2(微細なヒビ)
ドアを開けてお出迎え。お客さまは〝ビック〟・アップル・ジョー保安官。つばの広い制帽と、キラキラの星型バッジ。
『やあ』濁点の足りない町の保安官。寸足らずの保安官。『近くに来たついでにね』帽子を脱いでご挨拶。『お邪魔かな』
それでなんです、保安官?
保安官、手持無沙汰を隠そうと、帽子のつばを指で触りながら、小鼻をひこひこ動かして。『このにおいは?』
ケーキ、焼きました。チョコレート・ブラウニー。
『いや、別のにおいだ』
気のせいですよ。ちょうど粗熱を取っているところです、保安官。ああそうだ、ケーキ、食べます、保安官?
『いや』保安官、一度は辞退。
お土産に包みますから。お車で食べて?
『いや』保安官、二度の辞退。
そうですか。
あたしはちょっとしゅんとする。すると保安官、気が変わったか、『やっぱり、いただくよ。うん』にこっと笑ってくれました。
どうだい、これが女の魅力ってやつよ。焼き立て切り分け、ホイルに包んで手渡すと。
『熱々だ』
笑顔の保安官に、わたしもにっこり。
『アニーはいるかい、お母さんに会いたいが?』
母は具合が悪いです。
『せめて顔だけでも』
母は、具合がとても悪いのです。
『とても?』
とても。だからお引き取り下さい。
『医者は? エリコ先生は君の主治医だろう』
エリコ先生はヤブなので。
保安官はにやりと笑い、帽子をかぶる。『そうだな。彼女は一流のヤブだ』
言い付けますよ?
『くわばら、くわばら』
それじゃ、またいらしてください、保安官。
わたしは手を振り、送り出す。
『ああ、そうだ』足を止めて保安官。『マイクは? お父さんからは連絡あったかい?』
父なら庭の裏で寝てますよ。
保安官はにっこり笑う。笑って、あたしの鼻先に触れる。『そういう冗談、嫌いじゃない』かぶった帽子の角度を直し、『ケーキ、ごちそうさま』
真っ黒で。どっりし重いブラウニー。紅茶を入れて、いただきます。
ふっほっほっ。甘い甘い。口いっぱいに頬張って。チョコレートでたっぷり満たされ。
やったよ、わたし。保安官を撃退したよ。
おっほっほ。ケーキはちょっと硬かったね。今度は何を作ろう、焼こうかな。
おでこにニキビ。鬱陶しい。摘んで潰して、中を絞る。黄色い膿に血が混じる。
どうしたの、ボニー?
『お母さん、お鼻がとれちゃった』
そいつはァ困ったねェ。
『どうしたらいい?』
知るもんか。もう寝るよ。ママのことなら大丈夫。いつもの通りさ、キニスルナ。
それよりなにより、おでこを気にせよ。週明けに、学校なんか行きたくない。
ダニーは鬼の子、背が高い。見下ろされたら、おでこが見えちゃう。前髪で隠したって、分かっちゃう。
うすのろボニーがべそべそと。
それがなんだと手を鳴らす。今度はきっちりケリつけてやる。
ダニーを捕まえ、詰め寄って。廊下の隅に追いやって。
女の子に恥をかかせた償いは?
ダニーの顔は困惑だらけ。
なにさ、うすのろデクノボー。
わたしは罵る。バカチン。
わたしは小突く。ニブチン、オタンチン。
伸び上がって頬を張る。
ダニーはびっくり、口ぱくぱく。わたしは再び頬を張り。啖呵を切って、切り付ける。
男なら、膝をついて許しを乞え!
『やっつけたんだって?』
ホーマー先生の放課後・お茶会(アルコール持参)。
お茶のカップを受け取りながら。
ええ、そうです。
わたしはちょっと誇らしい。
勢いに任せて。
わたしはちょっと恥ずかしい。
しょんぼりのわたしに、にっこりのホーマー先生。ふたりの間にサナギの虫かご。
ホーマー先生が、先生らしい顔になる。
『ポッペン蝶のガラスの翅は、脱皮直後は乳白色で、皴が伸びると透明になり、ほどなく色づいていく。その色はメンデルの法則に従う。親の分からないサナギが、どんな色に輝くのかは、羽化を待つしかない』
はい、楽しみです。
『脱皮してすぐの翅は、皺々に縮こまっている。まっすぐ翅が伸びたら羽ばたき出す。蝶の翅は、羽ばたく度に微細なヒビが入る。翅脈が細かくなって、最期は翅が砕けて死ぬ』
そう、悲しいですね。
『交配を繰り返すと黒い翅の個体が生れる。翅脈は蒔絵や螺鈿細工のように。そして、まったく色のない無色透明の蝶が生れるようになる。ポッペン蝶の人工飼育は、凡そ三世代で黒になる。稀に白になる。性別は四種。オスとメス、中性、両性。繁殖は複雑だ』
ええ、大変ですね。
虫かごの中。サナギは羽化の時を待つ。




