【01 – 01】
爽やかな風が吹き抜ける、春の街並み。
ゆるくウェーブのかかった小鹿のような淡栗色の髪を揺らして、少女が駅に向かって歩きます。
少女の名前は茉莉花音ちゃん。
年齢は十五歳。
年相応の背丈に、年相応の発育。彼女の姿を目にしたとき、目を惹かれるのはクリクリと輝く感情豊かな瞳でしょうか。続いて小ぶりな鼻梁に、桜色の唇。総じて顔つきは整っていますが、しかしそれは異性を誘惑する『美』というよりも、可愛らしい小動物のようでありました。また本日の装いであるJKの制服が、そうした彼女に健康的な初々しさを与えています。
『~~~♪ ~~~♪ ~~~♪』
そんなフレッシュJKのスマホが震えました。
着信を確認すると、表示される発信者は【パパ】。
「……」
カノンちゃんはすぐに着信を切りました。服についたホコリを叩いただけというように何事もなく、歩を進めます。
『~~~♪ ~~~♪ ~~~♪』
再度、スマホが震えます。
今度は表示さえ見ずに応答拒否しました。
JK奥義、ノールック・オフです。これは心が折れます。
『~~~♪ ~~~♪ ~~~♪』
そんな塩対応にもめげず、三度スマホが震えました。
「……もぉ、しつこいなぁ」
これにはさすがのJKも渋面です。けれど着信を切ったところで、発信者はスマホの充電が尽きるまでエンドレスコールを続けるでしょう。着信拒否をしても、今度はママからの着信に変わるだけ。観念して、カノンちゃんは応答を開始します。
「……もしもし、パパ」
『カ゛ノ゛ン゛んんんっ!!!! 無事かい!? 大丈夫かぁあ゛いぃいいい!?』
たったいまJKの鼓膜はラクダの絶叫のごとき成人男性の不快な泣き声によって、甚大な被害を受けました。音波兵器と化したスマホから物理的に距離をとりつつ、カノンちゃんは応答を続けます。
「もう、パパ、落ち着いて! うるさいから! あと無事って、なんのことですか!?」
『だっでぇ、カノンちゃん、何度電話しても出ないから、何かの事件に巻き込まれたのかと思っでぇ……』
「ああ、それら安心してください。パパがウザくて無視していただけですので」
『……』
ゴトン、と何かが倒れる音がして、ようやく電話口が静かになりました。それからガサゴソと、通話機を拾い上げるような音がして、受話器の向こうから新たな人物の声が聴こえてきます。
『もしもし、カノンちゃん?』
「ママ」
電話越しでも伝わるほんわかとした女性の声に、
ようやくカノンちゃんも一安心です。
「パパ、どうなったの?」
『陸に上がったキハダマグロみたいに白目を剥いてビクビクと痙攣しているわよ。もう、あんまりパパをイジメちゃダメよ』
むしろ被害に遭ったのはこちらのほうなのですが……
とは思いますが、口には出しません。
それぐらいの配慮はできるカノンちゃんなのです。
「それでパパ、いったいなんの用事だったんですか?」
『それがねぇ、やっぱりヒイチロウさんったら、まだカノンちゃんのことが諦めきれないみたいなのよぉ』
のんびりとしたママの物言いに、カノンちゃんは辟易としてしまいます。なにせこの話題は年明けにパパの海外赴任が決まってからというもの、何度となく繰り返されてきたものだからです。
「だぁーかぁーらぁー、言っているじゃないですか。私はぜったい、青羽峰学園に通うんですって。そのために一生懸命に受験勉強をして、合格したんじゃないですか。ママたちだって、それは応援してくれていたでしょう!?」
『そりゃあねぇ、受験そのものは応援していたわよ。でも事情が変わったんですもの。ママだって本音を言えば、カノンちゃんひとりを日本に残していくことは不安なのよ?』
「だったらママも日本に残ってくださいよ。それで解決じゃないですか」
『……それは無理よ』
ひやりと、暖かな気温にそぐわない悪寒が背筋を舐めました。原因は、受話器の向こうから漏れる鬱々とした声です。
『だってパパったら、あれじゃない? 控えめに言っても世界一カッコいいじゃない? 歳をとるごとにどんどん渋かっこよくなっていくタイプじゃない? そんな素敵な男性をひとりになんて、できるわけないじゃない? それにほら、あっちの人たちって異性に積極的で開放的だって言うし、そんなの、ママがついていくしかないじゃない? そもそもパパが天然ラブマシーンなのは、今に始まったことじゃなくて……』
「あー、ママ、ごめんなさい。私が悪かったです」
ママが完全にダークサイドに堕ちてしまうまえに、
カノンちゃんが白旗を上げました。
賢明な判断です。
「そうですよね。パパ、何故か昔から女の人にモテまくりですもんね。ママの心配はもっともだと思います」
『そうよねぇ! ママ、間違ってないわよねぇ! だからモテすぎるヒイチロウさんを監禁して家から一歩も出したくないとか妄想しても、おかしくないわよねぇ!』
「ええ、ええ、仰る通りでございますよ、ママ」
ちなみにそんなママの妄想を知ったときのパパの反応は涙目でした。冗談で手錠をちらつかせると、本気で怯えていましたからね。そんなパパを「怖くないわよ」「冗談ですよ」と慰めるママはホクホク顔でした。あと手錠はママの私物でした。闇は深いです。
「でも、だったら大人しく私の居残りを認めてくださいよ。こっちだって譲歩して、ママたちの言う通り、親戚の家にお世話になることにしたんですから」
転勤のため海外へと赴く両親と、
進学のため居残りを希望するカノンちゃん。
並行する両サイドの意見の擦り合わせの結果が、この【カノンちゃんを信頼のおける親戚筋の家に居候させる】というものでした。
「でもママ、えっとたしか、渋沢、丈治さんでしたっけ? じっさいのところ、その人ってほんとうに信頼できる人なんですか? 私その人の存在自体、この前まで全然知らなかったんですけど」
カノンちゃんは今年で十五歳。この歳になるまで、いかに海外に在住していたからとはいえ、名前すら知らなかった親戚筋の存在というのは、少々不自然というものでしょう。
さらにその親戚が、ちょうど都合よくこのタイミングでカノンちゃんが通う予定の高校がある町に帰国してくるというのも、不自然な話です。
あと子煩悩を極めているパパが、その親戚の話題になるたびに不機嫌になることも不自然に拍車をかけます。
(……というか冷静に考えてみなくても、この人って、不自然の塊ですよね)
じつのところ、カノンちゃんとて日本に居残るという強い意志があっても、いまだにこの謎の親戚との同居というものに躊躇いを残しています。それゆえの、ママに対する確認でした。
『そうねぇ……カノンちゃんの心配は、もっともだと思うわ。でも大丈夫。ジョージはとっても、いい子だから』
そんな『謎の親戚』ことジョージさんですが、どうやらママは、彼に厚い信頼を置いているようです。これから同居する予定のママにとっては弟、カノンちゃんの叔父にあたるその人物に、JKの不安と興味は尽きません。
(いったい、どんな人なんでしょう。ジョージさんって……)
その答えはこれから数十分後。
待ち合わせの駅で判明します。