傷心の君の自暴自棄
目を開けたくない。
意識を取り戻したときに最初に思ったのはそれだった。もうこれ以上何も見たくない。
最初に聞こえたのは焚き火の音だった。パチパチと火花が散っている。焦げ臭さもある。いい匂いだった。
たとえどれだけ望まざるにしても、空腹は万人に訪れる。レインパースが恐る恐る目を開けると満天の星空が見えた。
「……」
覚悟を決めて身体を起こしあたりを見回すと、そこは街道のままだった。傭兵に襲われて、御者が馬車を横転させた街道。馬車の近くでフードの人が火を焚いている。
当然のように死体はそのままだった。御者の身体と首。エリファさんの身体と首。もう一つ、遠くの方にも倒れた人影が見える。
レインパースはもう何も感じなかった。涙が枯れたのかもしれない。胸が締め付けられるだけで、頭の奥底は冷静だった。きっと瞳は色を失っている。そう思った。
物音にフードの人が振り向いた。顔は伺えない。
「……食べるか」
抑揚のない声だったが、それは問いかけだった。フードの人は言葉とともに焼いた干し肉を差し出した。
レインパースは嫌だ嫌だと思いながらも、反射的に御者の方を見てしまった。丈夫な探索着の胴体。無精髭を生やした首。
「……これ」
干し肉なんていう下準備の必要なものを、フードの人が都合よく持っているとは思わなかった。
「……ああ。御者夫婦のものだ。彼らのバックパックを漁ったら出てきた」
レインパースは苦々しく表情を歪めながらも受け取った。もうその辺りの倫理観は崩壊していた。死者の遺品を漁った冒涜者にも、何も忌避の感情は湧かなかった。
「僕たちはインヴァネスまでの旅を金で買った。だからこの干し肉も、ほとんど僕たちのものみたいなものだ」
レインパースは黙って食べていたが、罪悪感を感じているとでも思ったのか、フードの人はそう言った。男にしては高く、女にしては低い声だった。
「そう」とレインパースは無感動に干し肉を貪った。
焚き火だけが、暖かく二人を包み込む。
「馬は乗れるか」
フードの人の抑揚のない言葉は、やはり問いかけだった。
レインパースはしばらくしてから応えた。
「乗れる」
「そうか。僕は乗れない。馬車は引けるか」
レインパースはしばらく思案してから言った。
「わからない。やったことがないから」
「そうか。もしできそうになかったら、僕を置いて君だけで一人最寄りの街に行ってもいい。もう僕と同行する理由もないだろうし。僕は戦えるが、それだけだ」
「……あなたもインヴァネスに向かうの?」
フードの人はバックパックから新たな干し肉を取り出して串にくくりつけた。それを焚き火に翳して焼く。
「そんなところ。会いたい人がいるんだ。ここらの地理には詳しい?」
「地図でみたことがあるだけ。多分さっきの森が『サザン高地』で、ここから一番近い街は『グラスゴー』。街道を真っ直ぐ行けば着くと思う」
「そう。じゃあ明日の朝出発しよう」
「あの人はだれ?」
レインパースは遠くに見える人影を指差して言った。
フードの人は言った。
「傭兵たちの隊長だった男だ」
「……そ」
きっとフードの人が殺したのだろうと思った。
二人は寝支度をして馬車の中で眠った。テントやなんかもあったが、組み立て方がわからなかったらしい。幸い毛布が二人を温めてくれた。
二人は朝早く起き出した。レインパースは馬車を引けなかったが、少し教えただけでフードの人は操馬を覚えた。適当にエリファさんと御者を弔って、傭兵隊長の死体は捨て置いて、グラスゴーへ向かった。
○
グラスゴーは賑やかな都市だった。首都ではないがスコットランド第一位の都市なだけある。活気だけみればロンドンに勝っているかもしれない。
だがその賑やかさも、今のレインパースの心を癒すには遠かった。
「インヴァネスへはどうする」
相変わらずフードの人の問いかけは分かりづらい。
正直に言えば、いちいち気を遣う彼をレインパースは鬱陶しく思っていた。できれば一人にして欲しいが、一人だときっと寂寞に押しつぶされてしまう。自分のそんな面倒な心の動きにも、今のレインパースは鬱屈を覚える。
寂しいけど一人になりたい。
一人になりたいけど寂しい。
エリファさんが生きていてくれたら。ヴァイラムが側にいてくれたら。陛下が『勇者』を召喚なんてしなければ。『勇者』がもっと穏便に話し合いで済ませてくれていたら。
『勇者』さえ、いなければ。
結局、レインパースの黒い感情はここに帰結するのだった。何度考えてもそうだ。自分が馬鹿な考えに支配されていることに気がついてレインパースは歯軋りした。
「ベン・ネビス」
そんな時、妙案がレインパースの脳裏に閃いた。
「竜が出るっていう、天国山?」
「……そう。支度を整えて『グランピアン山脈』を越えましょう。近道らしいし、もうそれでいいや」
自棄になったレインパースは気が付かなかったが、フードの奥で、そいつは笑みを噛み締めていたらしい。後になってから教えてもらった。
「いいね」
傭兵隊長の両刃の剣や御者夫婦の遺品なんかを売っ払って金を作り、その金で山越えの装備を整えた。
フードの人の要望で一日グラスゴーを観光した。
その日は宿を取って、明日の早朝出発することになった。
○
グラスゴーの酒場。若者の姿もちらちら見られるそこで一人の老人が飲んでいた。顔を赤らめてもう一杯酒を頼む。
「おーいおい、今日もよく飲むねじいさん」
「……ああ。ここは芸術の都だからな」
「……相変わらずわっかんねえなぁ」
酒場の店主は笑いながらも酒を出す。金さえ払ってくれるのならば、来るもの拒まず去るもの追わずだ。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな。じいさんがここに来てくれるようになってからもう一週間は経つだろう。おれ、常連さんの名前は覚えておきたいんだ」
ぐびっと老人は酒を呷った。しばらく考えて、それから彼はくつくつと笑いだした。
「俺かぁ? 俺の名前はな──」
ジョッキグラスがごとりと机の上に置かれた。
「──トーマス・エジソン。知らねえだろうが、俺は世界を席巻するはずだった男だよ」
冗談だと思ったのか、酒場の店主は苦笑いを返した。