自由主義批判
まず、ここで言う『自由主義者』とは資本主義政権を打倒撃滅しようともせずに『自由』を主張する者を指す。
自由主義は素晴らしい。自分の時間を好きに使うことができる。自分の言論や思想は勿論、全ての自己利益を享受できる。
本当にそうだろうか
私は断じて違うと言い切れる。自由を確保するには他者を犠牲にせねばならない。とりわけ資本主義政権下での自由は他労働者が築いた自由である。すなわち”自由のための”犠牲者が発生してしまう。
利害の一致した自由は未だ存在しない。なぜなら資本家が政権を握っているからであり、自由を享受するには資本家から自由を勝ち取る必要があるからだ。自由主義者は自由をあたかもユートピアだと曰うが、背景を考慮せずに自己利益に奔走する様は資本家と似ているものがある。未だに社会主義国が人民を平等に、平和にできないように。その先にある自由など絶対的に達成されない。つまり、自由を叫びたければ今束縛されて急進運動やその資金のために賃労働をするのは残念ながら逃れられないことだ。
また自由主義者はプチブルジョアジー的性格を持っており、自由のためならば反動的にさえなり得る。自己利益、、自分の地位を〝自由の名の下に”存立させたいという願望はマルクスの言う
『没落から避けるためにプロレタリアートに組する行商人』
と全く同じだ。
自由のためには犠牲がいる。理由は資本主義政権、資本主義経済が世界を支配しているからだ。自由を唱える前に自由になるための平等、公平を創らねばならない。つまり、完全な自由を確保するには自由主義の前に立ち塞がる資本主義を打倒する解放運動が第一歩として必要不可欠だ。
現段階で「自由になりたい」という願望は、理解はしてもリアリズム的視点から同意できない。なぜなら資本主義経済下での自由は利己主義的性格が強いからだ。解放運動に邁進されたし。
粛清派で革命家をお待ちしている。条件はない。我こそはと蹶起せよ。Twitter DMにて連絡されたし