堕天使と阿修羅
興福寺の国宝・阿修羅像は、われわれに色んな事を問いかけて来るような気がします。
これは、その阿修羅像からインスパイアされた物語です。
これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な空間へと入って行くのです。
堕天使と阿修羅が、煉獄で出会った。
堕天使は、黒い翼を持った美青年だった。その美貌には、どこか人の心を惑わすような、淫らで退廃的な風情があった。
阿修羅は、三つの顔と六本の腕を持つ少年だった。右の顔は、泣きべそをかいているように見えた。左の顔は、眉がつり上がり、怒りの表情をしていた。そして中央の顔は、静かな悲しみをたたえつつ、凛とした潔さを感じさせた。
堕天使の身体は、宙に少し浮かんでいた。
阿修羅は、大地をしっかりと踏みしめて歩いていた。
そこは広大な戦場だった。戦闘はすでに終わった後で、あたり一面に死体が散乱し、折り重なり、血と腐肉と硝煙の匂いが立ちこめていた。どの死体も、五体満足なものはなく、手や足がもげたもの、首だけのもの、はらわたが飛び出し、傷だらけで、ウジ虫が湧き、カラスやネズミについばまれ、半ば骨と化したもの、すでに人のかたちを失ったもの、などなどなどが、地平線の彼方まで延々と絨毯のように続いている殺戮の曠野だ。
「ひどいよひどいよ」阿修羅の右の顔が涙を流した。
「どいつもこいつも愚か者ばかりだ」左の顔が吐き捨てるように言った。
真ん中の顔は、瞑目し、胸の前で手を合わせた。
「やめろやめろ、辛気くさい!」と堕天使が言った。「こんな殺風景なところはさっさと通り過ぎて、街へ行こうぜ。酒池肉林の快楽の都へ!」
「行きたければ、あなたがお一人で行けば良いでしょう」と阿修羅の真ん中の顔が答えた。「一人より二人の方が楽しいぜ。だから誘ってんだ。それともおまえは三人なのか? どっちだっていいや。街へ行けば人気者になれるぜ。おまえのような美少年に、甘い言葉でもかけられたら、女どもはメロメロさ。人の心を弄ぶのは面白いぞ、相棒」
「あなたに相棒などど呼ばれる筋合いはありません!」
「そんなつれないこと言うなよ。知ってるんだぜ、今はそんな殊勝なツラしてるけどな、おまえはもともと戦さの神だったんだ。この死屍累々の曠野も、もとはと言えばおまえが起こした戦さの結果出来たもんじゃないのか? オレは快楽で人の魂を堕落させるが、果たしてどっちが罪深いのかね?」
阿修羅の三つの顔は、それぞれ何か言おうとして、しかし言葉が出なかった。
長い沈黙だった。
果てしない曠野を黙々と歩き続けた。それは人間の時間にしたら、百年に相当する、長い長い道のりだった。
「そのことの意味を、今も考えているのです」
立ち止まって、やっと真ん中の顔が答えたところは、やっと曠野が尽きたところだった。
「無駄だ無駄だそんなこと!」さっきまで姿が見えなかった堕天使が、ふいに現れて言った。「生きものってのはな、殺し合い、喰い合うように出来てるんだよ。直接殺し合わなくてもな、誰かが生きているってことは、その蔭で死んでいく者がいるってことだ。そもそも遺伝子ってやつが、おのれの遺伝情報を残すために他の存在を蹴落とし、殺し尽くすように出来てるんだからな。生命の誕生そのものが大量殺戮のはじまりでもあり、生きることそのものが他者を殺すことでもあるのさ。そのことを考えたって、何も出て来やしないぜ。そんなことより、快楽に溺れた方が、ずっと幸せってもんだ。いいか、これは救いでもあるんだぜ。神が見捨てた者どもを、オレは救ってやってるんだ」
「しかし」と、毅然とした口調で阿修羅が答えた。「私は慈悲という言葉の意味を考えていたのです。情けとか憐れみというと、どうしても上からの物腰になります。そうではなくて、悲しみのずっと底の底まで降りて行って、その悲しみを慈しむように受け止めてあげたいと思うのです。たとえそれが、無意味な行為だとしても、です」
左右の顔も、深く同意するようにうなずいた。
「そこまで言うんなら勝手にしな。だけど、オレのことを思い出したら、いつでも呼んでくれよな。相棒」
「あなた様もお達者で」
阿修羅は合掌して、深く頭を下げた。
そうして二人は、天国への階段の前で別れ、それぞれの道へと歩いて行った。
了
人類は何故、愚かな戦争をやめられないのでしょう?
人はどうして、殺し合い傷つけ合わなければ生きて行けないのしょう?
心の中の阿修羅とともに、考え続けて行きたいと思います。
それではまたお逢いしましょう。
★この作品は、二〇一八年に『SF詩群 評論と実作』(天瀬裕康編著、短詩型SFの会)に発表したものです。