スコットランドへ(2)
だんだんと馬車が速度を落とす。まだ追っ手を警戒しているのか流石に元戻りとまではいかなかったが、木箱の振動はほとんどなくなった。快適な旅になりそうなくらい。街道に出たのも大きい。
レインパースが顔を上げるとエリファさんと目が合った。しばらく見つめ合っていると自然笑みが溢れて、それからひしと抱き合った。
「やった。よかった。本当によかった……!」
エリファさんが抱擁の力を強めながら言った。レインパースもそれに応えた。
気が緩まると余裕が出てきて、周囲のことにも目が回るようになる。
「でも、本当にあのフードの人はどこに行ったのかしら」
「あの人が追っ払ってくれたのかも」
「まさかね」と笑ってエリファさんはが木箱から顔を出して御者台の様子を見ようとする。レインパースは気を遣って端に寄った。夫婦水入らずで安堵を分かち合いたいのだろうと思った。
レインパースは気が抜けて呑気に笑っていた。
外でどんな剣呑なことが起こっているとも知らずに。
「やめろエリファ、顔を出すな!」
御者。粗暴な男の叫び声が聞こえた。切羽詰まった声だった。
「……え?」
エリファさんは信頼しているのだろう、とりあえず迅速に夫の指示に従った。
次の瞬間だった。
ぶん、と剣が素通りした。つい先ほどまでエリファさんが顔を出していたところを。
「……え?」
「ちぃっ、お前らちょっと我慢しろよ!」
御者の叫び声と、馬を強く鞭打つ音が聞こえた。同時に馬車の速度が上昇する。森を抜けて整備された街道に出たと言っても、これだけ速度を上げれば相当揺れる。
困惑する乗客に御者は大声で説明した。
「傭兵どもが裏切った! てめぇら木箱の端には座るなよ、外から剣で刺されるぞ!」
「え?」
ぱしんぱしんと鞭打ちの音。何度も何度も。
レインパースは呆然としていた。エリファさんが必死の形相で手を取ってレインパースを木箱の中央に手繰り寄せた。
同時に、左右から剣が差し込まれる。そこには明確な殺意が見えた。
「ちいっ!」
御者の男の舌打ちが聞こえた。その直後だった。
「うわわわわ!」
「ぐうっ!」
木箱の中で天地がひっくり返った。
荒波に流されるように、レインパースとエリファさんは抱き合ったまま木箱の中を転がる。右に左に上に下に、ごろごろと。全身打撲で済めば儲けものなくらい。
馬車が横転させられたのだろうか? いや、きっと御者がわざと横転させたのだ。
その証拠に、木の板一枚を隔てた向こう側で、傭兵の一人のうめき声が聞こえた。木箱の下敷きになっているのだ。
「踏み潰せ!」
御者の指示にレインパースとエリファさんは過不足なく従った。ちょうどうめき声が聞こえるあたりを二人で何度も何度も、押し潰すつもりで踏みつけ続けた。
「よし、あとは馬に乗って逃げ──」
御者の言葉は、途中で途切れた。
なるほど傭兵の一人は木箱に押しつぶされて身動きが取れないでいるだろう。御者の機転によって、歴戦の傭兵の一人は拘束できたのだろう。
先ほど剣は左右から差し込まれた。
傭兵はもう一人、いるはずだった。
「あ……」
恐る恐る外を覗いたエリファさんが呆然と自失の呟きを漏らした。
「出てこい」
低い声が響いた。きっと地獄の閻魔大王でもそんな声は出さない。その声は怒りと──責務に彩られていた。
レインパースとエリファさんは従った。従うしかなかった。従っても殺されるだろうが、従わなくても殺される。諦観の従順だった。
「……っ」
外に出た瞬間から、レインパースは必死で嘔吐を堪えなければならなくなった。血、血、血。見飽きたと思っていたそれは、確かな鮮烈さを以ってレインパースの三半規管を揺さぶった。
御者の首が飛んでいた。
胴体は力なく地に打ち捨てられている。出血は斬られた首からだろう、その周りだけまるで血の池だった。
そして、その少し離れた右側に粗暴な顔がある。白髪の生え始めたぎざぎざ髪に無精髭。よく見ると不細工ではなかった。灰色のベレー帽は、さらにその右隣で血に染まっていた。
今吐いたらエリファさんを傷付けてしまう。
エリファさんはわなわなと震えていた。瞳の奥に光はなく、きっと自分が涙を流していることにも気付いていない。
傭兵は一人だった。最初は三人いたはずだが、一人は木箱の下敷きになっている。もう一人は賊の迎撃から帰っていないのだろうか。
傭兵たちのリーダー、隊長だった男だ。ハンサムな男は二人が木箱から出たのを確認すると、急いで木箱を動かしにかかった。すごい力だった。一人で巨大な木箱を持ち上げるなんて。
「……」
男は何も言わなかった。レインパースはちらりと木箱の下を見た。木箱の下敷きになった傭兵を。
「おえっ……」
そこで耐え切れなくなってレインパースは吐いた。死んでいた。傭兵も死んでいた。それもレインパースらが殺したのだ。木箱の下敷きになった彼に、木箱越しに、思い切り体重を乗せた。
圧死体というのは、想像以上にグロテスクなものだった。まろび出ている臓物もある。服はどこから出血したのだろう、真っ赤に染まっていた。傭兵たちが皆来ていた迷彩柄の統一服。
「ラミー……」
傭兵たちの隊長は一言呟いただけだった。
レインパースはチャンスだと思った。エリファさんの袖を引いて逃げようとした。吐瀉物で苦々しい口内を意思の力で無視して、馬車を引いていた馬を使って。
「エリファ、さん……?」
でもエリファさんが動こうとしなかった。彼女は呆然と、亡き夫の姿を眺めている。深遠な瞳の奥で彼女が何を考えているのか、レインパースには痛いほどよくわかった。身を切るような喪失の絶望だ。
それで、レインパースも逃亡を諦めた。
「逃げようとは思うな」
傭兵隊長も心に整理をつけたのか、木箱を横に退けて二人に向き直った。右腕に握る剣、そこにこびりついた血痕が痛々しかった。
「名乗れ。命だけは助けてやれるかもしれない」
レインパースはエリファさんを見た。彼女が指示に従う様子はない。どころか傭兵の方を見もしない。ずっと黙って御者の死体を眺めている。
だからレインパースが名乗った。せめて2人だけででも生きて帰ろうと思って。
「……レインパース・レイピア、です……」
「そうか」
傭兵は頷いてこちらに歩いてきた。
そして、呆然と佇むエリファさんの首を斬り落とした。
最後まで、彼女は御者の死体に心を奪われていた。
「……え?」
残されたレインパースのことなど歯牙にもかけず。
「俺たちが依頼されたのはレインパースという令嬢の捕縛だけだ。どちらがどちらか分からなかったが、尋問の手間が省けた」
傭兵の言葉はレインパースの耳に入らなかった。
「あああああ!!」
きっと絶望の許容量を超えたのだろう。
宙を舞うエリファさんの首と目が合って、レインパースは気を失った。