触れていいのは君だけ
「羽純くん!これ受け取ってー!」
「相良くん、私のももらって!」
「おー羽純、俺のも貰ってくれ、調子乗って買いすぎた」
「ありがとうみんな、喜んで頂くよ」
相良羽純は極度の貢がれ体質だ。
幼少期から天使と称されたその愛らしさは、高校二年になった今では美しく変貌を遂げ、最初は近所のおばちゃんからフルーツやお菓子をたくさん、それはそれはたくさん貰うに留めた貢がれ体質は、今では学校の生徒達からは食べ物を、先生達にはテストの山を質問すれば他には絶対言わないだろうほぼ答えのような回答を、ご近所には様々な食材や優待券を、果ては全く知らない人に高級車をあげると言われた事もある。
もちろん、その時は高校にあがりたてだった事もあり、謹んでお断りしたのだが、もしバイクであれば貰っていたかもしれないと、今でも少し思うのだ。
羽純がこんなにも貢がれ体質なのは、やはりその外見が影響しているのだろうか、幼少期は天使と言っても、俗に言う絵に描いたような天使とは違う類のものだ。
宵闇よりも純度の高い黒髪と、くっきりとした二重まぶたの下には黒硝子のように澄んだ大きな瞳。彫刻のような鼻に、陶器のような白い肌、ぷっくりとした唇は薄く紅を引いたように健康的な赤で彩られている。
その中でも特に髪はいくらセットしても元に戻ってしまうようなストレートで、それがより一層彼を際立たせているのか、元来男性に使う表現ではないが、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と、まさにことわざそのものだ。
「おはよ、紘貴」
しかしそんな貢がれ体質と美しさに一切靡かない男が一人存在する。
「おう、なんだ今日も随分大量じゃねーか、昼飯代が浮いて羨ましいこった」
それがこの男、中野紘貴だった。
彼とはそれこそ家が隣同士で、昔からよく遊んでいた、とどのつまり幼馴染というやつだ。
幼稚園も一緒で小学校はもちろん中学校も、その上学力のレベルが全く違っていたのに何故か高校までも同じになった。
紘貴の成績といえば下から数えた方見つけやすかったのに、中学三年の三学期、受験直前になって半分より上位にいた羽純に追いついたのだ。
当時は一緒に喜んだものだが、羽純には未だに紘貴がこの高校を選んだ理由がわからないでいた。
「先に出るなら教えてくれればよかったのに、おばさんにもう学校行ったって言われて慌てて追いかけた」
「なんで教える必要があんだよ、少しくらいお前のお守りから解放される時間くれたっていいだろ……それにほら、ネクタイ変だぞ」
座ったまま見上げた彼の三白眼がこちらを捉える。
紘貴は昔からこの目のせいで様々な人間に誤解をされてきた。
睨まれた、なんてのは日常茶飯事で、不良に絡まれた事も一度や二度ではない。
本当は面倒見がいいし、小動物が好きだなんて可愛らしい面もあるのに、誰もが見た目で判断して彼を怖い人だと認識してばかりなのだ。
羽純も何度か中野とつるむのはやめた方がいいなんて、彼を知らない人に言われた事もある、クラスメイトであったり元カノであったり様々だが、そんな事をいう人間は羽純の方から願い下げだった。
中野紘貴を悪く言った人間は相良羽純の傍にはいられない、それが現在は暗黙の了解となっているせいか、そんな事を言ってくる人間はもはやいないも同然なのだが。
「苦手だし、紘貴がやってくれるでしょ?」
「はぁ……しゃーねーな、ほら、もっとこっち来い」
高校に入学して以降、紘貴は毎日羽純のネクタイを結び直していた。
一応、申し訳程度に自分でも結んでは来るのだが、結び目が大きかったり歪んでいたり曲がっていたりと、あまりうまくは結べない。
その上紘貴が結びなおしてくれるおかげで羽純はわざわざ自分で覚える必要がないとさえ思っているのだ。
「つーかお前、ちゃんと制服ハンガーに掛けてんのかよ、皺になってるぞ」
「えー、紘貴が最近来てくれないんだもん」
彼の短髪に両の手を埋め、後頭部を包み込む。
甘える様に額同士をくっつけてうりうりと動かせば、まだ途中だったネクタイは首を締めるようにキツく結ばれた。
「ぐぇっ!……くる、苦しい紘貴!直して!」
「うるせー馬鹿たれ、人前で甘えんな。それに、お前の甘える相手は俺じゃねぇだろ……」
「意地悪いじわる!紘貴のばかぁ!」
そんな言葉にも無視を決め込む彼は、やはり羽純の特異体質が通じないらしい。
普通の人であればすぐ様謝って直してくれるし、そもそもキツくするなんてことはしない。
とはいえ、羽純は紘貴以外にネクタイを触らせる、なんて事をしないので、本当の所はわからないのだが。
「ちょっと中野!羽純になんてことしてくれたの!?」
ガラリと教室の扉が開く、彼らの様子が見えていたのか、一人の女生徒が金切り声を上げて二人に近付いてきた。
「ほら、お出ましあそばされたぞ」
肩を竦め、さも面倒そうに呟いた彼の様子に、羽純はぷくっと頬を膨らませた。
「羽純ぃ、大丈夫?苦しいでしょ、サエが直したげるね」
「ありがと紗恵ちゃん、でもこれくらいなら自分で直せるから」
言いながら彼女の手を制し、すっとネクタイを緩める。
それに安心した様に微笑んだ彼女の視線は、紘貴に向けられると同時にキッと射殺すかのように変化した。
「ねぇ中野、なんで羽純にあんな酷いことしたわけ」
「紗恵ちゃん、さっきのは俺が悪かったから、紘貴を責めないで」
「もう、羽純は優しすぎるよ……わかった、もう言わない。でもまたこんな事があったら心配だから、ネクタイは今度からサエが結んだげるよ?」
きゅるんと大きな潤んだ瞳でこちらを見上げながらそう問うた彼女に、彼はゆるやかに首を横に振った。
「大丈夫、今度から自分で出来るように頑張るよ」
「そっか、羽純がそういうならいいけど……そういえば今日の放課後空いてる?サエ、パンケーキ食べに行きたいの!」
「お誘いは嬉しいけど……今節約中だし、今回は……」
「そんなのサエが払うよぉ!てか元々出すつもりだったし?羽純の時間貰うんだし当然じゃん」
紗恵と呼ばれた女生徒は、羽純の現在の彼女である。
入学当初から美少女と言われてきた彼女は、羽純の美しさが誰より群を抜いているせいで半分霞んでしまっているが、それでも街を歩いてすれ違えば立ち止まって振り返ってしまう程度には可愛らしい。
俗に言う美男美女カップルというやつだ。
しかし性格はといえば多少わがままな部分もあるお姫様基質、というやつなのだが、それも羽純の前では無に帰すらしい。
「彼女に奢らせるとかあまりしたくないなぁ、俺は」
「だってサエが奢りたいって言ってるんだもんいいじゃん!ねねっ、お願いっ!」
「でも……ねぇ、紘貴はどう思う?」
突然話をふられた彼はと言えば、心底嫌そうに顔を歪めた。
「いや、俺に聞くな。行ってきたらいいだろ?奢るっつってんだし」
加えて紗恵も、あまり気分が良くなさそうに唇を引き結んだ。
「そっか、じゃあ行こうか紗恵ちゃん、楽しみにしてるね」
「うん!じゃあお昼休みにまた来るね」
そう言って彼女は羽純から望んだ回答が得られると珍しく予鈴が鳴るよりも早く自分の教室へと戻っていった。
「……ねぇ、紘貴はいやじゃないの?」
「何が」
「あんな風に濡れ衣着せられて」
「お前が変なことしなきゃ俺も言われなかったんだけどなーあ?それになんだっけ、ネクタイ、今度から自分で出来るように頑張んだろ?」
「ヤダ……紘貴がやって」
彼女がいなくなった途端、この有り様である。
さっきまでの発言はいったいなんだったのか、まるで触らせたくないと暗に言っているようではないかとさえ思う。
「大嘘つきめ」
「だって紘貴の方が綺麗に出来るんだもん……お願い?」
机に手を付きしゃがみこんで、紗恵を真似する様に紘貴に言ってみれば、返って来たのは嫌悪感を丸出しにした顔だった。
「きめぇ……」
「酷い!この顔効かないのは紘貴くらいだよぉ!他の人はお願いしなくてもやってくれるのに……」
はぁ、と大きなため息が羽純の耳に届く、それと同時に紘貴の手が、サラサラとした彼の髪をくしゃりと撫でた。
「他のやつと一緒にすんな、ばーか」
その声がなんとなくいつもより落ち着いている声色のような気がして、羽純は少しの間、彼の気まぐれに身を任せ、何も言うまいと口を閉ざす。
でなければこの心地のいい時間がすぐに終わってしまいそうだと思ったからだ。
出来るだけ長い間、彼に撫でられていたかった。
けれど最後に、ピンッと額を指で跳ねられて、その強さに涙目になってしまったのは、その顔をみた紘貴が悪戯っぽく笑ったのは、二人だけの秘密だ。
「サエね、断られたらどうしようかと思ったの、羽純に嫌われてるのかなぁって思っちゃうとこだったもん」
「そっか、不安にさせてごめんね、俺は相当なことが無い限り紗恵ちゃんを嫌ったりなんかしないよ」
紗恵は何人目の彼女だったろうか、羽純はパンケーキを食べ終え二人ゆるりと歩きながら、そんな事を考えていた。
中学の頃、顔も朧気にしか覚えていない友人からモテるのに何故彼女を作らないのかと言われたのが発端だったろうか、確にモテていた自覚はあったし告白も日常茶飯事ではあったが、必要性を感じなかったというのが本当の所だ。
いつもすぐ近くには紘貴がいて、毎日一緒にいたものだから今更それが女の子になるだけだろうというだけの話だった。
けれど、紘貴に聞けば今日のような調子で、作ればいいだろとそれだけしか言わなかったから、一度作ってみたらその人数ばかりが増えていったのだ。
両手は超えただろうか、であれば両足はどうだろう、もしかしたら超えているかもしれない。
しかし、紗恵はその中でも長続きしている方だった、半年も同じ人間と付き合っているのは羽純も初めての経験である。
恐らく、無理に紘貴との間に入ってこようとしないのが秘訣かもしれない。
羽純にとって紘貴は友人の中でも別枠だ、いままでの彼女たちは何を勘違いしたのか羽純に紘貴との関係を改めてくれと求めてくる人間ばかりだったから付き合いを継続できなかった。
とはいえ、恋愛的な意味で彼女たちが好きだったのかと問われれば今にしてみるとわからない、それは紗恵も含めてだ。
そもそも恋愛的な好きがなんなのか羽純にはわからない、というのもある。
だからこそ周りのカップル達を見ているとやれ嫉妬だケンカだと忙しなくて呆れてしまう。
彼女という存在のどこに心を動かす要素があるというのだろうか。
「……み、羽純!聞いてる……?」
「え、ああごめん、ぼーっとしちゃってた」
ははっと誤魔化すように笑えば、不機嫌そうにしていた彼女も、顔を赤くさせ目を背けた。
紘貴はこんなことをしても眉すらピクリとも動かさないのだから逆に驚かされる。
「もう!恥ずかしいんだからなんども言わせないでよ……だから、今日両親共帰りが遅いの、だから、私の家に……」
そう彼女が言いかけた時だ、遠くの道を自分と同じ制服が横切るのが見えた。
羽純は標準より高めの背格好とその髪型で、彼が誰であるかを察すると、パァっと顔を明るくさせ、紗恵に笑いかける。
「ごめん紗恵ちゃん、俺今日はもう帰るね!パンケーキごちそうさま、美味しかったよ、また明日学校でね!」
そして彼は紗恵の返答を待つこと無く、そのまま走り去っていったのだ。
「ちょっ、羽純!?待っ!……て、あれ……」
羽純は気付く事をしないだろう、彼女の顔がどれだけ怒りで歪んでいたかなど、その矛先が誰に向いていたのかも。
「紘貴ー!」
遠くから聞こえた己を呼ぶ声に彼はピクリと体を揺らし、ゆっくりと振り返った。
「お前、今日デートだったろ」
声の主は予想した通りの人物で、口角を片方だけ上げてからかう様に問う。
「紘貴を見かけたから抜けて来たよ、パンケーキはもう食べ終わったし、約束はそれだけじゃん?」
「羽純……お前今までよく刺されないでいたよなぁ……まぁ、刺されるわけないか」
相手はあの相良羽純様だ、むしろ付き合えただけでも史上の幸福だとさえ思う人間がほとんどだろう。
みんながみんな彼の美しさに引かれ自分の持つものを差し出す、そんな様子を幼い頃から紘貴はずっとなんの疑問すらなく見てきたのだ。
そしてそれは、実のところ中野紘貴も例外ではない。
しかし羽純はそんな事も露知らず、紘貴だけは自分の貢ぎ体質に影響を受けないと勝手に解釈しているのだ。
そもそも、貢がれすぎて気付いていない、というのが本当の所かもしれない。
「ねぇ紘貴どこいくの?俺もつれてって?」
「嫌だ、お前がいると変に目立つしでかくてうざい」
紘貴の身長は男性の平均的なそれよりも少しだけ高い、けれど羽純はそんな紘貴よりも十センチ程大きいのだ。
美しくて対外的には性格がよくて身長まで高い、もはや非の打ち所が無い。
とはいえ、紘貴目線でいえばいつまでも甘えてくるガキ、とも捉えているのだが。
「えー、じゃあ勝手についてくからいいもん」
「いや来んなよ」
延々とそんな押し問答をしながら辿りついたのは、最寄りよりも離れた所にあるスーパーだった。
店内には大売出しの文字が羅列していて、羽純はなるほどと一人勝手に納得した。
「紘貴ひろたかっ!今日の夕飯なに?俺カレーがいい!」
「豚の生姜焼き」
「生姜焼きかぁ!じゃあご飯は大盛りがいいなぁ」
「おい、なんで羽純が一緒に食う前提なんだ、自分ちで食えよ毎回毎回夕飯時に押しかけやがって」
羽純と紘貴の家は共働きだ、一人っ子の羽純と違い、紘貴には兄が一人いるが、どうしてもそこで学びたいからと地方の大学で寮暮らし中である。
そのおかげで今まで兄がすすんでやってくれていた夕飯作りは紘貴の担当になったのだ。
加えて、昔から最低週に四日は羽純も夕飯を共にしていた。
もちろんその分の食費はもらっているし手間もそうかからないのだが、なにより買い物に羽純と一緒に行くと面倒この上ないのだ。
「しゃーねぇ、豚肉今日安売りなんだ、おひとり様一パック限りだから付き合え」
「もちろん!ねぇねぇ俺新作のポテチ食べたいんだけど買っていい?」
「自分で買え」
そんな問答を繰り返しながらスーパーを出た時には、何故か羽純の腕の中は食べ物でいっぱいだった。
通りがかったおばちゃんから貰ったお菓子や惣菜に、店員さんがサービスしてくれた食べたがっていたポテチ、果てはママさんや小さい子たちからまでもチョコレートをもらっていた。
「だから嫌だったんだ……」
「えーなんで?俺はラッキーって感じ」
「お前は、知らない人から物をもらっちゃいけません!って習わなかったのか!?」
「習ったけど、でも今まで俺に危険なものを送ってきた人間は誰一人といないよ」
羽純は知らない人からもなんの疑いもなくものを貰う、さすがに高価なものは断るものの、それ以外であれば躊躇すらない。
紘貴はそれに慣れているとはいえ、あげた人全員に彼の代わりにお礼を言って回るのだ。
そのせいで、彼が買い物に付いてくると紘貴は万倍疲れる。
最近では紗恵が色々引っ張ってくれたおかげで一人でゆっくりと買い物出来たのだが、今日は運悪く見つかってしまったらしい。
「もうお前に何言っても無駄だわな、まぁいいや、ほらこれも持てよ」
そう言って容赦なくエコバッグを渡せば、もう持てないと泣き言が飛んできた。
「家まで頑張れよー」
気持ちのこもってない言葉に頬を膨らましながらも、彼は一生懸命バランスを取りながら紘貴の後に続いたのだ。
「でさ、美味かったっちゃ美味かったんだけどなんか柔らかすぎて腹にたまんないっていうか、逆に腹減った」
「俺は食ったことねぇからわかんねぇけど、美味かったんならいいだろ別に」
「そうなんだけどさぁ、なんかこう物足りないってか、これなら紘貴が焼いてくれたホットケーキのがいいなぁって」
キャベツを半玉千切りにしながら紘貴は羽純の言葉に耳を傾ける。オープンキッチンになっているからか、羽純は向かいに座ってこちらをじっと見つめては、言葉を投げかけ続けるのだ。
「店のパンケーキと俺のホットケーキ比べんな、畑違いだっての」
「なんかホットケーキの話してたら食いたくなってきた、紘貴作って」
「生姜焼きにホットケーキ合うと思ってんのかお前……」
引くわと付け加え鼻で笑った彼の顔を見ながら羽純はふと紗恵と一緒にいた時に考えたことを思い出した。
「あのさ、俺は中学まで彼女って必要ないなって思ってたんだよね」
「は、なんだよいきなり」
突然の言葉に声色を変え、不思議そうに彼は問うた。
「それはなんか、色んな子と付き合って最近今でもそうかもしれないって思い始めてさ……周りはモテるんだから作ればいいじゃんって言うけど、俺の時間が減るんだよ単純に」
「それで?」
手を止める事はしないまでも、しっかりと聞いてくれているらしい、いつも以上に返答の声がしっかりしている。
「紘貴はいままで彼女いた事ないじゃん、必要って思ったことある?」
「必要か必要じゃないかって質問が高慢すぎだろ、俺からしたら欲しいか欲しくないかだ、求める側なんだよ。まぁ、欲しくないけど」
「そっか、なんか安心した。なんで欲しくないの?」
「お前がいるからだよ、羽純……お前の世話焼いて忙しいもんで、出来ても幸せに出来ん」
「えーそれ俺のせいにしちゃう?」
からかうように笑って見せれば、何故か紘貴は羽純の前に手をかざした。
「なになにこの手、握ってって?」
「いや、顔が鬱陶しかったから隠そうかと」
「酷い!紘貴ぐらいだよそんな事言うの……!」
俺の自慢の一つなのにと泣いたフリをする彼の言葉を無視して、紘貴はキャベツに視線を落とす。
「……逆に聞くけど、よ……羽純は俺に彼女出来たらどう思うんだよ」
考えたこともなかったような発言が紘貴の口から飛び出して、羽純は呆気にとられたように目を見開いた。
同時に、なぜ今まで気づかなかったのか、とも。
「そんなの、嫌に決ってんじゃん」
即答だった、彼女が出来たら紘貴の時間は少なくなる、それはつまり羽純と紘貴が二人でいる時間が少なくなるという意味で、そんな事は考えたくもなかった。
紘貴の隣に自分以外の誰かが並ぶなど、想像しただけでチクリと胸が痛むのだから。
「なんで嫌なんだよ」
「決まってるじゃん、俺との時間減っちゃうし!」
「ふーん?じゃあ、なんで俺との時間が減るのが嫌なわけ?今だってそんな変わんないだろ。理由、あんのか」
「それは……わからない、けど……でも嫌だ」
もやもやすると言ったらいいのか、はっきりとした名前はつけられないまでも、嫌悪感に近い何かがあるということだけは、羽純にもはっきりとわかった。
「まぁいいか、今んとこはそれで。どうせ、お前は俺んとこにくんだろ?」
「え?ああうん、そりゃ、紘貴といるのが一番落ちつくから」
紘貴の放った言葉には、もっと深い意味が込められているような気がしてならない。
けれど、羽純はこれ以上考えることをせず、今日も彼と一緒に居られる穏やかな日常に身を委ねた。
しかし、運命の悪戯というやつは気まぐれで、いとも簡単に日常というものを時には緩やかに、そして時には激烈に変えてしまうのだ。
その日も前の日と同じように紘貴は自分より先に登校してしまっていた。
その頻度は紗恵と付き合って半年を目前とした時期から突如として始まり、現在は毎日別に登校している始末だ。
以前は紘貴の方が遅く家を出てくるおかげで、迎えにいっていた程だったのに。
羽純としてもそんなのは望むところではなく、紘貴がいないとわかれば急いで学校へ向かうのだが、今日は何故か勝手が違っていた。
紘貴の席にはその姿が見えなかったのだ。
「おはよう羽純くん、これ、作り過ぎちゃったからどうぞ」
「羽純、ガムいるか?コンビニのくじで当たってよ」
「相良くん!おばさんからお土産もらったんだけど家だけじゃ食べきれないから是非もらって」
いつも通りのそんな言葉にも彼は反応することなく、彼女らの間を素通りし、紘貴の席まで来たところで、ぺたぺたと彼の机を触りだした。
「冷たい……」
それにはいままで暖かい生き物がいた形跡はなく、無機質な冷たさだけが羽純の手のひらにつたわった。
「ねぇ、紘貴知らない?もう教室に来た?」
「中野くん?ごめん、今日は見てないよ」
一人が声をあげればあとから続くように続々と皆が語りうなずく。
ほぼ全員が答え終えた所で、羽純は焦った様に髪の毛をくしゃくしゃと掻いた。
「紘貴……どこに」
紘貴は真面目な性格だ、朝コンビニくらいはよるものの、サボろうだとかと考える人間ではない。
だからこそ心配だったのだ、自分の知らぬ間に事故にでもあったのだろうかとか、そういえばさっき救急車とすれ違ったとか、嫌な予感ばかりが胸を占める。
「中野?それなら校舎裏に連れてかれるの見たよ、女子何人かに囲まれてたからもしかしたら告白とか?」
そんな中、一人の生徒が羽澄の望む言葉を発した。
「ありがとう助かったよ!また改めてお礼させてね」
昨日の今日でまさかと耳を疑ったが、彼はそれだけいうともうすぐ予鈴が鳴るというのに、すごい勢いで教室から駆け出したのだ。
「いい加減にしてって忠告したじゃん!何度サエたちの邪魔したら気が済むの」
校舎裏から響いていたのは耳をつんざくような金切り声だ。
四人ほどいる女生徒たちは一人の男子生徒を囲み逃げられないように徒党を組んでいる。
「はぁ?アンタに言われた通り俺はあいつとの登下校止めたし、自分からかかわってないけど。つか不満があるなら羽純に直接言えよ」
「中野との事羽純に言ったら振られちゃうじゃん、そんな事もわかんないの?それに、中野が目に入るから羽純が行っちゃうんだよ!羽純の視界に入らないで!」
泣きながら訴える彼女を冷めたように見詰めながら、さも面倒くさそうにため息を吐いた。
「それはなに、俺に退学でもしろって言ってんの?なんでアンタのためにそこまでする必要があんだよ……単純に、アンタじゃ羽純を繋ぎ止める程の魅力がない、それだけだろ」
刹那、怒りにカッと見開いた目が彼を捉え、ネイルやアクセサリーの施された手が、思い切り紘貴に振り下ろされたのだ。
予想の範囲内だった、怒りで我を失った人間の行動なんていうのは動きも含め読みやすい。
簡単に当たってやる気などなかった、一歩下がれば当たるわけもなかったから。
なのに……。
「紘貴っ!」
空間を裂くような声の後、乾いた音が辺りに響いたのだ。
「は、すみ……」
驚愕を覗かせた紘貴の声がもれると同時に、美しい白い肌から滲んだ鮮血を示す赤い線。それは羽純の体に傷が付いたという証で、その場にいた彼以外の全員はひゅっと息を飲んだ。
「紘貴、ひろたか……大丈夫だった?ケガしなかった?痛いとこない?」
「っ……ば、ばかやろう!それよりお前の方が……何してんだっ!あれくらい避けられたのに!」
紘貴は思い切りギュッと彼を抱きしめて、怖いことでも起こったかのように体を震わせた。
「ごめんね紘貴、でも紘貴が危険な目にあってるのに俺、じっとしていられないんだ」
「お前はいつもそうだ……俺が絡まれた時だって……心配かけさせんなって言ってんのに……」
羽純の声は酷く優しかった、ただただ子猫を甘やかすような、愛おしむような、それでいて少し照れているような色も混じっている。
「うん、ごめんね……でもさぁ、矢崎たちは許さないから」
矢崎とは、紗恵の姓だった。今まで一度も呼ばれたことの無かったそれを、氷のように……否、それよりももっと冷たく尖った、底冷えするような声で呼ばれた。
「紘貴を傷付けようとするなんて命知らずにも程が有るよね……」
「は、はすみぃ……えっ、じゃあサエたち別れるの……?」
「君、頭弱いね、別れる別れないの次元じゃないよ、覚悟しとけって言ってるんだ……そう、全員顔は覚えたからね」
美形が怒ると怖いと誰かが言っていた気がするが、羽純のそれは怖いなんて生易しいもんじゃない、畏怖だ。
神の怒りに程近いのだから。
途端に、彼女らの背には冷たいものが伝ったような気がして、逃げ出した一人を皮切りに全員が続き、紗恵ばかりが彼をチラチラと見つめながら去っていったのだ。
残された二人はといえば、予鈴がなり始める中で、抱きしめあったまま立ち竦んでいた。
「紘貴、俺気づいちゃったみたい、昨日の答え」
シンと辺りが静まり返った後のこと、羽純はゆっくりと口をいた。
「ふーん……なに?」
体の震えも落ち着いたのか、いつもの調子で彼は問う。
けれどまだショックは残っているのだろう、珍しく甘えるように羽純の肩に顔を埋めている。
「俺さ、紘貴を独占したいんだなって。他の誰でもなくて、紘貴だけ……それが他の誰かに邪魔されるなんて、虫酸が走ったよ」
「お前さ、どっから聞いてたの」
「聞こえちゃったんだよ、ここって静かだし。でもだからこそ間に合ったんだけど」
羽純はポンポンと紘貴の背を叩きながら安心した様にそう口にした。
「それでさ、紘貴はどうしたい?」
「お前、やっぱりバカだろ」
クツクツと今度は違う意味で体を震わせながら、けれども顔はまだ彼の肩に突っ伏したままでそう呟いた。
「えー?」
「俺の身体は、いや全ては、羽純のモンだよ。お前と出会ったその瞬間から、羽純のだ。だからお前以外の誰にも、この体は傷つけさせるわけにゃいかねぇんだよ」
はっと息を呑む音が紘貴の耳に届いた、直後強められた腕の力は、愛おしさの具現のように紘貴の体に伝わる。
「……紘貴、遅くなってごめんね」
「ほんと、おせぇよ、羽純」
そしてそれに応える様に、紘貴もまた、彼を抱きしめ返した。
「ねぇ紘貴、顔上げてよ」
「やだ」
「俺の顔、真っ赤だよ、見たくない?」
その問に、紘貴はピクリと反応し、恐る恐る顔を上げていく。
「あ……」
そしてカチリと目が合った瞬間、微笑んだ彼の唇が降ってきたのだ。
「ん」
額に触れるだけのキスだった。それでも今の二人には充分すぎる程で、お互いの鼓動が体を通して伝わっていく。
「ははっ、紘貴顔真っ赤……」
「うるせー、お前も人のこと言えねぇからな」
「うん、紘貴にだったら一生に何度でも赤面させられたい」
「重いわ」
「そんなの、紘貴も大概でしょ」
二人は見つめあったまま笑い、コツンと額を合わせると、そっと互いに腕の力を緩めた。
「傷、手当しなきゃな」
「俺にとっては勲章みたいなもんだけど」
「馬鹿言ってねぇで、保健室行くぞ」
「えー、待ってよ紘貴ぁ!……あ、そうだ、ネクタイ!ネクタイ直して!」
「……しゃーねーな、保健室ついたらやってやるよ」
「うん!」
いつも通りの会話だった。
けれどそんな二人の変化といえば、小指だけはしっかりと繋いだまま、ということだろうか。
【終】