【03 - 02】
事の発端は遡ること四日前。
ジョージさんが母校に襲来した、翌日のことでした。
朝、いつものように学園に登校してきたカノンちゃんが教室の扉を開けるなり、いつもなら視線すら寄越さずにスルー安定の幼馴染みが、その日ばかりは席を立って、自ら近づいてきたのです。
(はぅ!? これは……まさか、とうとうデレ期の到来ですか!)
青天の霹靂とはまさにことのこと。そのときカノンちゃんが覚えた感動は、筆舌に尽くし難いものでした。不毛な大地に根気よく種を撒き続けてきた開拓民のような、あるいは人に懐かない希少動物にエサを与え続けた飼育員のような、とにかく長年に渡る苦労が実ろうとするその瞬間、JKの心には万感の想いで満ち溢れておりました。
「おはようバカノン。そしてわるいんだけどお前にひとつ、相談したいことがあるから、ちょっと場所を移させてもらってもいいか?」
「ええ、問題ありませんよ」
場所はHR前の教室。たしかにクラスメイトたちの目と耳があるこのような場は、長年の想いを成就させるには相応しくありません。場所の移動は、カノンちゃんとしても有り難い話でした。ついでにトイレに立ち寄って、下着の色も確認させてもらえるともっと有り難いです。告白したその勢いで即合体も、十代という情熱の前では有り得ない話ではないのですから。可能性は、いつだって無限大です。
「それじゃあちょっと、人気のない場所へ――いただたたたたたぁ!」
「おはようございます、カノンさん。……そしてさよなら、直江くん」
「あ、マコちんおはよー」
そうしてアキラくんが教室の外へと移動した瞬間、視界が暗転して顔に激痛が走りました。メキメキメキョリと、人体から鳴ってはいけない音が頭蓋骨から響いております。あまりの苦痛に声を失ってしまった幼馴染みにアイアンクローをかけるマコトさんは、そのような惨事など感じさせない朗らかな笑みを浮かべていました。呑気に挨拶を返すカノンちゃんからはちょうど、教室の扉が死角となって、両名の攻防は見えておりません。
「マコちん、今日は早いですねー」
「ええ。ちょっと気になることがあったもので」
先日の下駄箱での一件において、カノンちゃんと同居する叔父に対する危惧とともに、尋常ではないアキラくんの様子にも違和感を覚えていたマコトさん。そうした彼女の観察眼と気配りと独占欲が、大事な幼馴染みの下半身粘膜を防衛したかたちですね。
「あ、すいませんがマコちん、そこをどいてくれません? それにさっき、あっくんの悲鳴が聞こえたような……」
「そそっかしい直江くんならそこで頭を壁にぶつけて蹲っていますよ」
「えぇ!? それいったいどういう状況ですか!?」
「それよりもカノンさん、いま、ふたりでどこに行こうとしていたのですか? ナニをしようしていたのですか? 正直に答えてください怒りませんから」
「えぇー、それはちょっと私の口からは~。あっくんに聞いてくださいよ~」
あたかも通行を邪魔するかの如く扉の前から動かないクラス委員長に、あっさりと誤魔化されてしまうカノンちゃんは、満更でもない表情を浮かべて身をよじらせます。微笑むマコトさん。ちなみに特殊な訓練を積んだ彼女は脳のリミッターを外すことで、一時的にリンゴを握り潰すほどの怪力を得ることができます。
「へぇ……ソウナノデスカ」
なお扉を隔ててカノンちゃんの死角に伸びる左手は、今まさにヒョウタンのように形状を変えつつある、人間の頭部が掴まれておりました。季節外れのザクロが廊下に咲き乱れるのはもはや、時間の問題といえるでしょう。
「あ、それはそうとマコちん、ちょうどお話があるのですが」
「大丈夫ですよカノンさん。大丈夫。ぜんぶ、わたくしにお任せください」
「……? 何が大丈夫なのかよくわかりませんが、とにかくこの週末、おヒマですか?」
「……え?」
今まさに前科を抱えようとしていたクラス委員長ですが、カノンちゃんからの予想外の質問に、左手の拘束が緩んでしまします。千載一遇の好機。ダイジェストで走馬燈を鑑賞していたアキラくんが、この一瞬にすべてを賭けました。全力で顔面に張り付く五指を引き剥がして、呆然とするマコトさんから距離を取ります。
「……ぜー、ぜー、た、たすかった……」
廊下に突っ伏して荒い呼吸を漏らす少年の背後では、仕事をし損ねた死神が「ちえっ」と舌打ちしておりました。
「いえね、昨日あのあと、家で叔父さんを絞り上げていたのですが……そのときに、あのとき教室で一緒に待ってくれていたふたりの話題が出たんですよね」
一方、そんな幼馴染みの窮地についぞ気付かなかったカノンちゃんは、自宅における昨晩の会話を思い出しながら、期待に瞳を輝かせるマコトさんと会話を続けます。
「そしたら叔父さんが、是非お礼を言いたいから今度紹介してくれって」
「そ、それってつまり、かかか、カノンさんのお住まいに、招待していただけると!?」
その瞬間、マコトさんの世界がバラ色に輝きました。脳下垂体後葉からオキシトシンやバソプレッシンといった幸福ホルモンがバンバン分泌されて、つい先ほどまで冷え切っていた心の中を、あたたかな波が満たしていきます。ついでに下半身にも、急速に潮が満ちております。
「……お宅訪問、お泊り、お食事、お風呂、同衾、一晩の過ち……」
何度も夢見た妄想が目まぐるしく駆け巡る少女の脳内には、数秒前に握り潰そうとしていた虫の存在などすでに欠片もありません。
「ぜ、是非とも、お願いします!」
「あはは、了解ですっ」
「ば、バカノン……オレも……」
だというのに、自分たちの幸福な未来絵図に這い寄るお邪魔虫の呻き声に、マコトさんはふたたび瞳から感情を消しました。こちらの命に一片の価値も見出していない幼馴染みの静かなる殺意に、アキラくんは慌ててカノンちゃんの視界へと移動します。
「あれ、あっくん。顔にそんな痣、ついていましたっけ?」
「さっきそこで壁にぶつけたんだよ気にするな」
「いやそれ普通に気になりますよ!?」
「それよりも頼むよ、バカノン。そのときオレも、ジョージさんの家に連れて行ってくれないか? さっきの相談ってのも、じつはそのことだったんだ」
「ふ、ふぇえええええっ!?」
アキラくんの発言に、今度はカノンちゃんが驚きの声を漏らしてしまいます。正直『相談が告白ではなかった』ことはショックですが、それよりも『アキラくんが自分からカノンちゃんの家に来たがる』ことのほうが驚きです。
なにせこれまで、何度自宅に招こうとしても「死にたくないから」と、頑なに抵抗を続けてきた幼馴染み。そんな難攻不落な彼が自ら譲歩してきたことに、やはりデレ期の到来を感じずにはいられません。自然と下着が湿り気を帯びてきます。これは早急に、避妊具の確保を検討しなければなりません。
「……ん? あれ? っていうなんであっくん、ジョージさんの名前を? わたし、ふたりにお伝えしていましたっけ?」
そのように浮かれかけた発情JKですが、ふと疑念が浮上しました。するとマコトさんは「いいえ……わたくしは初耳ですね」と首を横に振り、一方でアキラくんは、ここぞとばかりに食いついてきます。
「そうか! やっぱりそうなんだよな! 一目見てマジかって思ってたけど、やっぱりお前の叔父さんが、『あの』渋沢丈治さんで間違いないんだよなっ!?」
「え、ええ、そうですね。少なくとも同姓同名ではありそうですが……」
「馬鹿野郎ぅくふぅ! こ、このオレが、ジョージさんのことを見間違えるわけねぇじゃねえか!」
カノンちゃんを罵倒した瞬間にマコトさんが神速のボディーブローを繰り出しましたが、その程度で今のアキラくんの熱意は怯みません。十年来の付き合いでもほとんど見たことのない幼馴染みの興奮具合に、カノンちゃんは目を白黒させてしまいます。
「え? えぇ? なんであっくんが、ジョージさんの素性にそこまで自信をお持ちになって……?」
「当たり前じゃねえか! あの人はなぁ……世界の『ジョージ・シブサワ』は、世界的に有名な画家で、この学園のOBで、ずっと以前からの、オレの憧れの人なんだよ!」
お読みいただき、ありがとうございました。
次回の更新は8/03(金)の予定です。
m(__)m