来たら少女に売ろうとしていたクッキーが戸棚から姿を消していたからだ。昨日の時点ではまだあったというのに。誰かが勝手にクッキーを食べたのだろう。犯行時刻はコルリオが昨日寝てから、今に至るまで。犯人を決して許してはならない、と口元にクッキーの食べかすを付けたコルリオは憤慨した。

 そんな経緯があり、パンを焼く事となったのだ。何故パンなのかと言われればそれ以外に食材が無かったからである。ついでに言えばジャムも半枚分しか無い。バターも小さな欠片が一つある程度なので、コルリオはパンそのものの味を楽しむことを余儀なくされる。

 

「コーヒーは?」

 

「————」

 

 そんな虚しさを噛み殺しつつ、コルリオは「コーヒーは飲めるか?」という意を込めて少女に聞いた。すると彼女は虚を突かれた様なきょとんとした顔をする。少女は先程までずっと人形の様に同じ顔をしていたのだが……。こんな顔もできるのか、と驚くコルリオに彼女は慌てて言った。

 

「あ、ごめんなさい。コーヒーは飲めないの。ただ、少し驚いて」

 

「驚く?」

 

 驚かされたのはこちら側なのだが、と首を傾げるコルリオに、少女は僅かに俯いて言った。

 

「……私、嫌われてるもの」

 

 まさか飲み物まで用意してくれると思わなかったの、と言う少女。その言葉にコルリオは目を見開いた。「嫌われている」というと優しい表現だが、恐らく彼女が指しているのは新聞社などの心無い対応………感謝を忘れた愚かな人間達に受けた仕打ちの事だ。

 

「…………ホットミルクは」

 

「えぇ、大丈夫よ」

 

 彼女の苦悩は計り知れない。食事の際に飲み物はどうするか、なんて何気ない事で驚くその姿の背景には歪んだ大人達の在り方が隠れている。彼女は本来守られるべき存在なのだ。か弱く、未発達な心は傷付きやすいのだから。

 だが彼女を大人達は守ろうとしない。胸糞悪いあの新聞には、化け物と少女を同列に並べる様な文章さえもあった。彼女が人々を守らなければ今頃この国は無人の地となっていただろうに。だが、そうは思っていても何と言葉をかけて良いのか分からず、コルリオは強引に話題を戻した。

 

 沈黙が広がる。

 

 窓の外の雨音がよく聞こえた。マグカップに温めたミルクを注ぐと、丁度パンが焼けた様だ。チン、と小気味が良い音と共にトースターからパンが跳ね上がった。ジャムとバターを塗り、皿は………これでいいか。と、コルリオは白くて平べったい小さな皿を手に取る。これだと角がはみ出すが、一人暮らしで皿の種類が無いのだからしょうがない。客人にお椀でパンを食わせるよりは幾らかマシだろう。と微妙に妥協しながら少女の前にパンを乗せた皿を置く。

 少女は戸惑う様にコルリオと置かれたパンを見比べていた。何か気になる事が………あ、ミルク持ってくの忘れたな。

 なるほど、と納得しながらパンの皿の横にマグカップを添える。だが、彼女は更に困惑した顔をしていた。もしかして、コルリオが一緒に食べるのを待っているのだろうか?まだコーヒーも淹れられていない手際の悪さなので、もう先に食べていても良いのだが。

 

「先に食べてて良いぞ」

 

「…………じゃあ、いただきます……」

 

 そう言うと、少女は遠慮がちに手を伸ばす。少女がパンを食べ始めたことを確認して、コルリオは自分の食事の準備を始めた。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「あ、いただきます」

 

「もう遅いわ」

 

 食事の挨拶を忘れていた事に気付き、コルリオは一枚目のパンを食べ終わった後に手を合わせる。食神に怒られそうな蛮行だが、忘れていたものは仕方がない。とコルリオは開き直った。寧ろこのタイミングでもしっかりと思い出して手を合わせた事を褒めて欲しい。

 

 と、二枚目のパンを頬張るコルリオを見て、少女が「あ」と声を上げた。

 

「…………?」

 

 少女は自分の食べている物とコルリオの食べている物を見比べて、申し訳なさそうに眉を下げた。パンに付いているジャムの事を気にしたのだろうか。正直少し物足りないが、別にそこまで罪悪感を感じなくても良いのに。そう思いながらコルリオはコーヒーを飲み切った。

 

「それ、良い傘だな」

 

 食事を終え、仕事に戻ってもどうせ暇だからとコルリオは少女と話す事にした。そしてコルリオが話題にしたのは少女の持っていた薄い水色の傘だ。ジョンの話だと、その傘が武器なのだとか。見た目からだと普通の傘に見えるが。すると、少女はコルリオの言葉に少し自慢げな顔で返した。

 

「でしょう、お気に入りなのよ」

 

「ちょっと触ってみても?」

 

「良いわ」

 

 少女が傘を開いている所は見た事が無いが、中身はどうなっているのだろうか?と知的好奇心が湧き、コルリオはその傘を手に取った。だが……。

 

「あれ……?これ、錆びてる」

 

 外側から見る分には問題ないが、その中の金属製の部分が錆び付いて開かなくなっていた。これは強引に引き剥がす事もできないだろう。できたとして壊した時に責任が取れない。雨の使徒の武器には代わりがあるのだろうか。と考えるコルリオに、少女は寂寥感を持った声で言った。

 

「錆びてていいのよ、振り回す以外に使わないもの」

 

 コルリオはその言葉を酷く残念に思った。

 

「いい傘なのに」

 

「もういいのよ」

 

 ところどころ傷んでいるのは見受けられるが、それでも大切に扱われてきたのだろう。こんなに錆びていても部品が全く欠けていない。やろうと思えば錆びた部分の修復もできるだろうに。と思ったコルリオに、少女は。

 

「もう、雨を楽しめなくなったもの」

 

 と自嘲気味な笑みを浮かべた。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 お母さんが行方不明になった。

 

 その報せを聞いて、私の頭は真っ白になった。何も考えられなくて黙り込んだ。この国で行方不明になる、というのは化け物に攫われた事を示している。そして攫われた者はもう二度と戻ってくることはない。雨に引きずり込まれ、母はもう戻ることが無い。

 

 そう知らされて、八歳だった私は声を上げて泣いた。母の遺品である傘を抱いて、泣いた。私が幼い頃に亡くなった父。そして一人で私を育て上げてくれた母も居なくなってしまった。私はだれにも頼ることのできない孤児になって、街を彷徨い歩いた。

 一人の夜は、寒くて苦しい。靴は擦り切れて、いつからか無くなっていた。行く当てもなく、素足で街を歩く。目的なんてなかった。ただ同じ場所に居続けてもそこに救いがない事だけは幼いながらも分かっていたから。だから歩き続けたのだ。

 そうして歩く内に、鐘が鳴った。

 雨の神に祈りを捧げる時間だ。雨が降っていると、寒くて冷たい。だからこの雨を止めたくて、私も祈る為に教会へと向かった。どうか、雨よ止んでくれ、と。

 雨に濡れた裸足で教会に踏み入った少女を、大人達は歓迎せずに怪訝な面持ちで見ていた。すると、人の間を割って一人の男が歩み寄って来た。この教会の神父らしい。彼は私に聞いた。


「君の親御さんは?」


 居ない、と首を振ると、神父は私を手招いた。私がその後を付いて行くと、私に神父はガラス瓶を手渡した。


「飲んでご覧」


 その中には、紅い一雫の液体が入っていた。私はガラス瓶をひっくり返す。瓶底に張り付いていた紅色が、私の舌の上に滑り落ちる。そして………。


「ぁ、あぁぁあああぁぁぁぁぁああああぁ!!」


 鈍さと鋭さを伴った痛みが舌を灼いた。脳が揺らぐ様なその感覚に耐え切れない私は、絶叫した。吐き出したくても、既にそれは身体の中に入り込んでしまっている。

 一滴のそれは少女の身体の中でのたくる蛇の様に暴れ回り、人体を致命的に掻き乱す。何が起きたのかも分からずに、床を転げ回った。


「はぁ………はぁ……」


 荒い息を吐きながら、少女は教会の床に伏した。手放したガラス瓶が床に落ちて割れている。しかし、胸に抱いた母の傘だけは、まだ掌の中にあった。


『フレイリア、あなたがもっと大きくなったらこの傘をあげる』


 そう微笑んだ母の顔は、記憶の中で優しく残っている。それは確か、私がこの傘を欲しいとせがんだ時の事だ。母はこの傘を大層気に入っていたのだが、私はそれが欲しいと我儘を言った。

 そんな私を、母は優しく宥めたのだ。この傘は、遺された母の愛だ。それを手放したくなかった。無意識に、その傘を縋る様に抱いていた。

 そうして、唇を噛みながら痛みに耐えているといつしかその痛みは薄れていく。それも完全に消え去る程ではないが、立って喋る事ができる様にはなった。


「…………素晴らしい!」


 そんな私を見て、神父は手を叩いて讃えた。その瞳には歓喜が溢れている。私が神父を睨み付けると、彼は狂気じみた笑顔に似合わぬ慈悲に満ちた声で、言った。


「あなたは、この世界を救える。雨の神の血があなたを認めたのです」


 その言葉は。


「あなたは人々の希望となるのです。化け物に攫われる子らを救う事ができるのです」


 私にとっても、希望に思えた。

 嬉々として語る神父。その言葉に私は、耳を傾けてしまった。私のような親や家族を失う者を、私の力があれば減らせる。私は抗う力を与えられたのだ。そう思えば、私に苦しみを味わせた神父にさえ恩を感じた。

 私は私を救える。母の仇に報いる事ができる。それが心底嬉しかったのだ。そして、いつか。

 …………この傘を持って、雨の降る化け物の居ない街を歩きたい。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「元々、雨が好きだったのよ。私の故郷はこの国の端にあって、その時はまだ化け物が出ることもないし雨がずっと降っていた訳じゃなかったから」


 そう言って、少女……フレイリアは傘の柄にそっと触れた。


「雨の日は、時々お母さんに隠れてこの傘を差したの。それが楽しくて。………気付かれていなかった訳じゃ、ないと思うけれど」


 フレイリアのその話にコルリオは何も返せず、ただ静かに聞き続けるのみだった。


「駄目ね、私」


 そう言って彼女はポケットから何かを取り出す。それは丁寧に折り畳まれた新聞記事……幾つかの折り目が重なるそれは、先程コルリオが紙飛行機にした物だ。


「それ」


 息が詰まった。面倒などと言わず、拾っておけば良かったと後悔するコルリオに、フレイリアは苦笑する。


「あなたは優しいのね。これを読んでも私に同情してくれる」


「………悪いのは君じゃない」


「優しさは有難いけど、それは違うわ」


 フレイリアの言葉に、碌な言葉も思い浮かばずコルリオはただ否定をする。しかし、そんな生半可な言葉では慰めにもならない。フレイリアは新聞記事を広げ、再び読み直しながら言った。


「…………私、救えなかったんだもの」


 フレイリアは、泣いていた。


「私は全員を助けるって誓ったの。なのに六人も犠牲になったのよ。………全部、私が悪いの」


 その言葉に、コルリオは何も言えなかった。本来それは彼女が背負うべき十字架ではないと、そう思うのにどうやってそれを伝えれば良いのかが分からない。そんなコルリオにフレイリアは優しく微笑んだ。


「聞いてくれてありがとう、吐き出したら少し楽になったわ」


 ミルクとパン、ご馳走さま。

 そう言って、彼女は立ち上がる。それから、フレイリアは金貨十二枚をコルリオに手渡した。


「え……?こんなに貰う程じゃ」

「ううん、受け取って。きっとその腕も、私が守れなかったんだろうから」

「でも……」


 と、代金を受け取って困惑するコルリオ。その目の前から、既に彼女の姿は消えていた。コルリオは右の掌から溢れそうになっている金貨を慌てて左腕の袖で支える。

 フレイリアが言ったのは、きっとこの左腕の事だろう。コルリオの左腕は、関節から先が存在していない。しかし、この腕がないのは決して彼女の責任ではないのだ。


 彼女が謝る必要は無い。寧ろ……。


 謝るとすれば、こちらの方だ。


 …………カランカランと、涼やかなベルの音が響く。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 強引な踏み込みで懐に入り、傘を斜め上に切り上げる。

 いつも通りに目に入った化け物を斬り、フレイリアは次の地区に移動しようとしていた。だが、そこには……。


「あ」



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ということなのだけれど、あなたは猫って大丈夫?」

「…………猫かぁ」


 道端で凍えていた猫。放っておけば化け物に連れて行かれてしまうかも知れないし、そうでなくても雨が降っているのだからいつまでも雨の下に居させては死んでしまうだろう、と思ったはいいものの、フレイリアには家がない。

 基本的には宿に泊まりながら地区を移動して化け物を倒して行くので、猫の世話をするのは難しい。なので他の誰かに猫を飼ってもらうしかないのだが、フレイリアにはそれを呼びかけられる程の知り合いが居なかった。

 そこで捻り出した末に思い浮かんだのが、コルリオだったのだ。この間迷惑をかけたばかりで申し訳ないが、人命ならぬ猫命がかかっている。多少迷惑がられても押し通すしかない。

 だが、コルリオの反応は芳しくなかった。


「う〜ん、猫なぁ……」

「苦手なの?」

「苦手っていうか、昔飼ってたペットに全く懐かれなかった挙句結構な怪我させられてその上脱走されたからちょっとペットは……」

「アレルギーでもない限りしつこく推そうと思っていたけれどそこまで壮絶な理由は予想外だったわ」


 どうしたものか、と思い悩むフレイリアに、コルリオは苦笑いで言った。


「俺は無理だけど、店に来る客に勧めてみるよ。もしかしたら誰かが飼ってくれるかも知れないし」


 その言葉に、フレイリアはパッと顔色を明るくした。


「ありがとう」


 その笑顔に釣られてコルリオも微笑んだ。それから……。


「今日はもう宿に帰るわ。今度また来る」

「あ、いや送る」


 じゃあね、と手を振ろうとしたフレイリア。その言葉に慌ててコルリオは立ち上がった。彼女の傘は開けないのだ。もう今日は戦う訳でもないのに、彼女は雨に降られて帰るのだと思うといたたまれない。

 と、コルリオは軒先で黒い傘を開いた。これも店の倉庫から引っ張り出して来た物で、二人くらいなら余裕を残して入れるだろう。


「入って」

「……いいの?」

「逆に入ってもらえなきゃ送る意味無いし側から見ると子供ずぶ濡れにしてる最低野郎になるから」


 流石に児童虐待で捕まりたくはない。そうなるといつかの国外逃亡作戦が現実味を帯びてくる。是非実行したくないので、入って欲しい。と、視線で訴えるとフレイリアは落ち着かない様子でコルリオの隣に立った。

 ゆっくりと歩き出す。

 時々彼女が遅れて濡れてはいないかを確認しながら、宿へ向かう道を進んで行く。暫くの間は二人共黙っていた。


「考えたんだけど」


 と、コルリオが沈黙を裂いた。フレイリアは何も言わず、こちらを向く。コルリオはフレイリアの持った水色の傘を指差した。


「やっぱり、それ。錆を落として綺麗にした方が良いと思うんだ」

「…………どうして?」


 その疑問に対する答えは、予め用意していた。


「君の夢なんだろ。叶える準備はしておいた方が良い」


 何事も、万全の準備をすることが肝心だ。それは国外逃亡にしても、夢を叶えるにしても。と、言うとフレイリアは掠れた声で笑った。


「そんなこと、やったって無駄よ。化け物はずっとこの国から生まれ続ける。私が好きになった雨は、もうないの」


 だから………と続けようとするフレイリアに、コルリオは一片の迷いもない確信を持った声で言った。


「止むよ」

「…………」

「絶対に、雨は止む。止ませてみせる」

「………………」


 フレイリアは何事かを言おうと口を開いたが、思い直して口を閉ざした。俯くフレイリア。コルリオもまた、何も言わない。そうして宿に着くまでの間、また沈黙が広がる。

 …………最後にフレイリアは振り返り、泣きそうな様な、笑った様な顔で言った。


「期待、してるわ」


 それは単なる社交辞令なのか、彼女なりにコルリオの何かを感じ取ったのか、欠片の期待だけを言葉にしたのか。彼女の真意は読み取れない。

 読み取ろうと試みたが、感情が複雑に入り混じり過ぎていて理解ができなかった。


「明日、店に来てくれ。そしたら傘を直す!」


 と、少女の後ろ姿に叫んだ。その声が届いたかは分からないが、届いたと思うことにする。きっと、彼女は明日店に来る。

 だって彼女は、夢を諦めてなどいないのだから。

 コルリオは踵を返し、店への帰路を進む。雨脚が強くなって来た様に感じる。できればこれ以上酷くなる前に店に帰りたいものだ……。と考えていたコルリオの耳に、一際大きな水音が聞こえた。


「—————!」


 水面が膨れ上がる。ごぼごぼと音を立てて液体が渦巻き、人の形を描いた。


 …………化け物だ。


 コルリオは額に汗を掻く。慌てて周囲を見渡した。ここは大通り、逃げ込める様な細い路地は無い。近くに駆け込める店もなく、コルリオの周りには取り囲む様に三体の怪物が居る。だがしかし……。周囲に、人影はない。

 化け物の低い唸り声は、水面を不気味に振動させる。周囲に人の気配はない。そして化け物は……。












「煩い」


 コルリオの言葉を引き金に、不可視の力の干渉を受けて爆ぜた。

 水に還すのではなく、霧散させる完全な存在の抹消。それは雨の使徒であるフレイリアの攻撃とは比較にならぬ破壊力を以って行われた。

 コルリオは不機嫌な顔でこの場に居ない誰かに語り掛ける。

「………言った筈だ。もう許してやる、って」

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