学校(1)
どれだけ悲嘆な経験をしていたとしても、レインパース・レイピアはただの少女だ。高貴の令嬢で王子の婚約者で、追放もされてという稀有な出来事を経験していたとしても、結局は。
「……うわあ」
だから、綺麗な光景には人並みに心が動くし声も出る。
湖から出るとそこはまるで絵本の中だった。
色とりどりの植物で覆われる地表。空飛ぶ大地。浮遊城。見たこともない色の蛙に艶やかな香り。振り返ればネイ湖があって、ネイ湖の真ん中にもまた大きな大きな城がある。その巨女城には橋を渡って行くらしい。でも何故だろう、橋はぼんやりしているように見えた。
そのとき、女の人が生徒を声を張り上げて集めていた。
「静寂に、静寂に! 落ち着いて。入学試験はありません。ここに辿り着けた時点で皆さんは資格を持っています。ですから黙って私の後ろに着いてくるように!」
学校だった。
呼びかけがあっても、ざわめきの全てがなくなるわけではなかった。なにせここには数百人の生徒がいるのだ。レインパースは隣、自分と同じく湖から這い出てきた勇者の方を向く。
「……すごいね」
「……ああ。あのじいさんが言ってたこと、本当っぽいな」
「確かに」
二人は茶色のローブ姿だった。周りの生徒も同じ。これが『ハイオーリテ魔法魔術学校』の制服である。男は緑、女は赤の内着。
女教師は紫のローブに紫のハットを被り、生徒が付いてきているのを確認しながら橋の前に立った。その時だ。
「すごいや、ようやく『ハイオーリテ』に来たんだ!」
「こら、待ちなさい!」
赤毛で小太り、頭に天使の輪っかのある青年が、女教師の静止も聞かずに駆け出した。我先にと城へ入らんとして、ぼんやりとしている橋を渡ろうとする。
「うわっ!」
彼の足は宙を切った。
ぽちゃん、と落水の音。周囲から笑い声が起きる。水がかかりそうになってレインパースは顔を背けた。女教師が「全くもう!」と憤慨して懐から杖を取り出した。
女教師が杖を一振りするとびしょ濡れになった赤毛の青年が湖から出てきた。まるで透明な手に摘まれているように宙に浮いて、そのまますとんと地面に降ろされた。目を丸くしている彼の姿にもう一度笑い声があった。
「通称『裸橋』。普段は渡れないようになっているので覚えておくように!」
はあいと生徒の返事を聞いて女教師は満足げに微笑んだ。橋に向かって杖を一振り。ぼんやりしていた橋の輪郭が確かなものになった。
橋が実体を得たことを証明するように女教師がまずその上に立った。それから生徒たちの方を向いて言った。
「私は一年生担当のモイナ・ベルクソン。この後は寮分けの後、歓迎のパーティがあります。明日はオリエンテーションが一日、授業は明後日から」
事務的な説明はこれで終わり。パンと手を叩いてから女教師は言った。
「まずは入学おめでとう。そしてようこそ『ハイオーリテ魔法魔術学校』へ」
たとえどれだけ心が擦り切れていても、レインパース・レイピアは年頃の少女だ。
だから、これから始まる新生活に心を躍らせていないと言えば嘘になった。
帽子を脱いでお辞儀をするモイナさんの頭には真っ白な天使の輪っかがあった。
○
二日前。レインパースと勇者、それからトーマス・エジソンの三人は馬車で移動していた。天国山から『瞬間移動』で帰還して、レインパースの回復を待ってからの行行だった。
「インヴァネスに向かっているのよね。『瞬間移動』はできないの?」
「阿呆、そうぽんぽん飛べるかいな。手のひらから火の玉を出すのとはわけが違うんじゃぞ」
レインパースは強めの語気で叱られた。どうにもトーマスさんの機嫌が悪い。手紙を渡してから数時間は経ったが、一向にそんな様子だった。
次に話しかけたのは勇者だ。
「それは構わないが、お──僕が帰る方法について詳しく──」
「ああもうお主は! さっきからそればっかりじゃないか鬱陶しい!」
トーマスさんはぴしゃりと馬の尻を鞭で叩いた。空気の悪い行行だった。勇者も勇者でフラストレーションを溜めているし、トーマスさんもこの通り。
しばらく無言の時間が流れて、ぼそりと呟くのはトーマス・エジソン。
「二つ、心当たりがある」
レインパースはトーマスさんが何を言っているのかわからなかった。
「……?」
「お主、手紙を読んでないのか。『誰の目も届かぬ場所』についてじゃ。レインパース・レイピアが絶対にロンドンの王宮に見つからない場所。二つ心当たりがある」
勇者は口を挟まなかった。レインパースは心して聞こうと思った。
「一つはワシの家。『インヴァネス』にワシと妻、それから娘の三人で暮らしている家がある。多分見つからん。というより、王宮のやつらが進んで近付きたくないのじゃろう。ヴァイラムとか言う酔狂なやつを除いてな。そしてもう一つは──」
トーマスさんは機嫌悪そうに鞭を振るった。
「──学校じゃ。魔法の基礎を学ぶだけなら多分ここの方が良い」
「学校?」レインパースは耳を疑った。「魔法を学ぶ学校があるなんて聞いたことないわ」
「じゃあ聞くが、お主はアイルランドについて何か知っておるのか?」
「当たり前じゃない。アイルランドっていうのは──」
そこでレインパースの言葉が詰まった。知っているはずだった。聞いたことがある。アイルランドはイギリスの一部で──
──いや、本当にイギリスにあるのか?
「──え?」
「ほら、知らんじゃろうが」
「待って、知ってるわ。知ってるはずなのよ。どうして思い出せないの……?」
「アイルランドは『魔法界』じゃ。『人間界』とは一部を除いて交流が断絶されとるし、魔法界の存在は人間界に伏せられとる。お主らはアイルランドについてなーんにも知らんはずじゃ。場所も地名も学校も」
トーマスさんはため息をついてレインパースらに選択を迫った。
「断絶されておるから、ワシの家より安全ではあるじゃろうよ。それでどうする。学校に通うか、通わぬか」
レインパースは馬車の揺れを感じながら勇者と目を合わせた。碧色の瞳はいつ見ても吸い込まれそうなくらいに美しい。
「……通いたい、かも」
「行きたくない」
ほとんど同時に二人は言った。レインパースは驚いたみたいだった。
「なんでよ! 魔法が学べるなんて素敵じゃない」
「それより帰る方法だ。学校とやらでちまちま学ぶより、じいさんの気が変わるのを待つ方が早い。じいさんが知ってるなら妻や娘も知ってるかもしれん」
「学校には先生がいる。先生に聞いた方が早いと思うわ」
「そいつが知っているかどうかはわからん」
「……で、でも、私は……」これを言うのは少しずるいと思ったが、レインパース。「……私はロンドンのパブリックスクールにもう通えないし」
「む……」
勇者は押し黙った。『追放』の件を言及されてしまえば彼から言葉は出ない。
趨勢は決したと思ったのかトーマスさんがパンと手を叩いた。
「……学校じゃな。ヴァイラムの手紙に身元を頼まれたのはレインパースだけじゃから、最初から勇者の意見は聞いておらんかったのじゃが」
トーマスさんが御者台から二人に手を伸ばした。困惑していると「握らんかい」と言われたので二人は恐る恐るしわくちゃの手に触れた。
瞬間、視界が光転して見知らぬ場所に立っていた。『瞬間移動』である。馬車でちまちま移動していた数時間はなんだったのか。
レインパースらはインヴァネスに到着していた。
「瞬間移動できるじゃん!」
「……だって、制服やら教科書やら揃えねばならんし」トーマスさんはここに来て重要情報を落とす。「今年の入学は明後日じゃからな」
トーマス・エジソンの邪智暴虐に、レインパースはもう声も出なかった。




