3.Calendula officialis
3.Calendula officialis
その男がとある二人の少年に出会ったのは、今から思えばこれも“縁”だったのかもしれない。
街に買い出しに行き、目当てのものが安く買えたこともあっていつもより朗らかな気持ちが顔にも出ていたのであろう。男は突然、声を掛けられた。
「あの・・・、すみません」
「はい?」
振り向くと、目があったのは十三、四歳ほどの二人の少年だった。それも、ただの二人ではない。まるで神さまが発注個数を間違えてしまったために二つあるのだとでも言えそうなほど、そっくりな顔つきをしていた。双子であろうということは容易に理解できた。
「ええと・・・」
二人のうちの右に立っている方が、目を泳がせた。
「僕たち、ちょっと事情があって家に帰れないんですけど・・・」
ははあ、なるほどね。男は目を細めて内心、微笑んだ。
「ここまでどうやって来たの?」
「あやめ通りを歩いていたらよくわかんないうちにいました。戻ろうとしても戻れなくて」
「俺たち、もともとこの辺の道とか知らねえし」
双子の片割れである“俺”が不機嫌そうに口をとがらせて、背中のバックパックを背負い直した。
もしかしたら、ただ単に出かけているのではないのかもしれない。静かな疑問が男の頭にもたげ、男はじっくりと少年たちを観察した。
それに、“この場所”にこの二人がいるということは、男にとってはただ単に子どもと遭遇するということより意味を持つことであった。
「うん、付いておいで」
男は短く命令すると、二人の少年を“お持ち帰り”したのである。
「さて、事情とやらを聞いてもいいかな」
男は自分の家に少年を招き、とりあえずお茶をだし、落ち着かせてから尋問に取り掛かった。
「君たち、普通にあそこに迷って来たんじゃないよね」
男が問いただすと、二人は目を合わせてこくんとうなずいた。
「俺たち、家出して来たんだ」
「訳を聞いてもいいかい」
はい、と“僕”がうなずく。
「僕たちは、生まれた時から施設で育ちました。小学校を卒業するときに、仲の良かった保健室の先生に紹介してもらってお金持ちの家に下働きとして住み込みで雇われることになったんです」
「それで、中学にも通ってたんだけど、新しい家も、学校も上手くいかなくて」
「思い切って家出して、適当に人のよさそうな人に声を掛けてみようってことにしたんですけど、いつの間にかあそこにいました」
兄弟たちの率直な物言いに、男は笑む。
「そりゃまた勇気のいることをしたね」
そういって穏やかに笑う大人の男を、子供たちは目を点にして見つめた。
「怒らないの?」
「なんで怒られると思ったの?」
「・・・悪いことしたから」
「辛かったら逃げるのが悪いこととは限らないよ。悪いこともあるけど、別にいいんじゃないかね」
子供たちは、初めて異国の言葉を聞いたかのような顔をした。
「それで、君たちの名前は?」
「伊槻朔」
“俺”が応えて、
「弟の、伊槻望です」
“僕”が名乗った。
「へえ、月の朔望か。いい名前だね」
「くれたのは名前だけだけどな」
測り兼ねたように眉をあげた店主に、望がはきはきと他人事のように説明した。
「さっき、僕たちは施設で育ったって言いましたけど、母が名前を書いた紙を一緒に置いていったそうです」
ふうん、と男は唸る。
「名前の由来は聞いた?」
望がうなずいた。
「園長先生から。僕たち、五月一日生まれなんですけど、その日は半月だったらしくて、二人で支え合って行けるようにって。僕が望で満月。で、」
「俺が朔で新月。足せば半月になるだろ」
「素敵だ。生まれたのは一日だって言ったね?」
「はい」
「君たちにぴったりのものがあるよ」
そういって明らかに何かを提供する体制に入った男を、兄弟は全く同じ動作で身を乗り出して止めにかかった。
「おい、そういう魂胆ならやめたほうがいいぞ。俺たち金ねぇし」
「そんなことをしてもらっても困ります。大人しくいつかはちゃんと帰りますから」
必死の形相で訴える小さな子供たちに、男は思わず、あはは、と笑い声を漏らした。
「そういうわけじゃないよ」
そういって作業の手を止めると、ねえ、と改めて向かい合った。
「話をしていると、君たちは別に馬鹿とか考えなしとかいうわけではなさそうだ。そんな君たちが家出を決心したのだから相当なことがあったんだろう?そこまでして来たなら、もう家にも帰らなくていいし学校なんて行かなくていいからここで俺を手伝ってくれない?」
「は?」
「え?」
全く同じ形の唇からでた違う言葉が、同じ音で綺麗に重なった。
「俺はここで小さなカフェを開こうと準備しているんだが、まあ駆け出しだからいろいろと大変だ。手伝ってくれたら助かる。それに、このままどこかでふらふらして変な人に捕まって臓器を売りとばす羽目になるより、ここで草木たちに癒されてたほうがいいと思わないか?」
「でもそれじゃあ、あんただって人さらいになるんじゃないの」
「いや、俺は善良な意思をもっているから関係ない」
「あなたに利益があるとは思えません」
「じゃあ契約ということにしよう。俺は、君たちに食う寝るところ住むところを提供する。で、君たちは俺に労働力を提供する。ね、俺は正気だし本気だ。君たちを引き取らせてほしい」
「なんで?」
二人は肝心なところは声が揃うようだ。微笑ましい。
「この店が呼んだ、縁だからだよ」
不可解な顔をして顔を見合わせた双子に、店主はただ笑むだけでそれ以上は言わなかった。
こうして、あやめ通りの“外れ”にある小さな草地のカフェ・アルテアで、繁忙期にしか表に出てこない影の功労者として、伊槻兄弟は新しい就職先を見つけたのである。
最初はこんな草花が人間の体の調子を整えることに一役買うのかと半信半疑だった伊槻兄弟も、今では草木の管理から料理の仕込み、レシピの開発、店内の掃除までを請け負い、店主を日々助けている。最も、彼らが疑っていたハーブの効能に関しては、自作した石鹸や化粧水を売ること自体が医薬品医療機器法に触れることから、逆にその能力の高さを保証していると解釈できる。店主に至ってはもともと研究職に就いていただけあって、新規雇用者が手伝ってくれるおかげで空いた時間ができ、休むどころか精油づくりだの自家製ジャムだのポプリだのと他のことにも手を出し熱中し始めたことは、本末転倒ともいえた。
「オーナーさん、アロエの取り込み終わったんだけど、次、なんかやることある?」
「ご苦労様。それじゃあ、一旦休憩にしようか。なにかリクエストは?」
「梅昆布茶」
「それ朔が百均で買ってきた粉末のやつだよね?認めんぞ、そんなお茶」
「百均の人に失礼だろ、それ。普通に食用だし、うまいぞ」
朔少年は無表情な面持ちに少しだけ不機嫌さを滲ませ、軍手を外して汗を拭う。冬とはいえ、アロエの鉢植えを全て室内に運ぶ作業は骨が折れる。だが、アロエは寒さに弱いため鉢植えでないと生育できないし、冬は室内でないと枯れてしまう。
「あ、休憩?やったー、僕もうへとへとだよ」
奥から、朔と同じように軍手を外して汗を拭うのは、仕草だけでなく顔もそっくりな望少年である。店主は望にもねぎらいの言葉をかけ、飲み物のオーダーを取る。
「望は何を飲む?」
「炭酸水」
「えっ、それだけ?」
「それだけ。最近は混ぜないで純粋に飲むのが好きなんだよね」
「えー、俺の出る幕なしかい」
「世界中の人がオーナーさんと同じくらいお茶が好きって訳じゃないんだよ」
望は慣れたようにカウンターの冷蔵庫を開けて炭酸水を出し微笑む。主にハーブティーをお客さんに提供しているこのカフェで、最も原材料に貢献していると言っても過言ではないのにも関わらず、愛飲しているわけではないというどこかドライな二人の少年にだからこそ、カフェ・アルテアを支えていけるのかもしれない。
「まあ、ハーブは誰にでも合うって訳じゃないけどさ」
店主はどこか拗ねたようにシソとレモンで作ったシロップを取出し、望が飲んでいた炭酸水を横から取り上げグラスに注いでかき混ぜた。赤シソでとったシロップは割ると綺麗な桃色になった。店主の広がりすぎた趣味のおかげで、冷蔵庫の中はちょっとした市場のようであった。
「結局、自分も炭酸水かよ」
「やかましいです。こうするのがおいしいんだからいいの」
アルテアの従業一同は、各々、好きな飲み物を飲んで人心地付いた。
「でもねぇ、初めてカレンデュラ飲んだときはあんなに幸せそうにしてたのにねぇ」
店主が涙ぐむ小芝居を打ってみせると、ははは、と二人は同じ声でそろって笑った。
「四年も前の話だよね、それ」
「時の流れは人を変えるのだよ、オーナーさん」
後に、歳を同じくする兄弟はあの出来事を「人さらい」だとよく笑い話にした。
「いやしかし、四年も経つとは時が経つのは早いなあ」
「それで、そのまま有無を言わさず契約の杯の代わりにとか言ってカレンデュラ飲まされたよな」
「でもお腹すいてたし、それなりにおいしかったよね」
カレンデュラとは日本ではキンセンカの名で知られている主に皮膚のトラブルに効果がある優れたハーブだ。石鹸やオイルにすれば肌荒れやハンドクリームにもなり、お茶にすれば美しい黄金色を見せ、草原のような香りがする。花そのものも、中世には眺めているだけで視力が回復すると信じられていたほどはっきりとしたオレンジ色をしていて、人気があるが少々苦味があり、子供に「ぴったりだ」といって出すものではない。カレンデュラがふさわしい理由はもっと他にあった。
でもなあ、と朔は頬杖をついてにやっと笑った。
「学校行きたくないなら無理に行かなくていいから、お店手伝えってロクな大人がいうことじゃないよな」
「実際、あれから全然行ってないしね」
店主は一度攫ってきた子供たちを引き取ると決めたら行動は早かった。朔と望が世話になっていた施設と金持ちの家に連絡を取り、あれこれと面倒な手続きを済ませて正式に養子にすると、子供たちは最初、怪しんだ。伊達にそこら辺の十歳児よりも経験を積んでいない。こんなうまい話がこの世にあるわけがないと勘ぐった。実際、店主はカフェ・アルテアの開店計画を手伝ってくれる労働力ほしさに、賢明な努力をしただけのことであった。
それでも、こんなやっかいな子供を引き取り、学校に行かせないにしろ養育する決心をしてくれたことには感謝していた。
勉強をさせないという背徳感からか、たまに手が空くと少しずつ勉強を教えてくれた。読み書きと計算くらいはできなくちゃな、と言ってとうとう簿記にまで手を広げ始めたが、そこは二人にはお手上げだった。読み書きの先生は店に置いてある本だ。店主の祖母が童話作家だったとかで、店には大量の本が置いてあった。児童書から新書、漫画まで何でもそろっていた。
望などは飲み込みも早く頭が良かったから、いつかはまた高校にも行くようになるかもしれなかったが、そもそも彼らは勉学が嫌で学校をやめたのでない。それとこれとは違う要件だから、まだ難しいかもしれない。けれども、望にはまた学校に通ってほしいと朔はひそかに思っていた。自分はそこまで頭もよくないし、ずっとここでこの変なオーナーさんと草木をいじってカフェを営業するのも悪くない。
「ねえ、そういえばオーナーさんには兄弟とかいないの?」
「うーん、いないと思うけど」
「自分のことなのに、思うってどういうこと?」
「いや、俺は両親において行かれたようなもんだったからさ、そのあとにもしかしたら弟か妹ができてるかもしれないなあと思って」
「親に置いていかれたって、じゃあ俺たちと同じってこと?」
「ちょっと違うな。俺は祖母に引き取られたから、完全に守ってくれる血縁がいなくなったわけじゃない」
「ふうん。ラッキーだったね」
「そうかもね」
今までの人生を“ラッキー”の一言でまとめられた店主は、案外そうなのかもしれないと肯定した。
「あ、でも、血は繋がってないけどよく遊んでくれた近所のお姉さんならいたな」
店主が微笑むと、ああー、と兄弟は合唱した。
「その、近所のお兄さんお姉さんっていう感覚が俺らにはないよな」
「学童のお手伝いさんならいたけどね」
ははあ、と店主は納得してうなずく。
「そのお姉さんってどんな人だったの?」
うーん、としばらく逡巡した後、店主はにっと笑って答えた。
「レモン、かな」
望が問うたことの答えが判明するのは、そのわずか一か月後だった。
「こんにちは」
と、いつものようにやってきたお客は、三十代後半に差し掛かったくらいの女性であった。ゆるっと巻かれた肩までの茶色の髪は彼女の白い肌によく似合っている。線の細い体つきをしているが、小さい顔にのった太めの眉が彼女をただのか弱い女性だという印象を抱かせることを拒否している。
「あなたを歓迎します」
店主は内心で美人が来たことを喜び、いつものセリフを言った。
「はあー、あったかい」
「外はまだまだ寒いですね」
二月に入り、蜂蜜の白湯も金柑の白湯に代わる。カウンター席の右から三番目に座った客に金柑茶を出すと、女性は深く息を吸って小さく口に含んだ。猫舌なのかもしれない。
「いい香り」
さて、この人はどんな“縁”があってここに来たのかな、と店主はメニューを差し出して観察する。メニューをくまなく見ていた女性が、ある程度まできたところで店主のほうを見て聞いた。
「カレンデュラって、一日って意味があるんですか?」
「ええ、カレンデュラの語源はラテン語のカレンダエ、にあります。月の第一日という意味なんです」
この間もカレンデュラの話をしたな、と頭の片隅で思い出しながら店主はにこやかに答える。
「へえ。面白い」
興味を持ってくれたことが嬉しくて、店主は追加情報をもたらすことにした。このお店に来る人の中にはハーブなどとんと興味のない人はおろか、コーヒーはないのかと聞いてくる人もいるのだ。
コーヒーを出したいのはやまやまなのだが、どうせ出すならといろいろと調べていたら、拉致があかないしその調子だと身体を壊すから止めてくれと二人の養子に止められた店主である。そんななかで客の反応が少しでも良いと、店主はどうしても饒舌になってしまう。
「ほかにも、一か月間ほど開花するからとか、月の始めに開花するからとか言われていますが詳しいことはわかっていません」
「まあ、そんなものよね。私、ついたち生まれなので、これにしようかな」
「ありがとうございます」
「あと、この季節のケーキのザクロもお願い」
「かしこまりました」
店主はメニューを回収しながら内心でガッツポーズをしていた。今月の季節のケーキはザクロを使ったケーキだが、ただのケーキではない。家の整理をしていたら出てきたノートを参考にして、豆腐をいれることでよりしっとりと厚みと味のある一品にしあがっているのだ。早く食べてもらって感想を聞きたい。店主は心が弾むのを感じながら、オーブンの予熱ボタンを押した。
「私、昔はよく家でケーキを焼いてたんです」
「料理がお好きなんですか?」
「それがそうでもないの。作れるのはお菓子だけ」
女性は首を振って恥ずかしそうに笑む。店主は保温器で温めておいた湯を火にかけ直し、カレンデュラを奥の暗室の棚から取り出してきて、小匙でひとつ掬い熱湯を注いだ。このまま蓋をして五分から十分ほど蒸らすのだ。
「ちなみに、得意なものとかお聞きしても?」
「そうだなあ、レモンパイはよく作ってたかな」
「レモンがお好きなんですか?」
「まあ好きだけど、どちらかというと弟のほうが好きだったから、それで」
レモンか。レモンは恐ろしく魅力的な果物だと店主は常日頃から考えていた。幼いころ、よく遊んでくれた近所のお姉さんがいて、たまにレモンパイを焼いてきてくれたことがきっかけだろう。そのお姉さんが引っ越すときにはずいぶん寂しい思いをしたものだった。おそらく、その独特の酸味と頭から足のつま先まですううっと広がる香りに取りつかれたのも彼女を懐かしむ気持ちもあったと思うが、高校生の時に現代国語の授業で梶井基次郎の「檸檬」を読んでから、彼のレモンに対する情熱はさらに加速した。ほれみろ、世の中にはこんな小さな果物ひとつにここまで屈折したわけのわからない感情を抱ける人間がいるのだ。やはりそれほどまでにレモンは特別だ。そう思ってきた。
だから自然とその“弟”さんに親近感を覚えた。
「弟思いのいいお姉さんですね」
「それがそうでもないかもよ?」
「え、そうなんですか?」
どこか試すような女性の瞳に、店主は戸惑って問い返す。
「私、いろいろあって弟には姉として接したことがないの。なんていうか、私はその子にとっているべき存在じゃなかったから」
複雑な家庭だったんだな、と店主は自分のことは棚に上げて思った。食器棚から揃いのカップとソーサー、ケーキの皿、それからシルバー類を取り出し、磨き上げ、カップは保温器に入れる。
「でもね、たまにザクロのケーキを持って行ったんですよ。ザクロは私の好物だったから、ちょっと反抗してね。気に入ってくれたみたいでレシピを聞かれたからメモに書いて渡したけど、どうなったのかしらね」
「それで、ザクロを頼まれたのですね」
そういうこと、と女性はうなずいた。緩やかな動作で柚子茶を喉に滑らせる。
「なんだか試験を受けている気分で、ちょっと緊張してしまいますね」
「そんなことないですよ」
二人の間に和やかな空気が生まれたところで、お湯が沸騰した。店主はお湯を火からあげ、ポットに注いでタイマーを七分に設定した。
「あなたには兄弟はいるの?あ、答えたくなかったらいいけど」
「私は一人っ子です、残念ながら」
「そうなんだ」
女性は柚子茶の入った湯呑を手で包んで回した。タイマーが表示する残り時間を確認して、店主は冷蔵庫からザクロのケーキを取り出し、予熱が完了した低温のオーブンでじっくりと焼き直す。
「ここに置いてある本、見ても大丈夫?」
「どうぞ、ご自由にお取りください」
この年代の女性が好みそうな雑誌は置いていない。店主は一抹の不安を感じたが、女性は迷うことなく絵本が置いてあるコーナーに向かい、一冊の本をとると、席に戻ってきた。
「私、この本には思い入れがあるの。まさかこんなところでお目にかかれるなんて」
そういって表紙を愛おしそうに撫でる。店主はカウンターから題名を覗き見て、“土の暮らし”と書かれた題名に、おやっと目を開いた。その絵本は、祖母が描いていた童話の中で彼が最も強く影響を受けたものだった。内容は、単に土の中にいる人間には見えない小さな生物の生活をおもしろおかしく描いたものなのだが、店主はこれが人生を決めるきっかけになったといっても過言ではなかった。
「弟がね、いつもこれを読んでってせがんだの。たまには別のお話にしようって言っても聞かなくて、いつの間にか諳んじられるようになった」
そういえば、自分はいったいこの絵本とどんなふうにして出会い、読んできたのだろう。誰かに読み聞かせをしたもらったことがあっただろうか。
懐かしそうに絵本のページを繰り、読み進めていく女性の傍らで、店主はしばし物思いに耽った。彼と女性を現実に引き戻したのは、店内にタイマーの音が響いたからだ。店主は、はっと顔をあげて、カレンデュラを取り出し、保温器から温まりすぎないように気を付けていたカップを取り出し、注いだ。次いで、カップをソーサーにのせ、ミルクや砂糖が乗った付け合せセットと一緒に女性の前に置く。
「お待たせいたしました」
「わああ、綺麗」
「お熱くなっておりますのでお気を付けください」
「ありがとう」
ちょうどいいタイミングで、オーブンが任務完了を知らせる。店主はケーキを丁寧に取り出し、お皿に移し替えフォークを添えて、女性の前に差し出す。
「ザクロのケーキでございます」
「おいしそう!」
女性はまるで子供に戻ったかのように幸せそうにフォークを握った。やはり猫舌なのだろう、カレンデュラには一瞥をくれてやってから、ザクロに向き合った。すっとフォークを入れ、口に含む。
「いかがですか?中にお豆腐が入っていまして、よりまろやかな味わいになっているかと思います」
女性は、目をいっぱいに広げて、何も言わず、もう一切れ慎重に食べた。
「完璧」
短くそういうと、親指を上に立てた。店主は思わず破顔する。
「ありがとうございます。よかった」
安心した店主は、カレンデュラの片付けに入る。もし、あまりおいしくないと言われたらどう対応しようかと考えていたので、作業が少し滞っていたのである。
カウンターから出て、カレンデュラをもとの位置に戻そうと暗室の方へ向かった店主に、女性は言葉を投げた。
「せきと」
「ん?」
せきと、と呼ばれた店主は、思わず営業用ではない返答をした。してから、自分の名前がお客さんである真後ろの女性からは出るべくもない固有名詞であることに気が付いた。店主は、カレンデュラを元に戻しても、振り向くことができなかった。背中が糊かなにかでつけられたように、動かない。
「せきとでしょ」
もう一度、女性が自分の名前を呼ぶ。まるでかけられた呪いが解けるように、店主は振り向いた。
「はい、確かに私の名前は碩人ですが・・・」
「覚えてない?宇津見蛍よ。昔、よくレモンパイを持って行って一緒に遊んだでしょ。“土の暮らし”を何度も読ませたでしょ。忘れた?」
「えっと・・・」
店主は眉間を揉んだ。
「ほたるお姉さん、って呼んでたのよ、私のこと」
「ほたる・・・おねぇさん」
まさか、まさかあの?母が出て行き、父と二人で暮らしていたあの頃、たまに父がいないときにお菓子を持ってきてくれたあの人なのか?そうだ、レモンが好きになったのも、ザクロのケーキのレシピをくれたのも、絵本を読んでくれたのも・・・、この人なのか?
「え・・・」
店主は呆然としてしまった。
「でも、なんで?」
「うーん。話すと長くなるんだけど、結論から言うと、あなたに会いにきたの」
「なぜ・・・、わざわざ来て下さったのですか?」
さっきから「なぜ」しか言っていない。店主は自らの少し癖のついた髪を触り、落ち着こうと試みた。
「会いに来た理由なんて会いたかったからに決まってるでしょ。でも実は、今回はちょっと特別。私があなたの腹違いの姉だから」
「え?腹違いの姉・・・って、父が同じってことですよね?俺たち姉弟だったっていうんですか?」
「まあ、そうなるわね。戸籍上は赤の他人だけど」
「じゃあ、どうして・・・」
継ぐべき言葉が上手く見つからず、押し黙った店主に、その姉は察して笑った。
「昔ね、父に浮気相手がいるって聞いて興味があって、子供ながらに調べたの。そしたらなんと弟がいるなんていう面白いことになってたから、たまに隙を見て訪ねてたってわけ」
「そうだったのか・・・」
「六年前に結婚して、苗字は庵原になったんだけど、そのときにあなたのことを思い出してどうしてるのかなって気になったの」
「それで、わざわざ訪ねてくれたんですか?」
「そう。あなたに会いにね。そしたら、あなたったらなんにも覚えてないんだから。誕生日も、レモンもザクロもまるで効かない」
どこか責めるような口調の蛍に、碩人は肩身が狭そうに笑った。
「まあ、それだけ小さなころの記憶にふたをしたかったのかもしれないけどね」
「ふたか・・・」
考え込もうとして、店主は、はっと我に返った。
「冷める前に、カレンデュラをお飲みください」
「うん、そうさせてもらう」
と、言いつつも蛍の手はまだカップに伸びない。店主はカレンデュラがもう少し冷めるまで、会話をつなげることにした。
「ザクロケーキのレシピもあなたからもらったものだと思うのですが、お味はいかがですか?今後の参考にするのでぜひ」
「ばっちりよ。本当に懐かしい。でもお豆腐は絹?」
「はい」
「それなら、木綿にした方がいいかもしれない。絹は水分が多いから、どうしても生地が柔らかくなっちゃうし。なかなか焼きあがらなかったんじゃない?」
「はい。実は何回か低温で焼き直しました」
そらごらん、というように蛍はうなずいた。
「やっぱり。それに木綿のほうが味が濃厚だから、もっと生かせると思う。ごめん、レシピに書いておけばよかった。この頃によく行ってたスーパーのお豆腐が木綿の方が安かったから、特に書かなかったの」
「いえいえ。今度やってみます」
店主はいいことをして臨時のお小遣いをもらった子供のように嬉しげに笑った。蛍が漸くカレンデュラに口をつける。
「おいしい・・・!ちょっと苦味があるけど、ケーキを食べたから気にならないわ」
「ありがとうございます」
ケーキに続いて満足のいくものを得た蛍はいつもより饒舌になる。
「このお店、いつからやってるの?」
「五月で三周年になります」
「あら、じゃあその時は何かお祝いしましょ」
「お祝いですか?」
「そう。記念パーティーっていうのかしら。お世話になった人や常連客を呼んで、おもてなしするのはどう?私もレモンパイなら手伝えるよ」
「ふーむ、いいかもしれませんね」
さっそく思案体勢に入った店主に、蛍はねえ、と身を乗り出す。
「パーティーしようなんて思いつきで言っておいて何なんだけど、このお店、大丈夫よね?」
「大丈夫とは?」
「だから、お客さんとか。ちゃんと利益でてる?私しかいないから不安なんだけど、いつもこんな調子なの?」
ああ、と店主は軽く笑った。
「ここにお座りのお客様がいらっしゃるときは、一人なんです。一般のお客様もたくさんお見えになりますよ。これでも、結構うまく経営できてるんですからね」
店主はえっへんとポーズを決めるが、この店がまわっているのは彼一人の実力だけではなかった。だがそれはまたそれは別の話。
身の上話で盛り上がってしまったが、この席に座ったということはそういうことなのだ。どんな“縁”が聞かなければならない。店主は背筋を正した。
「それで、ほたるお姉さんは今、何をしているんですか?」
「今は旦那と子供と暮らしててね、仕事は出版社のライターの真似事みたいなことしてる。小さな雑誌でね、この街とか市の範囲でおすすめのお出かけスポットとかイベントとかを紹介するのがメインかな」
「素敵ですね。今度からその雑誌もここに置かせてもらおうかな」
「なんなら、記事を書かせてほしいくらいよ」
「いいんですか?お願いしちゃいますよ」
「まあ企画が通ればだけど、ある程度は任されてるから大丈夫だと思う。ほんとにいいのね?」
「ええ、ぜひお願いします」
店主が頭を下げると、それなら、と蛍は鞄を漁り、名刺入れを取り出すとカウンターへ腕を伸ばして立った。
「こがね出版編集部の宇津見蛍と申します。どうぞよろしくお願いします」
「これは、ありがとうございます」
受け取ってから、自分は名刺を持っていないことに気が付いた。一瞬、考えた店主はレジにおいてあるカフェの場所や連絡先が書かれたカードを裏返すと手短にあったペンで名前を書いた。
「カフェ・アルテアの宇津見碩人です。こちらこそ、よろしくお願いします」
2人は頭を上げると、どちらからともなく笑いあった。昔の時間が戻る。
「旧性でお仕事なさってるんですね」
「そう。紛らわしいから、いっかなーと思って」
蛍は座り直すとケーキの続きを楽しんだ。その顔を見ながら、そうか、この人はこの「店」にではなく、自分に縁があって来たのだな、と思った。この店の縁のために尽くしてきた店主にとって、それはちょっとしたご褒美だったのかもしれない。




