敗北令嬢は自由を手にする(2)
シエルサは部屋へ戻り、メイドの手を借りてドレスから着替えた。どうするべきか、どうすればいいのか……。執務室を退出した後に執事から渡された手紙を見ながら考えを深める。その手紙は2枚ある。
1枚はシエルサに対する指示書で、もう1枚はソレイユ直筆の許可証だ。許可証はシエルサが学院に行く準備をするために、公爵と同等の権限を持つと保証したものだ。
つまり、必要であれば多少のわがままが使える。しかし時間が足りない。
ひとまず睡眠時間を削るか。そう考えた時だ。
「お嬢様、ご気分が優れませんか?」
考え込むシエルサをおかしいと思ったのか、着替えを手伝ったメイドが声をかけてきた。よく見れば、今まで1度も見たことのない顔だった。
就寝前の日課──ソレイユから命じられた──である髪梳きをしているメイドは、どこか不満そう、いや、戸惑った顔をしていた。
櫛をサイドテーブルに置いたのを見て、シエルサはついと鏡の中のメイドへ顔を向けた。
「あなた名前は?」
「本日よりお嬢様専属を命じられました、ルイユ・フィーと申します! フィー男爵家の長女になります!」
よろしくお願いしますと頭を下げたメイド──ルイユは、今までずっと下働きをしていたらしい。道理で見たことがない顔なわけだ。
しかしシエルサはその素朴さに少し取っ掛りを覚えた。
「あなた特技は?」
「料理です!」
「趣味は?」
「掃除です!」
「……勉強の程度は?」
「ちょっと、わからないです?」
いったいルイユには何ができるのか。それがシエルサには疑問だった。このタイミングで専属のメイドを付けるということは、シエルサ付きのメイドとして共に学院へ入学するということだ。
それなのに、秀でたものが1つもないのであれば、学院で足蹴にされるに決まっている。
……どうしても、連れていかなければならないのだろうか。シエルサは呆れを隠せなかった。
「……仮にも公爵家の長女である私のメイドが男爵家の娘なの?」
「ご当主さまに命じられましたから……」
スカートをぎゅうと握りしめて、ルイユは俯いた。その瞳はうるうるとして、涙がこぼれるのは時間の問題だった。
(そこで泣くの!? 私がいじめたみたいじゃない!)
こんな風に目の前で泣くのはルエンナくらいだろう。ただあの男爵令嬢とは違い、ルイユは地に足をつけている。仕事をしてその上で叱責を受けていることだけで、救いがいがあるとシエルサは感じた。
シエルサは立ち上がり、ルイユの前を通って廊下へと続く扉を開ける。「もう寝ます」と伝えてから、思い出したようにルイユに向き直った。
「1つ言っておきます。私は身分で人を判断しないわ。身分は1つの武器に過ぎないのだから」
そうしてシエルサは部屋を出た。
やらなければならないことは、2つ。ひとつは、ルイユがシエルサの寵愛を受けるために何を持っているのか、判断すること。もうひとつは、この紋様を破棄すること。
(優先するのは紋様の方だけど……ルイユのことも学院に向かう前に終わらせておきたい)
寝室に入ると、シエルサはベッドへ入り込む。さっきまで腰掛けていたそれとは比べ物にならない柔らかさに、うとうとと眠気を感じた。
(そうだ、睡眠を削って仕事をしなければ……)
体と正反対のことを考えても、上手く動かない。ゆっくりと瞼が閉じる感覚が長くなる。
「もう寝るのか?」
聞き覚えのある声だ。そう思えば意識はハッキリとしてくる。目を瞑っていても、平気な程に。
「うるさい。起きるところだった」
「大人しく眠っておけばいいものを。これだから気に食わん」
「いい加減に! して! ください!」
気に食わんと言われることにくわっと目を見開いて抗議するものの、シエルサは起き上がってすぐに見開いた理由を驚きに変えて呆然とした。
至高の上位存在。神の領域に至るもの。それが竜であり、目の前の男にほかならない。
彼は竜神ルゼル。本来のサルヴェスタ王国の守護神だ。月明かりに揺れる銀の髪に、ほのかに光る蒼玉。それらが竜の神秘さを醸し出していた。
そして前回同様のバスローブ。
「……ほう、この俺に見蕩れたか?」
「はっ!? いや、そんなことはない。絶対にない!」
嘘だ。思いっきりみとれていた。それはもう隠しようがないほどに。しかしシエルサのなけなしのプライドがそれを認めることは許さなかった。
「素直に見蕩れたと言えばいい。俺は寛大だ」
ぎしりとベッドが軋む。そこでシエルサは思い出した。そう、バスローブだ。バスローブといえばこの国で一般的な服だ。主に夜伽を待ったり夜這い来る男性が着る、言わば夜のお勤めの服だ。
それを理解してルゼルを見ると、今度こそシエルサは顔を赤く染めた。いくらシエルサが人の妻であったとしても、誰もが知る白い結婚。妻としての役目はしたことがなかった。それがたいそう気に入ったのだろう。つまらなそうな顔に、口元にだけ笑みが浮かぶ。
「なんだ、男の口調で勇ましいと思えばこちらには案外耐性がないのか」
「っ、な、ちが……!」
「それは周囲から自分を守るための壁、いや結界とでも言うべきか? 身に染み付いているようだな」
シエルサがかけていた毛布を剥ぎ、床へ投げ捨てる。冷たい指先で頬に触れた。どうやら竜神はシエルサを着々と攻略にかかっている。
「だがそれはもう必要ない」
「必要ないわけが……」
「俺がその結界の代わりとなろう」
「……は? なにを、ふざけたことを」
ゆっくりと距離を縮めて、目と鼻の先に美麗な顔を見せる。言い尽くせないような感覚がシエルサの背中に流れた。
「俺に委ねろ。全てを。お前は命じるままでいい。この俺がお前の手下となってやる」
「なに……なにを、言って」
「そうだ、誓約でも誓おうか。俺の命令でお前が俺を従える。なかなか愉快な催しだ」
「ふ、ふざけるな……! 誓約だと……! そんな馬鹿な話が、あるものか」
ふるふると首を横に震わせる。そんなものを受け入れてしまった暁には、自分でいられないと本気でシエルサは信じている。
その困惑した姿を見るのが楽しいのだろう。あっという間に誓約のルーンを組み立てて、シエルサの右手を絡めとる。2人の手の甲に蒼い円環が浮かび、ルゼルの声音をシエルサの聴覚が捉えた。
「『俺はお前の命に従おう。いついかなるときも呼ばれれば側へ馳せ、命じられるままに動こう』さあ、お前も口にしろ。この俺を従える、と……」
「わ、わたし、は……」
「口にできるはずだ。こんな誘惑2度とない。さあ、口にするだけでいい」
絶世の美男子がテノールを響かせて、従えないわけがない。それにデメリットはひとつもないのだ。それを受けても、受けなくても。そう思えば答えはひとつしかない。
「『したが、え……る……』」
誓約の蒼い光が2人の手の甲へと沈み込む。満足そうに笑う顔を、シエルサは真っ赤なまま見ていた。
「これで、名実ともに離れられなくなったな」
「……ぃ」
「い?」
「いい加減にしろっ!!?」
シエルサの羞恥心は限界を迎え、その右手が至宝のようなきめ細やかな肌を引っぱたいた。
早く学院編に行きたいと思う日々……