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アルテア・ニップ  作者: 小松ざこ
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5.Nepeta cataria

5. Nepeta cataria


 三年前のその彼女に出したハーブティーが何であったのかを、カフェ・アルテアの店主はしっかり覚えていた。


 だからもう一度<コンボルブルス>としてその女の子がやってきたとき、店主はメニューを出さずに、まず先にそれを淹れた。


 「キャットニップでしたよね。懐かしい」


 三年ぶりのその味を噛みしめるのは、以前と同じように少女と呼ぶのには少し違うような、だが、その眸にどこか危ういものを隠したような、そんな子供と大人の狭間にたつ女性になっていた。


 「覚えていらしたんですね」

 「もちろん」


 得意げに女性はうなずいた。ついで言う。私が死ぬって宣言した日だもの。


 「死んだらお店に行きますって言ったんですよね、何を思ったんだか」

 「ご来店なさったとき、一瞬本当に亡くなったのかと思いましたよ」


 店主は安堵したからこそできる冗談と笑みを浮かべた。


 「でもこの三年間、ほんとに死んだみたいだったんです」

 「なにがあったのかお訊きしても?」

 「もちろんです。そのために来たんですから。私が死んだと思ったままだと、困るかなあとずっと気がかりだったんですよ」


 店主はひとつ、うなずいた。


 「ではお訊きする前に・・・」


 店主はカウンターからホールに降りた。ふいに頭を下げる。


 「三年前は、本当に失礼なことを言ってすみませんでした。もういっそ消えてなくなりたいという人に無理に生きなくていい。そんなに嫌なら死んでしまえなんて言葉をかけるなんて、人間として本当にあなたを傷つけてしまったと後悔しています」

 「えっ、やめてください、頭を上げて。あの頃の私は今の私から見ても、うじうじした嫌なやつでした」


 女性は慌てふためいて店主に相対する。


 「それに、今の店主さんは、三年前とおんなじじゃないみたいだし」


 くすっと笑う女性に、やっぱり俺の方が立場が悪いや、と店主は思わず苦笑いが漏れた。


 「私は三年前に死んでやると言ったあの後、とある団体に誘拐されて高校の中庭にあった地下室に閉じ込められていたんです。それで、つい最近発見してもらえて今ここにいます」

 「もしかして、その高校って開陽高校ですか?」

 「あ、はい。やっぱりちょっとニュースになったのでご存じですよね。なんか学校でも怪談話になっちゃってたみたいで」


 女性はキャットニップのソーダ割をごくごくと飲んだ。


 「私はあの頃、死にたいって言うことで自分を保っていたんです。でもほんとに地下室で死にそうになってから店主さんの言ってたことが沁みるようになって、ここを出られたらまたあのお店にいこうと何度も自分に言い聞かせていました」


 あ、シソゼリーお願いします、とそこで女性はガラスケースのなかを指さして注文を入れた。


 「死にたいって言うと、死にたいのに頑張って生きてる自分がとても偉い存在のように感じられたんです。馬鹿な話ですけど、死にたがっている人を無理に止める趣味は私にはありませんって店主さんに言われて、この人は私が頑張っているのを認めてくれないんだ、と勝手に思い込んだりして」


 シソを漬け込んだシロップで作るゼリーは鮮やかな紫色をしていた。小さな銀のスプーンで掬うと、その透明度が増したような錯覚さえおぼえる。


 「今はもう違いますよ」

 「そのようですね」


 誇らしげにニッと口角を上げて見せた女性に、店主もつられて素の笑顔が出た。


 「私ね、音岸旋(ねぎしせん)っていうんです」

 「え?」


 唐突に呟かれた音に、店主は思わず聞き返してしまった。


 「名前。私の名前、音の岸辺の旋風って書くんです。それで音岸旋」

 「風情がありますね」

 「でしょ。せっかく名前に自然現象の風が入ってるんだから、もうどこに吹こうが吹かれようが気にしないでいいかなって思うことにしたんです」


 口に入れて何もなくなったスプーンを振ってみせる。


 「ずいぶん思い切りましたね」

 「三年もかかりましたよ」


 まるで病院の待合室で持病の自慢大会を開いている老女のような口調で、音岸さんが言った。店主は環を思い出した。彼女も自分の名前と状況を照らし合わせて涙を流していた。だが音岸旋が挙げた自分の名前は、彼女が自分で見つけた希望が入っていた。どちらも強い。碩人は二人の養子のことを思い出して、心の奥、彼自身も気づかないような場所で微笑んだ。ここには名前を大切にする人が集まるのかもしれないな。


 音岸旋がここにくるまでに起こったことは、彼女を喪失に追いやるには十分であった。だがその時間が彼女に与えたのは、ただちょっと成長するためのエッセンスでしかなかったのかもしれない。最も、それは本人以外にはわかりようのないことなのだが。


 「お客さんがわたし一人でよかった。雑誌に載ってたみたいで最近人気らしいですよ、このお店。でも場所がわからなくてなかなか入れないっていうから、二度目とはいえちょっと不安だったんですけど」


 事情聴取や病院での検診の間を縫ってきたのだという旋は、お土産に紅茶のクッキーを一袋買ってにこやかにあやめ通りへ帰っていった。

 


 「へえ、じゃあ、その音岸旋さんとかいう女の子は、オーナーさんのせいで死んじゃったりしちゃってるわけじゃなかったんだね」


 開店前の午前十時、窓から入ってくる風の暖かさが増し、草木もだいぶ緑になり、隙間から差し込む光が柔らかくなった六月も下旬。言葉を選ばずあけすけにものをいうのは双子の方割れの兄のほうである。


 「オーナーさんは言葉がきついときがあるから、心をえぐられて『私ってほんとに「生きてる意味がない』とか思い込んで死んじゃって責任取れとか言われても反抗できないよね」


 望も兄に倣う。


 「いや、人になんか言われたくらいで甘ったれんなよ」


 朔の言葉に「ほんとだよ」「全くだ」と同じ動作でうなずいて返す望と碩人。


 「でもさー、人ってそんなに強くないでしょ」


 珍しくうなだれながら言うのは店主だ。


 「現にオーナーさん、その音岸さんのせいで随分悩まされてたもんね」

 「人の悩みを聞いてあげるっていうのは、オーナーさんには向いてないかもね」

 「えらいいわれようですね」


 野郎同士の声に涼やかな声を滑り込ませたのは、管理人さんの一人、小夏さんである。


 「あ、小夏さん。そっか、もう六月だもんね」

 「こんにちは」


 小夏さんは軍手や帽子を外して、三人が腰掛けるカウンターによいしょと加わった。小夏さんは五十代前半くらいに見える。小太りな身体でくるくるよく働き、お母さんのような朗らかな雰囲気を漂わせた女性である。伊槻兄弟も、慣れない年上の女性に緊張しつつも、母のようなその存在に懐いていた。小夏さんは「なにかシュワシュワしたもの頂ける?」と碩人に注文を入れる。碩人もそのつもりで厨房に回り、冷蔵庫をあけていた。カランと冷蔵庫のなかの瓶と瓶が触れ合う音が響く。夏のじっとりとした暑さにはこの音すら心地よい。


 「碩人さんが、悩みを聞くのが向いているかいないか、私にはよくわかりませんけど、このお店には一番大切な人だと思いますよ。草木を愛して、育てて、それをお客さんに提供する。これで十分なんじゃないかしら」


 朔が頬杖をついて、気怠そうにコップをぐるぐると手で回す。


 「まあ、そうだよねえ。お客さんはそれで、このお店にきてさ、お茶飲んでさ、ゆっくりしてなんとなーくいい気分になって帰るわけでしょ。俺たちよくやってるよ」


 突然自己肯定モードに入った朔だが、うんうん、と小夏さんと望は首肯した。


 「そんな責任を感じなくてもいいんじゃない。そりゃ他の人の助けも必要なときはあるけどさ、ある程度は自分でなんとかできるようになってるんじゃないかな。やり方がわかんないだけで」

 「あら、望ちゃんはほんとにしっかりしてるわねえ」


 小夏さんがコロコロ笑う。この人(人かどうかは定かではないが)は、蛍とはまたちがったかわいらしさがあった。


 「でもな、なんで悩んでいるのか、どうしたらいいのかわかっていても、どうにもできないことってあるんだぞ」


 店主は息子に諭してから、小夏さんに飲み物を出した。


 「お待たせしました」


 碩人が出したのは、先ほど件の音岸さんにも出したキャットニップのソーダ割である。ミントに似た清々しい香りのするこのハーブは、この間収穫したばかりだ。一仕事を終えた小夏さんにはぴったりの味になっている。ありがとう、と受け取ってから、はああああ、おいしいいいい、と小夏さんは大きくため息をついた。


 「キャットニップかしら」

 「そうです」

 「これ、名前の通り猫がとっても好きな植物でねえ。摘まんだり、匂いを嗅ぐために中庭にやってくる子もいるのよ」

 「猫が?見たことないです」

 「警戒されてるんじゃないかしら。逃げられてるのよ」


 ほほほ、と嫌味なく小夏さんが笑う。その目はまだまだね、と言っている。


 「長年この<中庭>を守ってきた者から言わせてもらいますとね、あなた達はこのキャットニップに誘われて迷い込んできた猫とおんなじですよ」

 「野良猫ってこと?」


 望が自嘲気味に聞く。


 「迷い猫ですよ。大人しいけれど根が曲がってそうな男の人がふらっとやってきて、なにやらおかしな男の子がやってきて、なにやら素敵なカフェができて、なにやら事情のあるお客さんがやってくる。私の中では、長い時間の中のほんの一コマにしか過ぎません」


 小夏さんの微笑みに気圧されて、男性陣はそれぞれ思うところがあったのか、黙っている。


 「あなた達だって、この<中庭>のお客さんなんですよ。だから、カフェ・アルテアにやってくるお客さんと一緒で、ここで癒やされてここに救われる、それでいいんです。どうぞゆっくり、つべこべ難しいこと言わずに、どうぞキャットニップを食んでいってくださいな」


 小夏さんはまた一口飲んだ。伊槻兄弟は言われたことがお腹に収まるまで夢を見ているかのような顔でぼんやりしていたが、碩人は目頭をその大きな手で押さえて俯いた。


 「ありがとうございます」


 顔を上げ、彼女をまねてするようになった微笑みを向けると、小夏さんは何でもなかったかのような顔をして、はいはい、とうなずき、パン、と木のテーブルを叩いて軽い音を出した。


 「さ、わかったらお仕事しましょ。今日は二時半くらいにちょっと()を(・)塞ぎ(・・)ますからね」

 「コンボルブルスだね」


 小夏さんに続いて、朔が立ち上がる。兄と自分、それから小夏さんの分のコップを持って立ち上がり、厨房のシンクに置くのは望である。


小夏さんが開け放った裏口から薫ってきた夏の草木の芳しさに、カフェ・アルテアの店主は、今日はどんなご縁があるのかな、と胸を躍らせた。


 大丈夫、前よりは怖くない。誰かとの縁を繋いでいくことも、それを失うかもしれないということも。あるものを数える勇気がなくても。俺たちはみんな、この<中庭>に迷い込んだ迷い猫。それならいっそ、この店ごとキャットニップにしてやろう。思う存分、味わい尽くして欲しい。

何かに悩んだら、いや悩んでなくても来てほしい。道を開こう。木のドアをくぐれば鈴が鳴る。入ればそこには俺たちがいて、そして俺はこう言って迎えるんだ。


あなたを歓迎します。

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