排外主義も守るべき多様性の一部じゃないのか?
思想信条の表明としての排外主義と、暴力の行使を伴う排外主義には明確な一線を引いて下さい。
NZの銃乱射事件に際し、多様な価値観、他宗教への寛容さを訴える言動がメディアでは見られます。
確かに白人至上主義者による今回の事件は到底許されるモノではなく、極刑のある国家であれば極刑に処すべきではあります。
しかしながら、ふと思います。
移民に反対する声に対して多様性の重要さを訴える人は、排外主義を排外している排外主義者その物ではないのかと。
ミイラ取りがミイラになるというヤツです。
ですので私は思います。
排外主義も多様性の一部であり、社会の多様性を求めるなら排外主義も受け入れろと。
主義は主義としてその存在を認め、主張に耳を傾ける努力をしろと。
何と言うか、多様性を訴える人にこそ排外主義を認めない偏狭さが感じられます。
移民に反対する人には容赦がないし、口汚く罵りますよね。
アメリカでは暴力を使って攻撃すらするし、SNSではポリコレを振りかざして排除します。
思想や信条は心の中で止めるべきであり、憲法に保障された他人の人権を傷つけてはなりません。
それは双方に言える事であり、移民に反対だからといって移民に石を投げる事は許されませんし、その逆も同じです。
移民に反対という意見の段階で排除するのはおかしいのです。
多様性とは何でしょうか?
どうして多様性が大事なのでしょうか?
偏った考え方では最適解に至れない可能性があるからです。
ますは生物学における多様性という観点で考えてみます。
よく例に挙げられるのはガラパゴス諸島の固有種ではないでしょうか。
ガラパゴスという、島ごとに変化のある環境に適応していった結果、世界でも珍しい多様な種が生まれました。
しかし、島にやってくる人間が外から連れて来た猫や犬を島に放ってしまった結果、増えて島の固有種の生存を危険に晒しているというヤツです。
島には犬や猫に類する肉食獣がいなかったから、呆気なく捕まって食べられてしまうと。
人間の行いも自然の内なのだし、生存競争が進化を促すという考え方もあります。
生き残った種が強い種で、弱い種は絶滅しても仕方ないと。
しかし、別の概念もあります。
地球環境はいつガラッと変わってしまうかもしれず、そうなった時に強い種が強い故に対応出来ない可能性がある点です。
今は哺乳類が繁栄していますが、地球環境がガラッと変わり、哺乳類が住めない環境となってしまったらどうなるでしょう?
昆虫しか住めない地球となったら?
人類はその知恵で生き残れるかもしれませんが、その世界での食べ物はどうしますか?
昆虫しか住めない環境ですから常識的に昆虫食となるでしょう。
その時、これまで人類が絶滅させてきたあの昆虫が解決策だった、とか分かっても遅いですよね。
DNA自体はジーンバンクで保存しているので解析出来ますが、気づいた時にはもう遅いというヤツです。
今回は昆虫と限定してしまいましたが、それは全ての動植物に当てはまります。
蚊やゴキブリは不快だし、絶滅させるボタンがあるなら躊躇なく連打しますが、地球上でどんな働きをしているのかも分からないよと、いつ必要になるか誰も知らないから敵視し過ぎない方がいいよという事です。
まあ、自分の家からは問答無用で排除しますけどね。
社会的に見た場合の多様性の意義とは何でしょう?
移民という違う文化を持った集団を入れる事によって社会がより柔軟になり、諸問題を解決出来るかもしれない、でしょうか?
個人が個人として尊重される社会は互いが尊重しあい、社会も尊重される、でしょうか。
だったら排外主義も尊重しろよと思います。
排外主義は多様性という文化とは違った文化じゃないのですか?
多様性を口にする人は、自分とは違う意見の排外主義者を尊重出来ずに、どうして他を尊重出来ると言うのでしょう?
他の意見を尊重する事が出来もしないのに、多様性のある社会なんて不可能だと自らが証明しているのではないですか?
別の側面から排外主義を尊重する大切さを考えてみたいと思います。
多様性が大事だというのは既に偏った考え方だからです。
多様性を尊重しなければならないと思い込むと、それ以外の答えが見つかりません。
それは多様性を守らねばならない理由でもある、最適解に至れない危険性そのものです。
車の運転を例にすれば、偶然に出来た道路の陥没に気づかず、そのまま走っていると穴に落ちかねない危険な状況だとします。
前方から走って来た対向車が猛烈な勢いでパッシングし、クラクションを鳴らしました。
車を止め開けた窓から顔を出し、自分に向かって大声を出しています。
何なんだ怖いなぁと思って気にも留めず、車を走らせたアナタは穴に落ちてしまいました。
穴が出来たのは自分の責任ではありませんが、もっと注意して運転していればと穴に落ちて悔やんでも遅いですよね。
あの時の対向車はこの穴を教えてくれていたのかと、どうして聞く耳を持っていなかったのだと反省しても遅いですよね。
怪我で済めばいつか笑い事に出来るかもしれませんが、不幸にも死んでしまったらどうします?
後悔も反省も出来ませんよね。
多様性という考えに対する排外主義も同じです。
対向車のクラクションとか窓を開けて大声を出す行為とか、普段であれば嫌がらせや威嚇にしか思えず、怖いとしか感じないかもしれませんが、相手は必死で警告を発してくれているのかもしれませんよ?
自分の考えが正しいとして何の疑いも持たない人は、前方に開いた穴に気づかず運転している人と同じ状態なのかもしれませんよね?
どれだけ不快に感じる意見であれ、間違いに気づく切っ掛けになるかもしれないから、意見は意見として認めないとおかしなことになるのでは?
自らに反対する意見こそ大事にすべきでは?
それは何も反対意見を常に受け入れろと言っているのではありません。
視野狭窄に陥る危険性を軽減する為に反対意見を尊重しろというだけです。
とまあこんな感じで、多様性を大事にしたい人は排外主義こそ大事にして下さい。
イエスは言いました。
「アナタの敵を大事にせぇよ」
ケセン語での新約聖書から、あやふやなまま引用しました。
というか日本で移民に反対している人は、際限のない移民政策であったり、なし崩し的な受け入れに反対なだけだと思います。
シンガポール並みの移民政策であったらOKな人も多いのでは?
日本が好きで、日本の文化や習慣をきっちりと守る人ならウェルカムという意見の方が多いのではないかと思うのですが・・・
そういう意味では世論調査が大雑把過ぎて無意味になってますよね。
※加筆修正しています。