マッチョなハスキー警部と気まぐれポメラニアンは幼馴染3
小宮は脱衣所で服を脱ぐ。ワイシャツを脱いだ後上半身裸で彼は両腕を上げて伸びをする。ストンと腕を下すと同時にバサッとグレーと白い毛並みが胸部・腹部・背中に現れた。パンパンに膨れていた胸も一回り程縮む。それでも二足歩行姿の犬としてはかなり筋肉がついている。だがそのラインはシベリアンハスキー犬らしい毛並みに戻った今では分かりにくい。
かけ湯をしてから小宮は浴槽に浸かる。
オレンジ色の細くて長い毛が、水面の引っ搔き傷のように浮かんでいる。一応出る時に浴室内はシャワーで流したのだろう、床や壁には毛はついていない。今度風呂洗う時は排水溝もしっかり洗わないといけないなと小宮は考えた。
湯気に包まれた空間で、小宮は回想した。
◇◆◇◆◇◆
小宮がこども園で暮らすようになったのは、親が生前親権放棄をしたからではない。生後強制的に親権が消滅した為だ。つまり国家公務員である子ども課職員が、この親は小宮を育てられないと判断したのだ。小宮の親は彼に暴力を振るい、健康管理も疎かにしていた。定期健診履歴が無いことで、子ども課職員が調査し、彼と親を引き離す流れになったのだ。
幼い小宮は、暴力をするかしないか以外の接触方法を知らなかった。保護しようとする動物皆々にひどく抵抗するので、担当の保育士も医師も根気良く彼と向き合った。
身体が回復してからは、社会性の習得を目指し、子ども園の子ども達と過ごす練習を少しずつ始めた。しかし程なくして小宮は、鹿の女の子に嚙みついて怪我をさせてしまった。
肉食動物が草食動物を怪我させることは、年齢関係なく大問題である。小宮と担当保育士は警察から厳重な注意を受けた。本来なら怪我をさせた小宮が転園するのがルールだが、小宮のこれまでの養育環境が考慮され、女の子が転園になった。大人達はそれが最善だと判断した。
しかし子どもにとっては違った。子ども達は小宮のせいで女の子がいなくなったと思い、彼に冷たい視線を浴びせた。小宮の居場所は無くなってしまったのだった。
幼い小宮はずっと一人で過ごすようになった。子ども達も彼から距離を取った。
やがて、小宮が学校生活を過ごせるようになる為に、保育士や医師が「再発防止に努めながら、少しずつ動物達と交流すること」を彼に提案した。
ところがそれは小宮には難しかった。シベリアンハスキー犬特有の鋭い顔つきとがっしりした体格が、中型以下の動物から敬遠されてしまった。
そこで彼は大型動物や肉食動物達との交流を図ってみた。大型動物が多く所属する運動クラブに加入すると、今度は圧倒的な体格差に困惑した。それでも彼は懸命にクラブを続けた。少なくともクラブメイトは彼を恐れてはいない。小宮は二足歩行姿の背丈を伸ばしたり筋肉をつけたりして、彼らと対等に近付けるように努力を続けた。その甲斐あって、小宮は野球のレギュラー選手になれた。ようやく仲間が出来たように思えた。一方でちょっとの躓きで失ってしまいそうな不安が常に付きまとっていた。
小宮が大輔と会ったのは、丁度その頃だった。
◇◆◇◆◇◆
放課後、小宮がこども園に戻ると、玄関で異臭がして咳込んだ。ロビーには見かけない長毛の雄小型犬の子どもがいた。犬種もはっきり分からなかった。それくらい、彼の毛並みは汚くべったり身体にくっつき、ところどころ禿が出来ていた。
小宮は突然吐き気がして部屋に戻った。当時小宮は一人で寝室を使っていた。就寝前後が一番本能的になり危険とされている。警察の指導もあり、中・小型動物専門こども園では、彼は誰かと同室させてもらえなかったのだ。
何故小宮は苦しくなったのか分からなかった。あの犬を見た瞬間、痛みや痒さや空腹や喉の渇きが蘇ったようだ。小宮は必至で気持ちを落ち着かせようと試みた。
数日後、食堂に小型犬の男の子が現れた。フワフワのオレンジ色の毛並み。ポメラニアンだと小宮は分かった。保育士が新しい家族だと紹介した。クルンと愛らしい瞳に潤んだ鼻先。「大輔です。皆、よろしく!」と明るく隅々まで行き渡る声。子ども達はすぐに歓迎モードになった。
大輔は保育士と同じ席で素早く食事を済ませた後、食事中の子ども達の席を順番に回り、挨拶を始めた。小宮は一番奥の端の席で一人で食べていた。大輔と子ども達の声が段々近くなってきた。頭の中で「話しかけてきたらどうしよう」と「話しかけてもらえなかったらどうしよう」を交互に行き交っていた。
「いいよ、声かけなくても……」アナグマの少年が小声で言った。小宮にしっかり届いている。
「何でだよ。家族だろ? 一度くらいは挨拶しとくさ」
小宮の心臓は高鳴った。小宮の隣の椅子に、小さな大輔がぴょんと乗った。
「大輔だ。よろしく。週明けから学校にも通うよ」
彼と目が合った瞬間、小宮は先日の汚い子犬が彼だと悟った。異臭もすっかり消えており気付かなかった。
「俺、アンタのこと見たことある。俺が園に来た日にロビーにいただろ。走って逃げたよな。臭かったのは自覚してるから、悪かったな」
小宮は顔をそらした。恥ずかしさでいっぱいだった。他の子ども達が近くにいなかったことが救いだった。
「こっちこそごめん……」小宮はぼそぼそと返した。
◇◆◇◆◇◆
食堂を出るとすぐに担当の保育士から、事務室に呼び出された。担当保育士と医師は彼に、大輔と同室になる旨を伝えた。小宮は驚いた。子ども園に来てから、誰かと同じ部屋で寝る経験をしたことがなかったからだ。
「彼は元々こども園で暮らすはずが、生前親権放棄した親が彼を無断で園から連れ出したんだ。生みの親でも親権復活していなければ誘拐だ。彼はずっと親の身勝手で逃亡生活をしていた。ようやく警察が親を逮捕し、彼は保護された。衰弱が酷くて、すぐに身体を洗うことも出来なかったんだ」
保育士いわく、この話は大輔が小宮に伝えても良いと言われたことらしい。部屋に戻る前に医師は「君のことを話すかどうかは、君が決めなさい」と言った。
部屋に戻り、ボーっとする頭を切り替える為、小宮は宿題を始めた。机に集中して向かっていると、ノック音がして、職員と大輔が入室した。
「結構広いね! 俺もこの部屋を使うんだ、よろしく」
大輔は明るい声で言った。
小宮は彼の一挙一動が気になり、ぎこちなく過ごした。一方、大輔は来たばかりとは思えない程リラックスした様子で寝転びながら漫画を読んでいた。
入浴の順番が来て、2人は黙ったまま浴場に向かう。同じタイミングで出るのが嫌で、小宮はいつもより長湯した。大輔はシャワーでサッと毛並みを流しただけで脱衣場に戻って行った。
小宮が寝室に戻ると、大輔は就寝スペースのシーツを整え、4個あるクッションをスペース外に出していた。
「小宮はいつもどれを使っているんだ?
俺は1個あれば充分だし、先に選んでくれよ」
小宮は先手を取られたという気持ちになったが、かと言って自分がこのように気を回すことも出来ないだろうから有難いという気持ちにもなった。
いつも使っている2個を指差すと、大輔は残り1個を持って就寝スペースに寝転んだ。
「もう、電気消してくれよな」
就寝スペースとは、マットの上にシーツを敷き、枕代わりのクッションを並べたものだ。広さは畳半畳程で、小宮と大輔が本来の四足歩行姿に戻れば、隙間を作った上で休める。
小宮は壁のスイッチを押して消灯し、マットの空いている場所に横になり身体を丸めた。
不思議な感覚だった。今までずっと1人だったこの部屋に自分以外の匂いと存在がある。それは決して自分を脅かさないものだった。大輔は自分を殴らないし怒鳴らない。そんな存在とこのように夜一緒にいられることが、小宮の胸をいっぱいにした。
いつも使っているクッションも、何だかいつもより暖かい気がする。そんなことを考えていると、ふと小宮の頭の中に「昔は違った」という考えが浮かんだ。
「ウウッ」
無意識に声が漏れた。子ども園に来て大分経つのに、時々思い出して苦しくなることがある。小宮は先日大輔を見て感じた吐き気もこれが原因だと悟った。
糞尿に汚れたタオルにくるまって必死で眠ろうとしていたあの頃の匂いと感覚が望んでもいないのに湧き上がってくる。
「大丈夫か?」
声が降ってきて、小宮は身体を起こし身構えた。尻尾と髭を逆立て、唸り声をあげる。昔の彼にとって、不意に声をかけられるとは、暴力を受ける始めと同義だった。
「落ち着けよ。俺は何もしないよ」
大輔の声は、弾むような声から、優しく落ち着いたものになっていた。小宮は我に返り「ごめん」と謝る。
「謝らなくていいよ」
大輔はそれだけ言って再び横になった。
小宮も深呼吸し、身体を丸める。目を閉じて眠ろうとした時に、足元に触れる感覚があった。大輔の尻尾だった。フワフワで軽くて柔らかい。くすぐったくて身体をずらそうと考えたがそうしない自分がいた。
くすぐったさの中から込み上げてくるような心地の良さが、小宮の感情を不思議な場所へ誘うようだった。少年だった頃の小宮が初めて知った穏やかさだった。彼は今までで一番ぐっすり眠れたような気がした。