スコットランドへ(1)
馬車の中。しばらく口をハンカチで押さえて無理矢理に声を押し殺していると、いつのまにか涙は止まっていた。
涙が止まれば気分も落ち着いた。気を抜けば今にも弛みそうだった涙腺が堤防を取り戻す。
そうして初めて、周囲に気を向けることができた。乗客はレインパースを含めて三人。フードを被った男? と落ち着いた物腰の淑女。
レインパースと目が合うと淑女さんはにこりと笑ってくれた。太ももの上に手を重ねて置く正座姿はまさしく清廉。揺れる車内でも背筋はピンと張ったままだった。全身を覆う尼姿からでも大きな双丘の主張が目に見えた。
「落ち着かれましたか?」
淑女さんはするりとレインパースの隣に座った。他人の懐に潜り込むのが上手なのかレインパースが傷心中だからか、さして不快感はなかった。
レインパースは赤く腫れた目元をさすった。
「……はい。お見苦しいところをすみません」
「いえいえ。失礼かもしれませんが、あなたくらい綺麗だと泣き姿も絵になりますもの」
「そんな……」
ごとりと馬車が大きく揺れた。きゃあ、と悲鳴を上げて体勢を崩したレインパースを淑女さんが優しく抱き止めてくれた。レインパースは赤面しながらお礼を言う。
「スコットランドへは何をしに?」
レインパースは言葉に詰まった。咄嗟に言い訳を思いつけるほど冷静な頭をしていなかったし、『逃亡者』という響きが胸の奥を締め付けてくる。
「ごめんなさい。無遠慮だったわね」
レインパースの様子を見てすぐに謝るのは流石の淑女であった。言いたくなければ言わなくてもいいと。
申し訳なくなってレインパースは会話を続けることにした。このまま無言が続くのも忍びない。
「あなたはどうして?」
「あらかわいい。私はね、あの人見える?」淑女さんは馬車の先頭を指差した。「あの御者台に座っている男と夫婦なの」
「……え?」
淑女さんはレインパースの間の抜けた表情を見てくすくす笑った。そんな様子も美しくて、とてもあんな粗暴な男の伴侶だとは思えない。出会ったときの態度も悪しいすぐ恫喝するしで、レインパースの御者への印象は最悪だった。
「……え、あの横暴な──ああいえ、悪く言うつもりはないんですけど……外にいる格好良い傭兵さんじゃなくて、御者さん?」
「そう。御者さん。あの無精髭生やした粗暴な男。うふふ、これを聞くとみーんな吃驚するのよ」
レインパースはそりゃそうだ、と思った。容姿だけみても御者の男と淑女さんとでは不釣り合い過ぎる。いわんや性格をや。
「私の仕事は彼のお手伝いね。簡単に言えば、退屈な長旅で、乗客の話し相手になってあげること!」
淑女さんは目を輝かせて言った。そんな子供のような仕草さえ愛らしく見えるのは、彼女の生来の愛嬌か清楚さとのギャップか。
「いっぱいお話しましょう!」
それからしばらく淑女さんと話した。彼女はよく笑い、よく悲しんだ。レインパースの言葉に適切な相槌を打ち、共感し、論議した。きっとその道のプロなのだろう。面倒な厄介ごとを抱えた乗客のメンタルケア。
なにはともあれ、とても居心地の良い時間だった。
イングランドを抜ける頃──つまり三日が過ぎる頃には、レインパースの心の暗い部分はすっかり無くなっていた。
○
こんこん、と前方からノックの音が聞こえた。御者の男が格子窓を上げて、目だけを覗かせて言葉を発する。
「おい、嬢ちゃん」
「は、はい……」
先ほどまで淑女さんと楽しく話していたのに、冷たい視線を向けられてレインパースは狼狽した。自然と背筋が伸びる。
淑女さんが御者を嗜めた。
「あなた」
「おう、わぁってるよ。それで嬢ちゃん、あんたの目的地はまだ奥だったな」
レインパースはヴァイラムの言っていたことを思い出す。
「は、はい。『トーマスさん』はインヴァネスに住んでいるらしいです」
「おう、それで相談だ」
御者の男は多分、笑った。目だけしか見えないので正確には分からないが。
「『グランピアン山脈』を真っ直ぐ進めば──つまり山脈を越えれば、近道だ。東から迂回するより四日は早くインヴァネスに辿り着くだろう。ただし──」
「そうするとフォートウィリアム──『天国山ベン・ネビス』の近くを通ることになる?」
レインパースは思い当たったことを口にした。
「──そうだ。なかなか物知りじゃねえか。その様子じゃ最近ベン・ネビスに竜が出た話も聞いてそうだな? 今朝の新聞にも載ってただろ。危険かそうじゃないかで言えば、間違いなく危険だ」
「……」
「どうするか嬢ちゃんが決めていいぜ。金は貰ってる。高い金払って傭兵を雇ったのも嬢ちゃんだ。近道がいいってんなら、俺はそれでも構わない」
ただし命の保障はしないがな、と。
自分の身も危険だろうに、ここで笑えるのが熟練の御者か。むしろ彼の言い方では危険を望んでいる節すらあった。
近道。ただし竜が出るという天国山の麓を通る。
遠回り。ただし安全に、グランピアン山脈を東から海岸沿いに迂回してインヴァネスへ。
レインパースはしばらく考えてから言った。
「……迂回、でお願いします」
もう危ないのは懲り懲りだった。それで血を見なくて済むのならば、多少到着が前後するくらい訳はない。淑女さん(エリファさんというらしい)とのお話も楽しいし。
「あいわかった。フードのお前もそれで構わないか?」
御者の言葉にフードを被った男? は黙って頷いた。それを見て御者は鼻で笑って鞭を打った。
その時だった。
外から焦ったような声が聞こえてきた。
「おいコートマン! 馬を小突け、襲撃だ!」
傭兵の声だった。今レインパースらは二頭の馬に引かれる木の馬車に乗っている。その周りをそれぞれ自分の馬に乗った三人の傭兵が囲むように守っている。ヴァイラムが凄腕のそれを用意したと言っていた。
「ああん!? てめえらの評判は聞いてるぜ、なんとかならねえのか!?」
御者の男は悪態を吐きながらも傭兵の警告に従った。急に速度を上げた木の箱にレインパースは体勢を崩して、またもエリファさんに受け止めてもらった。
傭兵は正直に心境を吐露する。
「君たちを守り切れるかはわからない! 負けはしないだろうが敵の人数が多すぎるんだ、見えるだけでも十はいる!」
「最寄りの街までは結構あるぞ! 敵は邪魔な木箱を引いてないんだろ、いつかは追い付かれる! なんとかしろっ!」
「幸いここは森の中だ! だから街から遠いんだが……開けた場所に出るまでには撒いてみせる!」
馬の蹄が地を蹴る音がした。傭兵の駆る馬だ。音はどんどんと遠ざかっていく。賊の迎撃に向かったのだろう。
続いてぱしんっ、ぱしんっと鞭打つ音が響く。また速度が上がった。乗り心地は最悪だ。木箱の中は揺れに揺れる。
「大丈夫よ」とエリファさんがレインパースを抱いた。レインパースは彼女に身体を預けて震えた。レインパースが震えているのを見てか、エリファさんは頭を撫でてもくれた。
視界の端っこで何かが動いた気がした。恐怖に震えていたレインパースはそれが何かには気が付かなかったが、しかし。
ぎゃーぎゃー騒ぎながら逃亡を続けているうちに(外の様子は詳しくはわからないが)、エリファさんが呆然と呟いた。
「……フードの人、どこに行ったのかしら?」
レインパースもエリファさんの豊満な胸の中から顔を上げた。
確かに、フードの男? の姿はどこにも見えなくなっていた。
「おいっ!」
外から傭兵の驚いたような声が聞こえてきた。御者は相変わらず馬車を走らせながら「ああんっ!?」と好戦的に応じるが、傭兵の様子はどこかおかしかった。
「違う、違うんだコートマン!」
彼はまるで狐に摘まれたような、狸に化かされたような動揺を見せて言った。
「追っ手が、いなくなってる……」